第十段
彷徨六文銭編
【 一 】
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露と落ち 露と消えに しわが身かな 浪速のことは 夢のまた夢
秀吉は関白就任時に吉野山から桜700本を醍醐寺に移植し、翌、慶長三年(1598年)三月十五日、後年「醍醐の花見」といわれる壮大な宴を催した。700本の桜が爛漫と咲き誇るなか、秀吉は北政所や淀君など妻妾6人をそれぞれ輿に乗せ、しつらえてある園内の八つの茶店を徒歩で回った。正に天下の「関白」の威信を遍く世に知らせしめるに充分な効果があった。
その醍醐寺の一隅に「清龍宮拝殿」が存在する。脇には名の由来となった湧き水「醍醐水」がある。大花見の会を前日に控えた夜、秀吉は清龍宮の一室で見目麗しい若武者と相対峙していた。
秀吉は「猿」と呼ばれていたのは周知の事実であるが、実は動物の「猿」に似ていたからではなく、別の事情があった。幼年期に「日吉丸」と呼ばれていたことと関連がある。滋賀県大津市坂本に「日吉大社」がある。俗には「山王権現」ともいう。元亀三年(1571年)信長の比叡山焼き討ちにより日吉大社も類焼したが、その後秀吉が再興している。
秀吉は日吉大社の禰宜の庶子であるという事実がある。日吉大社では「猿」は神の使者と信じられている。
秀吉の前で平伏している凛々しい若武者の名は、真田幸村という。この年31歳。
幸村は永禄10年(1567年)上州岩櫃城主 真田昌幸の次男として生まれた。本能寺の変の後、秀吉の傘下に入り、幸村は秀吉の下に留まっていた。
秀吉は幸村をことのほか信頼し、幼い息子秀頼の後見として頼みにした。
「幸村、内密じゃ、もそっと近こう、寄れ」
「は、はい」
「のう幸村、拙者も永くはない」
「……」
「そこで、おぬしに頼みがある」
と二人は半刻ばかり話しあっていた。
【 二 】
其の年の八月に秀吉は他界した。61歳の夏であった。冒頭が辞世の句である。
猿といえば、世に言う「真田十勇士」のうち、猿飛佐助がいる。
真田十勇士は、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好青海入道、三好伊三入道、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎、以上十人。
猿飛佐助は石川五右衛門と戦ったことがある。
「石が物言う世の習い、習わぬ経を門前の、小僧に聞かれた上からは、憶えた経が飛鳥の流れ、三途の川へ引導代わり、その首、貰った、覚悟しろ!」
そう云い終わると、五右衛門は仔細ありげに十字を切って、
「……南無さつたるま、ふんだぎや、守護しょうでん、はらいそはらいそ……」と、おかしげな呪文を唱えたので、佐助は危うく噴出しかけたが、辛うじて耐えた。
ところが、呪文が終わった途端、五右衛門の身体はいきなりぱっと消えうせた、かと思うと、一匹の大蝦蟇がどろどろと現れた。
「あはは……バテレンもどきの呪文を唱えたかと思えば、罷り出たる大蝦蟇一匹。自来也ばりの、伊賀流妖魔の術とは」
そう云ったかと思うと、はや佐助の身体はぱっと消えうせて、一条の煙が立ちのぼった、……と、見るより、煙は忽ち炎と転じて、あれよあれよという間に、あたり一面火の海と化し甲賀流火遁の術であった。
慶長五年(1600年)3月、天下分け目の戦い、関が原の合戦に先立つこと半年。九州豊後の国(現大分県)の臼杵湾内黒島に三本マストの外国帆船が漂着した。オランダの商船、リーフデ号である。
船長クワツケルナック、航海長ウイリアム・アダムス、イギリス人で後の徳川幕府外交顧問、三浦按人。日本に到着した初めてのオランダ船だ。このことが島原の乱(1637年)を切っ掛けに、カトリック国のスペイン・ポルトガルを日本から追い落とし、オランダが西洋の国としては独占的に日本と貿易をすることになる。
【 三 】
秀吉、幸村会談に戻ろう。
「のう、幸村。わしはこの際、エスパニアとポルトガルをこの国から追い出そうと考えてな」
「しかし、太閤殿下、交易の富はどうなされるのでございますか?」
「それよ、交易はうれしいが、耶蘇教がいやでなぁ」
「で策がおありでございますか?」
「うん、ある。オランダという国じゃ」
「オランダ?」
「そうじゃ、オランダじゃ」
「オランダですか」
「先の島津征伐の折、九州のあり様にわしは腰を抜かした」
「天下の太閤様がですか」
「そうよ。九州は別の天下だったのじゃ」
「別の天下と申されるのは?」
「耶蘇じゃ。キリシタンどもじゃ。島津以外はことごとくキリシタンに帰依してな、特に島原の有馬は酷いものじゃった」
戦国大名、有馬晴信は肥前島原半島の有馬の地に、信長の安土城を模したといわれる壮大な日野江城を本拠地としていた。晴信23才の時、洗礼を受け、以降九州で最右翼のキリシタン大名となる。晴信はキリシタン庇護のあまり、城下の寺院をことごとく焼き討ち、檀家をキリシタンに強制的に改宗させ、最盛期には領民五万、全てがキリシタンになった。
わずか四万石の大名でありながら、スペイン、ポルトガルとの交易で莫大な富を得ていた。居城、日野江城の全ての瓦に金箔を敷つめ、その輝きは有明の海を行く舟から、陽の光を浴びてキラキラと見えた。
また、海の出城である原城まで、城下から2キロにも及ぶ海上の大橋を架け、晴信は愛馬で一気に原城まで駆け抜けるのを日課としていた。
「で、わしは京都のキリシタンどもを見せしめにして、イスパニアとポルトガルを追い出しにかかった」
「でもなかなか、キリシタンは減りませぬなぁ」
「そこじゃて、悩みの種は。幸村よ、秀頼はまだ子供じゃ。お前が付いておらねば」
「三成殿や増田殿がおられますが」
「あいつらは武人ではない。政の人間じゃ、政の人間はその時々で考えを変える。わしが死んだら、一騒ぎが必ずある。その時は武人の出番じゃ、いいな、幸村」
「はい! わが身を賭して秀頼様をお守りいたします」
「よく、云ってくれた。そら、もそっと近こう、近こう」
幸村が秀吉の側に寄ると、秀吉は幸村の頭を抱き、ポロポロと涙を流した。
その後、秀吉は一枚の絵図面を幸村に渡した。
【 四 】
慶長元年(1596年)土佐の国の瀬戸海岸に一艘のスペイン船が漂着した。フィリピンからメキシコを目指す途中、台風に遭遇したのである。
秀吉の命を受け、調査に出向いた増田長盛は航海士から「スペインはまずキリスト教の宣教師を派遣して信徒を増やし、やがてその国を征服するのだ」という言葉を耳にし、そのまま秀吉に伝えた。
聞いた秀吉は衝撃を受け、激怒した。既に発していた伴天連追放令を根拠に、国内で布教活動をしていた宣教師たちが捕らえられた。
京都ではフランシスコ会の宣教師ペドロ・バブチスタら6名、その他計24名が捕らわれた。慶長二年(1597年)、24人のキリシタンたちは、京都の一条の辻で左耳をそぎ落とされ、見物人が見守る中、市中を引き回され、その後 本拠地の長崎へと送られた。
1月9日に堺を出発。山陽道を西へ裸足で歩かされ、下関で二人が加わり、計26名となった。2月4日、彼杵の宿に到着。大村湾を小舟で時津港へ渡り、翌日の早朝、処刑地の長崎の西坂に向かって浦上街道を歩いた。5日、西坂の丘で長崎港に向かわされ、26人は役人に槍で突かれてこの世を去った。長崎は有馬氏が統治していた。見せしめである。4000人もの群集が集まった。
この中に年少者は3名。
聖ルドビコ茨木、12才は、「わたしの十字架はどれ?」と尋ね、背丈にあわせて準備されていたものに走り寄った。磔の際「ハライソ、イエス、マリア」と言った。
聖アントニオ、13才は、涙にくれる両親に「泣かないで、私は天国に行くのだから」と逆に慰めたという。
聖トマス小崎、14才。母に当てた手紙が現存する。
「神のお助けにより……父ミゲルのこと、ご心配くださいませぬように。パライソでお会いしましょう。お待ちしております。イエス・キリストの幾多のお恵みを感謝なされば救われます。この世ははかないものですから、パライソの全き幸福を失わぬよう努力なさいますように」
厳冬の西坂の空は、悲しいほどに青く澄んでいた。
【 五 】
明治14年の春、島原。夜、居宅にて信平は小夜の点てた茶を一口含むと「うム」と怪訝な顔をした。
「お分かりになりましたか?」
「備前の……」
「はい、美作の海田のお茶です」
「なつかしい」と残りを飲み乾した。
「小夜さん」
「はい、」と小夜は真っ直ぐに信平を見詰めた。
「私は家に居ないことが多い」
「いらっしゃっても同じです」
「それは?」
「側においででも何かを考えておいでです」
「分かるのですか?」
「分かります」
「寂しいのでは?」
「いいえ」
「いいのですか? こんな暮らしでも」
「はい。私が選んだことですから」
「夫らしいことはできないが」
「いいのです。私は、私だけの信平さまと思っていません。人様の為に貴方を捧げたと思っていますから。それが雪野さまにお教え頂いたことですので」
二人の間に一瞬沈黙が拡がった。それを破るように、「ごめんください、ませ」と誰かが訪ねて来た。
「猪原信平様はご在宅でしょうか?」
「はい、わたくしですが」と信平は応接に出た。
「私は、吾妻村牧ノ内から参りました、芦塚大助と申します」
「芦塚さん……」
「はい、突然のお伺い誠に申し訳ございません」
「いえいえ、で用向きの程は?」
「恐縮でございます。それは物の怪のことでございます」
「えっ、物の怪? ですか? ……奥へいらしてください」
信平は芦塚大助という年のころ40歳半ばの背筋が伸びた働き盛りの男を、座敷に案内した。芦塚は、まるでそこにあるのを予め分かっていたかのように、二副一対の青龍の掛軸の前に座り、瞑目した。
二人は相対座した。信平から質問した。
「でどのような?……」
「はい、私どもと縁ある方の物の怪にまつわる話を、是非術師であられる猪原様にお聞き頂きたいのでございます」
芦塚の話は次のようなことであった。
鹿児島の指宿群頴娃町に芦塚の主筋にあたる人の墓がありが、毎年夏の10日間、辺りに「物の怪」が出て、地域住民を大いに不安がらせている。墓の子孫は居ず、その話を誰にすればいいか、住民は困り、めぐりめぐって一の家臣であった、私どもに文書にて相談が来た。墓は木下姓で辺りは木下地域という。
【 六 】
翌日、信平は鹿児島に向かった。付き従うは降伏と辰十郎。4日の行程である。
頴娃町のはずれ、木下の角というところに墓はあった。赤松の大木の下に五輪の塔があり、墓自体は苔むして木下姓は読み取りづらかった。三人が墓を調べていると背後より問いかける声がした。
「来て頂きましたか」
驚いた様子で振り返る信平達に、
「伊集院と申します」と深々と礼を尽くす老人が居た。
「猪原信平です。こちらは弟子の降伏と息子の辰十郎です。この度は芦塚様のご依頼でこの地にまかりこしました」
「まことにありがたいことでございます」
「で伊集院どの、この墓の主は?」
「豊臣秀頼どのです」
「えっ!……」
「伊集院家は、薩摩家から秀頼殿の監視の役目を仰せつかり代々この地に住んでいます」
「やはり、秀頼様の生存伝説は誠の話だったのですね」
「まごうことなき真実です。それと信平殿、芦塚さまはご自身のことは?」
「いえ。なにも」
「あの方のご先祖は真田幸村公なのです」
「なんと!」
「信平さまには、難事の解決をお願いするのですから、この際、全てをお話した方がいいと考えました」
「全てをお話いただきありがとうございました。これで、物の怪と相対峙する心がまえができました」
「では、当家で、夜までごゆるりと、旅の垢を落としください」
「痛み入ります」
江戸中期の作家上田秋成は『胆大小心録』の中で、西軍側武将木村村重に使えた女中から聞いた話として、「大阪夏の陣、敗戦濃厚になるや、真田幸村は秀頼殿を伴い、千飯蔵から、夜陰に乗じて、掘割伝いに川筋へと舟を漕ぎ出して、海上に逃れ、その後、薩摩へ落ち延びた」と書いている。
当時のイギリス東インド会社の平戸商館長、リチード・コックスは1615年(元和元年)6月5日の日記に、「秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず」と書き記した。
【 七 】
1615年(元和元年)大阪夏の陣。
島津義弘は秀頼救出を決断した。
理由は二つ。一つは対徳川の隠し玉として。もう一つは真田幸村が提出した「秀吉の埋蔵金」である。当時財政難であった薩摩は喉から手が出るほど欲しかったのだ。大阪落城寸前のある夜、島津家臣 伊集院半兵衛は京橋口から忍び入れた小船に、秀頼、幸村親子を乗せ、急流に乗って一気に河口まで下って本船に移った。
薩摩に着いた秀頼は頴娃町に住まわせられた。幸村親子は牧之内に家を与えられた。
目的を果たした薩摩は、秀頼をもう相手にしなかった。秀頼は所在無く酒浸りの日々を送り、1630年に37歳で不遇のうちに死去した。
夜の帳がおり、信平は秀頼に墓に向かった。墓の前で、三人は端座し呪文を唱え始めた。風が吹き始めた、その時「さがっておれ!」と二人にうながした。
二人がしりぞいた瞬間に、何かが信平に襲いかかってきた。信平にははっきりとその姿は見えていた。2mばかりの怪物である。頭は猿、尻尾は蛇、手足は虎の爪を持つ、鵺である。物凄い風を巻き起こしつつ、鵺が野太い声を出した。
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こがれて堪へぬ大阪を、
忍び果つべき異郷暮らし、
あな怨めしや、薩摩方、
さて我も悪心外道となりて
徳川、薩摩両家の障りとならん。
「どかん!」と物凄い音がして、一塊の雨が鵺を貫いた。
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雨の矢で貫くとは、
果てもこの秀頼、
龍神に納まりをつけさせ賜った。
もはや冥界に安んじて赴かん。
【 八 】
1638年(寛永15年)島原でキリシタンの一揆が起きた。世に言う「島原の乱」である。前年に戦が起き、一揆軍は「原城」に立て篭もること一年。農民中心の反乱軍にしては戦略が長けていた。
当時熊本細川藩に身を寄せていた剣聖 宮本武蔵は藩主に願い出て、島原まで出向いた。反乱軍の戦振りを見届ける為である。武蔵は原城大手門が見下ろせる小高い丘に立っていた。
その時、大手門が開かれ、馬上の白髪の武将が五人の歩兵を従えて、幕府軍に突進してきた。「今だ!」と幕府軍は何百もの兵が襲いかかる。槍先が馬にかかる寸前に白髪の武将は踵を返し、大手門へ引き返した。勢いに乗じた幕府軍は武将を追いかける、が突然道の両脇に隠れ潜んでいた一揆軍が躍りかかった。面白いように串刺しされる幕府の兵達。見ていた宮本武蔵は呟いた。
「あの兵法は……真田だ。六文銭だ」と。
真田の子孫は島原半島に暮らし続けた。名を「芦塚」という農民になった。
吾妻牧之内の「芦塚家」である。信平に怨霊鎮撫を依頼した人物である。
その後、信平の息 辰十郎の嫁に「芦塚」の長女がなった。
牧の内で採れる米は半島内で最高品質を誇る。これは「芦塚家」の研究成果である。