• 2016_10_22

    有明海沿岸文化



    • 下妻みどり こないだ行った天草のホテルにこんなものがあって、いまだに真意をつかみかねている。
    • 鶴野パール よく天草は長崎県だと間違えられんです。そのたびに訂正しなければならないので。
    • 下妻みどり なるほど、そうなんですね…。
    • 鶴野パール 天草人の意地もありますね^^;
    • 下妻みどり それは感じましたー。でも、長崎と天草は、いろんな面でつながっているし、あらためて「近い」と思った次第です。
    • 鶴野パール そうですね。天草には長崎の文化が色々、入ってますし、言葉も熊本よりも長崎の方が似てます。天草から船に乗って長崎へ豆腐を買いに行く人がいると、聞いたこともありますよ。
    • 下妻みどり ほー!たしかに船だとすぐですもんね。地図の線引きと生活圏はかならずしもおなじではないですしねー。
    • 鶴野パール そうです、そうです。熊本県人としての意識は強いですが、昔から進学や就職で長崎に行く人は多いです。 長崎に原爆が落ちた時、天草から後片付けをしにいって被曝した人達もいますね。
    • まつを これは島原出身の私にはよくわかります。おっしゃるように島原と天草は一つの文化圏。私が幼い頃、テレビは熊本放送しか入りませんでした。 島原半島の口之津のおじさんがこんなこと言ってました。「海を見ていたらエビが食べたくなって、フェリーでちょっと行ってきた」 近いんですよね。
    • 鶴野パール はい、島原に渡っても、他県に来たという感覚ないです。昔は船で、よく行き来してたんでしょうね。 島原天草の乱も、島原と天草のキリシタンが起こしたのですしね。
    • 下妻みどり 「海の近さ」って、もっと取り戻していいものではないかと…天草から見る島原の「目の前っぷり」に、強く思いました。(そりゃ『談合』もするなぁ…と)
    • 鶴野パール そうですよね。 天草から海を渡って長崎、水俣、鹿児島にも行けるのって、陸を伝って行くより便利だし、開放感があります。 フェリー代をもっと安くしてほしいですよね。
    • まつを これはお分かりのとおり、かつて海路こそが主ルートであった証。ですから、島原弁は天草ひいては鹿児島の方言に近い。薩摩→天草→島原と人は巡っていたと。かつての海に住む人々は思いのほか移動していました。学校ってのもないですから縛られない。
    • まつを 現代の日本人は、自家用車は持っているのに、自家用船を持たない。これを不思議と思っていない不思議。フィンランドなんかですと自家用船を結構な割合で持ってます。外食は気軽にするのに、船は持たない。
    • まつを これだけ海に囲まれた国なのに、海を自分たちのものだと思わない不思議さ。漁師のもの、お上のものって思ってるんじゃないの? なんでそこまで矮小になったんでしょうね、日本人。
    • まつを 鎖国が原因じゃないでしょうか。これだけ海に囲まれていて、個人でプライベートユースの船を所有しない体制になったのは、鎖国が原因であると。公用あるいは商用の登録した船以外の所有を江戸時代に禁じたんじゃないでしょうかね。裏どりできないか。
    • 下妻みどり 鎖国は決定打で、それ以前から、海の自由さは少しずつ剥ぎ取られ、やがては低いものにさえ位置付けられていったのだと思います…。
    • まつを そう、島原・天草の乱が決定打で、この地域は重点的に取り締まりが行われたのではないでしょうかね。裏どりの資料がどこかにないものか。
    • 下妻みどり 海から見る天草・島原の乱というのも、日本を取り巻くテーマとつながっていることでしょう。
    • まつを 古くは九州を含む南シナ海沿岸に住む人々は倭と呼ばれ、海洋でつながっていたことを考えると、時代が下がるにつれ、陸地中心の領土感覚が徐々に成立したわけです。
    • まつを 最初に提示された写真の看板も、陸地領土主義的発想の賜。といいますか、陸地領土主義と海洋交易文化の衝突を象徴するような写真ですね。
    • まつを 『江戸時代~明治時代における天草漁民の生活』(Tran Thi Mai Hoa)という一文を見つけました。 これによると明治初期、天草は長崎県だったことがあったのですね。
      「天草(略)は、明治時代に幾度もの政治機構上の変化を経験した。富岡県は天草県となり、その後、長崎県と合併し、長崎県天草部として長崎県の一部とされた。(略) 最終的に1877年(明治10)に熊本県の一部となった。」
    • まつを さらにこうあります。 「天草における漁村の形成と発達は、幕府が地域住民に対して沖合漁業に従事する許可を与えた1645年(正保 2 )以降になってからようやく見られるようになることが明らかにされている。(略) 当初七ヵ浦として成立した定浦は、以後数次の変遷を経て最終的には二四ヵ浦に増加したのであるが、この定浦以外の村々は臨海村落であっても「魚不仕」村であり、「 無海無株 」 の村として漁業に従事することができなかった。」
    • 下妻みどり 天草から見る島原は、まさに目の前だから「陸続き」な感じさえあるのだが、これが天草から長崎市内に渡ると、それはやはり「海の向こう」の存在になる。だから、天草から長崎に嫁いできた「ペコロスの母」のみつえさんは「思ってたより遠いとこに来ちゃった…」と感じたのじゃないかと想像したりした。
    • 下妻みどり 国境や県境が、揺るぎないもの、すべてを分けるものだという感覚は、いろんなものごとを、時に危険なほど貧しくする。そんなものは、本当はゆらゆらしているほうが、息がしやすいはずなのだけどなぁ。






  • 2016_10_24

    有明海の交流



    上図は大正12年頃の航路(島原三角天草地区、クリックで拡大、出典:『長﨑のりもの史』永田信孝)。現在よりも航路が複雑に入りこんでいることが分かります。それだけ海路は重要だったわけです。

    • 散人さんのコメント
      明治中期に所謂「からゆきさん」は東南アジアを中心に約五千人いたといわれる。この内半数以上は天草島原出身者であった。とくに島原半島は普賢岳のふもとのシラス台地で農耕に適さず、そのうえ台風も多く、農民はとことん貧しかった。
       姉しゃんなぁ どけいたろうか 姉しゃんなぁ どけいたろうか
       青煙突のバッタンフル 唐はどこんねき 唐はどこんねき
       海の果ばよ しようかいな
      口之津港には香港にあるイギリスの船会社バターフィルから石炭の貨物船が入港していた。土地の人は外国船をみな「バッタンフル」と呼ぶようになった。船底に石炭と一緒に押し込められ、20日あまりの過酷な旅だった。

    • まつをのコメント
      雲仙は明治・大正期から上海租界の欧米人の保養地として繁栄した。昭和初期には外国人向け雲仙観光ホテルも建設された。 外国人たちは、長﨑から茂木街道を歩き、茂木から船で小浜へ渡った。小浜から雲仙まではカゴで上った。

    • じだらくさんのコメント
      鹿児島からの帰り道、長島~牛深、鬼池~口之津と初めてフェリーで長崎に帰ってきた時に口之津の資料館に立ち寄りました。
      三井三池の石炭が口之津港から輸出されていたことを知りました。海を結ぶ道っていうのは陸路が整備される以前は大変重要だったんでしょう。戦前、父が長崎から雲仙に行く時はペンギン水族館のある網場がら小浜まで船で渡って行ったということを聞いたことがあります。海上の交通路という視点から考えてみると現在の認識とはまったく異なる世界観が見えてくるのでしょうね。
      以前は茂木からフェリーに乗って富岡まで釣りに行ったりしたこともあります。有明海の航路はほんの少しの距離なんですね…。

    • まつをのコメント
      じだらくさん、それこそが長崎港が衰退していった原因の一つでした。 1889(明治22)年に九州で算出した石炭の輸出港に、口之津ほか4港が加わったんです。 これによって長崎港からの石炭積出漁が減少したんですね。
      え、長崎港から石炭を積み出してたのかって? この写真をご覧ください。「長崎港ニ於ケル汽船石炭積込ノ景」(九大コレクションから) http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/ja/recordID/403385

    • 散人さんのコメント
      曙座は二月(ふたつき)に十日間は芝居小屋になる。
      当時(昭和30年代)の九州は所謂どさ芝居の宝庫であった。それは炭鉱の隆盛と密接な関係があったのだ。炭鉱夫達の娯楽の頂点に田舎芝居が君臨していた時代だ。大牟田を本拠とする一座が春になると海を渡って島原にやってきていた。
      昼間三輪自動車で一座が街中を宣伝して駆け回る。
      「吉野屋一座本日曙座にて初日でございます。今回は一座新星の月ヒカルが島原初お目見え、絢爛豪華衣装を纏(まと)い踊りますは娘道成寺、慕いしお方の裏切りに身を狂わんばかりの嫉妬の焔(ほむら)燃や続ける蕾(つぼみ)の十七。……」 
      大仰な宣伝口説に縁側で居眠りしていたばあ様の目パチリと開いて「五時に出るよ」と十才の散人に囁く。散人「川端屋は?」とラーメンねだると「芝居の前にな」と銀歯みせてニヤリと笑う。ばあ様は母の親、今で言う認知症がまだらに入っていたのか、普段は日当たりのいい縁側で夢か現(うつつ)か居眠りの日々、それが田舎芝居が来るとピンシャンとなり必ず散人を連れ曙座へ行く。
      「おかあさん!子供に芝居見せると碌(ろく)なもんにはなりませんよ!」と娘(母)に咎められても何処吹く風の又三郎、二人は町行きの路線バスに乗り込むのでありました。

    • 散人さんのコメント
      侠客、と云っても直ぐ「お金」で転ぶ田舎侠客の話です。
      対岸(有明海)の大牟田 三井三池炭鉱の労働争議(S34年~35年)の折、島原の侠客連はお金で雇われ、スト破りにポンポン舟に分譲し彼の地へ向かった。
      向かったはいいが所詮思想もなにもないお駄賃欲しさの田舎侠客たちは、屈強なる炭鉱労働者に完膚無きまでに打ちのめされ虚しく島原に帰還してきた。
      ある日散人が小学校から我が家に帰ってくると「う~ん、う~ん」と呻き声が聞こえて来た。何事かと玄関を開けると上がり框の板張りの上に5、6人が包帯のぐるぐる巻で転がっていた。
      父は戦前軍医だった。軍医は外科が中心であった。「あいつらは板張りで寝かしとけばいい、畳の上は贅沢じゃ」と大牟田で返り討ちにあった田舎侠客たちを指差して云った。

    • 散人さんのコメント
      売春防止法の完全実施は昭和34年、前年の33年に赤線が廃止された。それまで島原の港に遊郭が軒を並べて存った。大牟田三角天草からの客で大いな賑わいだった。散人高2のころ、40年17歳の年、その一軒の元遊郭の娘と割りなき仲となった。その人は同級生。当時の思い出を詞にしてペコロスさんに提供した。

      「島原十三夜」 詞 散人 曲 岡野雄一 歌 岡野雄一

       十三夜の月明かり 障子窓越しに 部屋ん中ばユラユラ水底にする
       窓ば開ければ有明ん海に 月明かりの一本道キラキラ伸びとって

       オイデオイデ、て手招きばしよると
       「どこまでも手ばつないでこん道ば逃げて行きたかね、
        今夜、二人でこん町(島原)ば出て行きたかね」
       「よかと?よかと? ホントにうちでよかと?」

       遠い遠い夜 思い出す泣き顔よ 十七の恋 島原の夜 十三夜






  • 2016_10_25

    舟所有の文化が華開かなかったのは鎖国が原因ではない


    以下の考えは間違っていました。
    「鎖国が原因じゃないでしょうか。これだけ海に囲まれていて、個人でプライベートユースの船を所有しない体制になったのは」
    こんなことを夢想し始めたのは、島原・天草の話をする中で、次のような疑問が出たからでありました。
    「まつを 現代の日本人は、自家用車は持っているのに、自家用船を持たない。これを不思議と思っていない不思議。フィンランドなんかですと自家用船を結構な割合で持ってます。外食は気軽にするのに、船は持たない。」


    江戸時代の漁場管理の概念図。(出典:水産庁
    鎖国が原因ではありません。古くからの海の利権によるものです。
    江戸時代、漁村は認定制。認定されていなければ漁はできませんでした。
    浜の前の漁場は周辺漁村が管理し、外海は自由が原則(「磯猟は地付根付次第なり、沖は入会」)。ところがですね、漁場の境界を巡る争いが相当ピリついていました。陸地の村境設定よりも早い頃から海の境界線設定はなされていたようですので、相当ピリピリしていますね。利権をめぐっての抗争。江戸時代に水を巡って争い事が起こっていたことを考えますと分かりますよね。ですから、個人で舟でも持とうものなら利権者から嫌疑がかけられていたことでしょう。このことについては、『水主浦漁場の階層性とその形成過程――近世期肥後国天草郡において――』橋村修が勉強になりました。
    ましてや経済的余裕がない時代ですので、遊びの舟はあり得なかったわけです。

    • thomさんのコメント

      日本では海と海岸と港は全てお国のものなのです。不開港制度が今でも生きています。
      特に外国船に対しては非常に厳しく、CIQと言って税関(Customs)出入国管理(Immigration)検疫(Quarantine)のお役人様が目を光らせています。そのおかげで日本のヨットがアメリカに行くと、食べ物はほとんど取り上げられ、色んな名目で金も取られて「これも君の国の不開港制度のせいなんだ、悪く思わないでくれ」と言われます。
      前述のCIQはもちろん、国土交通省や水産庁に海上保安庁、それらの天下り団体の皆様方は言います。海は漁業や海運のためのもので、国の立派な事業なのだ。だから庶民が舟あそびをするなど許さん(笑)。

      ヨットにすっかりハマってしまって、今では年間50日以上を船で過ごすようになり、旅の船とふれあい、外国人も含めて色んな方から海に関する話を聞かされるうちに、日本の海に関しての現状が見えてきて、日本人として情けないことしきりです。我が北九州では漁協とヤクザと警察と空港港湾局のキナクサイやり取りが日常化してるし。

      これとは別に、有明海には天然の良港が殆ど無い事も理由の一つではないでしょうか。口之津から石炭が輸出されていたのも納得です。






  • 2016_10_26

    北欧の圧倒的ボート所有率



    出典:日本マリン事業協会(資料:ICOMIA'2000年統計による)から作成

    北欧の圧倒的ボート所有。7人に1艇ですよ。つまりこれって、家族持ちは一家に一艇というところでしょうか。日本は368人につき1艇。
    狭い国土に暮らすという事はこういう事なのかもしれません。それにしても。
    こんな記事を読んだ日には、どういう事なんだと思う気持ちも禁じえません。→サイト「旅と写真といい女」の記事「スウェーデン流ゆとりライフ」。駐車中のほとんどの車にはボートを引くためのフックが車に付いています。

    • 散人さんのコメント
      けっこう持っている。
      自家用舟に関して云えば、島原の友達は今数えても五人はいます。定まられた場所に年間のもやい料(係留リ料)を払えばいいそうです。彼らはみな釣りが趣味で舟まで購入したそうです。ただみな自営業で時間が自由に使える立場で、勤め人は土日に限られるので難しいのではないのでしょうか。

    • まつをのコメント
      恐るべし、日本で北欧的ライフスタイルを楽しめる島原。ボートが持てる。夏小屋が持てる。空気はうまい。水はうまい。魚はうまい。野菜も抜群。そう、まず人が多すぎるところは、豊かさの価値観がおかしくなるんですよね。
      散人さんの島原と北欧の共通点は、その一、人口密度が低く、自然が豊かで近い。その二、時間的に調整できるライフスタイルを持ってる人が多い。ただ相違点は、もやい料(係留リ料)がスウェーデンの湖や田舎の海ではいらないこと。

    • グッドマンさんのコメント

      写真はノルウェーでフィヨルド観光をしたときのものです。フィヨルドに面して小さな集落が点在しており,その後ろは切り立った崖や急な斜面だったりします。こうなると,ボートは生活の足として必需品になるわけで,所有数が多いのも当然かと思います。

    • まつをのコメント
      グッドマンさん、これは説得力のある書き込みを有難うございます。こんな地形であれば、他地区に出るには舟がいりますよね。

      これとよく似た地形が島原半島の南部にあります。上が口之津から南有馬地域、下が小浜から串山地域。ここは今でこそ海岸沿いに道が通っていますが、行ってみればお分かりのとおり、俊敏な山が海に落ち込んでおり、かつては舟なしでは他地域との交流ができなかったでしょう。なのに舟文化が根付かなかった不思議。こうなってきますと民族性の違いというべきでしょうか。
      某知人のお母さんは生月山間部に住んでいましたが、生涯海を見ることなく終わられたという話を思い出します。








    • 2016_10_28

      大宰府は博多湾と有明海の分水嶺。標高わずか40m


      「Flood Maps」という便利な地図があります。これは海面が上昇するとどうなるか表示するもの。使い方は簡単、左上の「Sea level rise」から上昇する割合を指定するだけ。標高40m以下を塗りますとこのようになります。

      そうしますと興味深いことが浮かび上がってきます。
      大宰府という場所の意味です。
      大宰府は博多湾と有明海の分水嶺。その標高、わずかに40m。
      なるほど、だからここに大宰府が築かれたのか。
      大宰府付近を拡大し、標高30m以下を塗った状態で見てみます。

      以下、出典:「西田進のホームページ」
      • 北九州防備としての大宰府
        663年朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で、日本・百済連合軍は唐・新羅連合軍に大敗を喫した。唐・新羅連合軍の日本進攻を恐れた大和政権にとって北九州の防衛強化が急務となった。
        博多湾からの侵攻を防ぐため水を貯えた大堤である水城(みずき)を築いた。博多湾から有明海まで見通すことができる絶好の地に大野城を築いた。さらに有明海からの侵攻に備えて、基肄(きい)城小水城を設けた。
        地図で30mの等高線を描くと左のようになり、水城の重要性は一目瞭然である。なお、御笠川は博多湾に、宝満川は有明海に注ぎ、分水嶺はJR二日市とJR天拝山の間付近を通り、その標高は海抜約40mである。日本海(博多湾)と太平洋(有明海)の間の日本一標高の低い分水嶺ではないだろうか。



      さらに真鍋大覚(まなべ だいかく)の「博多湾と有明海はつながっていた」という説をご紹介しておきます。氏は九州各地のボーリングでのハイガイ化石調査による放射性炭素年代測定を元に、3,500年前の古代九州の状況を次のように発表しています。以下ウィキから転記。

      1. 博多湾と有明海は太宰府付近を瀬戸にしてつながっていた(真鍋はこれを「針摺瀬戸(はりずりのせと)」と命名している)。
      2. 福岡平野,筑紫平野は海底にあり、福岡地方は群島だった。
      3. 島原半島は雲仙岳をいただく大きな島だった。






    • 2016_10_29

      縄文時代に有明海が最も陸地を被ったころの図


      前日の記事で誤解を招いたかもしれません。最も内陸部まで有明海が入りこんでいた頃の海域は次のとおり。博多湾と有明海はつながっていなかったというのが、現在の通説のようです。

      出典:『有明粘土層の堆積環境とその鋭敏性につい て 』三浦哲彦・赤峰剛徳・下山正一から作成

      以下、下山正一の説を転記します。氏は現地調査の結果としてこう記します。

      「図は海成層の分布限界線と縄文海進最盛期の有明海の海域図です(理解を即するようにサイト管理者が通常地図と合体)。海成層の有無にこだわって佐賀平野の大量のボーリング資料を点検しました。海成層のある地点を黒丸で、ない地点を白丸で印してゆくと縄文海進最盛期に最大に広がった有明海の海域が浮かび出てきます。さらに海成層下限の等深度線を描くと谷状地形が現れ同時に海成層の分布限界線が引けます。(略)海成層の分布限界線は縄文海進の最盛期である約6000年前の海岸線と言うことになります。」(出典:『有明海と佐賀低平地の成り立ち』下山正一

      「北部九州のうち, 玄界灘 ・響灘沿岸地域の海成層上限高度は一様ではなく, +0.4から+4.5mまでの値が見積られる. 有明海沿岸の佐賀平野と筑後平野の縄文海進ピーク時期の海成層の上限高度差は-1.9mと+4.8mで, 隣接地域としては最も大きい. これらの上限高度の差は過去5~6,000年間に生じた垂直変動量とみなせる.」(出典:『北部九州における縄文海進以降の海岸線と地盤変動傾向』下山正一

      つまり真鍋大覚の「博多湾と有明海はつながっていた」という説は誤りとなります。




     

 

Plofile まつを


デザイナー。長崎市・島原市との多拠点生活化。人生を楽しむ。仕事を楽しむ。人に役立つことを楽しむ。座右の銘は荘子の「逍遙遊」。↓これは私の作品たち。

「よくこんな事をする時間がありますね」とおたずねになる方がいらっしゃいます。こう考えていただければ幸いです。パチンコ好きは「今日は疲れたから、パチンコはやめ」とは思わないもの。寸暇を惜しんでパチンコ玉を回します。テレビ好きも、疲れているときこそテレビをつけるもの。ここにアップしたものは、私が疲れたときテレビのスイッチを押すように作っていったコンテンツです。