祐徳稲荷神社の位置の不思議
どなたかご意見いただければ嬉しく思います。
鹿島の祐徳稲荷神社の位置を不思議に思っています。昔の都市は、東北方向に神社仏閣を建て鬼門を守るように都市設計をしていたものです。
ところが祐徳稲荷神社について
1 鹿島城からみて風水による位置とは思えない
2 神社のサイズが九州2位で、周辺都市の人口スペックをはるかに超えている
これは偏に霊験あらたかと申すべきことなのでしょうか?
今,佐賀の地図をざっと見てみましたが,佐賀城を中心とすれば祐徳稲荷は裏鬼門に位置するということになるのでしょうか? 祐徳稲荷の創建は1687年とありますのでそれ以前にその地に何らかの祭祀をする場所なり,遺跡的なものがあったのかどうか興味深いところです。
ちなみに鬼門の方向にはお寺としては東妙寺という古くからのお寺があるようです。
近くには吉野ヶ里遺跡があります。祐徳稲荷-佐賀城ー吉野ヶ里遺跡とほぼ直線上に並んでいるのはおもしろいですねぇ。
>昔の都市は、東北方向に神社仏閣を建て鬼門を守るように都市設計をしていたものです。
とのことですが
先ず誤解されてならないことは、全ての神社仏閣が都市設計の風水学に則って創建されたわけではなく、むしろそのような寺社は少数にすぎず、多くの寺社は じだらくさんが興味を示されたように より古い土着の祭祀観念や由来を重視した創建だったようです。
中でも『延喜式―神名帳』や『類聚国史』にみる伏見稲荷の創建は、社記によれば和銅四年(711)とも言われますが、勿論その時点で稲荷信仰が全国的に伝播していたわけではなく、流行の隆盛を見るのは江戸時代中期以降のことで、祐徳稲荷への勧請移斎と創建は、じだらくさん御教示の1687年鹿島三代藩主鍋島直朝のときとされており、おそらく素朴な古祭域の裔祀であったものと思われます。
いわば京―伏見での流行にあやかっての祭祀だったのでしょう
『アースダイバー』中沢新一著に次のようにありますね。以下要約。
いまの東京は縄文海進期でも、洪積層は陸地のままだった。水が浸入してきたところは沖積層という砂地の多い地層となった。神社や寺院の場所は、きまって縄文地図における、海に突き出た岬ないしは半島の突端部である。縄文時代の人たちは、岬のような地形に、強い霊性を感じていた。そのためにそこには墓地をつくったり、石棒などを立てて神様を祀る聖地を設けた。そういう記憶が失われた後の時代になっても、まったく同じ場所に神社や寺がつくられた。
中沢新一さんの本を例によって読んだことがありませんがm(_ _)m、想像力の訓練になりそうな本ですね。同書でなくとも地図店で地質学地図を手に入れて眺めているだけでも、大いに想像力を掻きたてられるものです。
不読の身が口を挟むのもおこがましいですが、一般的に16,000年にも及ぶと言われる縄文文化を安易に一括りで語るような、超古代史もどきの夢想論はなるべく避けるように心がけているところです(笑)。
そこで、まつをさんが要約して下さった文節に限って言わせて戴くならば、一般論とは言え大いに魅力的な説ではありますが、単純かつ初歩的な疑問も湧き上がって来ます(笑)。
それは一千年二千年と言わず、時間差をもって定住し始めた新居住者達も、同じように新しい岬を聖なる場所と感じ 墓や石を建てたのか。
そして、その霊性が亡失したと言うのであれば、同じ縄文文化の内で起ったことになるが、何故かその亡失文化が 突如弥生人に受け継がれたと言うのならば、弥生人は一体どのような祭祀文化として受け継いていたのか、と言うような単純な疑問です。
この極めて大いなる断裂の空白を、何事もないかのようにいとも平然と遥か後代の墓地や寺社文化に結びつける論述は、短い文節とは言え、やはり充分に気を付けざるを得ません。
中沢説の「強い霊性」とか「聖地」などという多少ともマジカルで恣意的な言葉の陰で、実は縄文文化の遺跡地のほとんどが誰の目にも明らかな「日常生活の場所」であったという重要な一語が抜け落ちていることは明らかで、岬が海洋民にとって 或は 内陸民と海洋民にとっての接合のシンボリックな場所であったと言う基本的考察が、省かれているように思いますが 如何でしょうか。
ご指摘鋭く、まったく同意です。
なお、今回の吉野ヶ里について言えば、最も内陸部まで有明海が入りこんでいた頃の海域は次のとおりです。吉野ヶ里は岬にあらず。
出典:『有明粘土層の堆積環境とその鋭敏性につい て 』三浦哲彦・赤峰剛徳・下山正一から作成
また祐徳稲荷神社は標高40m程ですので、岬にあらず。
ただし、周辺に遺跡が多いことは間違いありません↓。
祐徳稲荷神社 奥の院は、0157と記された縄文時代の散布地に位置します。実は、半島形山稜に散在する遺跡の多くは縄文時代の散布地(茶色着色)。黄色着色の弥生時代の散布地は河川近くの平地に位置し、稲作文化を色濃く表しています。
※ 散布地とは、地表面から遺物の散布がみられるものの、その性格が未だ明確でない遺跡のこと
乗りかかった船、もう少し進めてみます。
洪積層は更新世の始まりから更新世末期までの層、沖積層は更新世末期(約 18,000 年)から完新世(現在)までの層です。 詳細は下表。
つまり縄文時代を完新世(沖積層)以降と見做し得るとすれば、その放射状的な蛇行状況から察するに、仮に「むりやり岬(笑)」を想定するよりも、むしろこの地形は河川(河口を含む)流域~水域を想起させますが。
完新世以降の地形変貌の詳細に興味をそそられます 。
そうですね。扇状地ですね。河川があって、人々が昔から住みついてきた土地であったと。
更新世カラブリアン期の地層の突端、つまり流れてきた溶岩流跡の突端に、奥之院が建てられているって象徴的ですよね。
地図および写真上では 「更新世カラブリアン期の地層の突端」と連続して、ジェラシアン期層の半島形山稜が形成されているようですが、縄文文化は未だ影を見せない時代の事であれば、何故 後に登場した縄文人は岬らしい岬の突端ではなく、遥かに古いカラブリアン期の地層の突端を重視したのでしょうか。
縄文人は地層を分別したのでしょうか あり得ないこともありません(笑)。
ですが「溶岩流跡の突端」が明晰であったのなら、これは記憶にもない太古の岬が重視されたものではなく、巌崖(溶岩流特有の多孔石などの奇岩を含む)そのものが着目され これが重視され、加えて小さな水源の地であったとすれば、まさに弥生後期~末期の信仰形態に連続し得るものとなり、歴史にも連続し得た可能性も生まれますが、やはりこの地を岬と見做すには無理があるようです(如何でしょうか)。
ご指摘の巨岩信仰と、湧水がカギかも知れません。
ジェラシアン期層の半島形山稜があって、その後にカラブリアン期層をなす溶岩流が流れ被さった。確かにこの一連の半島形山稜の中では、奥之院のところが一番高い。奥の院は143m程。半島形山稜の他の部分よりも高いんですね。
巨岩信仰も、奥の院に続く坂に見られます。岩本社も切り立った高い崖の中腹に鎮座されています。
https://ameblo.jp/may-199704/entry-12277656554.html
溶岩流ですから、ご指摘のとおり湧水もあったことは考えられますね。調べてみると、湧水があるようです。今はわずかですが、かつてはいかほどだったでしょう。
例え祐徳稲荷神社 奥の院が位置する《0157》が縄文期の遺跡地であったとしても、それは完新世期半ば以降の物であったと見なければならず、カラブリアン~ジェラシアン期に形成された山稜が縄文人にとって、岬(水域―海に突き出た土地)と見做されたはずはないと言うことです。
勿論 縄文の遺跡を重視する古伝承は神話のみならず各地に残っており、それは当然弥生後期以降の記憶と言わなければなりません。
どうやら祐徳院の地は多くの民俗伝承や日本神話に語られる古斎地の特徴を示しており、稲荷神分霊の勧請以前から 麓の集落や川(錦波川)との関係によって、育まれ斎祀された古神裔祀の地であったものと思われます。
それを示す幾つかのポイントがありますが、長くなるといけませんので 老腦を整理してからということにします(笑)。