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S i t e ま つ を


2000年7月



2000_07_28

修多羅の森でソーメンを食す


近頃,休日になると俵山氏はふらりと我が家にやって来る。
「まつをさん,キャンプで避暑に行こう」
「明日は世間様は仕事である」
「あ,そうか」
言っておくが,彼はそこらのプータローではない。驚くなかれ某中小企業の社長である。

俵山氏「どこかいこう,そうだ今度オレが買う土地を見に行こう。三浦半島にあるんだ」
「あれ?久住の温泉付き土地ってのはどうなった?」
「あ,あれは気が変わった。今は三浦のリゾート。いいよう最高の海の見晴らしだ」
「……あんたの見つけてくる土地と女性には会わん」
実際その後,彼は手付け金まで入れていた三浦の土地を契約半ばでほっぽりだした。
 

まつを「あれだな,あんたが住みたい所ってのはだな,今まであんたから聞いた話を要約するとだな,人里から遠く離れた山の中で,森に囲まれてて,眺めると海が見えて,温泉が湧いてて,毎日通える刺身のうまい居酒屋があって,夜中に腹が減ったときのためにコンビニがすぐ側にあって,彼女が道に迷わずに歩いてこれるようなところなんだろ」
「そうなるかな」
「長生きしろよ」

「で,今日はどこにいく?」 「じゃあ,ソーメン喰って,ただひたすら うたた寝するってのはどう?」 というわけで例によってキャンピングカーの出動である。


修多羅の森下の広場に到着。

多良岳山麓にあるため涼しい。自宅から小1時間も車を走らせればつく避暑地だ。そしてここに湧く水は抜群にうまい。


写真はさっそく湯がいたソーメンを湧き水で冷やす俵山氏。口元に注目。彼はうまいものを前にすると,本当にうれしそうな顔をするのである。


できあがったソーメンに氷を浮かべる。


薬味に俵山氏はいつも凝る。今回用意されたのは,ネギ,ショウガ,ミョウガ,そして柚胡椒。 うまい。 俵山氏曰く,「こんなに美味いソーメンを喰ったのは初めてだ」
だろう。だから案内したのであるよ。本当に水一つでここまで抜群にうまくなる。 結局1人あたり5輪,食したのである。


写真は,キャンピングカーのタープの下で,ソーメンをすする俵山氏。眼下に有明海を臨む爽快なロケーションもここの魅力だ。

ソーメンを喰ったあとは,車の中のベッドで爆睡した。起きたのが午後7時半。外はまだ十分に明るかった。九州万歳である。
明日からはまたキーボードを叩き続ける。自慢じゃないが,集中力には自信がある。それができるのも,こんな世界があるからだと,つくづく思う。人生はかくも楽し。

2000_07_20

シーカヤックで大村湾を横断

相棒が帰国する


海の日である。 同じ職場のスタッフ,クリスティーナが帰国することになった。 お土産には,モノより想い出。

「どうだい,クリスティーナ。大村湾横断でもしてみるか?」
ということで,大村公園前から艇を出す。
シールドクリームを塗って出発。 日差しが強い。

彼女はハワイ出身でライフセィバーの免許を持つ。
昨夜のお別れパーティーで「長崎で一番の想い出は?」と私が問うと,「壱岐で出場したトライアスロン」と答えた。
「じゃあ,シーカヤックに乗ってみるかい?」となった次第。
大村公園から出ると,大村湾の横断は直線距離にしてざっと4㎞。ちょうどいい距離だ。
「今の職場を離れてどこに行くの?」
「数ヶ月間,東南アジアをトレッキングする。タイでスキューバを楽しんで,マレーシアで熱帯雨林を見たい」
この言葉に痛く感動する。 日本のどこに「熱帯雨林を見たい」という女性がいる?

穏やかな大村湾


それにしても大村湾は,いつもながら穏やかな水面だ。 対岸に二つの島が見える。いつも大村側から眺めていた島だ。 その二つの島のわずかな間を抜けようと目指す。


艇の上でサンドウィッチを食べる。 水は今回一人あたり2リットル飲んでいた。

対岸の島に上陸

約1時間後,対岸が近まるにつれ,間があいているようにみえていた二つの島の間は, 砂嘴になっていることが判明。 ではそこに上陸しようということになる。


どうも無人島のようだ。蝉とカラスの音が満ちている。 写真は,島の岸壁沿いに循環している図。 原生林が水辺に枝を伸ばしトンネル状になった下を抜けていく。 「アドベンチャーね!」と彼女が声を上げる。 水が意外なほどに澄んでいた。


砂嘴に上陸。 砂嘴の上は貝殻で一杯だ。

みると木陰に小さな建物がある。近づいてみると,真珠の核を入れ込む作業小屋だった。


「見せてもらっていいですか?」
「ん?いいよ。どこから来た?」
「舟を漕いで大村からです」
「おお,さっき少し見えとった」

オヤジさんは,丁寧に説明したあと,クリスティーナの手に真珠を二粒乗せて「持っていきな」と言った。 粋なオヤジさんである。


小屋の横は,すぐ島の裏手に出てそこには貝の養殖用イカダが浮いていた。なんだかトロピカル。 イカダにいた5人ぐらいのオヤジさん,オバさんと話をする。 まあ,みんな聞くな,「どこから来た?」と。 屈託のなさに疲れがとれる。小さな孤島に突然,外国人が現れりゃ,そりゃみんな同じこと聞くな。

ということで,帰路につく。合計8㎞ぐらい漕いでいた。 途中,暑いといってクリスティーナが帽子をザブリと海に漬け,頭にかぶった。 まいった。まるでアウトドア雑誌だ。

達者で暮らせよ

いつも眺めている対岸には,誰だって漫然といろいろな想像を巡らしている。 今日はそんな山の彼方に行った日となった。そして彼女も,私たちの歳にはもはや遠い逍遥の旅に出る。 達者で暮らせよ。

2000_07_16

娘と俵山さんと竹崎の白浜海水浴場


月の引力が見える町。佐賀県太良町の竹崎はそんなキャッチコピーを流布している。我が国最大の干満差を誇る有明海に面した町だ。俵山氏は,カニを喰って温泉に入りたいという。娘は海水浴に行きたいという。ならば竹崎だな。当日は竹崎カニ祭りの最中。この日は,湯がいたカニが700名に無料配布され,全ホテルの温泉は無料開放なのだ。

上写真は,長いこと海を眺めていた俵山氏。何を考えていたのだろう。たぶん食い物か女性のことだと思う。


というわけで,3人でキャンピングカーに乗ってやってきた竹崎は白浜人工海水浴場。それにしてもこの取り合わせがよくわからない。時々そう思う。俵山氏は女性にかまけていないときは,我が家の周辺を徘徊しているのである。


さて,娘にとっては今年最初の海水浴。ルンルンなのである。ところが,今日は大潮の日であった。ただでさえ干満差が大きい上,大潮の引き潮にぶつかってしまい海水浴場に指定された海域は,小汚い水たまりのような状態。写真のように膝までしか水がないのだ。確かに地球の引力を実感(今HPを覗いたら「遊泳可能時間」という表が張ってあった)。それでもめげず娘はゴーグルをかけて潜る。
「おとうさん,潜ってもなにも見えない」
「そういうことも,時にはある」


写真は「おかあさんにおみやげ」と娘が集めた貝殻。


一泳ぎしてキャンピングカーに帰ってみると,俵山氏は一人でカニを喰らいビールを飲んだあと,腹を出して爆睡中。笑いながらこの写真を撮る。

時々,彼は人生観を熱弁する。聞いてて悲しくなるほどつまらない人生観だ。でもこうして悠然と生きていける。彼はそう言う意味で,私たちに希望を与えてくれる。人生にめげそうになってる人,ここに来なさい。たとえば仕事で,たとえば人間関係で悩んでいる人,この人をみなさい。

そういえば一度,彼はサイコセラピーのカウンセリング業を開こうかなと行っていたことがあった。あ,新興宗教を開こうかなとほざいていたこともあった。


饗宴第2ラウンド開始。起きるなり,旬のシャッパに食らいつく俵山氏。俵山氏の指南によって,娘もアウトドアに目覚めたかのようにシャッパに食らいつく。こんな楽しみは都市部ではできまい。わはははは。

配布のカニはもらい損なったので(もらうため1時間前から長蛇の列ができていたらしい),カニとシャッパを購入したのである。シャッパは1000円分購入したが,3人で十分な量だった。

この後,旅館の温泉に無料で浸かる。極楽。


キャンピングカーの中でくつろぐ娘。日々是好日。

大橋巨泉の『巨泉』という本が話題になっているので読んでみた。そこには,歳とって子どもを作っては自分の人生に障害になると記されていた。巨泉は所詮そんな人間なのである。私はどれほど子どもたちから、そして俵山氏からも多くのものをもらっていることか。

2000_07_15

長崎街道を行く

自問してみる。長崎のことをどれほど知っているかと。

長崎街道を歩いた。 今回は,エッセイ風にお届けする 「歴史トレッキングのすすめ」である。 今回はT氏に車で伴走していただいた。これによって長崎~大村間から4ポイントを選んで歩き,その他は車によって旧街道を進むというプランが可能となった。ありがたい。

1 【長崎奉行所西役所前】~【蛍茶屋】


朝の4時58分。 今日のトレッキングの始点は長崎県庁。普通,こんな時間に長崎県庁に来る奴はいないな。暑さを避けるためこの時間に出発。メンバーは4時に大村集合。私に至っては朝1時半から目が覚めていたのである。やれやれ。

    【長崎奉行所西役所前】長崎街道の始点は諸説がある。私たちは県庁からとした。ここはイエズス会本部→長崎奉行所西役所→長崎海軍伝習所と流転した地である。長崎奉行所の東役所は後に立山に移された(ここは立山役所と呼ばれ現在は県立美術博物館が建つ)。


唐通事会所・活版伝習所跡。今回は,お仲間『はもん会』のフィールドワークである。現場を歩かなければ,話にならないということで,今回は外へ。

    【唐通事会所・活版伝習所跡】唐通事会所は,一般的に通訳が専門と思われがちだが,実際は通訳の他唐人に関する貿易一切を取り仕切り犯罪の処理などをおこなった。 活版伝習所は,我が国の近代活版印刷の先駆けとなったところである。その始祖である本木昌造の旧宅跡は旧グランドホテル敷地内にあった。


末次平蔵宅跡。今回のコーディネイターをつとめるS氏。

    【末次平蔵宅跡】長崎開港から17世紀中頃まで,長崎で活躍した豪商。経済だけでなく政治的にも大きな影響力をもっていた。後には,1619年には長崎代官となっている。4代目の時に密貿易が発覚し処罰される。没収金は60万両であった。


やっと夜が白み始める。ここは長崎くんちで有名な諏訪神社だ。

    【諏訪神社】1648年に現在の地に造営された。相殿に森崎社,住吉社を祀る。 1857年火災により焼失,明治2年に再建された。この諏訪神社には,長崎でもっとも古い鳥居があり,石材は風頭山より切り出されている。1637年に建立,現在の二の鳥居である(石造明神型)。


ご存じシーボルトの居住跡地。彼は特例で市街地に住んでいたのである。観光の中心から外れた鳴滝にあるため,ゆっくりと時間が過ごせる。

    【シーボルト旧宅跡】シーボルトは,ドイツ人。1823年出島のオランダ商館医師として来日,鳴滝の民家を買い取り医学教育のための鳴滝塾を創設する。全国各地から彼のもとに多くの門弟が集まった。彼は,オランダ商館長に同行して江戸へも参府し,日本の各地の調査をおこなった。つまり今回散策した長崎街道を通って江戸まで旅している。


蛍茶屋跡。ここでかつての「長崎」が終わる。奥に見えるのが一瀬橋。長崎に別れを告げる橋だった。

    【蛍茶屋跡】地名の由来は,江戸時代ここに茶屋があり,その周辺は蛍の名所だったことから。明治はじめの頃まで栄えたが,大正時代には,衰退してしまった。

2 【日見峠越え】


日見峠越え。今回のメインイベントだ。鎖国時代,長崎が海外への窓として解放されていたのは,一つに最果ての地であったことと,地形的においそれとは立ち入れぬ地であったためだ。西の関所,日見峠。ならばこの日見峠を越えてみようではないか。鎖国の厳しさが感じられるだろう。そう考えたのが今回のトレッキングの発想点だった。

    【日見峠口】長崎市本河内町にある日見峠の西側登り口。写真,左手に見えるのが日見トンネル。大正15年に開通。当時,日本最大の人造トンネルであった。 日見峠の街道は,この上の山間を通っている。西の箱根とよばれた。


とはいったものの,ハードな登りは15分か20分ぐらいで登りは終わった。いささか拍子抜けする。考えてみれば私たちが日見峠を登り始めたのは,日見トンネルから。ここはもう長崎の中心部からずいぶんと登ってきた地点なのである。

    【日見峠の新茶屋の跡】日見峠には,茶屋が合計4軒あったといわれる。


ここが日見トンネルの上だとは,まずイメージしがたい。

    【日見峠東側の街道】 1861年~明治元年2月まで,この峠には関所が設けられた。目的は,勤王の志士の監視であった。


というわけで,日見トンネルの反対側に出た。結構,みんな余裕がある。

    【日見峠東側口】この登り口の向かいにあった梨の木茶屋では,正月の踏み絵がおこなわれていたという。


さらに進むと住宅街に出て,街道は車両用道路によっていたるところで寸断されている。

    【日見宿へ至る降り口】現在の国道34号線下の長崎街道。住宅地に寸断されながら日見宿に至る。


この写真の右側までが,かつての天領長崎である。

    【領境石標】現在の田中町の住宅地にポツリとたつ。石標面には,矢上方面に「従是北佐嘉領」,日見方面に「彼杵郡之内日見境」とある。この石標の近くには,腹切り坂といわれた坂があり,1808年のフェートン号事件の際,佐賀藩士が責めを負い切腹したという場所である。

3 【矢上宿】~【赤松坂】


矢上の宿である。現在は番所跡に白い濵田食堂が建っていた。朝の9時。そういえば,早朝に出発したため,朝食も取っていない。こんな時間はどこも開いていない。さんざん探し回って弁当屋さんを発見。

    【矢上番所跡】この両側に柵を巡らして,旅人を監視し取り締まったという。矢上宿には,本陣,脇本陣があった。番所があった当時,旅人が矢上宿に入るとまず,飛脚を長崎までおくり宿を取らせて飛脚が戻ってから矢上を出発したという。


古賀人形で有名な小川家の藤棚。こんなに大きな藤の木には滅多にお目にかかれない。ものの大きさを写真で伝える際は,このようにしましょうというモデル的写真。ポーズを取ってくれたメンバーに深く感謝。

    【古賀の藤棚】江戸時代の古賀村は島原領→幕府領→大村領と幕府領の相領と支配が変化した土地である。左の写真は,小川家の入り口にある江戸期より伝わる藤棚。この場所は,茶屋があったことでも知られている。小川家は,古賀人形を今でも制作している最後の一軒である。いうまでないが,この町の特産品は江戸期より植木であり,現在でも植木の生産は盛んである。


領境石標。今回のトレッキングで,明らかに長崎街道を巡ってらっしゃる方に,2度出会った。いずれもソロだ。その内のお一人は、小倉側から長崎に向かってらっしゃるという。全行程を複数の休日に振り分けて歩かれる予定らしい。脱帽である。

    【領境石標】この石標は,古賀より井樋之尾峠に向かう分岐点に立つ。発見当時は,現在の地より50メートルほどずれた地点に立っていた。石表面には,表に「従是南佐嘉領」,右側面に「彼杵郡之内井樋之尾」とある。


山道にさしかかった長崎街道から眺めた高速道路。歴史や風俗やは,その地を歩いてみなければわかりにくいと,つくづく痛感。


井樋之尾峠のお篭立場。このような史跡が点在する。この辺りはのどかな山村といった風情である。
井樋之尾峠付近の林道。現在は舗装され植林もされているが,江戸期の街道の面影が残っている。渡る風が心地よい。

    【井樋之尾峠のお篭立場】井樋之尾峠は,標高150メートルの峠である。この場所は,大名が休息のため篭をすえたところといわれている。


峠の茶屋跡。こんなにうまい水が湧いている。山頭火の一句が頭をかすめる。昔の旅人もこのように喉を潤してきたことだろう。

    【峠の茶屋跡】井樋之尾峠の茶屋があったところである。現在も水神様が祀られ,水は地元の人々に利用されている。写真のとおり飲用もでき美味である。


樋之尾峠の付近の郡境石標。井樋之尾峠を諫早側へ下っていく街道脇に立っている郡境石標。 久山までは,あとわずかである。


道は一端平野部に出たかと思うと……

    【新茶屋跡】現在の久山町,水田が広がる農道であるが,旧久山茶屋の人が下ってきて新居を定めた地といわれている。但し,ここには茶屋があった形跡はない。旧久山茶屋は,この農道より上の幹線道路を隔てて向かいにあった。当時の名物は「うどん・そば」


また急な上り坂に入ったりするのであった。

    【赤松坂】新茶屋横の風情が残る坂である。名前の由来は,久山,貝津の境を示す赤松の一本松があったことからついている。残念なことに,松は大戦中に枯れ現在はない。

4 【鈴田峠】


諫早の破籠井。ここから長崎街道をまた歩く。しばらくは「道に迷ったかな?」と思いさえするが,しばらくすると,長崎県内にある街道で最もいにしえの姿を感じさせてくれる場所へと出る。よろしい,実によろしい。


鈴田峠の長崎街道を歩くと,いたるところにかつて荷車などを引いたであろう轍の溝が残っている。 当時の轍の跡が残る地点は長崎~大村までの長崎街道でここだけのようだ。


大渡野番所跡。

    【鈴田峠の長崎街道】未舗装のままで長崎街道の本来の姿を残している数少ない地点である。この地点から数百メートル上った地点に陰陽石と呼ばれる不思議な石が見られる。

おわりに

もし私が「長崎街道を初めて歩きたいんですが,どこを歩いたらいいでしょうか?」と聞かれたら,私は破籠井から大村方面に至るコースを薦める。旧跡が多いというわけではないが,辺りを流れる空気が独特である。雰囲気に浸りつつトレッキングができる。
逆に史跡を求めるのであれば,やはり長崎周辺のコースが群を抜いている。

長崎街道を歩きたい人のために。 詳しい地図付きの本は次のとおり。

○『伊能図で甦る古の夢 長崎街道』 河島悦子。(株)ゼンリンプリンテックス,2300円。
○『平成ロマンの旅 長崎街道』 長崎青年会議所(TEL:095-825-2709)。2500円。写真集+解説書。電話注文で郵送。
なお学術的コースの子細については,長崎県教育庁文化課に問い合わせられることをお勧めする。

追記:記載当時はネット上の情報も少なく、書籍も限られていた。現在は豊富な情報があられるものと思う。

2000_07_09

国立西洋美術館・国立博物館

朝,ISO氏と行動開始。上野に浸かることにする。まず彰義隊の墓等を巡る。

国立西洋美術館「レンブラント,フェルメール オランダ絵画展」。 私は少年の日の夢を,一つ果たすことになった。 レンブラントの『ターバンを巻いた自画像』。高校時代,何度も何度も飽かず画集で見つめ続けた作品だ。どれほど私は多くを学ばせてもらったろう。その作品に私は出会うことができたのだ。絵を見ながら涙が止まらなかった。レンブラントは,本当に神の目と手を持っていた作家だと思う。

常設展では中学校時代に,巡回展で出会い絵葉書から模写をしたクールベの『波』の現物に出会う。常設展に展示されたコレクションはみなその細部まで頭の中に残っていた。少年期に触れた作品は一生残るものだと実感。

次に出向いた国立博物館。改めて広さを再認。最後の方では二人とも床にへたり込む。平成館の展示法に感心する。疲労困憊し,その他の美術館を諦める。

アメ横へ。路上に机とイスを出した露天でビールを飲む。店の名前は『珍々軒』 うまい。行き交う人の波の中,ぺこぺこのイスに座って眺める東京は,笑ってしまうくらい東南アジアである。

2000_07_08

東京オフ会

会場の東方見聞録を求め,ISO氏と新宿副都心を彷徨う。

というわけでオフ会。
一番奥が,最初に集会されたYOU氏とdoms氏。 その後ぽつりぽつりとメンバーが集まる。ま,ま,乾杯!
上写真で写りがオフな方と,初めての方を紹介。ozawaさん、こばえさん、、オゴーさん、vincent.さん、仲介人さん。魅力的で濃いメンバーであった。
途中,俵山氏から電話が入る。はいはい。爆睡

 



 


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Profile まつを

生きてることを楽しもう。座右の銘は荘子の「逍遙遊」。長崎県。

「よくこんな事をする時間がありますね」とおたずねになる方がいらっしゃいます。こう考えていただければ幸いです。パチンコ好きは「今日は疲れたから、パチンコはやめ」とは思わないもの。寸暇を惜しんでパチンコ玉を回します。テレビ好きも、疲れているときこそテレビをつけるもの。ここにアップしたものは、私が疲れたときテレビのスイッチを押すように作っていったコンテンツです。