2005年10月
2005_10_31
散人氏 胡蝶の夢
今宵は、散人氏の豪快にして濃密な話に耳を傾けよう。
象を捨てる
散人、一ヶ月の出張命令を受けた。フィリピンの博打場ゲンティ・ハイランドである。象を一瞬に消すマジックを中心にしてダンス・ショウを華やかに繰り広げる、総勢40人の舞台の福大将である。あの世界は大将は現地に行かない。散人が全てを取り仕切るはめになった。
あれやこれやあったが無事一ヶ月の公演が終わった。出演者は飛行機で帰るが我々スタッフは大道具と共に安い船便で帰れと本社はいう。船会社は象はダメという。本社はそれじゃ売ってこいという。やっとのおもいで現地動物園に売って帰ってきた。
帰ってきて先輩と焼き鳥やで苦労話をした。先輩、「Tよ、いいよお前なんか、おれは船に象を乗せたばかりに途中で船員の猛反対にあって」「なんですか?」「象を捨てろ、ていうんだ」「えっ、それでどうしたんですか」「捨てたよ、海んなかへ」「……」帰ってきて一週間後新聞に「種子島の海岸に一頭の象の死骸が漂着」とでてたそうだ。
埴谷雄高
先輩に依田という人がいた。係長で散人の上司であった。仏のヨダチャン(あの世界はちゃん付けでいう)と言われるくらいいい人であった。どれくらいいい人であったかというと、あるとき奥さんに男ができた。「いいよ、いいよ、」で全財産まで渡して別れてやった。それくらいいい人である。
依田さんが「おい、T。今日夜つきあってくれ」「いいですよ、でどこに」「おじさんのとこへ」「え、おじさん? 一人で行けばいいじゃないですか」「たのむよ、なぁ」てなことで吉祥寺へ向かった。
駅に着いて10分ばかり歩くと木造の平屋建てあり、「ここだ」と依田さんが立ち止った。表札を見ると「般若豊」とかいてある。「はんわか?」「ばか、はんにゃ」と依田さんは口に指をあてていった。依田さんに馬鹿よばわりされるのは心外だ。なにせ依田さんは明治の野球部出身だ。「おれは明治の野球部だ」が口癖で学部は云わない。どうも万年2軍だったらしい。「売れない小説家」と車中で依田さんはいった。「実は俺一冊も読んでない」とも云った。
玄関へ入ると令夫人が来られた。とんでもない雰囲気である。「本、本、本、本、」の洪水だ。廊下を行くと「歩きづらいでしょ」と令夫人が微笑まれた。応接間に先生がいらした。鶴みたいな人だった。ウイスキーとチーズがでた。それからすき焼きになった。10時にお暇した。車中で思った。あの先生の微笑みは全てを包みこむ感じだ。「あたしは不幸を避けたい。幸せになるよりも不幸を避けたい」という先生の言葉が耳に残った。あの「般若 豊」が『死靈』の「埴谷雄高」だと知ったのは一週間後だった。
北川登園と柳美里
読売本社文化部に北川登園(たかのぶ)という演劇記者がいた。大酒飲み、酒乱、不真面目、の3点セットの男がいた。だが不思議とだれからでも愛されていた。
定年退職前、大仕事を成し遂げた。読売演劇大賞の創設である。当時社長はあのナベツネ(渡辺恒雄)である。とうえん(ぼくらはそう呼んでいた)は演劇を評価しないナベツネを椅子から立ち上がって殴りそうになり、慌てた部長が羽交い絞めにして事なきをえた。ナベツネさん、怖くなり読売演劇大賞の創設を認めたそうだ。
「Tよ、青春五月党ていいぞ」「そうですか」ということで登園さんにくっついて新宿にある小さな劇場にいった。終演後、うら若き女流主催者がやってきた。化粧化はないが色白のつるりとした可愛い娘だった。かぼそい声で「りゅうです」といった。「このひと、ぐんぐんいくよ」と登園さんがいう。或る時期、散人は登園さんとだけツルんでいた。芝居を見る以外は飲んでいた人だった。寺山修司の盟友であった。だからそれ以降の演劇人をなかなか認めようとしなかった。
或る時登園さんに呼ばれたので新宿花園のバーに行くと床に大の字になっていた。ママに聞くと伊丹十三に「アンタの映画はばばぁの厚化粧だ」といってパンチを食らったそうだ。担いで河岸を変えた。登園さんは今も健在だ。今度上京の折は会いたいものだ。「青春五月党」の「りゅう」さんは「柳 美里」のことだ。
江利チエミ
江利チエミは戦後の歌謡界のトップスターの一人だった。彼女の歌う「テネシー・ワルツ」は帰還兵たちの涙をさそった。彼女のミュジカル『アニーよ銃をとれ』はその後のミュジヵル・ブームの魁となった。
そんな彼女も凋落のときは来る。散人の劇場で『アニーよ銃をとれ』を上演した。主演は桜田淳子。
ある日散人はロビーにいると誰かに肩を叩かれた。見ると江利チエミさんだった。喫茶店に誘われた。江利さんに「桜田アニー」のダメだしをいくつか出された。本人は近くのグランド・キヤバレーの仕事だった。
それから数年して夜電話があった。「泉岳寺近くのバーにいるからすぐ来てくれ」と。世間話程度ではあったが声に力がないのと、牛乳割のウイスキーのピッチが速いのが気になった。それから遠からずの内に亡くなった。
この秋、東京の劇場で江利チエミの半生記ミュジカルを上演すると聞いた。散人は江利さんから沢山の話を聞いた。現存してる方もいるのでまだ云えないはなしもある。
いいソフトが残るというわけでもない
滅んでいった傑作ソフト『ARUGA』
現在、文章ソフトは『一太郎』を主に使っています。『ワード』は無骨で嫌いです。でも一番好きだった文章ソフトは断然『ARUGA』。知らないだろうなあ。傑作ソフトでワープロとお絵かきとExcelを同じ画面上で使えるような知る人ぞ知るワープロソフトでした。
でもね滅んでいきました。そんなもんなんですね。いいソフトが残るというわけでもない。そのソフトが廃れれば、作ったデータも使えなくなります。南無。そう、あの頃書いた膨大なデータは死滅。 2005_10_25
決めたら悩まない
深く考えることは必要ですが、悩むことは煩悩です。
問題が起こった場合は、考えぬきますが、ベストな対策を決めたら実行するだけ。その時点から悩まないようにしています。悩むことで対策が好転するなら意味はありますが、往々にしてそんな悩みは生むものがありません。悩まぬが一番。ベストを尽くし天命を待てばいい。
あれこれ些細なことで悩んでいる人は、結局暇な人だと思っています。
字がヘタな人
帰宅すると家人の容態がかなり改善していました。なによりです。
字がヘタな人
高校時代に○橋さんというクラスメイトがいました。彼女は日本画に描かれるタイプの美人で、立ち振る舞いもおしとやかで、成績優秀な女性です。ところが壊滅的に字がヘタクソでした。
彼女が板書して去った黒板には、まるで悪魔の呪いのような字がでかでかと書き付けられておったわけです。初めて見た時、学級全体がしーんとなりました。息を飲むって、あんなのを言います。
彼女は元気なんでしょうか。そして彼女の子ども達も、悪魔が残したような字を書いてるんでしょうか。
家人が床に伏せました2
主夫業は続いています。なるべく早く帰って夕食を娘と作り、風呂を入れ、食事して、後かたづけして、洗濯機回して、息子を風呂に入れ、布団を敷き、寝て、早朝娘と一緒に起きて、一緒にお弁当を作り、ゴミ出しして、布団を上げて、家人の枕元にポット等を置いて仕事に出かけています。
こんな作業の中、娘を見直しています。娘もあれやこれや手伝った後、勉強してます。会話も多くなったし。娘よ、いいぞぅ。あれですね、現代の子ども達は家庭内失業をしてるんですね。やればできる。
2005_10_17家人が床に伏せました
家人が床に伏せました。大忙しですが、こんな時家族の結束は強まるものだと実感しました。私はなるべく早く帰り、普段台所に立つことのない娘も料理に立ち、息子はメモ帳を持って私の買い物につき合う。家族の会話が一気に増えた一日でした。
2005_10_15囚われから離れる
私たちの人格の根幹は宇宙そのものとつながっている。このような主張は、古代インド哲学やギリシャ哲学、ローマのストア哲学やなにや、多くの宗教や思想の中で語られていることです。
若い頃、そんなイメージが私の頭の中にあって上のような絵を描いていたんだろうと思います。それをとても神秘的なコトだと感じていたわけですね。 けれど、そんな囚われから遠ざかってきて、人物の描き方が変わってきたようです。若い頃の絵は気負いがすごくって見ていてつらいといいますか、「あんちゃん、リキむなよ。そんなこと先刻承知」といってやりたい感じです。 2005_10_10
作品との距離をとる
久々に絵を描き始めて実感することは、筆が以前よりもずっと自在に使えるようになっているということ。
これは年齢がある程度いったことと関係するのでしょう。若い頃は出したいことが渦巻きすぎていて、手が走ってしまうんでしょう。今は脳味噌の思うように手が動いてくれるようになったようです。それから作品との距離が測れるようにもなっていました。
演奏を考えるとわかることですが、パトスに任せてばっかりいたんでは、いい演奏はできません。どこかに冷静な自分がいなければいけない。これは、この前ご一緒させていただいたサックスプレイヤーMALTA氏も強調していたこと。
2005_10_07国家官僚には高額を与えよ
国家官僚は高額積んで集めないといけません。国家の安全保障に関わります。かつて秀才は学問積んで国家を支えるために官僚になった。
ところが、この頃のメディアとそれに煽られた世論は、国家官僚の給与を安くしろの大合唱。あのね、市役所の窓口雇うのとは違うですよ。
被害者の顔写真は流されるのに、加害者の顔は流れない
「大阪発砲、覚せい剤で逮捕の男関与か」この手のニュースが流れるたびに浮かぶ素朴な疑問。被害者の顔写真は流されるのに、加害者の顔は流れない。たまらないですよね。
例えば夜の街をぶらついていた女子高生が殺害されても、女子高生の顔は流れ、加害者の顔は流れない。世間に「この女子高生は深夜徘徊していたバカ娘です」と流され、殺人者の顔は流れない。
確かに刑確定までは被疑者でしょうけど、発砲覚醒剤男も流されないのはおかしい。
東京都庁を眺めながら
東京・鎌倉の旅から帰ってきました。皆様方、大変お世話になりました。やまさん、新宿付近がお住まいでしたか。残念、またの機会を。くるよさん、ありがとうございました。写真は、2泊目のホテルで、モーニングを食べた席からの風景、都庁前です。人間はこんな風景で食事をするようになったらいかんと思います。
2005_10_01いざ鎌倉
江ノ電で、いざ鎌倉。
鶴岡八幡が時を経ても実にアクティブなことに感銘を受ける。 東慶寺で小林秀雄の墓へ。我らがカリスマ、西田幾多郎、和辻哲郎、鈴木大拙のお墓参りもと願ったが、同行した集団に取り残されそうになり断念。その後、建長寺へ。なんてったって鎌倉五山第一位、我が国最初の禅寺。次に竹の庭で有名な報国寺へ。
とって返して鎌倉の大仏さんへ。青空を背景にお座りになるその姿のものすごいリアル観にまいりました。中にも入れるんですね。知りませんでした。 最後に長谷寺。こちらの9㍍におよぶ金色の観音様のオーラも圧倒的。それにしても鎌倉観光地エリアの物価は高い。ハウステンボス並みです。