第八段
小夜の備前路
【 一 】
備前路は朝もやの中だった。深い緑の木立が道の両側におい茂り、朝日の木漏れ陽が街道に幾く筋も差し込んでいた。
小夜は人づてに、岡山城下の外れの猪原家を訪ねた。
それらしき家に着いた。粗末だが手入れの行き届いた小さな家だった。小夜は引き戸を開け玄関に入り、「ごめんください」と来訪を告げた。が返事がない。再度声を掛けた。
とすると、「どちらさまで」と奥からかぼそい女性の声がした。
「島原から 参りました 小夜と申します」
コトリと何かの音がした。
「しまばら……信平どのの?」
「はい」
奥の部屋の襖が開き、一人の女性が現れた。
「雪野さま でいらっしゃいますか?」
「はい」
「小夜と申します」
「小夜さま」
「はい」
「遠い所から お一人で?」
「はい」
「さぞや お疲れでしょう。さぁ、はやくお上がりになって」
「ありがとう ございます」
用意してくれたお湯を使ううちに急に睡魔が襲ってきた。
暫し時が経ち、小夜は目覚めた。
「雪野さま」と声を掛けた。
「どうぞ」
雪野は床の上に端座していた。
「雪野さまのお手紙を拝見しました」
「そうですか」
「おいたわしくて、一目なりともお目にかかりたくて、まかり越しました」
「小夜さん」
「はい」
「何故 私に会いたいと?」
「それは……」
しばし沈黙の時は流れた。まだ雨は降っている。
【 二 】
小夜が沈黙を破った。
「それは 雪野さまが お亡くなりになるからです」
聞いた雪野は小夜を見詰めた。
「遠からず そうなります」
小夜はある決心を秘め語り始めた。「信平さまと出会いましたのは」と小夜はかいつまんで、今までの経過を雪野に話した。
「小夜さん」
「はい」
「それほど貴方は 信平どののことを愛しくお思いなのですね?」
「はい」
また、沈黙が流れた。
今度は雪野から口を開いた。
「女性として口惜しい気持ちが無いではありません。しかし私は辰十郎とともども信平殿に援けられた身です。愛というより救済された、と云ったほうが正しいのでしょう。信平どののほうも、愛というより、同じ信者として、寄る辺無き縁者を助けた、という思いでしょう。でも貴方は違う。はっきりと愛をおっしゃった。私も生活を伴にするうち、信平どのに、愛を持ち始めました。でも今は、貴方に一歩譲らなければならないと思います」
今度は小夜が雪野を見詰めた。
「小夜さん」
「はい」
「愛しい人を女性として、愛し支えるには心と身体でしなければなりません。今の私には そのどちらも かなわなくなりました……。お願いします。 小夜さん、 信平殿のことを」
雪野は小夜の両手を包んだ。二人の両手が小夜の流す涙で濡れていた。
小夜は一晩泊めてもらい、翌朝早く雪野に別れを告げた。
次に向かったのは母の終焉の地、福山の福昌寺である。1867年慶応3年に大量のキリシタン発覚事件である、浦上四番崩れがあり、翌慶応 4 年、小夜の母百合は福山藩に配流となった。獄内で死亡し、その躯は何故か寺に運ばれた。寺の一角にキリシタン墓地があるという。百合もそこに埋葬されている。
浦上信徒は1,000人以上が配流され、其の内20人が福山に留め置かれた。始は厚遇し転教を促したが全く効果がないため、次第に拷問の様相を帯びてきた。拷問しては説得し、を繰り返した結果、徐々に棄教する信者も出てきた。三尺牢や氷責めといった非人道的な拷問のやり方であったが、百合はかたくなに拒み、最後は力尽きて死んだ。
【 三 】
46才のあまりにも短い人生であった。小夜が牢内で死んだ当夜は突然豪雨になり、落雷が激しかったという。意識が次第に遠のいていく百合に、雷鳴が轟くなか、野太く、しかもはっきりとした声が聞こえた。「それでいいのだ。よく生きるということは、永く生きることではない」。
百合のこの世での最後の言葉は「小夜、龍が」であった。無論誰も聞いていない。
小夜は福昌寺に着くと、キリシタン墓地に向かった。山門脇から続く石段を上り詰めたところにあった。苔生した石碑に「キリシタンの墓」とだけ彫ってあった。福山で死んだ信徒は五名いたが名は刻んでいない。小夜は胸の前で十字を切り、無言で瞑目した。
-
小夜、小夜、これからは自由な世の中になるのよ、
あなたの
心のおもむくまま生きなさい。
小夜の旅の目的は全て終了した。あとは信平の待つ島原に帰るだけだった。
【 四 】
明治12年6月下旬、島原市内寺町の善方寺の本堂は、九州全域から集まった青年達約300人の熱気でむせ返るようだった。樽井藤吉が主宰する、日本史上初の政党「東洋社会党」がこの島原で産声を上げた。西郷の大アジア主義の後を継ぐ政党を立ち上げたのである。
西郷はこの時点で死してなお国賊の汚名を着せられていて、官憲は「東洋社会党」の動向を注視していた。本堂では、今まさに樽井の結党声明の演説は始ろうとしていた。
「東の方である東方は太陽の出ずることろ、其の神は青龍なり。
五行ここに始まり、七宿を東西二面に分かたば、西半球は南北アメリカの二大州。
東半球はアジア、アフリカ、ヨーロッパの三大州にして、アジアは欧阿の東にあり。日本・朝鮮はその最も東に位置する。
人、木徳仁愛の性を受け、清明新鮮の恵まれなり。
その性情習俗、西欧の染むものと同じからざるは、けだし自然の理なり」
と格調の高い演説が始る中、信平の指示で辰十郎と降伏は聴衆に紛れこんでいた。もしや官憲の妨害があれば阻止せよ、との信平の言いつけがあった。
「あれを」と辰十郎が降伏をうながすと、聴衆の中の一人が、懐手をして、あたりをうかがっていた。あきらかに挙動不審者であった。
「もしや?」「かもしれません」。
二人は群集をかきわけながら、その男に近づいていった。
「わが、日韓両国は、締結して一合邦となるに如かず、和は天下の達道なり、天地間合わせざるものあらんや。ここに合邦の称を大東となすはけだし。欧米の諸国は一個人制度たり、一個人制度は、一身をもって国本となすの謂うなり、故にその情おのずから薄し、東亜の諸国は家族制度たり、家族制度は一家をもって国本となすの謂うなり。故に日韓合邦は、もとより東方諸国に適するものなり」
ついにその男が動いた。
「スーッ」と演説中の樽井に近づき、ふところの手を抜いた。
拳銃である。右手に持ち、左手を添え、正に引き金を引こうとしたその刹那、
「バリバリッ」
と物凄い雷鳴が轟いた。
「パーンッ」という銃声も同時に響いた。辰十郎と降伏が頭からその男に突進していった。本堂内は混乱の極に達していた。怒号が飛び交い、各所で乱闘が始っていた。かなりの官憲が潜入していたのだ。樽井は壇上でうずくまったまま、動かない。辰十郎と降伏は暴漢を他に任せ、壇上に駆け寄った。幸い、弾は急所を外れ、太股を貫いていた。二人は樽井を担ぎ上げ、本堂を後にした。本堂はまだ騒然としていた。
樽井は信平宅に運び込まれた。医師の応急手当を受け、二週間もすると起き上がれるようになった。滋養にと信平はこの年市内で新発売になった、砂糖漬けのザボン菓子を食べさせた。このザボン漬けは市内の森川三吉が長崎から帰り発明していたのだ。
一ヶ月後、樽井の東洋社会党は政府により解散命令を受けた。
「信平どの、誠にお世話になりました。貴方様から授かりましたご恩は、この樽井藤吉、西郷先生の意思を成就することでお返ししたいと存じます」
信平は樽井青年の曇りない瞳の奥に、一念に殉ずる武士の、また西郷の面影を見て、込上げるものを感じていた。
「樽井さん、必ず成し遂げてください」
「はい」
明治12年、夏の盛りであった。
それにしても、樽井青年が襲撃された時の突然の雷鳴は、龍の怒りであったのだろうか?
その後、樽井青年は投獄されるが、明治25年衆議院に出馬し当選する。
樽井の主張は、ヨーロッパ列国の侵略に対して、日本の生き残れる道は、朝鮮と合邦し、清国と同盟することだとの連帯論を強く打ち出している。この点において西郷の考え方を継承している。
しかしこの主張は、朝鮮浪人、大陸浪人、帝国陸軍の一部によって侵略肯定理論にすり替えられてしまう。樽井の考えの対等合邦とは似ても似つかぬ形と内容で朝鮮が併合されてしまう。信平の身内もその後朝鮮に渡るが、この時代の波に翻弄される。
西郷にしろ、樽井にしろ、その主張は以降の大陸浸出論に利用されてしまったところに日本の悲劇の始まりがあった。
【 五 】
樽井藤吉が信平の元を辞して一ヶ月が経ったころ、一人の陸軍軍服を着た青年が訪れてきた。
「東条と申します、猪原信平殿はご在宅でしょうか」
「はい、私が猪原です」
「突然の訪問をお詫びします」
「いえいえ。でご用向きはどのような」
「非礼の上、不躾ではありますが、あの西郷さんの傍らにあったという青龍の掛軸を、是非拝見させていただきたくまかり越ました」
「西郷先生とあなたとはどのようなご縁が御ありですか?」
「はい、それは西南の役です。敵味方に別れてはいましたが、西郷閣下は帝国陸軍の産みの親でありますし、武人の鑑であると今でも思っています」
「そうですか、それほどまでに西郷先生のことを。……結構です。存分に青龍をご覧になってください」
信平は東条を奥に案内した。東条は青龍の前に正座し、しばし瞑想していた。それから目を開き何かを納得したかのように頷き、信平の方に向き直り、
「素晴らしいものを拝見いたしました。西郷閣下の身を守ったのも確信できました」
「やはり あなたもお分かりになりますか」
「はい、確かに。 ところで信平殿」と東条は姿勢を正した。
「どうも西郷閣下は朝鮮との合邦は足がかりで、遠大な考えをお持ちだったようです」
「えっ、それはどのような?」
「西郷閣下にごく近い国学者の聞いた話ですが」と東条は語り始めた。
【 六 】
アジアの端に、ユダヤ教を信じる幾多の人々がエルサレムという地に住んでいた。
しかし紀元66年に反ローマ蜂起を起こし、70年に鎮圧された。その間、ユダヤ人の大半は虐殺、残りが奴隷化され、エルサレムは破壊された。跡地には新しい都市が建設されたが、ユダヤ人の居住は許されず、彼らは千年にわたって宗教的首都であった土地から締め出された。
その後、彼らは中東、欧州、アジアに移り住み、異郷での商業的な貢献と引き換えに「容認される少数派」の地位を得ようと努め、成功を収めると没収され、迫害されては逃げ出すという、地球上で類を見ない「放浪の民」となった。
そのユダヤ教と日本の神道のはかなりの類似点が存在する。
その一つが、「神事」における「塩」の関係である。
ユダヤ教の正典、旧約レビ紀2:13には、「あなたのささげものには、いつでも塩を添えてささげなさい」とある。一方、伊勢神宮の神事に使う塩を造る、御塩殿神社にはその設備がある。
明治維新の初期、横浜に来日したマックレオドというスコットランド人が西郷と会見した。
その折の話に、京の祇園祭において、人々が木の枝を持って練り歩く様子が、ユダヤの祭礼スコットを彷彿とさせ、神官と古代ユダヤの僧侶の服装が酷似していること、さらに祇園という名前もユダヤの地 シオンが訛ったものと思われるなど、マックレオドは日本人だけがその他の東洋民族とは全く違った文化や行動様式を持っていることに気付いた。
そしてその謎は東方に追放されたユダヤ十部族が日本に住みついたのだという解答に至った。
「信平どの、弘法大師空海は8世紀入唐の折、キリスト教の一派であるネストリア派の奥義に触れる機会にめ恵まれ、新旧約聖書を学んできたのは周知のことです」
「一寸待ってください、弘法大師が普賢岳に登られたことの意味は?」
「ある何かを掴むため、もしユダヤの十部衆が日本最初の到達点が」
「えっ、普賢岳だと」
「そう、そして其のことを確信されたとしたら」
「表むきには真言密教を広められた筈ですが」
「信平どの、真言は『まことの言葉』という意味ですね。モーゼやイエスの言葉ともとれます」
「聖書……」
雲仙普賢岳の満明寺は真言密教の中心の寺として殷賑を極め、平安初期には僧坊が3、300堂も存在した。当時としては日本有数の多さである。
ところが元亀二年(1571年)に領主有馬義直によってことごとく破壊された。正史では、修行僧らが可愛いがっていた白い雀、白雀の取り合いで僧坊間が争いになり、ついに有馬氏が兵を出したとあるが、理由としては余りにも不自然である。
有馬氏はキリシタン大名で名高い。新約聖書派である。もし満明寺派が弘法大師より旧約聖書を頂いていて、そのことを有馬氏が知ったら、とすると。
宗教戦争、それも日本初の西洋宗教の戦争が島原半島で起きたのである。死者数千名。
「その後、弘法大師は火の山の線に沿って旅をされました」
「金峰山、阿蘇、九重、その先は」
「そうです、四国です。徳島の剣山です」
「あの、修験道の聖地にして霊山である」
「はい、今でもユダヤの秘法が隠されているという根強い噂があります」
「本当ですか?」
「はい、この剣山では毎年、神輿祭りが行われていますが、京の祇園祭り、と同じ7月17日です」
「ユダヤのシオン祭りも同じ日」
「普賢岳は大陸の崑崙山脈からの龍脈が行き着くところ」
「でも崑崙の西方には」
「そうです、ヘブライの地があります」
「……」
「東条さん、それほど貴方は日本とユダヤが密接な関係があるとの考えなのですね」
「はい、私は永年、この日本とはなにか、日本人とは何か、を自分なりに研究してきました」
「で、ある確信を持を得たと?」
「はい、青龍をこの目で見て、明確にユダヤ、弘法大師、普賢岳、西郷先生の目指す意味の全てが分かりました」
【 七 】
東条の長男、東条英機は戦前、上海を中心としたユダヤ難民を満州に多数受け入れた。
1938年、ナチス、ヒットラーのユダヤ迫害政策が一段と厳しさが増すと、ドイツ・オーストリア系ユダヤ人が、中国上海に流入した。
上海の日本帝国陸軍大佐 犬塚惟重は日本学校校舎をユダヤ難民の宿舎に当てた。
同じ年、日本政府の有田外相は、ハルピンのユダヤ人指導者アブラハム・カウマン博士を東京に呼び、「日本政府は今後ともユダヤ人を差別しない」と明言した。
1939年夏までに、約2万人のユダヤ難民が上海の「日本人租界」に流入した。
それを不愉快に思ったドイツ・ナチスは1942年7月、アジア地区ゲシュタポ長官ヨゼフ・アイジンガー、この男は悪魔的残忍さで「ワルシャワの殺し屋」と呼ばれていたが、その人物を上海に送り込み、日本政府に以下のことを迫った。
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一、 黄海上に廃船が数隻あるが、それにユダヤ人を乗せ、東シナ海に引き出し、全員餓死したところで日本海軍が撃沈する。
一、 郊外にある岩塩鉱山で使役し、疲労死させる。
一、 お勧めは、揚子江河口に収容所を作り、全員を放り込み、種々の生体医学実験をする。
日本の東条英機首相はこれを一蹴する。
ユダヤ難民だったヒルダ・ラバウという女性は1991年に、日本の占領者がユダヤ人のために安全な地を確保してくれた、と深い感謝の気持ち表す詩を作り、「皆殺しになった人々を思えば、日本租界は楽園でした」と語っている。
空海は唐 長安の「大泰寺」、別名ペルシャ寺、ユダヤ教の教会であるこの寺でユダヤ教を修め、帰国後最澄に奥義を授けた。
シルクロードは朝鮮百済から九州に上陸し京都に至る。失われたユダヤ10部衆がたどった道もまた同じであったのだ。空海は普賢岳に登る必然があった。ユダヤ人達の足跡を辿るのが自らの使命である、と確信して。
最終地 平安京はヘブライ語では「エルサレム」という。