第九段
百済王流離編
【 一 】
西暦663年 朝鮮百済の国、錦江河口の白村江の沖で、倭国の軍船400隻は、そのことごとくが暮れなずむ空と海を赫々と染めながら炎上していた。その様子を、逃れて潜んだ洞窟から見ながら呟く貴人が居た。
「全ては終わった、もう二度と百済はもどって来ない」と。この人物、百済王豊章の弟、禎嘉王である。傍らの后、崔姫はうなだれて、袖で顔を覆い、さめざめと泣くばかりであった。
禎嘉王は崔姫の肩に手をやり、
「百済再興を願い縁を寄せる倭国に援軍を頼んだが、それもことごとく打ち破れた」
「これから どうなさるのですか?」
「倭国に行こう、飛鳥という地に百済の縁者が多く居る」
崔姫は面を上げた。目に輝きが戻ってきた。洞窟に隠している、まだ幼い姫御子を育て上げる気力が湧いてきた。胸元に入れてある、父から貰った「青龍のお札」をわが手で強く押した。「三人で倭国で生きていけますように」と青龍に祈った。
【 二 】
明治13年の春。島原。
昨年末、妻雪野の訃報が届いた。「私が身罷りましても信平様にはご心配ご無用」の手紙をもらっていたので、信平は特に動揺しなかった。小夜も島原に帰り変わらなく働いている。備前の事は何も話さなかった。何事もなく仕事をこまめにこなしていた。
「人は必ず死ぬ、あたりまえのこと」と信平は一言呟いただけだった。
ある春の夜、信平はいつもの通り、就寝前に青龍の掛軸の前に端座していると、
「日向の地に赴け、隼人三千と百済王の魂を鎮撫せよ」という声が聞こえてきた。無論信平にしか聞こえない。翌朝、信平は降伏と辰十郎を呼び、「日向に行く、仕度せよ」と命じた。午後三人は旅立った。
【 三 】
1998年平成10年3月3日。
奈良県高市郡明日香村「キトラ古墳発掘現場テント内」で国立奈良考古学研究所所長、山田和義博士はビデオモニター画面を見詰めながら、脇にいる助手の近藤博一に言った。
「これは 大変なことになったな」
「はい」
「明日の会見では全てを云うしかあるまい」
「そうですね、しかし宮内庁が」
「そうだな 色めきだつだろうなぁ」
キトラ古墳の石室内部に入り込んだ超小型カメラは内部の様子を克明に映し出していた。それは「四神」 、即ち「青龍、朱雀、白虎、玄武」の鮮やかな壁画であった。
倭国大和朝は「四神」を祀らない。特に中国皇帝の権威の象徴である龍を嫌っていた。朝鮮もしかりである。
山田博士は云った。
「今までキトラ古墳は天武天皇の皇子の墓といわれてきた」
「それが、渡来系の墓に」
「それも朝鮮系」
「これで朝廷の最高位近くまで朝鮮渡来系が登りつめていたことがはっきりしましたね。先生! 明日の会見は日延べしましょう」
「そうだな、宮内庁と煮詰めないといけないな」
其の日から近藤は資料を漁った。
明治以降の多くの学者は「皇国史観」に染まりきっていた。即ち「始に大和ありき」という思想から、どうしても抜けきることが出来ないでいた。だから先の高松塚古墳の四人女人像の服装についても、山田博士の朝鮮の高貴な女人の服装である、を退けて、隋、唐の流れであると強引に発表した。日本古来とはいくらなんでも云えないので、せめて中国である。朝鮮の影響は以ての外であった。
近藤は資料を調べるうち、キトラ古墳の被葬者は舒明天皇(629~641年)時に渡来し、天武三年(674年)没の百済王族の昌成と断定した。
近藤は山田博士に報告した。
「私も君の意見に賛成だ」
「先生、発表はどうします」
「被葬者は未だ分からず、でいこう」
「宮内庁とその線で話し合います」
3月7日の全国紙一面は、「キトラ古墳の調査発表」で埋められていた。
「最古の星宿確認! 白虎、青龍も」
「西に白虎、東に青龍、天井には星座図も」
「天武直系の皇子の墓か?」
記者発表の後、9月30日、近藤は研究所長室に興奮して入って行った。
「先生、高句麗です」
「なにが?」
「キトラの星座を東海大の情報科学センターが分析しました」
「結果がでたのか?」
「はい、今の北朝鮮の平壌を含む北緯38~39度地域から見た星座が描かれているそうです」
「やはりな」
【 四 】
百済を逃れた禎喜王一家は海路40日をかけて飛鳥に到着した。叔父の昌成王を頼ったのだ。従ったのは10人余りの家臣だけ。6丁櫓の舟での悪戦苦闘の旅であった。
叔父昌成の屋敷は飛鳥檜隅という所にあった。640年に大和に渡来した昌成は朝廷組織や軍政の編成に長じていて、百済びいきの天智天皇に重用され、謂わば政治顧問的な役職を果たしていた。その後禎喜王もその聡明さを天皇に認められ、叔父の近くに屋敷を賜り、妻崔姫、愛娘と共に充実した日々を送っていた。
しかしその平安な暮らしは永くは続かなかった。禎喜王一家は二度目の不幸に見舞われる。世に言う「壬申の乱」である。
天智天皇は660年に都を飛鳥から琵琶湖湖畔大津に移した。近江宮と呼んだ。当時、異母弟大海人皇子を皇太子として後継者に立てていたが、遷都を機に長子大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せ初めていた。これが天智天皇後継争い、壬申の乱の兆しであった。
671年12月、天智天皇は病に伏せる。大海人皇子は天皇が後継を大友皇子に急ぎ決すると考え、其の場合自分に危機が及ぶこと必死と確信し、大友皇子を皇太子として推挙し、自ら出家を申し出て、吉野宮に下った。時の人はそのことを「虎に翼を付けて放てり」と評した。大海人皇子にこころ寄せる宮廷人は多数居た。
先に動いたのは大友皇子の方で、天智天皇の大規模な墓を造るという名目で美濃尾張の人民を徴収し、戦闘体制に入っていることを公表した。
6月、大海人皇子もついに戦うことを決意、兵を募った。大海人軍は2万人にも及んだ。大友皇子はおおいに驚き、決戦を急いだ。戦闘一ヶ月、瀬田唐橋の東西に陣を張り合い、雌雄を決すべく一大戦闘となった。
一進一退の均衡は大海人軍の大津皇子の勇敢な突撃で崩れ、大友軍は雪崩をうつように敗走した。大友皇子は翌払暁自死した。時におん年25歳。
戦後処理として左右大臣は死罪、流罪に処せられた。その後大海人皇子は飛鳥に帰り、飛鳥浄御原宮を造り、天武天皇となった。古代国家が確立したとされている。大友皇子に近かった昌成、禎喜王の百済渡来人にまでは罪が及ばなかったものの、天武天皇は新羅でほぼ統一されている「朝鮮」情勢のなかで、百済系を退けるようになった。
翌674年、昌成王は病に倒れ、春の終わりに息を引き取った。禎喜王は「私が身罷ってから開けてくれ」と、床に伏した昌成王から一通の封書を預かっていた。開封してみると埋葬する墳墓のありさまが克明に描かれていた。
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一、キトラ(北浦)の地に定めること。
二、盛り土をして、中に八尺立方の室を造り棺を入れること。
三、室の天井に高句麗の空の星座を描くこと。
四、壁には四神を描くこと。
全てが終わったのは、翌675年の秋であった。
ある夜、禎喜王は妻崔姫を自室に呼んで、重大な決意を語った。
「このまま、この飛鳥地に居ると、命が危なくなるのは必定。新羅のもの達が数多く朝廷に入り込んできている。我ら、百済人を黙って見過ごすことはないだろう」
「どう、なされるのですか?」
「日向の地に逃れよう」
傍らにスヤスヤと眠っている、姫皇女は13才の麗しい乙女に成長していた。
この流浪の貴人には安住の地はないのか。
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禎喜王読み歌
君待つと 我が恋ひをれば 我が宿の 簾動かし 秋の風吹く
崔姫読み歌
一日こそ 人も待ちよき 長き日を かくのみ待たば ありかつましじ
【 五 】
明治13年、信平一行は7日間かけて、宮崎県臼杵郡南郷村に着いた。
あたりは濃い霧が一面に立ち込めていた。視界は5米ぐらいであろうか。九州山地に囲まれた奥深い山里であった。
この地は、古代には日向の臼杵郡氷上郷と呼ばれていた。小丸川沿いに道をさかのぼり、耳をすませてみると、霧のながれる音がする。谷は狭まり、侘しい山奥の谷の道を進むと、にわかに前方が開け、盆地が広がる。ほっ、と安堵するような里があり、その和やかで神秘的なたたずまいがいかにも由緒ありげな集落であった。この地は「神門」と呼ばれていた。
信平は予め知ってたかのように集落を突き進んで行く。集落の中心部辺りまで行くと、樹齢500年以上かと想われる大木があり、そこは神門神社の境内であった。もう夜半は過ぎていた。
「お前達はここで待っておれ!」というと、信平は一人で尚も社の方向に進んでいった。
前庭の中ほどまで行った、その刹那、「スド~ン」とにぶい大音響がした。次に赤い火柱が社の階段前から立ち上がった。信平はその場に立ち尽くし、背中に「青龍」の掛け軸を背負い、手には数珠を握り締め、必死に呪文を唱えていた。
火柱が消えると、その中から赤い衣を纏い、頭には五徳(鉄輪)を逆さまに被り、五徳の三本足からも赤い炎がチラチラと出ていた。口が頬の半ばまで裂け、赤い舌を息をするたびに出し入れしている。
妖怪である。その妖怪女が声をだした。
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大小の神社 諸仏菩薩 明王部天童部
九耀七星 二十八宿を脅かし奉る
祈れば不思議や 雨降り 風落ちて
神鳴り稲妻頻りに充ち満ち
御幣もざざなき 鳴動して 身の毛もよだちて震えるや
恨めしや、お方と契りしその時は
玉椿の八千代の双葉の松の末かけて
変わらじとこそ思ひしに などて朝廷にこそ
我らを殺めしぞ
あら恨めしや 殺められて なぶられて
想い残せる 涙に沈み
朝廷を恨み、夫 子を失ひ 胸ちぎれる悲しみに暮落ちる
寝ても起きても忘られぬ想いに焦がれしわが身
又して朝廷の犬よ! 我が悲しみを逆撫でするか!
この紅蓮の炎を浴びよ!
と信平に灼熱の炎を、頭上より浴びせかける壮絶さ。信平は尚も一心不乱に呪文を唱え続けた。
「これで死ねっ!」と女が大音声で云うと、二度目の爆発音が轟き、火柱が女の前方で立ち上がった。その爆風の凄まじさで信平は後方に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
その時の衝撃で背中の「青龍」の箱が大きく上下した。
今度は信平の背後から猛烈な水柱が吹き上がり四方に大量の雨を降り注いだ。息を呑み、凝視していた降伏と辰十郎は期せずして二人同時に云った。
「龍だっ!」
立ち上がった水の柱はやがてうねうねとゆっくりとした動きで、次第に龍の形を形成し始めていた。龍の目が動いた。目を定めると火柱めがけて突入していった。
火と水が空中で絡み合うように凌をけずった。
「朝廷の犬が!」
「違う! 共に涙するために来た!」
「なんと?」
「隼人族 三千人と同じまつらわぬ者の涙なのだ」
その龍の声を聞くと、火柱は叙々に勢力を弱め、小さくなっていった。女も消え、あたりに元の静寂が戻った。火柱が消えた跡に一枚のお札が落ちていた。信平が拾い上げ胸の中に収めた。お札には龍が描いてあった。
信平一行は次に霧島にある隼人塚を目指した。塚には石の五重の塔三基を取り囲むように四天王像がある。信平は中央の五重の塔に「龍」のお札を納めた。
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夕立はやく御空より 馳せくだる日に 見るべきものぞ 隼人塚
西南の役の西郷隆盛は隼人の末裔と信じられている。「まつらわぬ者」の系譜は脈々と九州の地に流れていた。
【 六 】
675年秋、禎嘉王一家は日向に着いた。
禎嘉王が日向の地を望んだのは、祖先からの言い伝えで、その昔百済から時の九州王朝に渡来し、その神聖地である日向高千穂に住み、王朝内部で頭角を現し、そのご飛鳥に新王朝が出来た時期に召し出された一族がいたという。
その名は「蘇我」という。その誼を頼りにしたのだ。
宮崎県宮崎郡田野町に田野天建神社がある。神社所蔵の巻子本がある。題して『田野大宮大明神縁起』。その由来の冒頭に次のようにある。
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百済王禎嘉 流れさせ給ひ 豊秋津州日向の国 油津に御舟をよせ給ひ 我がいまそ
がりける処は何くぞ と詠めさせけるに 北にあたりて遥遥かなる山に 五色の まいさかりけるを これぞ我が住まいし処
ぞとおぼしめし
日向での禎嘉王一家を手厚く遇したのは日向隼人の長 直坂麻呂であった。直坂は自宅隣に禎嘉王一家の屋敷を新しく設け、この不遇な百済王族の学識の深さに心から尊敬の念を表した。
古代南九州から西九州一帯にかけて3万人の隼人族が生活していた。この勇猛果敢な隼人族に、朝廷も国司を派遣はしていたものの、カなりの自治を認めざるを得なかった。
【 七 】
1998年(平成10年)5月、奈良考古学研究所 所長室において、山田所長は助手近藤の話を聞いていた。
「先生、これは冗談話として聞いてください」
「何だ?」
「平成四年からの島原雲仙普賢岳の大爆発をご存知ですね?」
「憶えている」
「いろいろ百済人と九州の関りを調べていくうち、興味深い話がでてくるんです」
「どんな?」
「考古学というより、ややスピリチャルな話になりますが」
「今、コーヒ・ブレイクだからいいよ、それに古代人を理解する為には多少スピリチャル面も理解してたほうがいい」
「おそれいります」と近藤は話始めた。
雲仙普賢岳から真東に火山による断層のずれのライン、所謂「雲仙地溝帯」が走っている。有明海の対岸には金峰山があり阿蘇、大分大崩山と連なる。これが地溝帯上に存在する。地図で線を引くと、この真東のライン上に宮崎の高千穂と天の岩戸神社も存在する。もしやと思い「方位学」の資料を調べると、以下の記述があった。
「360度どこをとっても方位線であるが、ここでいう方位線とは東西線およびそれに対する30度、45度、60度、90度(南北線)の各方位線のことである。これらの線は中国古代からの方位学上、何らかの意味があると云われている」
近藤は国土地理院制作の「日本地図」の「九州」を広げて。雲仙から真東に走る「雲仙地溝帯」から南へ30度、60度、90度(真南)に線を引いてみた。
結果。
30度ライン 熊本五木五家荘を通って宮崎高鍋と川南の中間を抜ける。
45度ライン 日南市油津港、禎嘉王がたどり着いた港に抜ける。
60度ライン 霧島韓国岳を通り、高千穂峰を通過し志布志湾に出る。
90度ライン 薩摩金峰山を通過し枕崎にぬける。
神武東征の折、霧島高千穂の峯で東征を謀議し、宮崎に進駐して第二の宮、宮崎高千穂宮を建てたという説が存在する。
「う~ん、一体普賢岳とは何なんだ?」
「わかりません、ただ古代中国の方位学でいうと、何らかの意味があるとしか」
「意味ねぇ」
「はい」
720年、南九州一帯を揺るがす戦争「隼人の乱」が勃発した。乱の最大の要因は自治の侵犯である。
切っ掛けは遣唐使派遣航路の変更で、それまでの朝鮮半島経由を黄海を横断する南路に変更したことであった。それにより今まで以上に朝廷にとっては南九州が重要地域になり、713年に大隈国を造り南九州の支配権を強化しようとした。
自治を侵犯され始めた隼人族は反に打って出た。720年大隈国司を殺害するに至り、ついに朝廷と全面対決となった。
朝廷軍は将軍に、歌人としても高名な大伴旅人を任命し、3万人の大軍を南九州に送り込んだ。
それを向かえ撃つ南九州隼人軍は1万。
戦闘一ヶ月、奮戦虚しく隼人軍は敗れさった。隼人軍のうち三千人が斬首された。処刑場近くを流れる川は一週間に渡り「赤い水」が流れたという。
なかでも隼人首領 木乃宮佐多彦とその妻 結、長子宇多彦、三名の首は、炎天下の中、三週間も晒され、見るも無残なありさまになった。
結は禎嘉王の孫であった。
ここにおいて、九州王朝と百済王族は永遠に葬り去られた。