お盆の意味
まつをのコメント
お盆のルーツはゾロアスター教の祖先霊を迎えるウルヴァン?
次のようなコメントに出会いました。本当?大閑道人さんのコメント
お盆のルーツはゾロスター教とは言い難い
現生人類が、この地球上に同時多発的に発生したのではなくて、一人の母親・ルーシーから生まれ各地に分散して行ったのであれば、我々は、皆、同じような死生観を共有していよう。現世のこの世以外に、死者の国、つまり、あの世の存在、また、肉体のほかに「たましい」がある、と考えることなどなど。漢人は「魂魄」と二種類の「たましい」を考えており、この二つの「たましい」が合体していればこそ、我々は生きている、と考えている。
だから、「お盆」の行事、すなわち、風習そのものについて、
> 「お盆」のルーツはゾロアスター教
とは言いがたい。
しかし、「お盆」というコトバ(=ターム)の原語がゾロアスター教という指摘は、日本ではじめて「アヴェスタ」を翻訳した”上田・某(名前を忘れました)”が最初である。お盆が、いかにも仏教行事のように見えるので、「お盆=盂蘭盆」の原語を梵語に求めてはみたものの、ピッタリくるものがないのは事実。
ゾロアスター教の影響は、東大寺二月堂の「お水取り」にも見られる
ところで、話を最初に戻して、先祖や死者が、現世を訪ねてくるという「お盆」のような行事や風習は、人類に普遍的なもので、だから、その普遍性をとっかかりにして、宗教が移入されるわけであるが、
> 送り火を焚くのはゾロアスター教の流儀
以外にも、ゾロアスター教の影響は、東大寺二月堂の「お水取り」にも見られる。
日本のいわゆる「死者儀礼」は、中国の影響も色濃くあり、どの部分が日本古来なのか、ということは明確にはできないのだが、いわゆる「精霊送り」で爆竹を鳴らすのは、日本古来の風習ではない。あれは、完全に中国式。日本古来の習俗に従えば、ひっそりと静かにしめやかに人目をはばかって送るものだ。
さて、お盆の飾り物として、一番重要な呪具は、実は、「キュウリの馬・ナスの牛」だ。これは、右左をわきまえて、それぞれ分けて安置しなければならない。大事なのは、キュウリやナスでなかくて、馬・牛だ。このこと、今は、秘めておきます。
まつをのコメント
盆の語源はゾロアスター教かもしれない。けれど夏の日に、魂を送るのは古今東西にある行事であるので、ただちにゾロアスター教からとは言えない
大閑道人さん、ありがとうございます。ということは、「お盆の語源はゾロアスター教かもしれない。けれど夏の日に、魂を送るのは古今東西にある行事であるので、ただちにゾロアスター教からとは言えない」でよかったでしょうか? 馬・牛の意味もぜひ教えを請いたいところです。
捨老さんのコメント
「我々は、皆、同じような死生観を共有していよう」 けだし名言ですね 道人さん(^_^)v<「盂蘭盆」となって渡来したのは早くとも五世紀以降。しかしそれ以前から
盂蘭盆の語原がサンスクリット語(Ullambana)であろうと、アヴェスタ語(urvan)であろうと、漢訳の「盂蘭盆」となって渡来したのは早くとも五世紀以降のことであったでしょうし、明確に「盂蘭盆会」として日本書紀に初出するのは斎明天皇3年つまり七世紀後半のことで、それ以前に日本に「ボン(盆)」はなかったかというとそんなこともないようです。いわゆる盆(平たい器=トレイ)が、「お盆」の語原ではないか
「源順(みなもとのしたごう)集」にも「ぼに持たせて」とあり、神への供物を入れる器(瓮)を「ボニ、ボーニ、ボン」と言う方言は古くからあったようで、現在も一般名詞として残っている、いわゆるお盆(平たい器=トレイ))のことですが、柳田国男は これが語原ではないかと言っております。寛永四年(1751)の『神国うすひき歌』などには、「盆の踊りは門火を焼いて 黄泉門に塞がる神まつり」と言う一節があり、他にも探せばあるようですが、古くは「ボニ~ボーニ~ボン」など日本の神祭りに関する言葉が、渡来の「盂蘭盆」と習合した と考える方が順当なようです。
胡瓜や茄子の牛や馬も同じく渡来の食物や動物であってみれば、当然渡来の仏教的意味が加味されるところとなるのでしょう(笑)。さらに説得力を持つ点は、このボーニ(瓮)が「ホトキ」と訓まれ「ホトケ→仏」と言う倭語をなす事実です。いろいろありますが 日本人は習合の天才なのです(笑)。
大閑道人さんのコメント
これらは中国的他界観
捨老さん> 胡瓜や茄子の牛や馬も同じく渡来の食物や動物であってみれば
> 当然渡来の仏教的意味が加味されるところとなるのでしょう(笑)
いや、残念ながら、これらの「仏教的意味」はありません。
むしろ、中国的他界観です。
捨老さんのコメント
道人さん、いさみ足でしたm(_ _)m。よかったら教えてください(^_^)v
田屋敷酒散人さんのコメント
御先祖様が来るときは馬(キュウリ)に乗って早く来てほしい。帰りはゆっくりと牛(茄子)で行ってほしい
死んだばあさまが云ったこと。「御先祖様が来るときは馬(キュウリ)に乗って早く来てほしい。帰りはゆっくりと牛(茄子)で行ってほしい」と云ってたけど、どうも俗説臭いです。捨老さんのコメント
俗説俗伝はあなどれません
散人さん、俗説俗伝は あなどれません。深い意味を秘めてることが多いようです。俗人としては 近頃はまっています(笑)田屋敷酒散人さんのコメント
仏教伝来以前に神道にも「お盆」らしきものはあった
仏教伝来以前に神道にも「お盆」らしきものはあったようですね。日本は「神仏習合」で、ない交ぜにする。その最たるものが「神宮寺」。全国に多く存在する。どうもご都合主義的な感じがしないでもない。物語は似てくるのか。しきたりは「為来り」。文化は「異文化」と「自文化」との混合の歴史
しきたり。書き方は「仕来り」が普通だろうが、まぁ土地々の風習や慣例という意味合いだろう。このしきたりは「為来り」と表記する場合もある。この表記が意味に添う感じもする。
文化は「異文化」と「自文化」との混合の歴史であるのかも知れない。特に我らが「日本」はほんの最近の明治維新を観てもそうだ。「お盆」行事の本家は実はないのだろう。全て「為来り」なのかも知れない。
大閑道人さんのコメント
牛・馬の正体は地獄の門番。キュウリとナス本来の目的は、この世とあの世の混沌を避ける門番を置くこと
> 「御先祖様が来るときは馬(キュウリ)に乗って早く来てほしい、> 帰りはゆっくりと牛(茄子)で行ってほしい」
誰が考えて流布させたのか、実に上手な表現です。
そもそも、牛と馬は、くっつけて置くのではなくて、右左に分けておかねばなりません。盆棚に向かって、左側が馬、右側が牛。
その理由。我々は、本尊様に相対するとき、必ず、左側から進み、右側から戻ります。右回り。これは、インドにおいて、敬意を表する作法だそうです。往路は、左側。復路は、右側。この「右・左」は、そのまま、武官・文官の「両班」をも示し、向かって右側が、左側よりも、位が上。
そして、牛・馬の正体は、地獄の門番である「牛頭・馬頭」なのです(※ 馬頭。バトウではありません。メズと読みます。「ゴズ・メズ」)。お盆で先祖があの世から帰ってくるので、この世とあの世が曖昧・混沌とならないように、この世とあの世の境界線を守っている「門番」、それが「牛と馬」なのです。
「この世に戻るときは馬で。あの世に再び向かうときは牛で」という「教え」は、牛馬を盆棚に置かねばならない「理由」になっている。しかし、その本来の目的は、この世とあの世の混沌を避ける門番を置かせること。だから、「実に上手な表現」と感嘆するわけです。中国的他界観、とは、このことです。
捨老さんのコメント
いわば中国的習合仏教
道人さん ご教授ありがとうございます(^_^)v。いわば 中国的習合仏教と解釈して良いわけですね。日本では スサノヲが牛頭天王とされたのは、聖徳太子~蘇我馬子のころからだとも言われていますね。