奈良の神社仏閣
ゆったりとした呼吸の中で
朝、積雪を覚悟してたんですが、青空。
さあ、誰に急かされることなく奈良公園を楽しみに行こう。そのために公園に隣接した奈良ホテルに宿泊したんだしね。ワシャワシャじゃなく、ゆったりとした呼吸の中で味わい直す大人の修学旅行。
奈良公園の中に、春日大社だとか、東大寺の大仏や二月堂や、興福寺の阿修羅だとかが点在してます。
興味のない人は読み飛ばしてね。
【歴史】
- 701年 大宝律令を制定。
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この間に『古事記』、『風士記』、養老律令、『日本書紀』、三世一身の法つくって、聖武天皇が即位して、墾田永年私財法つくる
- この後、鑑真が来日、『万葉集』できる
奈良は1300年間、大きな戦乱に巻き込まれず文化的な断絶がなかった。一方、京都は応仁の乱後、破壊行為が繰り返された。歴史が断絶せず、伝えられてきたものが残る地、奈良。
春日大社
バスに乗って本殿前まで
朝8時、春日大社本殿前に到着するバスがありますので、これを利用しました。
春日大社本殿バス停で下車。乗車してた皆さんが一斉に迷うことなく向かう先に一緒について行くと、大社事務所へ。あ、大社出勤ご一行様なのね。失礼しました。
ピンと張った空気の中、早朝の森に囲まれた春日大社は清麗でした。訪れる方も限られ、ちらほら。まず本社にお参り。早朝だったため9時から開門される本殿前特別参拝はかないませんでした。
7:00~17:00 [本殿前特別参拝]9:00〜16:00 初穂料500円
全国にある春日神社の総本社です。
春日大社が祀る4柱は、武甕槌命・経津主命、そして藤原氏の遠祖である天児屋根命・比売神。
主祭神の武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿が神使とされています。
若宮神社
その後、苔むした燈籠が並ぶ奥の院参道を経て、第一番納札所である若宮神社へ。個人的なお願いをするところと聞いています。こちらの神殿は写真撮影禁止。
杖をついたお爺さんが本殿から若宮神社へと巡ってらっしゃったのが心に残りました。
散策
その後、野焼きを今週末に控えた若草山を経て東大寺へと向かいました。
これだよね。誰に急かされることなく奈良公園を散策する素晴らしさ。
「これやりたかったんだよ」
東大寺
大仏殿・法華堂(三月堂)・戒壇堂 8:00〜17:00
[大仏殿・法華堂・戒壇堂・東大寺ミュージアム]各大人 600円
現代の東大寺は多言語が飛び交うエリアでした。慎重に雑踏を避けお参り。さすが世界に聞こえた大仏様です。圧倒的。世界平和を祈りました。今の時期ですから心を込めて。
巨大国家プロジェクト
当時の人々は大流行した天然痘を、長屋王の呪いとして恐れていたといいます。長屋王は藤原氏から自死に追い込まれた人物。聖武天皇は救いを求め、東大寺建立にとりかかりました。東大寺の建立には当時の日本人の約半数が関わってました。これほどの一大プロジェクトはそうそうあるものではないですよね。
創建の際は、朝廷から弾圧されつつも民衆の圧倒的な支持を得ていた行基を大僧正として迎え、協力を得ました。ちょうど安部首相が好きでもないマリオの服装をオリンピック・イベントで着たような感じかな。違う?
また東大寺のトップである別当を、あの空海も4年間務めています。
右の脇侍の如意輪観音様に母の写真を
大仏様の向かって右の脇侍は如意輪観音様。天上界を摂化されるといいます。御仏の前で母の遺影をかざし、お参りしました。
南都焼討
「奈良は1300年間、大きな戦乱に巻き込まれず文化的な断絶がなかった」とかよく言いますが、これは京都と比較した程度ものの話で、実際は南都焼討っていって平清盛から東大寺・興福寺など奈良の仏教寺院は焼討ちにあってたりします。ほら、奈良の大仏さんは歴代修復の積み重ねでできてるって有名でしょ。
改めて当時の武士って夜盗の集団だね。つうか寺も僧兵いたし。そう考えると人類は進歩してきてます。
運慶
天才仏師。当時の有名どころの仏師は工房を率い、東大寺南大門の金剛力士像は69日間という短期間で作り上げたと言われてます。
運慶らの彫刻はこんな北斗の拳的な作品が採り上げられることが多いんですが、↓こちらの静謐な作品を見るとその目と腕は天才的だったとお分かりいただけますよ。
二月堂
二月堂の名は、このお堂で修二会(お水取り)が旧暦の2月に行なわれることから起こっています。私は若い頃読んだ三島由紀夫の『宴のあと』が頭に浮かびます(デティールは忘れちゃったけど)。
不動堂
龍が巻く手水舎。朝の冷気を吸って水が美しく凍ってました。この写真から当日の冷え込みが分かりますね。そこを上がったところにある不動堂にお参り。
興福寺
9:00~17:00(受付終了は16:45)
奈良は仏像など彫刻及び建造物の国宝の件数は、ともに全国1位。中学校時代から憧れていた龍燈鬼をはじめとした数多くの国宝・重要文化財の仏像等がおわし、国宝は27件。
皆さん、美術的仏像をご覧になりたいならぜひ興福寺へ。撮影禁止ででメディアに採り上げられることは少なく、入館料もそこそこしますので修学旅行団が訪れることも少ない。ですから静かに静寂の中で仏像を拝観し、感動したいなら興福寺です。仏像に対面した時、思わず感嘆の声が漏れました。
実物にお会いして認識を新たにしたのは、高さ5mの千手観音菩薩立像。圧倒的迫力に包まれます。写真では分からない包容力。↓このページの写真が実際の様子を推察できるかもしれません。
中世大和の支配者、興福寺
興福寺は藤原氏の氏寺です。そのため、平安時代に藤原氏が興隆すると、呼応するように興福寺の寺勢も高まりました。
全国各地に多くの荘園を持った興福寺は、平安時代末期には荘園の管理と防衛のために強力な僧兵まで有することになります。
東大寺、興福寺間も中世に抗争が激しく、双方ともゴロツキ同然の僧兵をかかえていました。
現代もそうですが、宗教間ってどうしてこうもモメゴト多いんでしょうね。
一時は消え入りそうに
ところが一転、神仏分離令により明治期一時は廃寺同然となり、五重塔と三重塔も売りに出される始末。買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうと考えていたといいますが。
明治政府ってホント信じられないくらい荒っぽい。
復活
2018年、江戸期に焼失した中金堂を復元。創建したての状態で見ることができます。興福寺参拝の際は御本尊から。
なんてったって藤原氏
春日大社、東大寺、興福寺と奈良公園を散策してきましたが、いずれも当時の藤原氏の力を思い知らされました。平城京遷都を行った藤原不比等。その10代後には藤原道長の代となってピークを迎えます。
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば
国家権力が当時集中した奈良には、とてつもなく高レベルな美術作品が残されています。
2024.01.24