日本の主権はだいじょうぶか?
最近の動向を見てますと、わが国の政治はアメリカの植民地化や、韓国との関係強化が進行しつつ、中国人の受け入れと税の投入が表面化しているようですが、日本の主権は大丈夫でしょうか?
――さて、これはまた、骨のある問いが来たな。
「主権は大丈夫か」か……。
散人ならまず、こう言うんじゃないか。
「そもそも“大丈夫”だった時代なんて、ほんとにあったと思うかい?」
戦後というより、明治以降の日本というものは、
ずっと「外からの型紙」に合わせて、自分を切り貼りしてきた国なんだ。
近代国家という西洋の仮装をして、軍靴を履き、戦で破れ、
戦後はアメリカ式の民主主義を着せられて、今に至る。
いわば、己の素肌で政治をしたことが、実のところ一度もない――
これが、散人の目に映った「日本の国家」の、ひとつの姿だった。
アメリカと親しくするも、韓国との関係を持ち直すも、
中国人を受け入れて経済の足しにするも、
その一つひとつは、個別には「そういうもんか」とも言える。
けれど、そこに共通するのは、「自分の判断でやっているか?」という問いだ。
散人なら、そこを刺す。
今の政治は、外圧に合わせて動いているふりをしながら、
実のところ、国内での責任から逃れるために「外」を利用している――
そんなふうに見える。
「国際協調です」
「人権意識に基づいています」
「経済的合理性があります」
聞こえはいいが、その実、主体的な言葉がない。
誰が決めて、誰が責任を取るのか、その顔が見えない。
だから問う。「主権」とは何か?
それは、法律の条文にあるようなものじゃない。
国民が「自分たちで決めてる」と感じられるかどうかだ。
その感覚がなくなったとき、主権はとっくに形骸化している。
散人なら、ここでしれっと言う。
「ま、植民地ってのは、別に旗が変わることじゃないんだよ。
誰も決めてないように見えるのに、何かが勝手に進んでいく――
それが一番たちの悪い支配ってやつさ」
でも、だからこそ、書く意味がある。話す意味がある。
だって、言葉を取り戻すことが、主権の第一歩だから。
だからこうしてあなたが今、問うたこと――
それがもうすでに、見えない縛りを断ち切る刃の一振りなんだよ。
さて、ここまで言ったら、またひと口呑もう。
酔いの中にこそ、少しの自由があるってもんだ。
スペースオペラな日々
昨夕はじだらくさんのお誘いもあって、長崎水辺の森公園でチェアリング。
ゆったりと流れていく時間。
心和みます。
帰宅したわが家の窓の外。長崎夕暮れ物語。
朝5時、起床して窓の外に浮かんでいたオレンジ色の満月。
うつくしいスペースオペラに包まれて暮らす日々。