キリスト教と大乗仏教は根本思想が同じ
- 大閑道人
ユダヤ教とキリスト教はほぼ同じで、ユダヤ教を修正するかたちでキリスト教があると一般に考えられています。しかし私はこの通説がどうにも理解しがたい。民俗宗教であるユダヤ教が、なぜ普遍宗教のキリスト教に衣替えが出来たか? 私は普遍宗教がユダヤ教の中に溶け込んできたと考えています。
ナザレの大工の息子が活躍するころに、インドで大乗仏教運動がありました。仏教も、小乗仏教から大乗仏教へと「進化した」というのが通説ですが、私は疑問に思っています。
キリスト教にも大乗仏教にも共通する救済の概念=自己犠牲の教えを持った第3の宗教思想があった。その第3の宗教思想が、ユダヤ教と小乗仏教の中に溶け込み、それが、現代に連綿と繋がった。私はこの第3の宗教思想をシルクロードの「交換の宗教」と呼んでいます。仏教は「自業自得」を本来の教えとしていましたが、それが「回向」という概念で、自己犠牲で他者救済への道が開かれます。なぜ、自業自得が回向によって打破されたか、それは、「空」という概念があったからです。またナザレの大工の仕事=磔は、自己犠牲による世界の救済です。
キリスト教や大乗仏教の中にそれぞれに溶け込んで今日に至ってしまったものだから、その影響下にある我々は、そこに第3の宗教思想を前提にすることなしに、別個の物として、キリスト教・大乗仏教と分けて考える。だから、小乗仏教⇒大乗仏教、ユダヤ教⇒キリスト教、という枠組みの中で捉えてしまう、いや、捕らわれてしまっている、と見ます。
シルクロードの宗教は、流通業の正当化が目的だから、利他の思想を強調する。利他から自己犠牲までの距離は近いのです。
- まつを
かつてのシルクロードには流通業を正当化するための、他者のために自分は働いているとする思考があった。そこにできた「交換の宗教」は、自己犠牲による民衆の救済と、救世主の思想を唱えた。これがユダヤ教と小乗仏教の中に溶け込み、それぞれキリスト教・大乗仏教となった。
この「交換の宗教」は今はない。
たとえば大乗仏教である浄土真宗は、南無阿弥陀仏と一心に唱えれば浄土にいけると説く。これは阿弥陀仏を信仰する一神教であり、浄土とは天国的発想であり輪廻転生観の否定である。つまり、キリスト教と大乗仏教は近い。
これでよろしいでしょうか。
- 大閑道人
ユダヤ教と、初期仏教を、例えば、蒸留酒と醸造酒にしましょうか。蒸留酒も醸造酒も、アルコール飲料としては同じですが、製法が違いますね。でも、そのアルコール飲料に、同じ、そう、例えば、葡萄のエキスが入った、としましょうか。そうすれば、味は似たようなものになる。
それが、ここでの「キリスト教と大乗仏教は、根本思想が同じ」という意味合いです。
- 捨老
思うに紀元前後、思想の潮流がダッタン海峡(笑)を越えて渦巻いた長い時間があったのでしょう。「救世主」ブームの時代だったに違いありません。キリスト生誕の物語も、東方の呪者(学者)がべツレヘムに導かれることから開始します。
ついでに言わせて頂けるならば、キリスト教においても 原初の段階から洗練された神学が構築されていたわけではなく、「自己犠牲」とか「愛」などの観念が重視され始めるのは後代のことであり、初期の何世紀かに亘っては むしろエジプト神学の影響下にあったものと思われます。やはり「キリスト再生の奇跡」や父の国(天国)と人の子の国との流通者としての、神の子としてのキリストを重視し崇める原始的信仰が主流だったことも、無視されてはならないのでしょうね。それは、よくある宗教の神人の姿と大差ないものであったと思われます。
- 大閑道人
極論ですが、これが「商業」と「通貨」を創造した。背景は、大乗仏教の「空」の思想……。「空」の原語的意味は「実体はない」。実体がないから、交換可能なんです。
回向とは、そういうことです、自業自得の「自己」は「空」つまり、実体がないのでありまして、実体のないもの同士(あれとこれ)だから、「同じ」であります、交換可能なのです。通貨が果たしている役割は、まさに、(価値が)「空」だからです。「空」とは、なんでもあり!と同じ意味になります。そして、なんでもあり、とは、特定のあるものとしての実体がないことでもあります。
釈迦は、世界を「概念」と捕らえました。概念に実体はありませんから。