日本語は「笑う」という語彙が乏しい
先日文章を作っていて痛感したことです。たとえばWeblio辞書で「笑う」をひくと次のようになります。〈声を出して〉 laugh、 〈微笑する〉 smile、 〈くすくす〉 chuckle; giggle、 〈歯を見せてにこっと〉 grin 、〈にやにや〉 simper、 〈げらげら〉 guffaw
笑うという表現にバリエーション豊かな言葉が育っていないということは、日本人は笑うということへの認識が細分化されていないということなのでしょう。
笑いは、人によってもたらされる。思い出し笑いだって、何を思い出しているのか、と自問すれば、他者とのかかわり。だから、笑うことは、失礼なことなのだ、……という、日本人的美学、ではないか、と推測。
〈声を出して〉 laugh、 〈微笑する〉 smile、 〈くすくす〉 chuckle; giggle、
〈歯を見せてにこっと〉 grin 、〈にやにや〉 simper、 〈げらげら〉 guffaw
挙げられた語は 実は付随語とでも言うべき いわば形容詞~副詞でありまして、〈○○+笑う〉となると 自在に展開できるのも日本語の特徴でもあり、漢字の「微笑」だけは 何となく名詞っぽく扱えそうですが これも同じく〈頬で+笑む=ほゝえむ〉という結合詞で 〈笑む〉で成り立つ語であります。したがって「なく」も表記だけは〈泣・啼・鳴・哭〉などとありますが、展開は同じようなことになるのではないでしょうか。
形容詞~副詞となると、逆に「笑う」という日本語に当てはまる英語が存在しないことになりそうです。日本語の《笑う》は古くは《咲う》と表現されており、大いなる観念を孕んだ語のようであり、大いに研究される余地がありそうです。
イヌイット語では 「今夜は二人で笑え~昨夜はあいつと笑った」など、《わらう》と言う語自体にSEXが含まれるといいます
薩摩武士には「三年片頬(さんねんかたふ)」という言葉がある。武士は三年に一度、それも片頬をすこし動かす程度しか笑わない、という意味。
> 薩摩武士には「三年片頬(さんねんかたふ)」という言葉がある。
懐かしい。中学3年のとき、夢中で読み嵌った本の著者が薩摩武士だった。その著者に影響されて、九州男児は歯を見せない、と信条とした。ご本山での修行では、もっと厳しく、歯を見せないを徹底された。それが身上となって、笑わない、がトレードマークだったが、それでは世間でのお付き合いが出来ないことを知って、笑顔を作るように訓練した。そして……今の大閑道人があるのであります。笑顔は、人を和ませます。
古代ギリシャ、アルカイク美術の彫像に見られる独特の表情を「アルカイック スマイル」という。ずっと下って 奈良時代の日本(7C)に広隆寺 弥勒菩薩半跏思惟像(はんかしいぞう)も「アルカイック スマイル」と云われている。口元のみわずかに両端を上げ、ほのかな微笑を浮かべている。
「アルカイク・スマイル」と言う語も 20世紀以降の言葉で、前6世紀のギリシャ彫像の、いわゆる「笑み」が当文化にとって、「何と呼ばれ 如何なる意味をもったか」は 未明のまゝです。彫像の表情を表す初期段階の技術と解釈するのが、いわゆる美術世界での解釈です。以後、立像のポーズに主題を置いた「コントラポスト」と呼ばれる彫像の流行へと移っていき、「アルカイク・スマイル」は消えていきます。勿論、日本の仏像の時代には、間をおかず仁王像や能面など、表情は多岐にわたっていきます。
赤ちゃんの微笑み。生後0ヶ月~2ヶ月は新生児微笑(エンジェル スマイル)という。2~3ヶ月になると社会的微笑、つまりコミュニケーションの為のものとなる。それ以降は社会的選択微笑、つまり世話をしてくれる人に対して、パパやママに向けられたものとなる。
人は泣いて生まれて来ます。
「社会的微笑」と言うように 笑いは習得本能に属するものなのでしょう。不孝にして「あやしてくれる」反応の相手を失った野生児に、「笑いを」覚えさせるのに長い時間を要した例はいくつもあります。笑いは母性に源泉を持つもののように思えますが、日本語の「咲う(笑う)」の《ワラ》もまた、古語では「藁(ワラ)→産褥(ワラ)→童(ワラ)」と明らかな母原語となりますが、かつて坂本屋さんが 白川辞典から紹介されたように、女神出現の巫女の踊りに「笑」字の原型を見出す説もあります。折よくこのことを執筆し終えたところでした(笑)。
表情に乏しい人を「能面みたい」というが、能面にも笑みを持った「笑尉(わらいじょう)」というのがある。
捨兄さん、「神々 笑いゑらぐ 招魂の巫女」ですね。この踊りはかなりエロティクです。その昔、日劇ミュージックホールで天岩戸前の巫女踊りを再現してまして、私は袖からみていて妙に興奮したのを憶えています。松永てるほさんが踊ったように記憶してます。
神話の天宇受賣(天鈿女=アメノウズメ)の段は、現代人にはどうしてもエロティックなシーンとして想像されやすい場面ですが、『水蛭子伝説』を引用してうまく説明しているサイトがあります。http://blog.zaq.ne.jp/soratobukujira/article/370/
捨兄、読みました。そこで思い出したのが「ディオニュソス」について。あの鈴木忠志演出、白石加代子主演「バッコスの信女」であります。調べてみると私が観たのは1974年岩波ホール演劇祭であります。テーバイの王ペンテウスは邪教ディオニュソス教団を弾圧迫害するが、逆にディオニュソスの凄惨な報復に遇う物語。最後の場面、我が子と知らずテンペウスを八つ裂きにした母(白石加代子)が舞台正面に血まみれで立ち尽くし、そこでなんと森進一の「襟裳岬」が流れてくる。音楽終わると白石があの独特の憑依声で、「ないにも ない 春 です」と云う。私は震えたのです。