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第三段
長崎奮闘編

 

【 一 】

 明治十年の秋、信平は長崎に居た。西郷との別れの際に、信平はアームストロング砲の砲弾を一個、西郷に所望した。この砲弾を西郷の形見とし、武士の魂の重さを感じていたかったのだ。旅の荷物が《青龍の掛け軸》に一つ加えられた。その砲弾を腰に巻きつけ長崎に向かったのである。

 幕末から維新にかけて、長崎は日本の表舞台の一つだった。中でも長崎は、鎖国の江戸年間にあって、諸外国に開いた唯一の窓の役割を果たした。信平はこの長崎の地で、「鉄」を中心素材とした新技術を出来るだけ多く、自分の目で確かめたかったのである。

 信平は浦上町の旅籠「伊勢屋」を定宿として長崎の各地を見て廻った。

 最初に信平が行ったのは、「くろがね橋」である。中島川に架けられた「くろがね橋」は、明治元年に作られた日本初の鉄の橋である。信平は黒く輝く鉄橋にしばし見入った。
「なるほど頑丈そうだ。これだったら少々の洪水がきても、ビクともしないだろう」と、信平は感じ入った。この橋は大量の鉄材を使っている。これほどの量の鉄を供給する為には、薩摩でみた製鉄所が全国に沢山必要になってくる筈だ、とも確信した。
 所謂、世界や日本の「近代」は「石炭と鉄」の二大産業で幕が開いたといえる。その後、九州はその「石炭と鉄」で隆盛を誇り、長崎も石炭と造船で栄えていった。 

 信平が次に向かったのは大浦の海岸通りである。蒸気機関車が日本で初めて走ったのは、明治五年の新橋・横浜間だったと一般的には知られている。
 しかし、実はそれより七年前、慶應元年(1865年)にこの長崎で走っていたのだ。イギリス人・トーマス・グラバーが、上海博覧会に展示された英国製機関車を、持ち船で長崎に運び、奉行の許可を得たうえで、走らせた。
「アイアン・デューク号」である。大浦海岸に600mの線路を敷き、機関車、石炭車、客車2両の、計4両編成で走らせた。実際に多くの見物客も乗せて走ったという。黒い煙をモクモクと吐いて力強く走る岡蒸気に、奉行から「煙や汽笛の音で驚かないように」とお布令が出ていたが、やはり見物人達は腰を抜かすほど驚いた。
 信平が長崎に来た明治十年(1877年)には、機関車だけが、大浦の海岸通りに展示されていた。機関車は黒々とした鉄の塊であった。
 信平は機関車に目が釘付けになり、陽が沈むのも忘れて細部まで観察し続けた。とんでもない時代の到来を肌で感じていた。石炭を燃焼させた熱を蒸気エネルギーに変換し、タービンを回して動力源にすることでイギリスの産業革命が起きた。蒸気船や機関車などの革新的な機械を動かす新しい産業エネルギーが、日本にもやってきたのだ。歴史に残る事始ことはじめを、信平は目撃したのである。

 

【 二 】

 十一月一日の夜、信平は浦上町本原郷へ出向いた。この夜、キリシタン信徒による松明たいまつ行進があり、それを見るためである。日蓮宗・不受不施派と同様に、二百五十年余りの間、禁制として弾圧を受けてきたキリシタンに、信平はいつしか強い共感を覚えていた。
 本原郷にあった秘密礼拝堂・聖ヨゼフ堂の周辺にキリシタン信徒達が各地から参集し、松明を渡されて、大浦の天主堂までの約七キロを行進するのである。その夜集まった信徒は1500人。手に手に松明をかざし、聖書の一節を唱えながら整然と行進していく。その底知れぬ荘厳さに信平は心を打たれた。つい、信平も行列の側を付いて歩いていた。離れ難かったのだ。

 数キロほど歩いた時、突然、先頭あたりの松明の明かりが乱れた。「殺せ!」、「やめろ!」、「国を売るキリシタンは死ね!」と、口々に怒鳴りながら、手には木剣を持って行列に襲いかかる一団があった。
 信平は思わずその中に突入していった。この荘厳なる松明行進を乱す輩が許せなかった。信平の心の中にある不授不施派の魂と、西郷に教えられた武士の魂が行動を起こさせた。一人、二人と当て身を食らわせながら輪の中心へと進んで行く。

 その時、二人の男に両手を捕まれ、連れ去られようとしている娘が眼に入った。「助けて下さい!」と大声で信平に助けを求めてきた。信平は無言で男の一人に当て身を食らわせ、もう一人の男がひるんだ隙に、その娘の腕を掴んで引き寄せ、まわりの男達を睨みつけた。
 次の瞬間、信平は「走れ!」と言って娘の手を取り、人垣の間をすり抜けて走り始めた。二人は走りに走った。
「もうダメ。先に」と娘は喘いだ息の中で言った。
「走るんだ!」と信平が言った瞬間、手が離れた。
 娘は道に横たわっていた。大きく肩で息をしている。胸元が割れ、夜目にも分かるほどの白い肌が信平の眼に飛び込んできた。
 信平は娘を背負い「伊勢屋」へ向かった。
「名は?」信平は背中の娘に尋ねた。
「……小夜さよです」娘はそう答えるのがやっとの状態だった。
「伊勢屋」に着いて主人に事情を話し、女中に小夜の介抱をしてもらった。

 夜中に小夜は回復した。信平は事情を聞いた。
「まだ、キリシタンを許せない人が大勢いるのです」
「ご解禁となった今でも?」
「はい」
「で、そなたは、若い身で何故、そんな危険な行進に参加したのか?」
「代々、キリシタンですから」と、小夜は信平の目を見つめて、きっぱりと言った。
「私は、杉本小夜といいます。母は杉本ゆりです」
「うむ、それで」
「母は、先の『浦上四番崩れ』のきっかけを起こした人です」
「浦上四番崩れ?」
「はい、もうこの世にキリシタンは一人たりとも居ないと思っていた幕府が、母の出現でキリシタンが発覚して、調べると各地に3千人もいたので驚き、弾圧したのです」と、小夜は浦上四番崩れの経緯を話し始めた。

 

【 三 】

 国内には75万人のキリシタン信徒がいたが、慶長元年(1596年)の二十六聖人殉教を経て慶長十九年(1614年)に、徳川幕府はキリシタン禁令を発布した。そして、寛永十四年(1637年)に勃発し、数万人の信者が殺された《島原の乱》以降は、徹底した弾圧が続き、以来200年以上の間、国内には信者は一人も居ないと信じられてきた。
 幕末になり諸外国の圧力もあり、ついに慶応元年(1865年)に、幕府は鎖国を解いた。特にフランスの圧力は強く、長崎に強制的に天主堂を建てさせた。大浦天主堂である。人々はこの大浦天主堂を「フランス寺」と呼んでいた。

 その年の三月十五日、天主堂の前に14、5名の見物人がいた。その様子から、ただの見物人ではないと思った神父プチャジンは、一行を天主堂の中に案内した。その後、神父は祭壇の前に跪き祈り始めた。
 すると30歳半ばぐらいの女性が神父の側に来て、右手で自分の胸を叩きながら、「ワレノムネ、アナタノムネトオナジ」と言った。
 神父は飛び上がるほど驚いた。「潜伏キリシタン」がいることはうすうす知っていたし、彼らの間では、右手で胸を叩くことが同志を示す暗号あることも聞いていた。
「あなたのお名前は?」
「杉本イザベリナゆりです」
「どこから来たのですか?」
「浦上からです。浦上の者は皆、同じ心です」
 そして、「サンタマリア様の御像はどこにございますか?」と尋ねた。
 プチャジン神父は案内した。彼ら全員、マリア像の下に跪き涙していた。
「あぁ ほんとうじゃ! サンタマリア様じゃ! 御子ゼズス様を御抱きになっている」と感激した。

 その翌日から、浦上をはじめ長崎近海の島々から続々と隠れキリシタンが天主堂を訪れ、プチャジン神父に面会を求めるようになった。

 しかし、もとより禁制の時代である。杉本ゆりは福山藩に流された。それから二番、三番とキリシタン捕縛流罪の「浦上崩れ」があり、ついに慶応三年(1867年)に、なんと浦上一村3千人総配流の「四番崩れ」が起きた。配流先は金沢、名古屋、鹿児島、和歌山、津和野など三十四藩にわたった。
 その後、明治政府も禁制を引き継いだが、開国していたので諸外国の批難に晒され、明治六年(1873年)に、禁制を解いたのだった。

 キリシタン復活のきっかけを作った、小夜の母ゆりは、配流先の福山の獄中で死んだ。以上が小夜が語ったあらましである。

「信平さま、オラショをご存知ですか?」
「オラショ?」
「はい。キリシタン達が歌い続けた唄でございます」
「そなたも歌えるのか?」
「はい」
「聞かせてくれぬか」と、信平が言うと、小夜はかぶりを少しふり、歌い始めた。

    参ろうやなぁ 参ろうやなぁ
    パライゾの寺にぞ 参ろうやなぁ
    今は「涙の谷」なれどぉ
    先は助かる道なるやなぁ
    パライゾの寺にぞ 参ろうやなぁ
 と、か細い声ながら切々と歌う小夜であった。

 

【 四 】

 翌朝早く、信平は小夜を本原町まで送っていった。
 宿に帰ると、主人が来客があるという。部屋に、おもいがけない人がいた。それは島未亡人であった。
「お久しゅう、ございます」と、島未亡人は平伏した。
「驚きました……よくぞご無事で」と、信平はやっとの思いで言葉を発した。
 西南の役の最後の状況、特に西郷自刃の様子を、島未亡人から詳しく聞くうちに、信平の眼から大粒の涙がこぼれた。島未亡人も嗚咽した。
「そうですか。聞いてはいましたが……西郷先生はもうこの世にいないのですね」
「……はい」
 多くの出来事が二人の胸を去来し、しばし、言葉が出なかった。

「ところで島さん、長崎に来られた用向きは?」
「はい、その件で信平殿にたってのお願いがございまして」
「お話し下さい」
「はい、実は、西郷先生が亡くなられる直前に私を呼ばれまして、そして話されますには……」
 と、島未亡人は長崎に来た理由を話し始めた。

 維新の頃、薩長はイギリス、幕府はフランスから大量の武器を購入した。そのイギリスの日本における窓口がグラバー商会であった。坂本竜馬の斡旋で薩長同盟が成立し、戦線が拡大するにつれ、グラバーは莫大な利益を手にした。その後、西南の役の直前、西郷隆盛とグラバーはある約束をした。
「それは、一体どのような?」
「西郷先生は、『恐らく、戦で多くの戦死者が出るだろう。その遺族達に幾ばくかのお金を渡したい。維新の時の利益の中から一部を還元してくれないか?』と、グラバーに、戻し金を求めたのです」
「で、グラバーは約束したのですか?」
「はい、これがその時の証文です」と、島未亡人は懐から書類を取り出した。
 見ると、金一万両の無償借款を履行する旨があり、確かにトーマス・グラバーのサインがあった。
「つきましては、信平殿にグラバーとの交渉のお力添えをいただきたいのです」
 信平は、死を覚悟しながらも部下達の遺族を慮る西郷の人となりに再び感動した。
「よく分かりました。亡き西郷さんのためにもがんばりましょう」
「ありがとう ございます」
 二人は今後の段取りを話し合った。

「ところで、島さん、まだあなたの名前を一度もお聞きしていませんでしたね?」
「え! あぁ、はい……喜和です。島喜和です」
「きわ さんですか。そうか……では、これからは喜和さんと呼びます、いいですか?」
「は、はい。あ、あの、信平どの……もう一つお話が」
「なんでしょう?」
「い、いえ、今は……」と、やや頬を赤らめた喜和に、信平は気がつかなかった。

 

【 五 】

 翌日の夕刻、信平と喜和は万才町にあるグラバー商会を訪れた。二人は応接間に通された。しばし待つと、グラバーの秘書という目つきの鋭い大柄なイギリス人と、通訳の小男の日本人が入ってきた。信平が口火を切った。
「金、一万両の借款の件です」と、信平は書き付けを二人の前のテーブルに差し出した。
 通訳の男は書付をじっくりとながめた後、イギリス人秘書と英語でしばらく話しあっていた。その後、「二日後の午後に、またご足労願いたい。グラバー氏の意向を伝えます」と言った。二人が商会を出た頃には陽はすでに暮れていた。

 浦上までの帰路、松山の里に差しかかった時、向かいの木立の陰から、突然五人の男達が抜刀して近づいて来た。「何者だっ!」と、信平が言っても敵は無言である。「殺す気だ」と信平は直感した。
 喜和を背後にまわし、信兵は男達を睨みつけた。五人の中の一人は金髪の異人である。西洋の刀・サーベルを構えている。敵はジリジリ間合いを詰めてくる。丸腰の二人は圧倒的に不利であった。さりとて、逃げるにも喜和の女の足では無理だ。こうなったら、一太刀目を見極めて刀を奪い、活路を見出すしかない、と信平は覚悟を決めた。

 敵に向かって進み出ようとした時、「お頭さまっ!」と叫びながら四人の男達が駆けつけてきた。敵方は思わぬ展開に一瞬ひるんだ。四人は信平達と敵の間に割って入った。
 斬り合いが始まった。刃と刃が噛み合い火花が散った。敵が一人、向こう脛を切られ、たたらを踏みながら道路脇に転がった。味方も一人、二の腕を切られた。するとサーベル男が英語で何やら叫んだ。それを合図に、敵は間合いを計りながら徐々に引いていった。

 信平達に怪我はなかった。四人の男達は皆、島の手下だった。傷の手当を指示しながら、男が信平に話しかけてきた。
「信平殿。お久しゅうございます」
「権左殿か! 誠に、かたじけない」
「グラバー商会から、お二人に付かず離れずついて来ましたが、やはり」
「襲ったヤツらは、どこから私達を?」
「それがなんと、お二人が商会を出られると、直ぐ裏口から出てきて」
「えっ! それじゃグラバー商会の関係者か?」
「それ以外は考えられません」
 グラバーは西郷との約束を反故にする気なのだ、と信平は確信した。
「ゆ、許せない、断じて許せない!」と怒りがこみ上げてきた。
「喜和さん」
「はい」
「いくさ、です。西郷先生の意思を継ぐ、いくさです!」
「はい!」と、喜和は頼もしく信平を見つめて応えた。

 

【 六 】

 早速、翌日から喜和の手下達がグラバー商会の情報収集に動いた。夜になり、報告を聞いた。それは、

    一、 商会社長トーマス・グラバーは長崎を離れ、今は東京に居る。
    一、 現社長は庶子の倉場富三郎である。
    一、 グラバー商会は多額の負債を抱え、去る明治三年に倒産している。
 以上である。
 信平と喜和は交渉の時期を逸したことを悟った。西郷の遺志の金一万両を取れるどころか、昨夜の闇討ちのように、グラバー側が次にどんな卑劣な手を打ってくるのか予断を許さない。
「どうしましょう、信平殿」
「虎穴に入らずんば、虎子を得ず、です」
「というと?」
「会う約束は明日です。西郷先生の遺志に従い、堂々と約束の履行を迫りましょう」

 翌日の午後、二人はグラバー商会を再訪した。今回は現当主・倉場富三郎も出てきた。倉場が口火を切った。
「東京の父に聞きました」と、混血児特有の碧眼ではあったが、流暢な日本語で話した。
「で、どのような返事でしたか?」
「確かに、一万両の無償貸付の署名はした、ということです」
「それなら、履行してもらえるということですね」
「いや、できません」
「えっ、何故に?」
「履行しようにも、もうわが社は名ばかりでお金がありません」
 静寂が室内を包んだ。
「提案があります」と、倉場が口を開いた。
「どういう?」
「その証文を買わせてください」
「いいですが、一万両ですよ」
「百両が限度です」
「百両では遺族達はどうにもならない」
「百両しか出せない」
「では、証文は渡せない」
「じゃ、しかたないですね」と、倉場はいうと、出入り口の方へ手を挙げ合図した。
 隣室に待機していた数人の男達が入ってきて、二人を取り押さえ、屋敷内の倉庫へ押し込めた。

 

【 七 】 

 一方、小夜にも次第に危機が忍び寄って来ていた。

 その頃、小夜は浦上周辺のキリシタン信徒達と、新しい教会の建設へ向けて準備を進めていた。のちの《浦上天主堂》である。
 これを後押ししたのがフランス人社中であった。大浦天主堂のプチャジン神父の呼びかけで、神戸居留地からイエズス会修道女達が長崎にやって来て、大いに浦上信徒達の援助をした。

 そのことをイギリスの代表格であるグラバー商会はよく思っていなかった。幕末から維新、明治初頭の日本を舞台に、イギリスとフランスの綱引きが繰り返されていたのである。信徒獲得は勿論、近代国家に変貌していく日本からの利権獲得に、両国は覇を競いあっていた。その裏に両国のフリーメイソンの組織の存在があったことを指摘する人もいる。

 倉場富三郎は英仏の争いと、父が西郷と交わした約定の件の解決策に早急な対応を迫られていた。父のトーマスとは異なり、富三郎は極めて短絡的で、強硬な解決策を選択した。すなわち、信平と喜和の監禁、それに小夜の拉致を選んだのだ。

 再び、小夜は拉致され、商会に連れ込まれた。小夜の命と証文の交換を迫るつもりであった。
 一方、喜和の手下達は、現在《朝敵》の汚名を着せられている西郷一派として、表立った動きはできず、成り行きを見守るしかなかった。

 

【 八 】

 信平、喜和、小夜の三人はグラバー商会の中庭に連れ出された。
「証文はどこにある!」と、商会の番頭が言った。
「証文は、とある場所に預けてあります。この二人には関係のないことです。お渡ししますので二人を解放してください」と、喜和が富三郎に言った。
「わかりました」と富三郎は請合った。
「だめだ! 喜和さん、こんな非道を許してはいけない。西郷先生の遺志はどうなるんだ!」
「しかし信平殿、西郷先生は貴方に生きてほしいと!」

 その時、先日の金髪の異人が突然、サーベルを抜き、信平に近づいてきた。
「やめろ!」と、富三郎が制したが、止らない。異人は奇声を発して信平に切りかかった。とっさにサーベルの一太刀をかわした信平は、敷き石に躓いて大きく転倒した。
 異人は、信平の壊れた体勢を確認するや、ニヤリと笑いサーベルを大きく振り下ろした。ブシュ! と肉が斬れるにぶい音がした。次の瞬間、鮮血が飛び散り、喜和が倒れ込んた。喜和が信平の前に身体を投げ出したのだ。

 信平が急いで喜和を抱き起こそうとした時、「やめなさいっ!」と、中庭の入り口の方から威厳のある大きな声がした。異人の老人であった。
「富三郎! なんてことを……」
 グラバー商会の人間達は凍りついたように立ち尽くした。
「ダ、ダディー!」富三郎はその場にへたり込んだ。
 老人の脇を固めていた数人の屈強な男達が、サーベル男を取り押さえ、倉庫の方に連れ出した。
「なんて愚かなことをしたんだ! さあ、はやく手当てをしてやれ!」
 信平の腕で気を失っている喜和を数人の男達が戸板に乗せ、急いで大浦の病院に運んだ。

 

【 九 】

「トーマス・グラバーです。息子が取り返しのつかない事をしてしまいました。どのような償いでもさせてください。もちろん、西郷さんとの約束は近日中に果たします」
 碧眼の老人は、信平たちにそう言って、病院の玄関を出て行った。
「信平殿! 大変です! き、喜和様が」
 手下の権左が病室から走ってきた。喜和はすでに虫の息であった。
「信平殿……」と、信平に抱かれながら、喜和は必死で何かを訴えようとしていた。
「喜和さん」
「愛しい人でした……信平殿」
「もう、何も、何も申すな」と、強く抱きしめた。
「……愛した私は、幸せだった」
「…………」信平は更に強く抱いた。
「私が、あなた様を、どれだけお慕いしていたか。それが、全て、です……」
「ありがとう……」

 喜和は死んだ。沛然と雨が降ってきた。激しい雨である。信平は病院を飛び出し、狂った様に走り続けた。信平の頬を、涙が雨と混じりあい、流れ落ちていた。
「ううっ……」と、腹の底からこみ上げてくる怒りと悲しみのうめき声をあげていた。

 その時、「伊勢屋」の部屋にある《青龍の掛け軸》の木箱が、一瞬ゴトリと動いた。その直後、一条の光交じりの煙が宿から立ち上がり、豪雨と雷鳴の中を凄まじい速度で東山手に向かった。大浦天主堂の尖塔を一巡して、礼拝堂の聖母乃像の肩を巻き、御子ゼズスの額を撫で、東方の空の彼方に消えていった。

 数日後、喜和を斬った異人の遺体が、長崎湾の海上に浮かんでいた。父・トーマスが粛清したのだ、という噂がたった。
 倉場富三郎は、太平洋戦争の終戦後・昭和二十年八月二十日、グラバー邸前で謎の自殺をした。

 

【 十 】

 信平が宿に帰ると、妻・雪野からの封書が届いていた。
 夫の息災を気遣う文の後に、「私と辰十郎と二人して、毎朝、ご本尊の前に座り、お線香に火を付けて、ご先祖様と、あなた様のお父様お母様、私の父母のご位牌に手を合わせております。そして遠くおられます貴方様にも、私と辰十郎は元気に暮らしております、とご報告します。その毎日のことが、私にとって一番楽しいのでございます。またいつの日か、三人で手を合わせられる日がくることを、心からお待ちしております」とあった。

 翌日、信平は浦上天主堂の建設現場で小夜と会っていた。別れを告げるためである。
「別れは悲しゅうございます」
「私は、もう……慣れました」
「私も嶋原に行きたい。遠いご先祖の眠る所に」
「そうだった。小夜さんのご先祖は嶋原だったですね」
「遠い昔、嶋原の乱で……」
「……多くの人達が殉教されましたね」
「人は、愛することだけでは、生きられないのでしょうか?」
「人は、自ら生きているのではなく、何かに生かされているのでしょう」
「何かとは?」
「神。あるいは、仏……でしょうか」

 信平は長崎を離れ、肥前嶋原に向かった。いよいよ当初の任務を果たすべき時がきたのだ。明治十年の晩秋であった。

 

 


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    Webデザイナー。長崎県。人生を楽しむ。仕事を楽しむ。人に役立つことを楽しむ。座右の銘は荘子の「逍遙遊」

    「よくこんな事をする時間がありますね」とおたずねになる方がいらっしゃいます。こう考えていただければ幸いです。パチンコ好きは「今日は疲れたから、パチンコはやめ」とは思わないもの。寸暇を惜しんでパチンコ玉を回します。テレビ好きも、疲れているときこそテレビをつけるもの。ここにアップしたものは、私が疲れたときテレビのスイッチを押すように作っていったコンテンツです。