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第六段
島原黎明編

 

【 一 】

 島原往還は半島をぐるりと一周している。総延長は百十キロである。昭和まで、上の町の人々には『おうかん』という言葉が残っていた。「おうかんばぁ、掃きなさい」「おうかんに水ば撒きなさい」などである。
 島原城大手門を基点に、北方向、つまり上の町、宮の丁を通って愛野までが北目道である。南方向の南目道とそれに続く西目道があり、また大手門から山手方向の鉄砲町、柏野と行き、田代原経由で千々石まで行く千々石道もある。

 信平は島原往還・北目道の最初の通りである上の町に金物店を構えた。明治十二年の春のことである。店の位置に関しては、「水」との関係を第一に考慮した。
 ある日、普賢岳の伏流水が地下に存在するところ、と念じると、上の町の地が信平の脳裏に鮮明に写し出された。信平がその場所に行くと、そこは休業中の茶問屋であった。跡取りに恵まれず、先方も買い手を探していたところであった。交渉は順調に進み、約三百坪の土地と百坪の家屋を手にいれることが出来た。

 信平が商いの地と定めた島原・上の町の起源は、元和2年(1616年)に遡る。
 この年、有馬氏に代わり、松倉重政氏が新たに島原藩に入部した。徳川幕府の一国一城制により、松倉氏は有馬氏の居城であった日野江城を棄て、より海運交易に適した島原の森岳(標高六十メートルの山)を撰んだ。肥前島原藩主・松倉氏は元和四年(1618年)から寛永元年(1624年)までの七年の歳月をかけ、城郭と町を造った。
 町方は古町、新町、三会町の三町に割り振った。現在の杉谷、三会、森岳の広い範囲を三会村と称し、上の町を『三会本町』と言った。

 江戸年間の文化文政期には、約二百店が軒を競い合い活況を呈していた。当時の上の町の代表的な商家は、塩田を扱ってきた『塩屋』が今の宮崎温仙堂、木蝋の『枡屋』の清水家、書籍の『盛文堂』の松田家、薬問屋の『草津屋』は織田家、呉服の『実成屋』の実成家などである。三百八十年を経た現在も各家は残っている。

 

【二】

 金物店の開業にあたって、家屋の修復や商品の仕入れなど、やるべきことは無数にあったが、降伏、敬愛が信平の手足となり実に良く働いた。小夜も信平の側にいて、女性ならではの仕事を果たしてくれた。そのお陰で、信平は不受不施派の半島内での本拠地となるべき寺の建立計画に専念できた。

 一日の仕事を終えて一息つくと、降伏、敬愛が信平や小夜に『島原』にまつわる話をしてくれた。
「師匠、《シマバラ》の呼び名の起源についての話をしましょう」と敬愛が言った。
「どんな意味があるのですか?《シマバラ》には」
「それについては縄文語から話さなければなりませぬ」
「縄文語、とな」聞き慣れぬ言葉に信平は強い興味を覚えた。
「はい。日本の古語は縄文語と言われています」敬愛は説明し始めた。

 縄文語は言語で、当時、まだ表記の文字はなかった。しかし、縄文語には明確にそれぞれの意味が存在していた。
 例えば、『サ』は『スサノオ』の『サ』であり、流転する現象の根源である。
 『サ・クラ』(佐倉・桜)は、荒魂は散る運命であり、クラ(倉)は外に出してはいけないことである。
 六月は『サ・ツキ』という。あらゆる現象が激しく流転する期間のことである。
 『カミ』は、上位の存在。
 『キ』は、地上界の命にまつわる現象である。
 『ヒ』は、神が地上界に降りてくる時に伴う現象を意味するという。

各地の地名にも縄文語は残っており、長崎県の場合では、
 『平戸』は、ヒラ・トHIRA-TOと呼び、HIRAはgreat importation=大量に物や人が流通する、TO=open a window 開かれた場所。
 『佐世保』は、タタイ・ポウで『長い棒で穴を掘ったように深い湾』を意味する。
 『雲仙岳』は、ウヌ・テヌガと呼び、『溶岩が引っ張りだされている山』。
 『眉山』は、マ・イクと呼び、『清らかな・鼻のような山』。
 眉山の前面にある七面山は、situ menと呼び、『走り根の泉』とある。
 『島原』は、チマ・パラtima・paraと呼び、
 tima=a wooden implement for cultivating the soil
 para=cut down bush
『藪を切り開いた原野を、掘り棒で水路をつけた地域』、という意味である。

「縄文の昔より、この地・島原は水の涵養源である普賢岳と眉山に抱かれた、水の豊かな地域であった証です」と敬愛がいった。
「わが師が水の守り神である『青龍』を私に託され、島原に行け、とおっしゃった意味が、今、はっきりと分かりました」と信平は目を閉じた。
「この地に住む全ての人が、水に感謝をしなければなりません。されど、この地は再度の噴火や争乱で亡くなった方が数知れず……」
「こんな狭い地域で十万人も死んでいる」
「この地を除いた他にはありますまい」
「ない、と思う。されば、もし人々が水への感謝を忘れた時には」
「何か、災いが必ずや」
「それはいかぬ、我々が説いていかねば」と信平が力強く締めくくった。

 

【三】

 またある夜は、キリスト教徒である小夜に降伏、敬愛の島原講義があった。
「小夜さん、島原の町並みを見て何か気づかれましたか?」
「はい、そういえば正月でもないのに玄関に年中『しめなわ』が飾ってありますね」
「そうです」と降伏が言った。
「なにか、いわれがあるのですか?」
「キリシタンではありません、当家は神道です、という表現なのです」

「まだ、他に特徴があります」と敬愛が言った。
「それは、どのような?」
「まず、町家の地形との関連です」
「この地は山と海が沿うところですね」
「はい、その山との関連が深いのです」
「そういえば、皆さん、道上、道下、といいます」
「そうなんです。普賢を基準にして家が建っています。全ての住居が普賢岳の方を上手として玄関の造りを決めているのです」
「お城が中心ではないのですね」
「街づくりそのものは、松倉という為政者が造りましたが、精神性は山が中心なのです」
「島原の地を考える大本になりますね」

「それと、もう一つはキリシタン弾圧の悲しい痕跡が家々の中に残っています」
「しめなわの他にもですか?」
「はい。それは仏間の位置です」
「何処にあるのですか」
「玄関を開けて中に入ると、一番最初の部屋を仏間にあててあります」
「キリシタンではない、ということですね」
「そうです。おそらくこの日本においても唯一のことでしょう」
「それほどまでに、弾圧が厳しかったのですね」

 聞きながら信平と小夜はこの日本の歴史上において、まことに特異な出来事に翻弄された島原のあり方を理解し始めた。それは、荒ぶる神のまします山・普賢と、この半島の、日本でありながら世界的規模での宗教上の争いごととの関連性であった。

 

【四】

 ある夜は、坂本龍馬に話題が及んだ。坂本龍馬は元治元年(1864年)、愛野から島原往還に入り、四月五日、島原にて一泊している。旅の目的は、海路有明海を渡り、肥後の勤皇の志士・横井小楠に会うためであった。
 因みに、この年は薩長同盟締結(1866年)を間近に控えており、坂本龍馬は、江戸~大坂~京都~佐賀~熊本~長崎~熊本~大坂~京都~江戸~下田~神戸~京都~神戸~江戸~京都と目まぐるしく移動している。

「師匠、島原を訪れたのは龍馬だけではないのです」と降伏がいった。
「他にも誰かいるのですか?」
「はい、あの吉田松陰も島原を訪れています」
「維新の志士達の先駆けとなった、長州の儒学者ですね」
「はい、松陰自身の『西遊日記』に記述があります」

以下、『西遊日記』より(注・現代語訳)

    「嘉永三年(1850年)十二月二日から八日の間、島原に入る。
     七日、晴れ、温泉岳に登る。一人の老翁に頼んで道案内してもらう。
     老翁は『眉山が崩れたのは今から五十九年前のことです。その時、海に津波が起きて数万の人が死にました。城下の人々は眉山の麓に三十三、四間四方に石を築き、崩落に対処しました』と話した。
     普賢岳山頂は寒気が十倍ぐらいに感じられた。雪が花のように舞っていた。
     一乗院という寺があり、小地獄で温泉に入った。島原から往復十里あり、島原に帰り着いた時には、日はすっかり暮れていた。
     八日、晴れ。海を渡たるつもりでいたが、雨が降り出し、一日延期する。
     九日、晴れ。本日、海路肥後に向かう。船が出たのは船津と云うところだった。
     振り返って島原を見れば、城は海に近いけれども海城ではない。全体を見れば普賢岳という一つの山で、平地は全てその足である」
 敬愛が引き取って言った。
「幕府瓦解の引き金を引いたといわれる男が吉田松陰です」
「短い滞在にもかかわらず、普賢岳に登っている。何故だろう?」
「はい、松陰は各地を旅しているのですが、山に登っている事例は少ないのです」と降伏が補足した。
「若くして最高の儒学者といわれた男、よもや遊山でいく理由はない」
 ハッ、と信平の目が見開いた。「普賢岳の火の道の理を知ってのことだと?」
「そうとしか、考えられません」
 吉田松陰はその後、徳川幕府より「反逆の士」として入獄。再度の入獄の際、獄内で斬首される。
 降伏は続けた。
「まつらわぬ人はこの西九州の地に必ずやってきます」
「確かに」
「そして、松陰は普賢岳に登ったのです」
「戦いの為の力を普賢から得たかったのかもしれない」と、信平は呟いた。
 その時、仏壇横の『青龍の掛け軸』が、コトリと揺れたのを誰も気づかなかった。
 松陰の死後、松下村塾の高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、井上馨達が遺志を継ぎ、日本の近代という『夜明け』の扉を開いていった。

    吉田松陰辞世。
    『身はたとひ 武蔵の野に朽ちぬとも
     留め置かまし 大和魂』

    他の一首。
    『かくすれば かくなるものとしりながら
    やむにやまれぬ 大和魂』

 吉田松陰は『原城』にも足を延ばしていた。

 

【五】

 幕末の安政五年(1858年)、幕府の大老・井伊直弼、老中・間部詮勝らが、その施策・『日米修好条約』への調印及び徳川家茂の将軍継承への反対派を大弾圧した。世に言う『安政の大獄』である。反対派は切腹・死罪の極刑に遭った。極刑に処すことを最後まで主張したのが時の大老・井伊直弼であった。死刑・獄死者は、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎をはじめ多数にのぼった。

 安政七年(1860年)三月三日早朝、降りしきる雪の中、井伊大老を乗せた駕籠が供廻り二十名を従えて、江戸城・桜田門外より今まさに登城せんとしていた。
 と、その列が門に差し掛かったとき、ひとりの武士が手に訴状を握りしめ、走り寄ってきた。大老への直訴かと誰もが思った時、男はスルリと刀を抜き放ち、大老の駕籠をめがけて一直線に向かっていった。
「襲撃なり!」
 供廻りが柄袋に手をかけたその時、一発の銃声が轟いた。それを合図に十八名の武士が見物の人垣より躍り出て、両陣いり乱れての大乱闘が開始された。

 白刃火花を散らす事しばし、その時、一陣の黒い風の塊が駕籠を突き刺し、井伊大老を引きずり出した。大老に気づいた一人の武士が駆けつけ、一刀のもとに大老の首を切り落とした。それを見届けるように、龍の姿に似た黒風は西の空に消えていった。
 雪は強い雨に変わり、大老の首から流れ出る血が四方に広がっていった。
 襲撃した水戸浪士の一人が、雨の中で呆然としながら、「龍が……」と、呟いたのを誰も知らなかった。

 

【六】

 信平は弟子、降伏と敬愛に、師・龍雲から伝えられた『龍にまつわる話』を聞かせた。

「双龍、即ち双子の龍がそもそも本来の姿なのです。腹で交差し互いに重なり合い、一方の口が片方の尾を噛む姿で、横八の字で永遠を表す姿をしています」
「何かの暗示なのでしょうか」
「そうです、この双龍は宇宙ならびに個人の究極の姿、又は大本の万物のありかたを表しているのです」
「大本の姿とは」
「天と地、神と魔、神と人間、過去と未来、自然と文明、知性と感性、男と女、生と死、陽と陰などといった宇宙に存在するあらゆる二元は、本来対立するものではなく、 不二一体のものとして存在しているのです」
「その不二一体の象徴が双龍なのですね」

「そうです。しかしいつの頃よりか不二一体である筈のものが、対立するものとされたのです」
「具体的にはどのようなことですか」
「国家と国家、宗教と宗教、民族と民族、など相容れないものとされる思想に殆どの人間が囚われているのです」
「他宗教ともでしょうか?」
「はい!」
「日蓮宗は、対立していたのではないのですか」
「それは権力の介入時代の話です。もうこの明治という新時代には、もとの不二一体の形に戻さねばなりません。小夜さんのキリスト教とも不二一体と考えなければなりません」

「いつ頃から壊れていったのですか?」
「縄文の頃は確かに不二一体の精神が生きていた。二本の縄を寄り合わせて一本の縄にした、その精神です」
「変化していったのは縄文以降ですね」
「そうです。そしてさらに重要なのは日本列島そのものが双龍だったのです」
「師匠、地図で見る限りでは二つには見えませんが」
「消えたのです。失われたもう一つの列島があり、その中核であったのが今の琉球なのです」と、信平は降伏、敬愛の前に地図を広げ、筆でもう一つの列島を描きながら話を続けた。

 

【七】

 双龍はそれぞれ『黒龍』『金龍』と呼ばれる。
『黒龍』は現在の日本列島の土地神であり、『金龍』は失われたもう一つの列島の失われた列島とは沖縄を中心とし、薩南から不知火(有明海)沿岸までを指す。それは黒潮文化圏ともいっていい。
 毎年七月から十二月の台風の時期、黒潮は沖縄本島、薩南諸島、と流れ、有明海に支流が流れ込んでくる。この範囲が『金龍』の統べる一大文化圏であった。その中心が『竜宮』であり、『竜玉』であり、『琉球』であった。

 双龍はまさしく一方がアマテラスの『黒龍』であり、片方がスサノオの『金龍』である。それらは不二一体の神であったが、後の『倭国大乱』で、アマテラスの『黒龍』だけが歴史に残った。
 失われた列島の神のましますところは沖縄本島の南部にある『久高島』である。有明海は、『黒龍』の統治する国と、失われし『金龍』の国の境を接する臨界圏であり、普賢岳はまさにその境界上に位置する霊山なのである。

 

 


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    Webデザイナー。長崎市・島原市との多拠点生活化。人生を楽しむ。仕事を楽しむ。人に役立つことを楽しむ。座右の銘は荘子の「逍遙遊」

    「よくこんな事をする時間がありますね」とおたずねになる方がいらっしゃいます。こう考えていただければ幸いです。パチンコ好きは「今日は疲れたから、パチンコはやめ」とは思わないもの。寸暇を惜しんでパチンコ玉を回します。テレビ好きも、疲れているときこそテレビをつけるもの。ここにアップしたものは、私が疲れたときテレビのスイッチを押すように作っていったコンテンツです。