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江戸庶民文化とポップ


トイレ床を市松模様に張り替えました。素材はクッションフロア。施工法はサイト上にたくさん載っています。最近は動画での解説が多くなってきましたので助かります。
市松模様。世界的には紀元前から存在し、日本でも古墳時代から認められている柄です。市松模様と呼ばれるようになったのは、18世紀中頃、歌舞伎役者の初代佐野川市松がこの柄の袴を用い人気を博してから。
これ以後のチェック柄と、それ以前あるいは他地域のチェック柄はテイストが異なります。市松模様はポップ。まるでウォホールの作品のようにポップです。
日本の江戸庶民文化が近現代美術史に与えたインパクトは広く認知されています。それは庶民文化の大輪が開いた江戸の持つポップさの賜。誤解を恐れずにいうなら、江戸庶民文化はポップという意味合いで浅いのだと思います。歌舞伎のメイクは、人間の本質が善悪混濁することを前提に書かれる純文学等と異なり、悪役が青、正義役が赤と最初からまるで戦隊物TV番組のようにパターン化され美しいほどに浅い。そんな浅さは江戸庶民文化に遍く浸透していまして、なおかつその基盤の上に日本人特有の類まれな技が注ぎ込まれていきました。ですからこそポップさが正面に出て世界のアートシーンに強烈なインパクトを与えることができたのだと思います。
とまあ、そんなポップなテイストのトイレに変身。なお写真のブラックの部分が赤いならキュブリック・テイストになります。

  • 散人さんのコメント
    ポップアートを浅薄な大衆芸術だとすると、それ以前は欧州は王侯貴族が、日本では戦国以来武士が芸術をリードしてきた。利休の唱える芸術論の「侘び寂び(わびさび)」などは表現より精神論すぎて大衆より程遠い世界。江戸の「華」は元禄で咲き誇った。当時江戸は人口100万人を誇り世界一。穀物農本主義が金銀胴の三貨の時代になり、北前船弁才船が縦横に走り、大型輸送が可能になり、士農工商の最下層の「けしからん階層」の商人の時代到来だ。それまで底辺の置かされていた商人はその実、巨大な資金と情報量を獲得し実質武士に肩を並べるに至った。渡辺京二氏らは「日本の近代化が明治維新から始まったというのは西洋かぶれした日本人の見解であって、これが生活まで浸み込んで自らを卑下する心情となった。日本の近代化は多くの点で元禄に始まった」と云う。商人文化が「まつを」の云うエドポップアートを造った。ある種の浅薄さがあるのは頷けるのである。


  • 捨老さんのコメント
    「芸術はアメリカで壁紙となった」と言わしめた。70年代に躍り出た所謂新語「ポップ」の定義については、個々の思い入れも多々おありかと思うが、一応、量産大衆文化の意としておいて。
    この「量産」と言う点に着目するならば 江戸時代は少し意味が違っていたと言わざるを得ない。何故なら、江戸には画一製品量産のマシーンは無かったからだ。量産と言えども「手製」であり、個々唯一の個性と価値を有していたことになる。
    そこで見逃せないのが「江戸の看板」である。かのモース先生は大量に古看板を蒐集し、美術品として大儲けしたようだ。「この地球上の表面で生息している文明人で日本人ほど自然のあらゆるものを愛する国民はない」 「人々が正直である国にいることは実に気持ちが良い」(日本その日その日―E.S.モース・石川欣一訳)。そりゃそうだろう(笑)。
    そもそも派手な看板が流行し始めたのは、越後屋の建看板に「げんきんかけねなし」とあるように、それまで盆暮の支払いが当たり前で、人によっては値を変えてさえいた商慣習を破棄して、現金販売の「正札制」が実行されはじめたことに始まる。正札販売の世界的嚆矢を誇っているのは1823年ニューヨークのA・T・スティワート商店となっている。しかし「三井家旧記」によると天和3年、実に1683年に正札販売がはじめられており、これは米国より140年前である。もちろん明治37年に「三越呉服店」になった創業延宝元年(1673)の越後屋三井呉服店のことである
    有名なものでは「団十郎艾(もぐさ)」の看板があった。「近代世事談」(享保一八年板)に「団十郎艾、元禄のはじめ、神田鍛冶町箱根屋庄兵衛といふ者、箱根の湯泉晒と称して切艾を製す、看板あるひは艾の印に三ッ角の紋を付る。これ市川団十郎といふ芝居役者の紋なり。此切艾の製よろしとて江戸中に流布す。是を倣ひ所々に切艾の製あり。庄兵衛が印を模して、おのおの三ッ角の紋を付て、三升屋兵庫、市川屋何某などゝ名を付てこれを売るなり、団十郎がはじめたるにあらず。」とある。
    商標借用も著作権も、良心任せの大量流布の時代となったが、同じものは一つとしてなかったのである(笑)。

  • 散人さんのコメント
    とは云いつつ、ポップになっていく江戸町民の文化にお上は「奢侈(しゃし)禁止令」を度々出した。そこで町民の知恵は本家帰りの色合いを編み出す。「四十八茶百鼠藍」である。地味な色合いの工夫を凝らした。茶は歌舞伎役者名を付けた。梅幸茶、団十郎茶など。ねずみ色は利休鼠も。白秋は「城ヶ島の雨」で「利休鼠の雨が降る」と歌ったが知らない人が多かった。それらの色合いの着物が「粋(いき)」ということになった。庶民のしたたかさがある。九鬼周造は粋とは「あかぬけていて、張りがあり、色っぽいもの」と定義した。流行歌「お富さん」に「粋な黒塀 見越しの松にぃ」とある。数々の弾圧にもめげず江戸町民はしたたかに独自の美学を追及した。

    色ものは芝居(歌舞伎)の世界。「江戸紫」はあの桃屋の佃煮「江戸むらさき」ではない。あの「ムラサキ」は醤油にかけたもの。染色の「江戸紫」はあの団十郎十八番(おはこ、ともいう)、「助六由縁江戸桜」での助六の鉢巻の色である。ではなぜ「紫」にわざわざ江戸という地名を冠したのかというと、「京鹿の子」に対抗してのである。東西の染色の技を競った。「京鹿の子」で直ぐ浮かぶのが「京鹿の子娘道成寺」である。紅花染の赤である。であるから正式には「江戸紫に京鹿の子」という。

    17Cから18Cにかけてのヨーロッパは植民地政策によってアジア諸国の文化を知ることになった。特に中国の陶磁器、工芸品、絹織物、家具、中国式庭園、などである。この流行を「シノワズリー(中国趣味)」という。それまでのバロック、ロココといった様式に対して新鮮さを求めていた人々を魅了した。日本の代表的な工芸品である漆器もシノワズリーの一部と捉えられオランダの東インド会社を介して輸出されていた。ジャポニスムよりシノワズリーが先行したのだ。

    しかし、中国はアヘン戦争で大変な状態になり欧州における中国のイメージが著しく低下したのであります。折しも1855年第1回パリ万国博において、交易のあったオランダ展示部門に日本の産物が紹介されたのです。これは今書籍を繰りながら書いてます。書棚からホコリをポンポンと叩きながら書いているのであります。「日蘭交易史書」という本であります。開国してのち1867年に第2回パリ万国博覧会に幕府は始めて正式に参加し、薩摩藩、佐賀藩、民間が出品した。ここで日本ブームに火がついたのであります。だが幕府転覆の1868年、所謂維新になった。さてどうした?

  • 捨老さんのコメント
    大向うの歴史観から、少し視点を引き寄せると。
    日本は飛鳥時代以前から、当然のようにシノワズリ「皮切り」の国を自認する歴史を有しますが、このステレオタイプとも言える歴史観が時として、自国史観の目隠しとなりその埋没に相乗した混迷を生じる点は悲しむべき現実かも知れません。
    ご存知のように徳川時代は(ある意味代治郎社長的と言える)内需の充実と安定を眼目とした時代で、いわゆる「鎖国」と呼ばれてきましたが、けっして閉ざされていたわけではなく、視線は世界に向けられていたことは多くの史料に見る通りです。
    秀吉の黄金の茶室から続く、徳川大奥の華美、御殿作りの豪奢、東照宮権現造り、琳派の興隆等々、この時代を「徳川バロック=江戸バロック」の開花と呼ぶ論者もいますが、このことが江戸の庶民文化を刺激し爆発させる大いなる動因となったことは間違いないのです。
    一方「量産」に眼を移せば、秀吉が陶磁器に価値を見出し半島から招来した陶工たちに望んだものは、けっしてその芸術性を第一義としたものではなく、まずは「登り窯」が生み出す大量生産による産業構造の変革にあったことは、茶の湯において陶磁器・磁器ではなく、陶器・陶土器が芸術的主流であり続け、後代までも和人好みで有り続けたことにも明らかです。
    こうして 弥生時代から存在した「鋳型・鋳金鍛冶」文化も、「木彫・印刷」文化とともに量産文化として再燃。産業構造は確実に変貌し、商人文化の開花へとつながるわけですが、寺院や歌舞伎の商業活動が重要な意味を持つのは言うまでもないことで、やがて散人さんご指摘の「パリ万博」へ漆器も「ハポン~ジャパン」と呼ばれ本領発揮、「タタミゼ(日本趣味)」が「シノワズリ」を凌駕して行きます(笑)。

  • 散人さんのコメント
    1868年政権樹立した明治新政府は、アジアの端に位置しながらもアジアを捨てる決意をした。グラバー画策の「長州ファイブ」が効を奏した。曰く「脱亜入欧」である。欧州を市場とする意識甚だしく、浮世絵などを中心に日本美術工芸品を政府主導で大量に輸出した。
    1873年ウイーン万国博を経て、1878年のパリ万国博でジャポニスムの熱狂は頂点に達した。この時期、浮世絵や北斎漫画に影響された画家たちは、マネ、モネ、ドガ、ゴッホ、セザンヌ、ロートレック。
    では「ジャポニスム」の何処に欧州の画家たちは目を見張ったのだろうか?

  • 捨老さんのコメント
    僭越ながら「脱亜入欧」には「アジアを捨てる」意はないと思われます(笑)

  • 散人さんのコメント
    「佳境」にって、散人一人よがりが生得の人間、過去離れていった女性の方々が同じように「貴方みたく身勝手な人なんて金輪際イヤ」と云っていた。まぁしばしお付き合いの程を。
    西洋で浮世絵を始めとする日本の美術工芸品のどこに驚き新しい発見をしたのか? 仏批評家エルネスト・シェノーは、日本の美術の特色は「シンメトリーの不在、様式、色彩」の三点であると云った。中でも非シンメトリー(非対称性)には少なからず驚いた。
    地球には(自然界)シンメトリーよりフラクタル構造のものが多い。日本美術はこの20世紀最大の発見である「フラクタル構図」を踏まえたものが多数存在する。
    自然と対立=西洋美術=左右対称、対称シンメトリー
    自然と対立せず=日本美術=非対称、アンシンメトリー
    中沢新一は日本人の「流動的知性」と云う





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Profile まつを

Webデザイナー。長崎市・島原市との多拠点生活化。人生を楽しむ。仕事を楽しむ。人に役立つことを楽しむ。座右の銘は荘子の「逍遙遊」

「よくこんな事をする時間がありますね」とおたずねになる方がいらっしゃいます。こう考えていただければ幸いです。パチンコ好きは「今日は疲れたから、パチンコはやめ」とは思わないもの。寸暇を惜しんでパチンコ玉を回します。テレビ好きも、疲れているときこそテレビをつけるもの。ここにアップしたものは、私が疲れたときテレビのスイッチを押すように作っていったコンテンツです。