- 人は物語なしには生きられない
複数の人々の証言が、訴訟や取り調べの場で異なりをみせるのは、あながち偽証によるものだけではありません。利害関係のない第三者の証言さえも相違を見せることがあるのはその証です。なぜこんなことが起きるのでしょう。それは私たちが各々自分を巡る物語を形づくりながら生きる生き物だからです。私はこうこうこうして今の自分に至っているという物語です。私はそのことを拙作『自分のいる風景』で次のように書きました。
----------------
「ええ、犬です。転出するその日、僕は母と小学校に行ったんです。手を引かれた妹も一緒でした。手続きはとても事務的でしたね。終わって僕らが帰るとき、校庭はカラッポでした。夏休みが終わったばかりで生徒もいたんでしょうけど、なぜか校庭には誰も見えませんでした。そして、一匹の犬がいたんです。妙によく憶えています。薄汚れた犬で、鉄棒の辺りを横切ってましたよ」
鮮やかなイメージのある光景だと思った。そしてとても悲しい話だ。アンドリュー=ワイエスの絵を私は連想した。
どうも幼い頃の想い出は、鮮やかなイメージを持つ一枚の絵として心の縁に沈殿していることが多いような気がする。それも単なる絵ではなく、まるで紙芝居のように裏側にはメモ程度のト書きが付いたやつだ。人はこういった絵を、必ず何枚か持っていて、それがその人のトーンを象徴しているように感じる。
----------------
各人の物語は小さな物語として個々人の中で綾織られ成長し、各々異なったものとなっていきます。その際にスコトーマという心理的作用が絡んできます。心理的盲点と訳され、人はそれぞれの立場や思い込みによって実際に見たり聞いたりした情報でも、脳がスルーしているものが多いと指摘するものです。簡単な実験をしましよう。
次の動画を見てください。赤いカードが1枚だけ青いカードに変わります。トリックがわかりますか?
ここから先は動画を見終わってから読んでください。実験のネタ晴らしです。
-----------------
どうでしたか、「カードの色」に関心がいっている時、服やテーブルや背景の色が変わろうとも認識しなかったのではないでしょうか。これをスコトーマといいます。
同じものを見聞きしても、形成される物語は異なる。お分かりいただけたでしょう。こうして善意の証言も、人により異なったものとなることが往々にあるのです。世界で一つの現象が進行しても、心に留めおかれる世界認識は多様な編集がなされたものになります。
- 見直される物語
自分を巡る物語は自己認識の土台となるものです。記憶喪失した人や、洗脳から解けた人が、漠として根元的不安に包まれるのはそういうわけです。私の知人に某カルト集団の洗脳から抜けた人がいます。その際彼はアイデンテティの揺らぎに悩まされ、自己との苦闘を続けました。それはまるで痛みを感じることでしか自己存在を確認できないような苦闘でした。一貫して語られる物語の大切さが分かります。
物語は、始まり・展開・結果という時系列の基本形をとります。ですから物語のほうが論述よりも人の心に容易に入り込みやすい。論述は、概念と概念の関係構成であるため認識への流れ込みがそれほど容易なわけではありません。それは私たちが幼子に物語を語ってきたことからも分かります。また物語は心に留まりやすいという特色も持ちます。人間の脳は、細かいことは忘れても、時間的な順序はあまり忘れないようにできているようです。
私たちの頭の中には、自分とその周辺を巡る様々な物語が彩織られています。そしてまた私たちが他者に語りかけるとき、論述としてではなく、物語の形式に変換して伝えることは大切なことですし、また私は多くの皆さんに語りかけねばならないときほどそのことを心がけています。
「物語には、形式的な解決手段が置き去りにしてしまう要素を、的確に捉えてくれるすばらしい能力がある。論理は一般化しようとする。結論を、特定の文脈から切り離したり、主観的な感情に左右されないようにしようとするのである。物語は、文脈を捉え、感情を捉える。論理は一般化し、物語は特殊化する。論理を使えば、文脈に依存しない汎用的な結論を導き出すことができる。物語を使えば、個人的な視点で、その結論が関係者にどのようなインパクトを与えるか、理解できるのである。(D.A.ノーマン『人を賢くする道具―ソフト・テクノロジーの心理学』から)
- 大きな物語
個々人の持つ物語を小さな物語と呼びます。
これに対して大きな物語という概念が近年よく論じられています。これは哲学者リオタールが持ち出した言葉で、あまねく社会構成員をすっぽりと包み込んでいるような物語を言います。例えば、人間は失楽園以来の原罪を負うが神の愛によって救済されるとするキリスト教の物語、無知蒙昧な人間は理性の覚醒により解放されるという啓蒙思想の物語、労働者は搾取され貧窮へと向かうが階級闘争によって社会主義社会を実現し救われるとするマルクス主義の物語、貧しき社会も自由競争が神の見えざる手の導きによって経済活性化し社会の豊かさを向上していくという資本主義の物語などです。
リオタールはあるインタビューに応えてこう言っています。
「もう『大きな物語』の時代は終わったんですよ」
昨今のグローバル化の進展によって大きな物語が崩壊し、あとは個々人の小さな物語によるしかないと彼は語っています。確かに旧社会のコミュニティは揺らぎつつあるように見えますが、どっこい人間はそうは動かない。私はそう思うのです。
- 大きな物語の復活
リオタールの功績の一つは、大きな物語という概念を提示したことにあるように思います。今では大きな物語という言葉は様々な解釈で共同体を覆うものとして語られています。民族の大きな物語、そして地域共同体の大きな物語などです。
1979年映画『クレイマー、クレイマー』が封切られました。ある家族の崩壊と復活への道程を描いた作品です。このころから家庭が映画の主題として頻繁に描かれるようになりました。残念ながら離婚率は上昇していますが、これと相反するかのように家庭の大切さが確認されるようになったのです。
今の若者達は、高度経済成長期に青春時代を過ごした私たちの世代よりも、家庭や地域への愛着が増しています。家庭と地域への愛着の復権。低経済成長期に入ることに伴って、人間の精神構造が徐々に変わってきているように思います。親世代の乱痴気騒ぎにウンザリしているからかもしれません(笑)。
低成長経済下では、人口動態が静的なものに変わって行きます。高度成長期の集団就職は遠い日の記憶となりました。人口の縮小によってニュータウンの建設も徐々に止まろうとしています。こうして生まれ育った地で一生涯を送る人が確実に増えていますし、退職後に故郷に戻る方々も多くなってきています。ワーク・ライフ・バランスの視点も進み、家庭や地域社会で過ごす時間が増えています。家庭や地域への愛着は今後一層増していくと予想しています。
「未来社会を想像してください」 この問いに対して想起される未来像は、二つの類型に分かれます。一つが鉄腕アトム的未来、もう一つがナウシカ的未来です。鉄腕アトムで描かれる未来は科学技術を信頼するピカピカの高経済循環社会ですが、アトムは生みの親である天馬博士から遺棄された出自です。ナウシカで描かれる未来は腐海という科学技術の負の遺産を背負う低成長経済社会で、高齢化した村人達の濃密な人間関係が描かれています。高度経済成長期と現代。人々の抱くイメージはかくも違うのです。
前者に属する私たちは、地域社会のコミュニティは今後も衰退していくであろうと予測しがちです。けれどそれは違うのではないかと思っています。そして、地域の共同体を包み込む大きな物語の必要性が増してくるものと思っています。
- 崩壊する三つの傘
ここまで書いてきたことを、おさらいします。
自分はこうして生きてきた。私たちは皆、そんな自分の物語を持っており、これなくして生きられない。この物語を小さな物語と呼ぶ。論述や説明よりも、物語の方が多くの人の心に入りやすく残りやすい。広く社会構成員の心に入っている物語を、大きな物語と呼ぶ。リオタールは「大きな物語の時代は終わった」と言っているが、そうじゃないだろう。人々は家庭に帰る傾向が現れたのと同じように、これから地域に帰っていくだろう。そんな地域コミュニティを被う大きな物語が必要になる。
ま、ザックリいいますとそんなとこです。
先に進めます。
戦後わが国では、三つの傘で人々は庇護されてきたといいます。三つの傘とは、国家、企業、そして父親を中心とする家庭です。国家が背策の元に企業を庇護する。企業が従業員の家庭を終身雇用制によって庇護する。従業員が稼ぎを持って帰って家族を庇護する。ところが現在、この三つの傘制度の解体が進行している。国家はグローバル化という欧米の横槍に対抗できず政策は付け焼刃的で、企業は終身雇用制の維持は難しく能力給が進み、家庭は所得格差が進行し父ちゃんの給料だけではやっていけず共働きが進行しています。