私とは何か
- 私が常々胡散臭いと思っている言葉に「本当の自分」という言葉があります。
本当の自分?
この言葉の裏には、今ここにこうしている私は本当の自分ではなく、もっと素晴らしい自分がどこかにいるという発想があります。
そして「自分探し」というやつが始まるのです。シルヴァスタインという人が書いた『ぼくを探しに』という絵本があります。その一節を紹介します。
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ころがりながら ぼくは歌う
「ぼくはかけらを探してる
足りないかけらを探してる
ラッタッタ さあ行くぞ
足りないかけらを探しにね」
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やれやれ、困ったものです。
自分とは、探すものではなく、つくるもの。外部に求めてばかりいると、努力をせず自己成長が止まります。それは逃げです。自分を作りもしないで、自分探しをするから、結果として空っぽな自分を見つけ喪失感に苛まれることになるのです。
このように外部にのみ自分を求めてばかりいるのも困りものですが、逆に内部にのみ自分探しをするのもまた往々にして過ちに陥りやすいものです。備えなく、心の深い井戸を覗くような行為を繰り返しても、その底から吹き上がる生くさい風に身震いを覚えることになるでしょう。
結局、私と私のまわりの環境が接するその境にこそ、私たちの立つべき場所があります。分かりやすく言いますと、私という人間は、他者と接しまみれて分かるものです。世の人とまみれつつ自分を磨く努力をすること。それこそが大切なのだと思います。
私とは、私と私のまわりの環境のことである。
「何言うか、オレはオレ」という人がいるかもしれません。そういう方には「では10分間息を止めてみてください」とお願いするといいでしょう。私たちの肉体は、わずか10分間さえも外界との循環を止めることはできません。呼吸によって常に酸素は体の内外で循環し、食事によって栄養物は体の内外で循環し続けます。
なのに私たちの精神だけが循環せず、「オレはこんな人間」と立ち止まっていることは、考えてみますと不思議なことです。私たちの肉体が常に循環しているように、私たちの精神もまた常に循環しています。周りの人と話したり、各種メディアで情報を得ることによって精神もまた循環しています。私たちの精神は成長していくことが出来ます。それを阻害しているものがあるとしたら、それはあなたの「とらわれ」です。
まず今の現状を認め、外に逃げることなく、内にこもることなく、内外の波打ち際で自らを高める地道な努力をすることこそが大切なのです。