長 崎 を 歩 く

思案橋界隈 カオスと活力

「誤解を恐れずに言えば、人々は戦争に打ちひしがれている様子など微塵もなかった。それどころか、街から黒い天蓋がはずされたかのように、生き生きとして活発に笑い、まるで日々が祭りのようなありさまだった」 
小学校に上がる前に見た終戦時の情景を、捨老氏はそう描写する。

長崎市の思案橋界隈は、今となっては全国でも有数の迷宮盛り場の様相を呈している。表通りを折れて路地に入る。途端に方向感覚が狂う。
この街の持つ独特の混雑性は、よく語られる鎖国時代の異文化流入だけでなく、戦後復興のカオスに根差している。


今回の彷徨は上地図のルートのように辿った。

 

■春雨通り

路面電車が通るこの春雨通りは、かつて銅座川で思案橋界隈と切り離され、両岸は橋でつながれていた。この橋が俗称 思案橋だ。現在、川は光なき暗渠の下を流れ、、橋も存在しない。春雨通りの呼称は、丸山の引田屋(今の花月)で有名な端唄『春雨』が作られたことに由来する。


大き目の赤い矢印で現在地を示す。


春雨通りにある思案橋のモニュメント。

春雨通りに並ぶ建物に目を凝らそう。


建ち並ぶ建造物は木造三階建てが多いことに気付く。それも三階が歪に低い。通りには戦後の長い影が落ちている。 思案橋商店街協同組合の建物はこの並びにある。これは正規の三階建ての高さを持つ木造建築だ。


この建物の裏、つまりハモニカ横丁側。一階が男子用、二階が女子のトイレになっており、三階が協同組合用スペースとなっていることが分かる。


1948年1月9日、春雨通りの電車軌道上に一夜のうちに闇市が出現した。記録はそう伝える。戦時中の建物疎開で拡幅されていた道路を、27メートル幅に狭め歩道に露店を置く長崎市当局の計画を知った者たちが我先にと場所獲りをしたのだ。


(写真提供:長崎市河川課)

捨老氏 「写真は終戦直後2~3年内のものなのだろう。さすがにボクには古すぎる(笑)。
小学校に入る前ごろ、最初の選挙が始まった。スピーカーのない時代。堅紙メガホンを手にした男たちが、街のいたるところで大声をはりあげ、まだ軍帽に軍服姿の時代錯誤の髭男さえ立候補していた。婦人たちも和服のエプロン姿に候補者の名を書いたタスキをして、せわしげにガリ版刷りのわら半紙を配り歩いていた。
思案橋は電車の終点だった。銅座方面から浜町方面へのカーブ軌道はあったが、西浜町方面へ曲るカーブはなく、西浜町電停は乗り換え駅だった」

こうした混乱の一掃策として暗渠が設けられたのが1951年。露天商たちは銅座市場など暗渠の上へと移動した。翌1952年、大波止~県庁前~思案橋の道路開通。さらに1953年、路面電車が思案橋まで開通し、戦前の路線が復活した。

 


■ハモニカ横丁

春雨通りから、志乃多すしの路地に入り込み左折する。


ここがハモニカ横丁だ。間口の狭い店が細い路地にひしめくように並ぶ。亀井勝一郎が武蔵野の商店街の様を見て呼称したことに始まる。




捨老氏 「長崎のハモニカ横丁の名は、もうほぼ死語になっているらしいと言うことです。春雨通り(電車通り)に面した細長い商店群はかつてはすべて大通りに背を見せていて、店は反対の細い路地の方を向いていたのです。
現在思案橋横丁と呼ばれる道も、同じように細路地だったわけで、店もそれぞれ前面背面のこだわりなく向いていて、元々はこちらが裏道という感じで、この二列の屋台商店群をハモニカの列穴に例えた俗称だったのです。
しかし、70年代になる頃は春雨通りの名すら知らない地方出のタクシー運転手まで現れ、道路拡張の可能性の高かった一方だけが徐々に賑やかになるに従って、ハモニカ横丁(電車通り側の細路)はやがて店々も電車通りの方に向けて商売替えするようになり、思案橋横丁が整備されるに至ってハモニカ横丁の名はすっかり忘れられたようです。この夏覗いて見ましたら、ほとんど裏口通用路と言う感じでしたが、それでも夜になると二・三のあかりが灯っていましたよ」


くにひろ氏 「子どもの頃も親父に手を引かれてこの界隈を歩いたことはあります。親父はこずかいが少なかったこともあって立ち飲み専門でした。ハモニカ横町の電車通り側の酒屋で親父がコップに入れた焼酎をきゅっと飲む。僕はバヤリスオレンジを一本買ってもらって横で飲む。そういったことがあったよなと思い出しております。あのハモニカ横町には便所は確か共同の便所が1個所しかなかったようで、それも店の人に鍵を開けてもらわねば使えなかったようです。それで、鍵を開けてもらうのがめんどくさくて、私もあの横町で立ちション便したことがあるような」

ラリラリピノ氏 「かつて私が子でもの頃、この界隈の業務店へ家業の配達について行くと、汚い格好のホームレスたちがよくいました。積み上げられたビール瓶の底に残ったビールを飲んでいる姿は忘れられません」



ハモニカ横丁の出口。思案橋ゲートのすぐ袂だ。

 


■思案橋横丁


思案橋ゲートが見える。思案橋横丁の赤いネオンゲートを潜り進もう。


捨老氏 「いわゆる思案橋横丁は、ハモニカ横丁とともに、戦後の闇市として銅座川の上に板を張り渡し、徐々に無番地として出来上がった路地です。残滓やゴミ、または用便などそのまま銅座川に流せたわけで、朝は満ち潮で魚も捕れたと言いますから、戦災で家屋をなくした人たちのしたたかな生活の場となっていたようです。当然銅座川沿いに発展拡大したわけです」



思案橋横丁のはずれにやってきた。向こうに見える銅座市場の看板を後にして、左折する。

 

>つづく

 



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Profile まつを

Webデザイナー。長崎市・島原市との多拠点生活化。人生を楽しむ。仕事を楽しむ。人に役立つことを楽しむ。座右の銘は荘子の「逍遙遊」

「よくこんな事をする時間がありますね」とおたずねになる方がいらっしゃいます。こう考えていただければ幸いです。パチンコ好きは「今日は疲れたから、パチンコはやめ」とは思わないもの。寸暇を惜しんでパチンコ玉を回します。テレビ好きも、疲れているときこそテレビをつけるもの。ここにアップしたものは、私が疲れたときテレビのスイッチを押すように作っていったコンテンツです。