2012年6月
一般論にしてくれるな
「人生はクソだ」と吐き捨てた奴がいた。待ってくれ。
一般論にしてくれるな。
お前の人生がクソなのだ。
5羽のカモメ
5羽のカモメが防波堤にとまっている。
そのうちの1羽が飛び立つことを決意した。
残っているのは何羽だい?
------4羽です。
そうじゃない。5羽だよ。
いいかね? 誤解されがちだが、
決意そのものには何の力もないんだ。
そのカモメは飛び立つことを決意したが、
翼を広げて空を舞うまでは防波堤にとまったままだ。
残りのカモメとどこも違わない。
人間だって同じだよ。
何かをしようと決意した人と、
そんなことを考えてもいない人とでは
何の違いもないんだ。
ところが人は、他人のことは行動で判断するのに、
自分のことは決意で判断することがよくある。
しかし、行動が伴わない決意は、
期待してくれている人に対する裏切りでしかない。
出典:『希望を運ぶ人』(アンディ=アンドルーズ)
自分の内側ばかり覗いていてはいけない
「世界一静かな部屋」として知られるアメリカのオーフィールド研究所の無響室は外部からの音が99.99%遮断されています。その部屋を真っ暗にして留まれる最長時間は45分。以下は所長の言葉。
「静かだと耳が慣れる。静かであればあるほど耳がよくなる。自分の心臓の鼓動が聞こえ、肺の音もときたま聞こえるようになる。胃がゴボゴボといううるさい音が聞こえる。無響室では、あなた自身が音源になる」
人は方向感覚を失くし、幻覚が現れ、耐えられなくなるといいます。
(出典)
己の内側だけを覗き込む行為の恐ろしさを物語るエピソードです。自分の外側に広がる世界に接し、まみれることによって、我々は自己を正常に認識できます。自分の内側だけに囚われる愚かさ。身体疾患がないにもかかわらず過度に思い悩み、その結果支障を来たしてしまう心気症もまたこれでしょう。内側ばかりのぞいていては生臭い狂気の風が吹きあがってくるだけです。
自分をさがすな 自分をつくれ
さて、私が常々胡散臭いと思っている言葉に「本当の自分」という言葉があります。この言葉の裏には、今ここにこうしている私は本当の自分ではなく、もっと素晴らしい自分がどこかにいるという発想があります。
そして「自分探し」というやつが始まるのです。やれやれ。困ったものです。
そうやって逃げてばかりいると、努力もせず自己成長が止まります。自分とは、探すものではなく、つくるもの。ろくに自分を作る努力もせずに自分探しをすると、空っぽな自分を見つけ喪失感に苛まれるというオチが待っています。
今の自分は本当の自分ではないという考え方は、前述のエセ自然志向派の人々とよく似ています。共通する特徴は、第一にこれさえやれば万事好転するという単純思考、第二に自己努力回避、第三に巧みな逃げ口上です。
しんのじさん日本海横断
しんのじさんたちが6月9日、シーカヤックによって対馬から釜山まで横断成功しました。拍手。以下、ご本人からの書き込みです。
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皆様、過分なお言葉の数々誠にありがとうございます。いろんな方々のお力をお借りで来てどうにかなしとげることができました。お礼申し上げます。
昨日の午前中は南東からの風と追い波に乗り、スリリングではありましたが比較的順調な滑り出しでした。午後からは北寄りの風と波に変わり、消耗戦の様相を呈してきました。でもペアを組んだ還暦の男性と共に、声を掛け合いながら漕ぎ抜くことができました。本当に天候に恵まれて幸運だったと思います。
名物のサムゲタンを食べた食堂で、お店の女性に「対馬から漕いできたよ!」と言っても、最初は信じてもらえませんでした(笑)!
シーカヤック:愛好者16人、対馬海峡横断に成功 「また挑戦したい」感激冷めず
/福岡 毎日新聞 2012年06月14日 地方版 シーカヤック愛好者でつくる「海面クラブ」=西区今津、尾形潤代表(60)=の会員ら16人が長崎県対馬市から韓国・釜山市まで約58キロの対馬海峡をシーカヤックで横断した。尾形代表は「全員が横断できた。また挑戦したいという人もおり、やってよかった」と話した。【竹田定倫】
横断したのは9日。参加したのは29~64歳の男性13人、女性3人。退職者のほか、会社員、医師、自営業など職業はさまざま。午前6時45分、対馬市比田勝港を出発し、1時間おきに休憩しながら午後4時に釜山港に到着した。
使用したカヤックは長さ5・6~6・2メートルのタンデム(2人乗り)8艇。前後に伴走船が付き、スタッフ4人が乗り込んだ。4日前の天気予報では中止の可能性もあったが、当日は「波も1メートル程度。風の条件も良かった」と尾形さん。
シーカヤック歴15年の尾形さんは06年6月、7時間半で渡った経験を持つが、今回は伴走船に乗船。「20年の経験者もいるが、初心者もおり、完走には恐れ入りました」と自分のことのように喜ぶ。
画家たちの自画像
以下は巨匠たちの自画像が次々に現れる動画ですが、何人分かりますか?
では分かる範囲で。
レオナルド |
ゴヤ |
デューラー |
? |
レンブラント |
ウォホール |
ブグロー |
マチス |
ドラクロア |
ミレー |
ヤン・ファン・エイク |
ルーベンス |
? |
サージェント |
マレーヴィチ |
プッサン |
セザンヌ |
ゴーギャン |
ゴッホ |
ロセッティ |
ベラスケス |
ヴァン・ダイク |
ティツィアーノ |
ヴェロネーゼ |
クラナッハ |
マネ |
ピカソ |
クラナッハの眼差し
自画像を頻繁に描いた画家と言えばレンブラントが筆頭に挙げられますし、そのあがりも素晴らしい作品群です。
前日の記事を書いていて驚愕したのはクラナッハ。よく彼の代表作としてされるのがこの絵(クリック)でして、「昔の画家ね」という感じでとらえていました。この認識が変わったのは、彼の自画像(クリック)を目にしてから。
彼が描く目のモダンさに驚愕しました。サングラスが似合いそうでしょう? 現代人の眼差しそのものです。それが日本で言えば戦国時代に描かれているのです。素晴らしい画家なのだと今さらですが再評価。
天才ベラスケスの筆跡
今日は「画家中の画家」とマネから呼ばれたベラスケス。スペインの宮廷画家となった17世紀の画家です。彼が凄いのは他者の追随を許さぬうまさ。どうなっているのだろうと思うほどです。
たとえば下の作品をご覧ください。
髪に付けているものはなんですか? そう、リボンですね。いくつ付けていますか? そう、3つ。ではどうやって描いていると思いますか?
もう一ついきましょう。胸は白く薄い生地の上に、ブルーの円状のリボンがあり、その中央に宝石が付いていますね? 本当ですか?
筆跡を確認すると、驚愕しますよ。
質問です。何度も見直したのですが、ベラスケスの宮廷少女の絵の胸の宝石は、真綿を描いたような筆致ですね、普通ならべたっと一色で塗りつぶしそうですが、リボンは、私のような絵の技法にオンチな者には、ふ~ん、そう、大きな筆で描いてるんだというぐらいにしか思えず、驚愕なんてないのですが。
ベラスケスの絵、質感バッチリですね。宝石は宝石に見えますし、肩からかかる刺繍の入ったベルトもそうですし、スカートもビロードの質感がものすごく伝わってきますよね。でもビッシり描き込んでいると思いきや、どっこい。
髪飾りのリボンは、筆をぐしゃぐしゃっと動かしただけで表現。
宝石は、バックをざっくり塗って、あとは点々と筆をおいただけ。つまりまったく「説明」していません。細部では見たまま描くことなく、作品を離れてみる鑑賞者に組み立てなおさせるということをさせています。それであの質感表現。天才しかできないことです。
ブグローは復活する
クリムトは明らかに40年前よりもメジャーになってきた作家です。で、「本当は彼の若いときの作品が好き」という人もいらっしゃることと拝察しています。
このあたりを好きな人はもしかしたらブグローも好みになるかもしれません。こんな作品を描く画家です。
簡単にいいますと19世紀アカデミズムの中心人物です。抜群のデッサン力と筆使い。そしてハイキーのレンブラント光線。
これまで日本ではあまり伝えられなかった画家ですが、実はモネやマネなど印象派の画家達は生きている当時はマイナーな作家で、ブグローの方が絶対的人気を誇っていました。でもね、ほれ、この後モダニズムは出てくるわ何やで、伝えられなくなっていたのです。
ブグローは最近再評価されつつあるように思います。
美術作品は、美術史上の進展を負うものでなければならないとする認識は、実は高度経済成長信奉者の感覚と同じ並びに置かれるべきものなのかもしれません。
ブグローは久々に見ますと「おおぅ」と思います。けれどずっとみているとアフタヌーンティでたっぷりクリームのケーキを毎日食べ続ける食傷さを憶える私です。
画家の栄枯盛衰
人間長く生きてきますと、時代によって人気の出てくる画家と落ちていく画家があるんだなとつくづく感じます。
人気が出てきた画家の筆頭はクリムト
人気が出てきた画家を挙げてみましょう。筆頭はクリムト(ここからのリンクはクリムト好きには必須)。彼の作品は今更ご紹介するまでもないでしょう。私が高校生だったころ、クリムトと同じぐらいの認知度だった画家といえばアンソール↓。大好きな画家の一人でした。今、クリムトとアンソールの人気には隔絶のものがありますよね。アンソールは60・70年代のロックな時代じゃないと流行らないようです。
現代アートではウォーホール
それからウォーホールも人気が出てきましたよね。これも私の高校時代では同程度の扱いだったジャスパー=ジョーンズとかラウシェンバーグよりも、世間一般では頭一つ抜けてアイコン化していますよね。(ポスターの画像から) |
その当時、久留米の画廊にこの作品があるという情報を知った私は、友人の吉田隆さんと訪ねていきました。その時の価格が10万円! コピーとかではなくてオリジナル作品がですよ! 今となっては信じられない価格です。
でもね購入しませんでした。なぜかといいますと、オリジナルはあまりにもそっけないんです。薄汚いといっていいかもしれません。実はそれがポップアートなんですけれどね。で、購入せずに帰ってそれから1年後、雑誌を見たら同作品が120万円になっていました。ま、そんな思い出。
消え行っている画家 クールベ
逆に時代から忘れ去られようとしている画家としては、クールベやドーミエ。貧しさや社会矛盾を描いた彼らの作品は、そのトーンからだけでなく、東西冷戦終結後の世界では美術史的意味合いが薄れていったのでしょう。
たしかにクールベは中2病的自我を感じさせて、うっとおしく観るのもいやになる作品が多いですね。たとえばこれ。『こんにちはクールベさん』という作品。なにふんぞり返ってるんでしょうね、オレ様クールベ(笑)。
ドーミエは消えるにはおしい
一方ドーミエは美術史から消えて欲しくないと願っています。
まずその作品自体の素晴らしさ。消えるには惜しい画家です。それから作品の意味。彼は画家というよりも新聞の挿絵家として当時は認識されており、近年で言えばベン=シャーンのような立ち位置の人でした。
近年、格差社会が進行し、『蟹工船』や『資本論』が再読されるブームが一部で静かに起こりつつあるようです。もしかしたらそういった流れの中で、彼はもう一度スポットがあたるのかもしれません。
そうした社会的事情は別にして、素晴らしい画家です。皆さんにもドーミエを憶えていただけると幸いです。