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第一段
旅立ち編

 

【 一 】

 時は明治九年九月。夜更けてすでに風は止んでいた。
 備前の国の山中深くに師・龍雲りゅううんの修行場はあった。
 猪原信平いのはら のぶへいは板敷きの簡素な部屋で師と対座していた。外は時折ふくろうの鳴き声がするだけで静寂の闇に包まれていた。

「されば信平、これを見よ」と師は古地図を広げた。なめし皮に描かれた南蛮渡来の世界地図である。
「信平、これをどう見る」と、端に描かれた日本国を指して師は問うた。
「山が二つだけ……」
「そうじゃ、甲斐駿河の富士と肥前の普賢岳じゃ」
「何故に、両山のみで?」
「火の道のことわりだそうだ」
「火の道?」
「それと、肥前はキリシタンの地」
「キリシタンといえば、我が宗派同様 弾圧された……」
「時をおなじゅうしてな」

 

【 二 】

 師や信平の信仰する宗派は『日蓮宗・不受不施派』であった。

 日蓮宗は桃山時代から江戸年間、大きく揺れた。権力と信仰の狭間で揺れた。時の権力との妥協派を『受布施派』といい、信仰を重んじ権力と妥協せぬ派を『不受不施派』という。この二派が時の権力も巻き込みながら抗争した。多くは権力妥協派つまり『受布施派』となっていった。

 情勢を見極めた幕府は『不受不施派』を禁制とした。寛文五年・1665年の事である。キリシタン禁制と同時期であった。禁制の間、彼等は居住地を迷路にしたり隠し部屋を作って、ご本尊を安置した。斬首、自刃、流刑、処刑、逃亡があり、墓石を破壊され、焼き捨てられたりもした。
 明治九年、禁制が解かれるまで、実に210年間もの永きに渡って迫害され続けた。その間、彼らは地下組織としてその信仰を守り続けた。師や信平もその中の存在であった。

 信平らの居住地は、備前の国・岡山の池田藩であった。この池田藩の弾圧は特に厳しいものがあった。寛文七年(1667年年)には三十一の寺院を破壊、僧侶587人を追放。それを皮切りに、弾圧は幕末まで幾度となく続いた。遠島おんとうにおいては、遠く八丈島まで流した。「法華経を信仰しないものは相手にせず」が、為政者に忌み嫌われたのである。

 

【 三 】

 日蓮宗・不受不施派弾圧の事の起こりは豊臣秀吉の時代に遡る。

 文禄四年(1595年)九月、秀吉は亡き父母の霊をとむらう為、京都東山に大仏殿を造営し、大掛かりな法要を計画した。天台、真言、律、禅、日蓮、浄土、一向、遊行、の八宗から百名ずつの僧を招いた。これを「千僧法要」といった。
 この秀吉の参集の御ふれに「他宗よりの供養を一切受けない」という宗派の掟をもつ日蓮宗で内輪もめが生じた。「念仏無問 禅天魔 真言亡国 律国賊」と他派への日蓮宗の攻撃は鋭い。そこで、他宗派と会同する事の是非を問う評定が京都で行われた。大勢が後難を恐れて参加に傾いた中で、京都妙覚寺の日奥上人は最後まで反対した。「もし、祖師・日蓮上人の制法を一度でも破って他宗の供養を受ければ、永久に我が宗義は崩れてしまう」と主張した。

 その後、秀吉の再三の出仕命令を受け、多数の日蓮宗の僧は参加したが、日奥上人だけは丹波に隠れながら、大仏殿出仕の連中を攻撃し続けた。これにより『受布施派』と『不受不施派』とに分離してゆくことになった。

 秀吉の死後、家康の時代になるが、家康もまた『不受不施派』の存在を許さなかった。慶長四年(1599年)徳川家康は日奥上人を大阪城に招いた。「ただ一度でよいから出仕せよ。他宗の僧との同席がいやなら別席でもよい」と諭されるが、日奥上人は承知しなかった。この頑なさに家康も怒り、日奥上人の袈裟をはぎとらせ城から追い返し、翌年対馬に流した。

 その後、両派はますます対立を深め、寛文五年(1665年)ついに『不受不施派』は禁制の宗派となったのだ。

 

【 四 】

 師は続けた。
「信平よ、お前はこれより肥前嶋原に行き、火の山・普賢岳の鎮撫と、我ら『不受不施派』の本願である寺の建立に尽力せよ」
「は、はっ」と信平は平伏した。
「これをもって行け」と、師は信平の前に差し出した。
「こちらの袋には黄金が入っておる。この黄金で自らの正業なりわいを立て、しかるのち、肥前を中核に我が宗派の同志を増やせ。そして、これは《青龍の掛け軸》である。青龍は水の守り神であり、水は人の命。この青龍がおまえと水を守護し、多くの異能の士を呼び寄せるはずじゃ。嶋原は湧水の地。その水がいつまでも枯れぬよう大事に祀れ」
 箱が二つ。恐らくは二副一対の掛け軸であろうと信平は思った。

 なおも師は続けた。
「この掛け軸は、代々我らが師から弟子へと渡ったものである。お前は出家ではないが、異郷の地である嶋原に赴く故、強い守護が必要であろうと、思案したうえでお前に渡すのだ。ゆめゆめ、おろそかにしてはならぬぞ」
「は、はっ」と、信平は事態の変化に戸惑いながらも《師の命》に従う覚悟をした。

 

【 五 】

「青龍」は東の守り神であり、水の神でもある。東西南北の順に、青龍・白虎・朱雀・玄武、すなわち、龍・虎・孔雀・亀、色別においては、青・白・朱・黒である。それぞれの方位の間に七つの宿しゅくが配され、計二十八宿ある。

 二十八宿とは、天の赤道にそって選びぬかれた二十八の星座を言う。

 もともと古代中国の星座であり、月の天球上の位置を示すために用いられていた。これが年・月・日に配当され、それに付随して吉凶が与えられ、今日では吉凶判断のみを示すようになった。
 月は、ある恒星に対して、二十七日七時間四十三分十一秒半で天を一周する。そこで天を二十七、あるいは二十八で区分するのが便利であり、二十八は四で割ることができることから、二十八宿となったのである。

 日本において、八世紀初頭の貴人の墓といわれている高松塚古墳には、天井に二十八宿の諸星が描かれており、二十八宿の概念は当時から日本に伝えられていたと推定される。青龍のいる東には、現代の星座の、おとめ座・てんびん座・さそり座・いて座の四座がその七宿に該当する。

 今後この星座の生まれに該当する眷属たちが、信平やその子孫に参集すると、師は語った。

 

【 六 】

 信平は猪原家の養子であった。猪原家は武家である。しかし御一新後、四民となり武家は無職となった。
 そこで母方の実家である油問屋の福武家へ奉公にでた。三十歳の時だ。信平は真面目に勤め今年で三十九歳になる。武家の本願であると『不受不施派』を頑なに守ってきた。それが自らの本懐であると信じてきた。

 激動の幕末から近代・明治への急変に信仰なき者達は心が乱れ、ある者は消息不明、またある者は自裁していった。武家の身分剥奪は武士達の精神構造を痛撃したのである。のちに言うところの不平士族の叛乱が続発した。明治九年の佐賀の乱は最大規模の叛乱であった。翌年には新政府の背筋を凍らす一大事件である西郷隆盛による「西南の役」が起きた。信平はまだそのことを知る由もない。

 信平の妻は雪野という。雪野には悲しい過去がった。雪野は信平と一緒になる前に一度嫁いでいる。信平の従兄弟である新之助の妻だった。
 新之助もまた不受不施派であった。そのことが池田藩に知れた。捕縛され入獄した。獄で新之助は食事を摂らなかった。緩慢なる自殺行為だった。雪野が役人に呼ばれて獄に行った時にはすでに、憔悴しきっていた。雪野も新之助の「死」を覚悟した。
 牢に近づき新之助に声をかけようとした時、最後の力をふりしぼるように新之助は書き付けのようなものを雪野に手渡した。雪野が家に帰り、手渡されたものを見ると、「のぶへいのところへいけ」と弱々しい筆跡で書かれていた。
 その夜新之助は死んだ。亡骸を引き取ることは許されず、そのまま藩指定の寺院に葬られた。その後、禁制が解かれた今年になって、やっと亡骸を引き取り菩提寺に納めたのだった。

 手渡された書き付けを信平に見せた時、信平はしばし食い入るように見つめていた。ややあって信平は口を開いた。
「分かりました。我が家へ来てください」と表情一つ変えずに云った。
 それを聞いた雪野は、「末永く宜しくお願い申し上げます」と両手をつき深々と礼を言った。連れ子の辰十郎は当時三歳であった。御一新の前年の出来事である。以来十年の歳月が流れている。

 

【 七 】

「そういうことで師の命により肥前嶋原へ行かねばならぬ」と、かしこまっている雪野に言った。
 雪野は伏し目がちながら、夫の一言一句も聞き逃すまいと信平の目をみつめていた。静寂しじまが流れた。夏の終わりの蝉の群声はもう聞こえてこない。

 もう夜半は過ぎていた。雪野が口を開いた。
「おたちは明後日ですか?」
「うむ、そうだ」
 近くに流れる小川を渡ってくる風が、涼味を孕んで二人にそよいだ。二人の後れ毛が揺れた。軒の風鈴が微かに響いた。
 雪野がおもてを上げた。
「承知いたしました」
「すまぬ」と信平が言うと、雪野はさっとその場に平伏し、くぐもった声で、「あの日から十年の年月としつき、貴方様には息子辰十郎共々お養いいただき、感謝しております」と言いながら、雪野はしばし嗚咽した。
「それはもう申すな」と言った信平もこみ上げるものがあった。

 雪野が続けた。
「これまでに貴方様から頂いた慈しみと優しさは、一生分だと思っております」
「もう、それは申すなと言っておる」
雪野はおもてを上げた。
「お行きなされませ。私と辰十郎のことはお忘れになられて、存分に布教の為にお働きくださいませ」ときっぱりとした口調で言った。左右の頬には乾いた涙の跡があった。
 雪野は続けて言った。
「最後にお願いが御座います」
「何だ」
出発しゅったつの朝に、貴方様の御髪おぐしを整えさせていただきたいのです」
「……判った」と信平は応えた。
「もうこれからの生涯、どなたの御髪も触らぬと思い定めました故、こころおきなく貴方様の御髪に触れてみたいのでございます」

 

【 八 】

 信平は嶋原へ向けて旅立った。行程は陸路で西国街道を馬関つまり現在の下関まで、海路で関門を渡り小倉から長崎街道に入る。

 先ずは岡山城下に入った。旧岡山池田藩三十一万五千石の城下町である。明治三年の廃藩置県により岡山県となった。御一新により封建制度が解かれ、大多数の一般庶民は解放感に包まれていた。
 伸びやかに日々の暮らしが送られるようになった。物資の流通も活発になり、商業の時代の到来である。ここ岡山城下も大層な賑わいを見せている。
 備前焼の店が軒を連ねていた。備前焼は日本古窯の瀬戸、常滑、信楽、越前、丹波、と並び称される。絵付け釉薬を一切使用せず、窯の炎によって生み出される窯変ようへんの美しさが特長である。茶道の心得のある信平は、好奇心で店々に立ち寄りたい心境であったが、任務の重大さを考えると、先を急がねばならなかった。

 島原半島の火山連峰の一つを「普賢岳」と命名したのは、大僧正・行基と言われている。白い雲に浮かぶその山の姿が「普賢菩薩」に見えたのだ。普賢菩薩は文殊菩薩と供に釈迦如来の脇侍で、白象に乗って仏の右側に侍する。その象のエピソードが岡山にある。

 享保十四年(1792年)中国清王朝皇帝より将軍への献上として象が贈られた。「普賢菩薩が乗っている象を」というのが皇帝の主旨だったそうだ。献上品の象はベトナム産であった。船で長崎に着き、京で朝廷に供覧され、江戸へと向かうのである。その途上、岡山で一泊した。城下が大騒ぎになった。
「象っちゅうのは千貫もあるんじゃそうな」
「あほらしい。そんなでかい生き物がおるものか」などと騒いでいる中、巨大な象が町中に現れた時、ほとんどの人が腰を抜かさんばかりに驚いたそうだ。
 中には賢い百姓もいた。下伊福の五作は、路上に落ちた象の糞を五人かがりで担いで帰り、畑に蒔くと驚異的な生産高があったそうだ。
 岡山藩は将軍の献上品である象を一泊預かるのにも大変気を使った。寝ずの番の藩士が百人、象の食料がリンゴ、人参、薩摩芋各々5キロ 干草にいったっては400キロも食べたそうだ。

 その後、京へ入り、天皇上皇様後拝謁の折、朝廷内では無位無官ではまずかろうという話になり、その象に官位が降りた。曰く「従四位広南白象」である。

 

【 九 】

 更に信平は街道を進んで行く。また大勢の賑いに出くわした。大社備前一宮のご祭礼である。出店が街道にずらりと並んでいた。中ほどまで行くと筵小屋が掛かっていた。見世物小屋である。
 木戸口上に絵看板があった。顔は女、胴体は牛という「牛女」の絵看板が人目を引いていた。内側から一人の男が出てきた。差し棒で絵を示しながら口上が始った。

    「四民平等の有り難いご時世と相成りました。
     我等最下層の人間も、お天道様の下で、このように堂々と商売ができるようになりました。

     しかし世間にはまだまだ不憫な人間もいる。
     焼け野の雉、夜の鶴、山は焼けても山鳥は、おのが子故に身を焦がす。
     我が子愛しと泣き叫ぶ。
     まして万物の霊長たる皆様方よ。
     ヒトとして我が子思わぬ親はない。
     世の中に愛と涙があるならば、人のこと他人のこととは言わないで一度覗いて見てください。
     ヒトが生んでヒトが驚く。
     因果に生まれたこの子を見てやってくださいませ。

     彼女がここで立ち上がる、帯を解いてハダカになって見てもらうから間違いはありません。
     大腿部というからここの腿の付け根。
     腿の付け根からこの足のツマ先まで、いかに皆さんと違っているか。
     なにしろウラ若き女のことです。
     長い時間はハダカにできない。
     ほんの二三分間、短い間であるけれど、花も恥じらう乙女子が、恥も外聞もうち忘れ、そのアンヨの変わったところ、その元々の姿を残らずお見せします。

     どうぞ宜しくご観察願います。
     妖艶怪奇な物語から、実物実演です。
     肉体構造変化がいかに恐ろしいかを、全部見てもらいます。
     見たり聞いたりは知識の交換。見ないことにはお話にもなりません」

これを一瞥して、信平は先を急ぐのだった。

 

【 十 】

 備中、備後、安芸、そして本州の最西端・周防。馬関から豊前小倉までは海路を採る。島原藩公も江戸より藩入部の折は同じ道を来た。
 藩史深溝ふこうず世紀では「山陽・西海を経て四月八日長須より海を渡りて土黒村に宿す。是故事に因るなり。明日嶋原に入部し、先ず猛島祠を拝して大手門より月城に入る」という。

 今日の関門は珍しく波穏やかであった。にもかかわらず信平の気は重い。師が言った「富士と火の道が通じている普賢岳を鎮撫せよ」の命の重さがそうさせていた。師から聞いた嶋原・普賢岳の噴火は尋常なものではない。我に鎮撫出来るのだろうかと不安になっていたのだ。

     寛政四年(1792年)正月十八日 温泉岳鳴動し、その声城市に聞こえ雷神のごとし。これを皮切りに、異変続くこと数ヶ月。
     経て四月一日。終日陰雲。眉山大いに振うこと二回、眉山倍別して前海に投じ、大いに山水を出す。
     海倍山の為に激し、又洪波を起こして市街を覆い尽くす。延びて近村及び他邦に至る。この時山海鳴動し、天折れ地裂くがごとし。市中死する者数知れず。
     やや収まりて眉山を仰ぎ見れば、その半面を割き、また海にて見れば無数の島を興ず。屍縦横に沈籍す。
と史書にあり。

「江戸年間に二度も荒れ狂った」と師から聞いたこの山を、今後どう鎮撫する信平? これから先の道中、信平は何を見、経験し、嶋原に辿りつき、果たして当初の目的を達成するや否や?

「信平 走る」第一部「旅立ち編」の終了で御座います。また次回をお楽しみに。

 

 


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    Webデザイナー。長崎市・島原市との多拠点生活化。人生を楽しむ。仕事を楽しむ。人に役立つことを楽しむ。座右の銘は荘子の「逍遙遊」

    「よくこんな事をする時間がありますね」とおたずねになる方がいらっしゃいます。こう考えていただければ幸いです。パチンコ好きは「今日は疲れたから、パチンコはやめ」とは思わないもの。寸暇を惜しんでパチンコ玉を回します。テレビ好きも、疲れているときこそテレビをつけるもの。ここにアップしたものは、私が疲れたときテレビのスイッチを押すように作っていったコンテンツです。