銅座界隈 暗渠
暗渠(あんきょ)。心魅かれる言葉だ。
創作活動に勤しんだことのある者は、混沌なくして作品は生まれ出ないことを知っている。創造は論理的帰結だけでもたらされるものではない。評論家の作品解説が往々にしてうすら寒さを感じさせるのは、こうした経緯をとりあえず脇に置いて論じなければならない性を背負っているからだ。それは酒席の享楽を冷めた目で見る無粋な行為に似ている。
人は心の暗渠を持つ。まともな大人ならそれが正常だ。生きていればうまくいかないことなど五万とある。関わり続けていれば先に進めないことなど両手から溢れるほどあるのだ。だから私たちは心に暗渠を張る。
その暗渠を流れる水域はやがて発酵し創造の芽吹きを与えてくれる。豊饒なる文化の底には、表社会のルールから隔絶したカオス的世界が流れている。
今回の彷徨は銅座橋に始点をとった。暗渠から流れくる川が望める。日暮れが刻々と近づいていた。
右岸に渡り、細い路地を籠町食堂に向かって進む。
食堂の脇から路地に入ると、唐突に銅座の世界が始まる。路地の上で競い顔を出し合うように設置された看板たち。
路地を抜け通りに出る。そこが銅座界隈と思案橋界隈を結ぶ道だ。褐色に塗装されているので見分けがつく。この道を右手に進めば思案橋界隈へと至る。
銅座と思案橋を結ぶ褐色の道。この通りへのバス通りからの入り口はここだ。
このように通りは褐色に塗られており、
ところどころ、実にアジア的に電線が宙で絡み合っている。
話を戻そう。
最初入ってきた路地を左折した大正橋の袂で、暗渠から銅座川が開放されている。
戦後混沌期の住人の思いを乗せるかのごとく川に張り出して建てられた建物群。それを支える俵積みの石垣は江戸期の古いもの。長崎の文化を象徴するかのような風景だ。
放置された家屋。この家は煉瓦の上に置かれるように建てられていたことが分かる。
暗渠はここから500メートル上流まで続いており、今でも満潮時は思案橋付近まで潮が上がる。設けられたのは1951年。近年の調査で、暗渠下には石畳の川底が200メートルに渡って続いていることも判明している。大正時代の敷設だ。
暗渠は移転先を得るために作られた。今日電車通りでは繁華街を眺めつつ路面電車が走る。しかし戦後の混乱期に路面電車の軌道上は、数百の露店等で埋め尽くされていた。これらの移転先として暗渠工事が始まり、その上に作られたのが銅座市場だ。
銅座市場。暗渠の上の築物だ。
市場はいい味を放ちながら歓楽街の中央に鎮座している。中には40店舗ほどの店が並ぶ。様々な業種の店舗があるため、営業時間は様々。華やかな店舗のバックヤードとしての機能を果たしているのだろう。
捨老氏 「銅座散策の手始めに銅座川を暗渠にして作られた銅座市場を通り抜けて見てはいかがでしょう。『アンパン』というアンパンそっくりのカンボコを売ってるおじさんがいます。いい土産になると思いますよ(笑)。 ただし午前中はやってません」
追記:2017年11月4日、銅座市場の床が下を流れる銅座川に崩落する事故発生。これにより市場は撤去されることとなった。下写真は解体中の銅座市場。