人 生 を 考 え て み る

 

空間・時間・人間という三つの間からの根こぎ


  • なぜオジさんたちは退職後ひここもり症候群になるのか。そしてなぜ子ども達の心がともすれば細く育ってしまうのか。広い視点で見たその背景と考えられることを書きます。根こぎとは、木などを根のついたまま引き抜くことです。

    空間からの根こぎ
    近代産業文明の進展に伴い、それまで一体であった生産と消費の場が分離し徐々に遠くなってきました。つまり自宅でやっていた仕事が通勤形態となり、単身赴任いう形態も現れています。こうして地域への密着度は減少しました。ベッドタウンという言葉に象徴されるように、昼間の居住社会には、少なくなった自営業者と、専業主婦と、子どもたちが取り残されました。また、団塊の世代に象徴される戦後急増した人口は、旧市街地から溢れ出てニュータウンを形成し、伝統的コミュニケーションから隔離した社会で暮らすこととなりました。さらに産業文明に伴う都市化は、生活空間から人間社会を越えた自然への畏敬の念を希薄化させていきました。

    時間からの根こぎ
    産業文明の波は西洋化の波は、わが国に混濁して押し寄せてきました。西欧では産業文明は伝統的文化の基盤の上に育成されてきましたが、わが国の場合は産業文明の進展が本来別概念である西洋化と混濁され語られてきたのです。明治、戦後、そして現在進行しつつあるグローバル化の潮流によって、伝統的な文化や慣習、そしてこれらと相まって機能していた社会規範等の根こぎが進行しました。分かりやすい例をあげると、伝統的民家がどれだけ各国の町並みに残っているか考えるといいでしょう。西洋の民家残存率の高いこと。産業文明の進展=西洋化と考えた日本での民家残存率の低いこと。これと同じように、伝統的な文化・慣習・社会規範は「封建的」と捨てられてきたのです。バカげたことです。継承された知恵がおしげもなく捨てられたのです。

    人間からの根こぎ
    「私の家庭で一番話しているのは?」 そう自問してください。答は「テレビ」ではありませんか? 家庭の中の誰よりも大声で話続けているのは、もはや人間ではありません。前述のように近代以降、私たちは地域と歴史と人間のつながりから希薄となりました。これに代わりテレビなど巨大化したメディアが私たちに繰り返し語りかけるものとなったのです。技術革新により登場したテレビ、パソコン、携帯電話等。これらの機器は一人遊びの道具でもあります。こうして一人遊びの道具の増加によって、核家族はさらに分断されて、今や個室文化化の様相を呈し始めました。少子化と相まって子どもたちの周辺では、いよいよ様々なつながりからの根こぎが進んでいます。
    近代は、空間・時間・人間という三つの間から、各個人が根こぎされてきました。根無し草となった人間には、自己存在の不安から様々な問題も立ち起こってきています。オウム事件はその象徴的なものだったと私は捉えています。


  • 散人さんのコメント
    現代の課題
    まぁ経済活動は基本資本主義を採るとして、グローバル経済の渦中で生きざろう得ない。では今の政治的課題は何かと思考するに、外交乃至防衛では、日米安保条約を堅持するかどうか。内政的には、富の再配分の中で基調である少子高齢化の今、増大する社会保障費を今後どうするかの対立軸で推移していくだろう。他の問題は派生的なもの。
    所謂55年体制は雲散霧消して残滓をとどめない。人の幸不幸もまた「環境」に左右される。国家の政治もまた「環境」に他ならない。環境とは拠って立つ地盤であるからして国民は逃げられない。私の立場では日米安保破棄、でアジア主義。社会保障では国家管掌を漸減していく(脱社会主義)、であります。自国の政治のありようは個人の「幸不幸」の基盤になります。どうか大事な一票を投じていきましょう。
    あっ、それから原発の問題もここ当面の対立軸になります。

  • 捨老さんのコメント
    まつをさんの仰る空間・時間・人間の「根こぎ」、つまり時代推移による住環境及び情報テクノロジ-の変化にともなう生存思考の変貌に加えて個々人の生活様式の変化拡散と疎外の問題の指摘が、まさしく散人さんの仰る「国家の政治もまた『環境』に他ならない。環境とは拠って立つ地盤であるからして国民は逃げられない」に収斂される思考の文脈であるように思われます
    これを前段に提示された、「大きな物語」「小さな物語」の考察に連動するものとすれば、これは紛れもなく「全体と個」を命題とするお話であり、題目の「少し人生を考える」も「幸福」論も抜け出すことの出来ない檻になろうかと思います。この「全体と個」の歯車の個的組み直しの眩惑が、定年前後の五~六十男の心細い人生再考察能を刺激するものと思われます。
    都市部集中と辺隔拡散、再集中と再拡散、を幾度となく繰り返しているのが、人間社会ダッチ・ロールの歴史でもありますが、しかし翻って考えれば、個々人の幸福や平和と言うものは、全体とは無縁の時空で開花しようとするささやかな「物語」でもありえます。ここにこそ「少し人生を考える」間隙が残されているような気がします(笑)
    ボクは「大きな物語」と「小さな物語」という前提を少し猶予して
    「中あるいは中小ぐらいの物語」と「小さな物語」として
    考察してみることも必要な気がします(笑)。

  • 散人さんのコメント
    捨兄の提示される「中物語」という設定が非常に新鮮に感じます。「神と私」や「国家と個人」という大対小を少しく棚上げして、中物語を提示された。いやはや「まいった」と云ううしかない。さて、ではなにが一体中物語何かと問われれば、二つの物語を提示したい。それは「族」の物語である。
    一つ目は、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」。ホセ・アルカディオ・ブエンディアを長とする蜃気楼の村が100年で消滅するまでの物語。
    二つ目は映画「ゴッド・ファーザー」。シチリアの寒村を追われたウットー・コルネオーレがアメリカへ一人移民し、「家族を守る」と「友を信じる」を掟とし「族」の発展と滅亡の物語。
    この二つを捨兄のいう「中物語」のテキストとしたい。

  • 代治朗さんのコメント
    捨老さんの難しい言葉が、散人さんの解説で少し理解できました。ゴッドファーザーは、家族の崩壊、友への信頼崩壊がテーマ。国家や宗教や敵対組織といった大に巣食う、小(個人)どおしが利害の確執の為、中物語を作っていく。しかし、最も大事にしてきた家族が崩壊し(実の兄、姉婿さえ組織のため殺害する)、娘を殺され、号泣し、失意の死を迎える。この映画は、悲劇的な中物語の筆頭にあげてもいいですよね。

  • 捨老さんのコメント
    大雑把に、イタリヤ近現代史の混乱期、ハプスブルグ家のシチリア支配もお座なりの僻地扱いで短期間に撤退し、スペインのブルボン家によるシチリア王国の擁立もサルジニアとまとめて小飼の奴隷国扱いを煮やしたガリバルディのイタリア帰属の夢も、戦国野盗集団の氾濫に等しく 疲弊のままの歴史を引きずった世界大戦。そんな時代背景のなかに地縁結社マフィアの血の結束は登場し、新大陸移住の国策に夢を?ぐことになるわけだが、架空都市とは言えガルシアのマコンドも似たような植民地文化の記憶が前提と考えられる。
    なぜボクが「中くらいの物語」を提案したかと言うと、上の二例が世界の渾沌の中にあったように、中物語と言えども大物語にとっては小物語に過ぎず、その小物語の中に更なる中小の物語が存在し、この小→小の段階で小の画く大像は歪曲を余儀なくされる現実を、実感として感じやすいのではなかろうかと言う思いからであるが、個としての人は 多くの場合その生涯を、ささやかな時空=場で終始する現実を持つにも拘らず「全体と個」となると、神と個、宇宙と個のように、自らが引きずる「中ぐらいの物語」の中の更に「小さな物語」世界の個である原寸を忘却し、禅問答のように図式化し理解しようとする。あたかも猿と人を直線で結ぼうとする進化論のように。これを「妄想」と言わず何と言おう。「大きな物語」と「小さな物語」は別次元の原則を持つと理解すべきではなかろうか(笑)。
  • 「大きな物語」「小さな物語」の観念論的また図式的展開は、時として原寸としての自己と、自己世界の原寸大の成り立ちを見失いがちで、このSiteのさしあたってのテーマであるところの、「少し人生を考える」も「幸福」論も空疎なものにしてしまうのではないかと言う、老爺心が言わせたこと。ご容赦を(笑)。
  • 例えばです。「小さな物語」の最たるものは、女の一生、或は、日記帳的な物語と言えるでしょう。うち、日記帳となれば自己記述が当然のこととなりますが、この日記帳ですら自己表現という視点=夢想の介入を除外することは出来ません。読まれることを予期して書かれた日記や自分史ならなおのことです(笑)。選び取られた事象の夢想によるつなぎ合わせでしかありません。ましてや第三者の視点、さらには複合視点によって形成される「中~大の物語」においては大いなる夢想(イメージ)の介在は当然の事となり、ドキュメントとは創作の文脈に列するものと言うことができます。その累層拡大の上に立つ「大きな物語」を、どの視点をもって自己と直結する夢想を育みつなぎとめようと、それはいつも人間のもつ、か細い想像の糸でしかないような気がします。人は夢なしには生きてはいけないと言うことなのでしょうか(笑)。世界と個人は夢によってのみ繋がっていると言えそうです。あくまでも「例えば」ですよ(笑)

  • 散人さんのコメント
    嫌いな言葉に「家族」というのがあります。まぁ基本は血縁を基にしてそう呼ぶのでしょうが。家族という言葉は実は定義が難しい。そう難しく考えんでもいいじゃないかと仰るむきもあるでしょうが、定義がないとやはり落ち着かない。
    離婚再婚の先進国アメリカは血縁でない「ステップ・ファミリー」という家族が急増している。まぁようするに「連れ子」ですな。もろ連れ子もある。この傾向は日本も増すばかり、もう「家族」の意味合いを「血縁」であるとタイトにぜず、ルーズにした方がいい。
    捨兄が仰るように「夢」が人間の関係性の「紐帯(ちゅうたい)」ならば、愛もまた夢であり幻想である。ならばその「夢つながり」の仲間を「家族」と呼んでもいいじゃないか。
    江戸の時代の「長屋」を失って久しい。あの世界には確かに「中の小」の物語が存在したようだ。落語や歌舞伎の世話物には他者に異常に介入するおせっかいな人物が多く登場するが、今もって何故か涙するのは散人だけだろうか。

 

 

Plofile まつを


デザイナー。長崎市・島原市との多拠点生活化。人生を楽しむ。仕事を楽しむ。人に役立つことを楽しむ。座右の銘は荘子の「逍遙遊」。↓これは私の作品たち。

「よくこんな事をする時間がありますね」とおたずねになる方がいらっしゃいます。こう考えていただければ幸いです。パチンコ好きは「今日は疲れたから、パチンコはやめ」とは思わないもの。寸暇を惜しんでパチンコ玉を回します。テレビ好きも、疲れているときこそテレビをつけるもの。ここにアップしたものは、私が疲れたときテレビのスイッチを押すように作っていったコンテンツです。