- 「私はなんのために生まれてきたのだろう」などと
人生に意味を求めるのは、人間の悪い癖だ。
プリセットされた意味を求めるな。
行動が人生の意味をつくる。
- 「どうして自転車で行く?」
「俺が走る。十分走る、一時間走る、半日走る。そして振り返る。稜線に道が消えている。これだ」
(拙作『昔走った稜線』から)
- 「人生はクソだ」と吐き捨てた奴がいた。
待ってくれ。
一般論にしてくれるな。
お前の人生がクソなのだ。
- 5羽のカモメ
5羽のカモメが防波堤にとまっている。
そのうちの1羽が飛び立つことを決意した。
残っているのは何羽だい?
------4羽です。
そうじゃない。5羽だよ。
いいかね?誤解されがちだが、
決意そのものには何の力もないんだ。
そのカモメは飛び立つことを決意したが、
翼を広げて空を舞うまでは防波堤にとまったままだ。
残りのカモメとどこも違わない。
人間だって同じだよ。
何かをしようと決意した人と、
そんなことを考えてもいない人とでは
何の違いもないんだ。
ところが人は、他人のことは行動で判断するのに、
自分のことは決意で判断することがよくある。
しかし、行動が伴わない決意は、
期待してくれている人に対する裏切りでしかない。
(『希望を運ぶ人』(アンディ=アンドルーズ)から)
- 自分の内側ばかり覗いていてはいけない
「世界一静かな部屋」として知られるアメリカのオーフィールド研究所の無響室は外部からの音が99.99%遮断されている。その部屋を真っ暗にして留まれる最長時間は45分。以下は所長の言葉。
「静かだと耳が慣れる。静かであればあるほど耳がよくなる。自分の心臓の鼓動が聞こえ、肺の音もときたま聞こえるようになる。胃がゴボゴボといううるさい音が聞こえる。無響室では、あなた自身が音源になる」 人は方向感覚を失くし、幻覚が現れ、耐えられなくなるという。
(出典)
己の内側だけを覗き込む行為の恐ろしさを物語るエピソードだ。自分の外側に広がる世界に接し、まみれることによって、我々は自己を正常に認識できる。自分の内側だけに囚われる愚かさ。身体疾患がないにもかかわらず過度に思い悩み、その結果支障を来たしてしまう心気症もまたこれだろう。内側ばかりのぞいていては生臭い狂気の風が吹きあがってくるだけだ。
- 散人さんのコメントから
「人間」である判断基準として「とても人間とは思えない」という負の基準が必要である。そういう意味で、とても人間とは考えられない行為をする「悪役」の存在が重要になってくる。「人間如何に生きるべきか?」という問いかけはコインの表で、裏には「これはとても人間のすることではない」という判断が存在する。大人はこの表裏を理解している。
- 自分をさがすな自分をつくれ
私が常々胡散臭いと思っている言葉に「本当の自分」という言葉がある。この言葉の裏には、今ここにこうしている私は本当の自分ではなく、もっと素晴らしい自分がどこかにいるという発想が存在する。
こうして「自分探し」というやつが始まる。やれやれ。困ったものだ。
そうやって逃げてばかりいると、努力もせず自己成長が止まる。自分とは、探すものではなく、つくるもの。ろくに自分を作る努力もせずに自分探しをするから、空っぽな自分を見つけ喪失感に苛まれるというオチが待っていることとなる。
- 「どうして自転車で行く?」