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歳を重ねると幸福感が増す
「歳をとると、こんなに幸せになるんだと驚くことが多い」
百寿者の調査を行っている慶応大学の広瀬信義教授がそう言っています。
1989年にスウェーデン大学のラスル・トルンスタム教授が提起した「老年的超越」という概念もその一つです。トルンスタム教授は、「超高齢になると物質主義的で合理的な考えから宇宙的、超越的、非合理的な世界観に変わることにより、幸せ感が得られるようになると、次のように主張しています。
- トルンスタム教授は老年的超越が 3 つの領域から構成されることを示し、各領域に含まれる徴候を以下のように記述した。
「宇宙的領域」
- 時間と子ども時代:時間の定義が変化し、子ども時代に戻る。過去と現在の境界の超越が生じる。
- 過去の世代とのつながり:過去の世代への親密感が増す。個人間のつながりから世代間のつながりへの見方の変化を自覚する。
- 生と死:死の恐怖が減少し、生と死に対する新たな認識が生じる。
- 生命における神秘:生命における神秘的な領域を受け入れる。
- 喜び:大きな出来事から些細な経験に喜びを感じる。小さな宇宙の中に大きな宇宙を経験する喜びが現れる。
- 自己との対面:自己の隠された側面 -良い面も悪い面も- を発見する。
- 自己中心性の減少:最終的には、世界の中心から自己を取り去ることができるようになる。
- 身体の超越の発達:身体の世話は続けるが、身体にはとらわれなくなる。
- 自己の超越:利己主義から利他主義へと移行する。
- 自我の統合:人生のジグソーパズルの一片一片が全体を形作ることに気付く。
- 関係の意味と重要性の変化:表面的な関係に対して選択的になり、関心が減少する。また、一人でいる時間の必要性が増す。
- 役割:自己と定められた役割との違いを理解する。時には役割を放棄しようとする。
- 解放された無垢:無垢が成熟を高める。必要ない社会的慣習を超越する新たな力である。
- 現代的禁欲主義:財産の重さを理解しつつ、禁欲主義から自由になる。現代の定義での生活必需品を十分に持ち、それ以上は持たない。
- 日常の知恵:善悪を表面的に区別することに気が進まなくなり、判断や助言を控えることを認識する。善悪二元論を超越し、幅広い考え方と寛容さが得られる。
(出典:『老年的超越理論に関する一考察:実証的研究と批判の動向』中川威)
- 散人さんのコメント
誠にそうです。もう二度と若い頃には戻りたくない、と思う今日此の頃であります。自己以外の外部環境(親や自分の家族、会社等)から「強いられる」日々が、若い頃であったと云えます。
両親とは早い時期に死に別れ、妻とも別居、娘は嫁いでもういない。なんとまぁ自由なんだろうオレはと思う日々であります。上記の中で、友人たちも選択し「一人でいる時間の必要性が増す」。本当にそうであります。
- 大閑道人さんのコメント
まるで「釈迦の悟り」ですね。
これで連想したこと。 「ココロねっこ」運動。
- しんのじさんのコメント
……だといいけれど、初老期うつ状態の人が少なからずいらっしゃるのも事実。仕事一筋すぎた方に多い傾向があるように思います。身体の変化、環境の変化(退職、転職)に心がついていかず、今まで通りの自分のペースで几帳面にやっていくことが難しく、自殺の原因になっている(老年期の自殺の8割近くはうつ状態を合併)ことも有名です。
ハッピーでない方も潜在数としては多いということです。
- 大閑道人さんのコメント
環境依存型の人生だと、しんのじさんのご指摘のごとくだ、と思います。
マスターが主張している「カタログ人間になるな!」は、環境依存型にならないためにも、重要な提言だと思います。その点で言えば、女性は(主婦は、と言い換えましょう)、環境依存、というよりも、環境創造というべきか。
- 散人さんのコメント
幸せとか、愛とか、充実した人生とか、この世に「あるのか、ないのか」はっきりしないことを、あたかも明確に存在しているかごときに云われ続けて生きてきた多くの人々は、年老いてそれが嘘だったことに気づいた時には、親にしろ学校の先生にしろ、問いただそうにももうこの世にはいない。
こころが大事だと、シラケたことを抜かす人々は後を絶たない。何がこんなにも日本人をして生き辛くしたのかって? それは無理やり近代化したことに他ならない。欧米植民地主義列国に追いつけ追い越せで教育し、家族第一主義等を無根拠に詰め込み、戦前は兵士、戦後は経済戦士に仕立て上げた。
今度はグローバルだと抜かす。戦前植民地政策、今はグローバルか、いずれにしても国民は使われて右往左往するだけです。それらが「老齢うつ」の真相です。欧米型近代化がうつの原因です。
- 捨老さんのコメント
トルンスタム教授の「老年的超越」の「超越」は、なんだか大仰な言葉のようにも聞こえます。「釈迦の悟り」となれば尚のこと。というのは、教授が仰る「 3 つの領域」は、若輩者には皆無かと云えば、そうでもない気がするからです。
若者にも同じように、重層的あるいは複合的に内在すると思われる、その領域への自覚の頻度や深度はともかくとして、それらを覆い隠す表層領域がもたらす若さゆえの迷いや葛藤、さらには混乱こそが、若き生命(エネルギー)の証しであるのならば、老人のそれは「超越」と呼ぶよりも、老いたがゆえの表層エネルギーの「剥落」であり、「核心の露呈」とも言える成り行きであって、核心を直視するかしないかは、これもまた個人差を伴う成り行きでしかなく、老化現象の一つと言えそうだからです。
願わくば「核心」の存在に早めに気づき、葛藤や混乱に直面し挑むことに尻込みしない青春であったならば、しんのじ先生の仰る「初老期うつ」の壁をやり過ごせそうな気がするのです。
いずれにしても女性に比べ、男性は生きること自体がヘタクソのような気もします(笑)。
どんぐりの 落ちて虚しき アスファルト ―横溝正史
それでも生きてまいります。死ぬまでは(笑)。
- 大閑道人さんのコメント
>「超越」は、なんだか大仰な言葉のようにも聞こえます。「釈迦の悟り」となれば尚のこと。
>というのは 教授が仰る「 3 つの領域」は、若輩者には皆無かと云えば、
>そうでもない気がするからです。
>若者にも同じように、重層的あるいは複合的に内在すると思われる
だから、「釈迦の悟り」と同じだな、と連想した次第で。釈迦は、29歳の成道以来、まさしく、そのように生きてきた、ということです。
あ、そうそう。だから、ココロねっこをも、連想したのです。
- 散人さんのコメント
生まれたくて、生まれたんじゃない。己の意思でこの世に生を受けた訳じゃないのにこのクソ面白くもない、だからいかにして面白く生きようかなんて日夜考えてはいるがクソ面白くもない、結構永い時間の人生を親からあてがわれる。もともと人生なんて意味もないのに必死で意味附けようとする「道を説く」人々。
自死だって勝手じゃないか。だって自分の意思で生まれたわけじゃないし、せめて死ぬことぐらい自分で決めたい。以前も書いたが「何故生きなければならないのか」「この世は生きる価値があるのか」を明確に聞いたこともない。
この人間世界をすっきりと説明できる思想なんて、三界に渡ってありゃしない。すべてが仮説にすぎない。それをあたかも定説みたいに云うの胡散臭さがいやになる。
老齢の 足もつれて 溝のなか
散人なんとか生きております。
- 捨老さんのコメント
どもども、お騒がせを(笑)。
大閑さん、よく解っています、ボクもね。
実証に乏しいトルンスタム教授の「老齢的超越」説の難点を、《老年的超越=釈迦の悟り》ではないと指摘したかっただけでして、「人が歳をとると そのような徴候が見られるとしても すべてがそうなるワケではない」と云う反駁は、多くの研究者が表明しているところだからです。でないと、そこら中が加齢とともに、お釈迦さんだらけになってしまいますもんね(笑)。
散人さん、
>「何故生きなければならないのか」
>「この世は生きる価値があるのか」を明確に聞いたこともない。
>死ぬことぐらい自分で決めたい。
それゆえに、人は生きることも勝手に決めて営々と歴史を重ねてきたのでしょうね。出来ることなら「心地よい生」であって欲しいもんです(笑)。
- 夕凪さんのコメント
仕事がら、高齢者の方とお話しをさせて頂く機会が多いのですが。
その高齢者の方々に、張りのある時代、輝いていた時代を回想して頂くんです。その際、いつも思うのは、前回のお話しより美化されていることが多々あるのです。
そこで思うのは、自己肯定することが、心地よい生に繋がっていくのではないかと、それが生きる意味として社会との繋がりを実感できる瞬間なのではないかと思いました。
若輩者の流涎だと思い笑って頂ければ幸いです。
- トルンスタム教授は老年的超越が 3 つの領域から構成されることを示し、各領域に含まれる徴候を以下のように記述した。