茶はなぜ文化性を伴うのか
寂しさの美学
先日、山本正興さんの愛車に同乗させていただき、3時間ほどお話しする機会を得ました。その中で、氏は西行の次の句を諳んじながら、寂しさの美学を口にされました。
とふ人もおもひたえたる山郷のさひしさなくはすみうからまし
寂しさが表現の根源となっている作品は多く散見されますが、その中でも史上最高峰の書の一つと称される蘇軾の『黄州寒食詩巻』を思い出します。科挙に合格した俊才の蘇軾が、新法党の改革に異を唱えたことにより辺境に流罪となって書いた寂しさの美学と言えます。
私が黄州に来てから、すでに三度の寒食節を過ごした。毎年春をいとおしむ気持ちはあっても、春は容赦なく過ぎ去っていく。今年はその上、長雨にも苦しめられ、この二か月は秋のようにわびしかった。横になって海棠の花の香りをかいでいても、臙脂や雪のように白い花びらはむなしく泥にまみれている。夜半の暗闇にまぎれて大力の男が春をこっそり運んで逃げてしまったようだ。これでは、病気で長らく寝ていた若者が、病が癒えて床から起きたときにはすっかり白髪頭になっていたのと変わらないではないか。
故宮博物院 南宋芸術興文化特展
『「日本的」美的概念の成立(二) : 茶道はいつから「わび」「さび」になったのか?』岩井,茂樹」
もう少し、詳しく見ましょう。
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1185年、鎌倉幕府の成立。
1191年、栄西が宋から帰国し臨済宗を伝える。
1274年、元寇(文永の役)。
1279年、元による宋の滅亡。
1281年、元寇(弘安の役)。
1299年、五山制度を導入開始。五山制度とは南宋に倣った主に臨済宗の寺格の一つ。
1336年、室町幕府の成立。
- 捨老さんのコメント
寂び の 錆。
文化の成熟は、いつの時も 多元的な文化の混流と生育によって、もたらされるものであることに異論はありません。仮に「室町に求めるならば」と言う、まつをさんの提示だと思いますので、安心して些少の愚見を述べますと、もし、室町以前に「侘び寂び」のルーツが存在しなかったと考えるならば、それはあまりにも図式的な結論となりましょう。突然変異的な登場であったはずはなく、万葉にはすでに、多くの種子が着床している事実を認めざるを得ないからです。解りやすい例を言えば、田辺福麻呂や山上憶良などの 「行路死人歌」というものがあります。しかしこれもまた、田辺福麻呂や山上憶良らが、渡来系の血を引く人物であることを思えば、南宋以前にも、渡来文化の混流による 「先・わびさび」とでも言うべき表現文化の「生育期」があったことを否定出来ません。初期の表現文化の飛躍は、おそらく宗教の覚醒に重なる飛翔の時であったと思われますが、勿論の事、ここで述べるほどの用意があるわけではありません。
- 散人さんのコメント
「詫び茶」はルサンチマン(下流が上流を妬むこと)から始まった。喫茶は栄西などが宋より持ち込んだと云われているが、鎌倉時代に主に当時の公家武士たちが派手に客人を呼び、唐物(からもの)の高価な器を使い行っていたが、村田珠光などが閑居を基本になんの変哲もない朝鮮雑器を使用して茶を喫したのが「詫び茶」の始まりと云われる。下流が上流を批判し取って変わるのがルサンチマンというが、「詫び茶」はその好例であろう。
- 捨老さんのコメント
時の移ろいが目に見えるようです。古代の崩壊と解体に拍車をかける大陸文化の流入。復古主義・原理主義が渦巻く習合主義の渾沌に芽生えるルサンチマン。撹拌される人心に、懐深くわだかまる「侘び寂び」の胎動。日本のすべてが鎌倉~室町へ向けて轟音を響かせ 流動していた時代があったのですね。まさしく、仏教の着床と開花への時代だったのですね。
- まつをのコメント
若き利休が室町末期の武将で茶人でもあった三好実休に珠光青磁の茶碗を譲った代金は一千貫、現在の額で5千万円。わび茶かぁ。現代の高級ギャラリー経営者などとかわらない。それとも「泉」を出展したデュシャンかな。ストイックなモノトーンの服をまとい、既成概念をひっくり返し、結局、力と大枚を手にするわけで。
- 散人さんのコメント
詫び茶を確立したのは千利休であることは周知であろう。その利休を重用したのは織田信長である。信長の晩年10年は戦に継ぐ戦の日々だった。当時の慣行は領地の配分が「恩賞」であった。だがいくら信長が戦上手でも毎回領土を拡大できた訳ではない。恩賞としての土地に窮するときもあった。では黄金を遣ればいいではないか、という考えもあるが、黄金は戦費に必要だ。そこで編み出したのが「茶器」の下げ渡しである。今で云う「勲章」である。 利休を重用し「勲章製造装置」とした。利休が鑑定しお墨付きを出すと、茶器一つが「国一つの価値」になった。大名は「ははぁ」と有難く頂く。「共同幻想」であった。物質から精神性へ。それが「文化」というものであり、文化は多分に「共同幻想」である。
茶はなぜ文化性を伴うのか
一飲料に過ぎない茶がなぜこれほど文化性を伴うものになったのか。茶が薬効を超え、文化性を伴うようになったのはなぜか。そんな疑問から調べてみました。闊達にご批評ください。茶樹の原産地は中国の雲南。雲南省の鎮玩県九甲郷千家案で広大な古茶林が発見され、そのうちの二本の茶樹の樹齢はそれぞれ2700年と2750年に認定。ギネス登録とのこと。
「中国まるごと百科事典」地図を加工
お茶が文化性を持つようになった一因として挙げられているのは、中国茶と陰陽五行が結びついたこと。陰陽五行思想は、全ての事象は陰と陽の相反するかたちで存在し移ろい、人間も政治もこの世界もこれによって動くとする。茶は陰陽を調和させる仙薬とされた。
日本にお茶が渡来したのは、二波に分かれる。一波は平安時代前(9世紀前後)であったが滅び、二波が鎌倉時代中期(13席初頭前後)。双方とも僧侶の果たした役割が大きい。
2波目の際に禅の導入と同時に、宋の茶の儀式と理念が受け入れられた。つまり抹茶が流行し、陰陽五行が混ざった道教が入り込んできた。「従来では、「禅茶一体」という言葉が示している様に、日本茶道が禅と関係していることはよく論じられている。しかし天心は禅の役割を肯定する一方、道教は禅と異なり、自然と共生することによって、現世をありのままを受け入れ、わずらわしい毎日の中に美を見出そうとする点に注目し、道教の教えが日本茶道の審美的な理想の基盤となったことを立証した。」
昨日、ある茶道指導者にお聴きしましたところ、茶道に陰陽五行が入り込んでいることは常識的なこととの認識でした。
例えば五行棚。風炉から炉に移行する少し前の10月に用いるもので、木=棚・炭、火=炭、土=土風炉、金=釜、水=釜の水とされ、木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、やがて水が木を生じるというルーチーンを表すとのこと。
そこで「陰陽五行と禅宗ではどちらが茶道に強い影響を与えていますか?」とお伺いしますと、怪訝な顔をされました。禅宗の一部として陰陽五行思想はあるという捉え方のようです。
このような混濁はどうして起こったのでしょう。実はそもそもの混濁は栄西の『喫茶養生記』の中にもみられます。その原因は次の三つが考えられるといいます。
1.仏教と道教の密接な関係……仏教はインドから伝わる際に、当時の仏典翻訳者たちは、中国固有の儒教や道教の思想や概念を取り入れて説明し布教した。
2.中国伝統医術と道教医術の関係……人を救うことは仏教思想として、医術に精通した僧が多く現れた。『喫茶養生記』を書いた栄西もそのような僧の一人であった。
3.茶に付加された仙薬としての性格……良い茶は高山に育ち、さまざまな病に効能があった。さらに陸羽の『茶経』によって茶はより仙薬化された。
なお、道教は生きることこそが人の幸せであるとし、現世こそが楽土であると考える現世肯定の宗教。その理想は「羽化登仙」と表現され、可能な限り生命を維持して延年益寿を実現し、その後は仙人となって天に上ることにあるとしています。
浙江工商大学 江静呉玲「『喫茶養生記』に見られる道教養生文化の影響」
茶に関して言えば、その普及や栽培の端緒に仏教者が果たした役割は否めないとしても、それ以上に、茶の普及と茶業の繁栄を仏教のプロパガンダに利用した、後付の伝説が圧倒的に多く、寺領の茶園が発達した歴史も記録も伝承さえもないのが事実です。
もとは薬。 「では一服所望」というように「緑茶」は薬として存在した。栄西が趣向品としてのお茶を日本に持ち帰る筈もなく、やはり「薬」としての効用を広めようとしたのだろう。南米あたりの「コカ茶」は日本においては麻薬指定である。
むしろ茶の普及は、仏教以前に、日本原産の茶を含め、茶を仙薬とした陰陽道や神仙学の俗信によること大であったと思われます。
茶は、なぜ文化性を伴うのか。易を極みとする陰陽五行による世界観で、一箇の宇宙の発生と消滅を、わずかな空間の中で演出するからでしょう。
『“お茶”はなぜ女のものになったか―茶道から見る戦後の家族』加藤恵津子 という本があります。その著者の加藤恵津子氏はここで著書の内容を分かりやすく語っています。確かに面白い。少しだけ抜粋要約。
“お茶”はなぜ女のものになったか―茶道から見る戦後の家族
お茶の「嫁入り修業仮説」の現実とのギャップに気づく 筆者は「お茶は若い女性の嫁入り修行」と思っていた。お茶の先生にそのことを話すと「若い人のクラスねえ……」、「みんな中高年の方よ」と。「嫁 入り修業仮説」がそこで崩れた。
茶事のもつ現実とのギャップ お茶の世界は、建前と現実のギャップが結構ある。留学している時に日本人 が茶会をした。亭主が主客に立てた後、「では、客席のお客様にもお茶をお 配りします」と言った時、半分以上の人は帰った。楽しくなかったのだ。 「もてなし」と言っても究極的には「点てる人のため」にあるのではないか。
女性が茶道を学ぶ歴史 女性が「作法」を学ぶ手段・機会としてのお茶は明治時代に始まる。本当 に大衆、一般の女性にまで広まるには戦後を待たねばならなかった。
茶道のもつハイカルチャーの役割 茶道の原型は男性が始めた。利休や他の堺や奈良の富裕商人達だ。いわば、 「お金はあるけれども、トップになれない人達」が始めたものだ。お茶とい うのは、「トップから二番目の人が、トップのグループに対抗するために始 めたもの」。 「今さら歌、お作法や蹴鞠などの貴族の猿真似はできない」とコンプレック スを持っていた武士にすれば、商人が「擬似貴族文化」を作ってくれたので、 信長・秀吉をはじめ、みんな飛びついた。その後の歴史でも、身分制度に阻 まれて自己実現ができない人達が、このような動機でお茶に走る。 戦後の主婦は自己実現の機会がない。旦那さんも子供もみんな仕事を持って いるのに、「今までの私って何だったの」と人生の後半になって振り返る。 そういう女性がハイカルチャーのお茶に走る。
お茶を習うことで得られる文化資本 道具をめぐっての歴史的背景、道具・掛軸・花・建築の知識、家元制度の知
識などの学習を伴う。お茶を習うということは知識という資本を自分の中にためていることになる。
陰陽五行思想と禅
五行思想の極みは、易(易経)です。茶道には、八卦盆というのがあります。八角形のお盆に、易の八卦が刻してあります。易は、ヨーロッパのサイエンスに対応するものです。比喩的に言えば、サイエンスはすべてを水に溶かし込む、とすれば、易は、すべてを油に溶かし込もうというものです。サイエンスも易も、森羅万象を包み込む溶媒のようなものです。
(編者注:易という語はもともとは変化を意味する。陰陽の二元素により、世界は一瞬も留まることなく変化流動していると。易経は儒教の基本教典の一つ。太古よりの占いの知恵が体系・組織化され宇宙観にまで昇華されている。八卦盆は左上の写真。八卦は「はっけ、はっか」と読み、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という言葉や、相撲行司の「はっけよい」もここから来ているとも言われている。八卦は爻(こう)という記号を3段重ねして表される。下の記号から順に意味を読み取る。(参考:「知命立命 心地よい風景」))
- 代治朗さんのコメント
仏教、道教、儒教、これらが混濁し陰陽五行思想が生まれた。そこから派生したのが禅宗である。元々仙薬としての茶が、陰陽五行思想を具現する手段の一部として、室町期「茶道(茶の湯文化)」となり確立した。時の権力者がそれを利用するのは常であり、その頂点に利休がいた。と理解しました、誤解があればご指摘下さい。
- 捨老さんのコメント
>仏教、道教、儒教、これらが混濁し陰陽五行思想が生まれた。そこから派生したのが禅宗。
逆です。もともと陰陽宇宙の五大元素(水火木金空)的考えが世界の古代に存在したようで、これに四方天地の要素を加えて宇宙の成り立ちを考察し、更に十二支(十二獣)を加えて易となり、人倫の道を見極めようとした学問が儒学(儒教-孔子)とされ、その人倫の道の教祖を孟子~孔子とする教義体系が道教と呼ばれます。みな同じものです。とは言え、ほとんど漢以降の確立で、儒学に至っては南宋の朱熹による、いわゆる朱子学によって完成したと言われます。 つまり、すべてはシャマニズムに発しています。従って、日本でも最も早く大宝律令などに定着を見るのが陰陽五行となり、日本独自の朱子学が発達することになりますが、当の中国では儒学的思想によってシャマニズムは弾圧されます。
禅は、印度のヨーガに列する修行を本質として、覚醒(悟り)を先鋭化させようとする仏教体系ですが、これもまた日本独自の発展を遂げます。
- 代治朗さんのコメント
捨老さん、シャマニズムと言えば、直ぐ麻原彰晃を思い出します。空中浮揚などの超自然的現象を信じ込ませた、胡散臭い新興宗教。なるほど、古代社会のシャマニズムに端を発したのが陰陽五行思想なのですね。でもそれを取り入れた儒学的思想が、シャマニズムを弾圧したのはどんな理由からですか?
- 捨老さんのコメント
少し誤解があるようですね。この際、麻原彰晃は関係ありません。シャマニズムはシャマンの霊的能力に委ねる、いわば霊媒を主とした元始的宗教で、理論的教義を持ち得ないことに儒教との重大な相違があります。呪狂VS儒教ということになります(笑)。
- 大閑道人さんのコメント
捨老さん
> 禅は、印度のヨーガに列する修行を本質として、覚醒(悟り)を先鋭化させようとする仏教体系ですが、これもまた日本独自の発展を遂げます。
それは、そのとおりなんですが、「禅」そのものについては、中国発生と言うべきでしょう(念仏、称名念仏、もそうなんですが)。それを道元(と親鸞)が純化させた、という点では、「日本独自の発展」と言えます。
しかし、禅の教学を、易の陰陽の展開を使って解説しているものもありまして、これが一種、教科書的な語録なので、易に対して深く理解していない私には、まったくもって「なんのこっちゃ!?」なのであります。 「重離六爻 偏正回互 畳而成三 変尽為五」 重離 これは、「離」つまり「火」を表し、それが「重なって」いるので、「火」の卦を表し、……というわけなんですが、易のシステムが理解できないと、禅の教義が理解できない、というわけなんですね。逆に言えば、易の造詣は、知識人あるいは為政者には、常識だった、ということです。
- 捨老さんのコメント
大閑師にワカランと言われれば、到底ボク如きに解ろうはずもありませんが(笑)。「八百万の神の統合を果そうとした」 これこそ「和の国の神髄」なのでありましょう。まさに「混ずる時んば処を知る」であります。『無門関』に知られるように、発せられた大疑を、如何に解し、如何に説くかも、禅の重大な修行と言えるのならば、本来易を禅としたものではなく 易(易経)を如何に解き得るかが、禅の本意であったろうと思われます。
- 代治朗さんのコメント
捨老さん 、シャマニズム=オーム真理教と思ってはいません。でも呪教に近いのではないでしょうか?邪教=オーム真理教でしょうね。霊的で理論的教義を持たないから、弾圧されたと理解して宜しいですか?
- 捨老さんのコメント
代治朗さん、宗教における呪性の境界や限界を論ずるには、ここは不向きの場所と思いますので遠慮しますが、霊媒や神通の能力に頼る文化を渾沌と捉えるならば、理論的教義は秩序の秩序たる基盤となるもので、民を統治する為政者には、最大の武器ともなり得ます。
- 代治朗さんのコメント
為政者にとって「混沌は敵」ですね。よく理解できました。
- 大閑道人さんのコメント
捨老さん、 まさに仰るとおりでして、シャマニズムとは、いわば、アッチ側のことを、全身を耳にして、聞く。 聞こえてきた内容について、「なぜ、そうなのか」と問うてみても、無意味です。だって、アッチ側のことは、コッチ側とは関係がないからです。でも、コッチ側は、アッチ側の影響を、一方的に受ける。これは、創ったものと創られたものの関係だから、でしょうか。