明治維新は関ヶ原の戦いのリベンジマッチ
先進国は江戸幕府に、今でも見られる鉄板的手法を適応しただけです。例えば近年で言えばアフガニスタンなど、鎖国している国を自国の傘下に入れたやりかたです。
明治維新は関ヶ原の戦いのリベンジマッチ ~反政府的勢力を分析する
「この国を開かせるには、国内騒乱を起こし、傀儡政権を立てればいい」。欧米はそう思いました。そこで、日本の歴史を調べた。その結果分かったことは、関ヶ原の戦いが徳川幕府に反抗した最後の戦いであること。
じゃあ、反徳川勢力は残っているのか? 残っていたんですねぇ。西軍側。毛利であった長州藩。島津の薩摩藩。そして長宗我部氏旧臣(郷士)との二重構造が幕末まで続いた土佐藩。
よし、関が原の戦いの復讐戦をさせればいい。敗戦した西軍の生き残りをまとめ幕府にぶつける。明治維新は関ヶ原の戦いのリベンジマッチとして企画されました。
グラバーにやらせたこと1 ~大量の武器をまく
グラバーは坂本竜馬をパシリとして使い、長州藩と薩摩藩を結び付け、大量の武器を流しました。彼は南北戦争の中古品の武器を日本に注ぎ込み、内乱をあおったのです。
英国側は、ジャーディン・マセソン商会 → グラバー → 坂本龍馬他 で倒幕勢力に武器弾薬の販売を手がける。フランスは幕府に武器販売。という図式です。
グラバーは倒産後、死ななかった龍馬である岩崎弥太郎が作った三菱に重鎮として着任します。
グラバーにやらせたこと2 ~反幕府勢力の若き人材を育てる
1863年、グラバーは伊藤博文、井上馨ら5名の若者をイギリスに密航留学させています。彼らを長州ファイブといいます。伊藤23歳。
1865年、グラバーは薩摩の若者17名もイギリスに密留学させています。薩摩スチューデントといいます。
彼らの多くは明治維新後に国家の要職に就きます。
1902年1月30日、日英同盟を締結。
お雇い外国人(1868-1900年)の50.5%がイギリス人。イギリス人4,353人、フランス人1,578人、ドイツ人1,223人、アメリカ人1,213人。他がそれに続く。
なぜ日本は植民地にならなかったのか ~緩衝地帯として残す
植民地にならなかったのはアジアでは日本とタイの2国だけ。
タイはなぜ植民地にならなかったのか。第一の理由は、インドを中心とする英国植民地と、ベトナムを中心とする仏国植民地の緩衝地帯としてタイを残したため。
日本が植民地にならなかったのも同様の理由。つまり欧米列強の緩衝地帯として日本を残しました。
その証拠が、「下関事件に関する英仏米蘭四国代表者覚書」です。これは1864年、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国代表によって結ばれたもの。その中でこう決められています。
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「第四、我々は、如何なる領土の割譲も、如何なる独占的利益も、開港場かそうでないかを問わず、日本に要求せず、日本から受入れしないことに同意する。」
国家転覆の現地黒幕グラバー
・反幕府と、幕府の双方に商売していた節操の無い商人である。
・彼は明治維新の戦闘長期化を願っていた。
・彼はロスチャイルドのジャーディン・マセソン商会の傘下にあった。
・イギリス政府は当時、私的経済活動を黙認していた。
- 散人さんのコメント
歴史的建造物としての「グラバー邸」は評価できるが、グラバー自身はとんでもない「武器商人」だった。いいかげん長崎の人も気づいたら、と思う。
後年グラバーは「徳川幕府の謀反人のなかでも自分が最大の謀反人だ」と云った。
1865年、坂本龍馬の亀山社中の仲介で、長州藩が薩摩名義で武器を輸入することとなり、反目していた両藩が急速に近づくきっかけとなった。背後にはグラバーがいた。グラバーの真骨頂は、反幕府と取引する一方で、水面下では幕府とも取引をしていたことである。二重取引である。節操の無さを絵に描いたような商人であった。
1868年、グラバーの手元には、一日にして紙くず同然となった各藩の約束手形、山と積まれた無用の銃、弾薬、黒色火薬が残った。もっと長期戦を目論んでいた。
1870年、ジャーデン・マセソン商会へのグラバーの債務は膨れ上がり倒産した。グラバー商会は倒産するまでに、艦船輸入、薩摩6隻、熊本藩4隻、幕府・佐賀・長州4隻、宇和島その他5隻、計24隻を売った。他商社を圧倒する数。しかし新造船は僅か。殆どがアメリカ南北戦争終了(1865年)で使い道のなくなった艦船。マセソン商会のある上海に集まってきていた。それを日本に回した。
幕末のイギリスの外交政策は、植民地化ではなく、貿易の発展のみを求める小英国主義。英国公使パークスも、グラバーの商取引の大部分が禁止された密貿易であることを知り、嫌いながらも事実上黙認してきた(鳴門教育大学紀要参考)。
- まつをのコメント
ジャーディン・マセソン商会……英国ロスチャイルド傘下の英国商社。1832年設立。金儲けのために中国人をヤク中にしていた会社。アヘン戦争は、この会社が政府をけしかけ起こした。なお香港上海銀行は、こうして稼いだ金を本国に送るために設立した銀行。
グラバー……ジャーディン・マセソン商会の長崎代理人。武器弾薬の販売を手がける。
坂本龍馬……グラバーに接触していたブローカー。武器弾薬の販売を手がける。
幕末、長崎こそが日本へのキリ穴だったわけです。
坂本龍馬の虚像
・彼は無名であった。
・土佐新聞の小説『汗血千里の駒』で有名に。これは薩長に対抗する土佐の企画。
・これをさらに司馬遼太郎がパクった。
・船中八策はアーネスト・サトウの受け売り。
- まつをのコメント
武器ブローカー。これが龍馬。
武器商人グラバーから受ける、日本人ブローカー組織が龍馬の亀山社中。亀山社中の初仕事は、グラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺を薩摩藩名義で購入し、長州藩にまわしたこと。
しかしそれは帳簿上のことではないか。薩摩藩は海洋藩。グラバー商会と話がつけば、薩摩藩島嶼部で外国船と接触し密貿易した亀山社中が、武器を長州藩に運搬した可能性も拭えないでしょう。 - じだらくさんのコメント
坂本龍馬トリプルエージェント説というのがあります。
土佐脱藩浪士ということで、幕臣の勝海舟のもとで情報の収集にあたる。
幕府側もそれを承知で土佐藩及び諸藩の情報を得る。
そこにイギリスが加わるということで龍馬トリプルエージェントという具合です。
ですから龍馬は単にグラバーのパシリというわけでなく、土佐藩や幕府・薩長のパシリでもあったと私は思います。まあ、いいように利用されて多くを知りすぎたために、殺されたといったところではないでしょうか。
死んだ後、土佐藩の連中が坂本龍馬を持ち上げたというのには、日本海海戦の前、明治の皇后陛下の夢枕に坂本龍馬が現れたということを意図的に流したということなどもあるようです。
- 捨老さんのコメント
土佐に自由民権派の機関紙として「土陽新聞(後の土佐新聞)」があったが、明治16年に一般に購読させるための刷新をはかり増刷した。その時の一般読者向けの目玉掲載が、坂崎紫瀾の小説『汗血千里の駒』だった。
東西に走り回る竜馬伝の骨格は、このころすでに出来上がり、維新以降、影の薄かった土佐派を鼓舞する狙いがあったようだ。勿論、坂崎紫瀾も民権思想家であり運動家だったから、掲載の途中で不敬罪などで受牢しており、掲載も中断したこともある。
それまでは竜馬は、日本中の誰も、土佐人でさえも知らない人物だったと断言できる。
武器商人の手先として 半ばスパイ忍者もどきに行動していた人物を、人が記憶するはずがない。事実、志士たちの中でも知らない者がほとんどだった。したがって彼に関する書簡や文献も捏造が多い。以降、志士の誰よりも創作物語の多い人物となっていくが、これは子飼いの書生に自分の伝記を書かせて以降、清水の次郎長が有名になって行く時期に重なっている。
中岡慎太郎とも親交のあったと言う次郎長が、よくぞ竜馬伝に登場しないものだと、時には不思議にもなる。「皇后の夢枕」の話が事実かどうかは知らないが、宮内大臣だった田中光顕が喧伝に一役買ったことは疑えない。
このことは、司馬遼太郎も知っていたはずで、今頃、草葉の陰で冷汗でもかいているのではなかろうか(笑。
- 散人さんのコメント
龍馬の「船中八策」は英国のアーネスト・サトウの受け売りである。
「坂本龍馬にしがみつくのは成熟拒否の表れ」と、同じ土佐高知出身の精神科医野田正彰氏は云う。
龍馬は青春そのものです。同じ土佐でも岩崎弥太郎にはそんなイメージは抱かない。人は年齢を重ねるごとに成熟していかないといけないのに、青春像にしがみつくのは、申し訳ないが、人格的に未熟だからです。
江戸無血開城はパークスの演出
- 散人さんのコメント
江戸無血開城は、西郷と勝の話し合いで一気に決した美談となっている。しかし実は、時のイギリス公使パークスの強い働きかけで実現したことは『勝海舟の真実 剣、誠、書』草森紳一著に詳しい。裏の根回し役がいて、新興日本を蚕食しようと企む欧州列国が陰の主役だったとは。
パークスは幕府軍の後ろ楯であるフランスを嫌っていた。
と同時に武器商人のグラバーも嫌っていた。グラバーは江戸決戦を望んでいた。単に儲かるからだ。事実、無血開城三年後、グラバー商会は倒産。
パークスは、英国の公式外交機関の長であるから、真っ当な近代国に日本を仕立て上げようとしたのは事実であり、恭順の意を表している慶喜将軍を極刑にしてはいけない、と西郷を諭したようだ。
伊藤博文
・現代は、過去の病質で成り立っているのかもしれない。
・伊藤博文は知の政治家で偉大であった。
・明治の政治家には志がある。
- 散人さんのコメント
吉田松陰は単なるテロリストとかつて私は書いたが、やはり出版された。
第一に、松下村塾も玉木文之進なる人物が造ったのであって、松蔭は塾頭に過ぎない。松下村塾の塾生たちは今のイスラム国のようなテロリスト集団。当初は攘夷と云っているが、イギリスあたりに大砲を打ち込まれると一転して、イギリスを後ろ盾にして、近代という名の欧州隷属国家を造り上げた。西郷のテロ集団について。薩長の幕府打倒計画は、将軍慶喜の大政奉還という策で頓挫するかに見えたが、西郷はあくまでも幕府打倒に固執し、赤報隊というテロ集団を江戸に送った。赤報隊は江戸において、旗本・御家人を中心する幕臣や佐幕派諸藩を挑発することが目的。挑発といえば聞こえがいいが、あからさまに云えば放火・略奪・強姦・強殺である。倫理観の強かった江戸社会において、最も罪の重かった蛮行を繰り返した(出典:『明治維新という過ち』P.56~57)。
明治維新の英雄というのは相当人を殺しているわけで、伊藤博文なども何人かは殺している。が、高杉や木戸(桂小五郎)や西郷、大久保も。みな死んで幸いというか、浮かび上がった人物たち。出自は分からない人間だ。ボナパルトもよく分からない。秀吉も。淀んだ社会というのは、世襲で継ぐ世の中。
やはり何処の馬の骨か分からない伊藤博文が日本の近代をリードしたということは、凄いことだと私は思っている。彼が初代総理になった要因には、英語が話せたということもあるそうで、凄いではないか。勝、西郷よりも伊藤が凄いと思っている。
『政治的リーダーと文化』の中で瀧井一博は、伊藤博文を「知」の政治家だったという。当時の伊藤に近い人の証言などを集め「洋書や英字新聞を読んでいた」等、伊藤の「知」の部分を実証していく。
伊藤博文は、欧州遊学でかの国が民衆統治に「キリスト教」を利用していることに注目した。そこで帰国後、天皇を現人神に祭り、日本独自の「天皇制」を制定した。
民主主義は政治体制とは異なる思想である。であるから民衆を抑止する「精神」が必要。欧州は「キリスト教」を前提に民主主義を定めた。日本は「天皇」を前提に定めた。伊藤博文は其の事に気づいていた。 - 捨老さんのコメント
現代は、過去の病質で成り立っているのかもしれない。明治のテロリズムを正当化する類の歴史解釈が進行したように、その種属の文化記憶がクライマックスを記憶した時点で、進化意識は硬直し、生活様式も化石化する習性を持つのかも知れない。
例えば、日本人の冬のコタツのように。例えば、イギリスがパックス・ブリタニカに拘泥するように。例えば、ペルーのインディオが山高帽を付け加えた奇妙な習性で停止したように。例えば、蜂や蟻が高度な社会性や巣作りの方式を保ち続けるように。その同属の異端は変革の夢を抱かせはしても、同属としては、絶滅種の類であり病種なのかも知れない。
見た目には特異な点のないオスミア・アボセッタと言う種の蜂がいて、この蜂は集団性がなく、一匹の幼虫のために、美しい花びらの巣を作ることで知られているが、絶滅寸前種でもある。
むしろ病を定義づけることよりも、例えば、生命は健康病としてしか、健康のカタチを知らないでいるのかも知れない。
伊藤博文の暗殺によって軍制を敷かざるを得なくなった日本政府であったが、それまでの伊藤博文による韓国近代化政策は、腐敗しきっていた李氏朝鮮からウリナラ(自分の國)を取り戻す政策として、日本人によりも、むしろ韓国人自身に評価され着々と成果をあげていたことを歴史が示していることを、知る韓国の知識人や一般人は今も多いのである。
- まつをのコメント
資料に当たるにつれ、伊藤博文にしろ維新期に活躍した人々は、志というか、心までは飲まれまいぞという姿勢があることを感じます。若き日、伊藤はグラバーの手引きで密留学をしていたのだから、英国のエージェントではないかという私の予想は見事に外れでした。日英同盟に反対しています。当時の世界情勢を考えるとロシアと一戦を交えるなど国際感覚としては危険極まりない。そう伊藤は我が国を憂い行動したのでしょう。
列強のプランに乗りつつ猪突するも、日本を売らないといいますか。どうもそんな手ごたえを感じる事例が多々あります。
司馬遼太郎に曲げられた歴史観
・司馬は天才主義である。歴史は天才によって動くとする。
・彼は明治をよしとし、昭和を悪とした。
・これが日本戦後の屈辱史観を広げた。
- 散人さんのコメント
司馬遼太郎は小説家である。殆どの胡乱な国民は、司馬史観に決定的に影響を受けた。高度成長期に司馬の天才主義的で、主体主義的な歴史観が中間管理職に拍手を持って受け入れられた。
司馬は、英雄は描くが民衆は描かない。全ての決断は英雄たちに帰結されるという天才主義。歴史は一人の天才で動くという司馬の歴史観は、一人では絶対に動かない文化や経済が軽視される。高度経済成長期が終わった今、歴史小説は徹底して下級武士や庶民を描く藤沢周平や池波正太郎に移った。ヒットラーや日本陸軍だけを悪者にする考えはもう止めにすべきだと思う。大戦は、一個人や一組織の責めにするような単純な事柄ではない。それは多分に司馬遼太郎のような作家の言説に影響されたと云える。
今日殆どのマスコミが伝えないことがある。それはマッカーサー証言である。
「日本の戦争は自衛戦争である」
彼は、昭和26年5月、米上院議会 軍事会合委員会にて、そう云い切った。
今日なぜ、広くこの証言を知らしめようとしないのかが戦後日本の病巣である。今日の「全て日本が悪るうございました」という屈辱史観を広く宣伝したのが、司馬遼太郎である。- 日本人の歴史観は司馬遼太郎によって形作られた。司馬本を読むと分ったような気になる。これがいけない。
- 司馬作品の勘違い、作為、を明確に指摘する評論家がいなかった。
- 「明るい明治」と「暗い昭和」という単純な二項対立史観。
で当時は大出版社全盛時代で司馬批判はタブーであった。現在は書店に頼らずネット販売の時代、版元も群雄割拠の時代になり司馬批判書も出てくるようになった。