銅座界隈 銅座跡外周を歩く
路地は来る者を混沌に誘う。外界から閉ざされ、巨大な生き物の内臓に潜り込む感覚だ。どれ食われてみよう。銅座町通りのゲートを潜る。
ラリラリピノ氏 「三八ラーメンは昭和38年創業です。ウィスキーの角のボトルに入った謎のたれは子どもの目には神秘的に映り、今でも同じ思いで、中身の謎を知ろうとも思いません。年配の方のファンに支えられているお店でしょう」
代治朗氏 「毎夕小銭を渡され、酒を買いに走ったあびる酒店。酒を一合買っての帰り道、転んで酒をこぼし、叱られるのが怖くて酒店へ戻り、泣きべそかいていたら、『お母さんには、だまっとかんばよ』と、もう一合酒を注いでくれた前掛けのご主人を思い出す」
1725年、輸出用銅を鋳造する施設が設けられ、以後幾多の変遷を経つつも、この地は銅座跡と呼ばれる。銅座跡とは、このバス通りと銅座川に挟まれた広い区間全体を指す。 捨老氏 「私が幼いころの銅座通りは、電車通り側から入ると赤レンガの倉庫が並んで、商店が少々と民家の並ぶ道で、夕方になると煉瓦壁沿いに出店が並ぶようになっていましたが、70年代ころから変わり始めました。現在銅座側から思案橋方面へ抜ける小路(横丁)は、倉庫の間から入る路だったわけです」
代治朗氏 「54年前のこと。現在の諏訪小学校となっている磨屋小学校への通学路は、銅座の自宅を出て、現在の銀鍋がある大通りを右折し、巨大なアーチ入口の観光通りへ入る。電車通りからは傷痍軍人のアコーデオンの音が聞こえ、頭陀袋を下げたホームレスが歩いているが、一歩観光通りへ入ると別世界のようだった。綺麗な店舗が並び、裕福そうな人々が歩いていた。 さあ、そろそろ思案橋に足を踏み入れてみよう。
入ってすぐに三八ラーメン。昔ながらの長崎デフォルト・ラーメンだ。その隣があびる酒店跡。
十字路を横切って進むと、路地が徐々にカーブし始める。ここが江戸時代に熔鉄炉の釜が置かれていた銅座釜屋だ。
看板たちが「オレガ、オレガッ!」と猛アピールしてくる。
バス通りにぶつかる。辿ってきた通りは江戸時代から続くものだ。
道が交わるあたりをシバヤンジといった。芝居の地からきたもので、かつては芝居小屋が複数建っていたという。
さあ、どこからか借りてきたような薀蓄はなるだけ抑えよう。江戸の残り香は、一帯では残念ながら香ってこない。
バス通りもブレードランナー的だ。
本州からの来訪者には焼き鳥屋の多さがアジアを感じさせると聞いた。和食、洋食、中華。たとえば居酒屋、おでん屋、寿司屋、小料理屋、ラーメン屋、コリアン料理、四川、広東、イタリアン、フレンチ。何でもアリで、レベルは各ジャンルとも高い。歴史が違う。大正時代までは九州一の人口を誇った第一の都市でもあった。長崎はおいしい。
銅座跡の碑。
開港から銅座の造成までで長崎の街は一端完成したと言われる。江戸初期に急速に広がり、1724年の銅座造成後は安定期となる。再び変化が始まるのは、明治も近い1859年の外国人居留地造成によってだ。
観光通りを抜け古川町へ来ると、道が狭くなる。銀屋町へ入ると甘美な匂いの誘惑の虜になる店があった。ニューヨーク堂というケーキ屋。店前面、おそらく両隣の店舗付近まで甘く、ミルクセーキのような香りが漂っていた。吸い込まれるぐらいの甘いにおい。美しくさわやかな若い女性の、甘い香りと今では言えようが。極道の父親の為、貧乏のどん底だった母から食べさせてもらった記憶はない」