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2006年3月



2006_03_31

映画『いつか読書する日』

映画『いつか読書する日』を観ました。長崎をロケ地とした作品です。知り合いの職場が出てきたりとかで、そんなところに惹かれて観たのですが、よかった。いい映画です。

2006_03_30

ちゃんぽんを作ったのは四海楼ではないとの説

捨郎さんから次のようなコメントをいただきました。

ちゃんぽんを作ったのは四海楼ではない。

そもそもチャンポンは、中華メンを持たなかった長崎庶民がうどんの変形として作り上げたもので、ボクなどが少年のころまでは明確に麺そのものが中華麺とは違っていたし、麺製造屋も別だった。明らかにうどん文化の食品だった。

商売にしたところで、最初にやり始めたのは丸山の日本人本吉某で、勝海舟なども日記に残している、華僑が丸山で店など開けなかったころの話だ。新地中華街や館内で華僑がチャンポン人気にあやかって中華麺で作り始めたのは、あとの事なのだ、長崎人は人が良いと言うか、まんまと中華元祖説にのせられて、自らも宣伝をかって出てるように見えるときもある。


後日隠れた穴場「じゅん食堂」のご主人にお聞きしましたら、「いかにも。ウドン麺がルーツ。ただしスープは豚骨スープではなく、鶏ガラスープであった」とのお話。なるほどと。「じゅん食堂」でのそのメニュー名は「中華肉うどん」。

2006_03_19

雑誌「AGASA」

長崎のコラム雑誌「AGASA」発売。私もちょっと書いてます。

2006_03_10

感銘を受けたサイト

久々に感銘を受けたサイトに出会えました。その中の1ページ、エロマンガ島の歴史をご紹介します。お勧めです。

2006_03_04

里山道楽「月が語るもの」

今回はアーティスト吉田隆氏の言葉に耳を傾けよう。

月が語る。月が語るかのように私の意識に浮上してくる存在への思いがある。その環境も含めた自分の存在について思いを巡らす中で、いつしか月が語りかけるかのように姿を現すのだ。月の出現は比喩ではない。今思えば存在への思いがある深みにまで達した時に、実際に私の眼前に月が現れる。もしくは月が現れる時に応じて存在への思索が深まっていく。月は自分の外にある何者かとの関係の中で出現するものなのか、それとも自己の内面と対話しようとする意識が月の出現という共時性をもたらすのだろうか。自分と月までの距離がとても身近に感じられ、あたたかく見守ってくれているかのように、そこに月が現れる。少なくとも私にとっては何かしらポジティブな意味があることだけは感じ取ることができる。  この1年あまりの表現行為のなかで私の脳裏に浮かび上がったイメージを振り返ると、図らずも物語りのような展開を見せていることに気がついた。まずはじめに馬が現れる。いつのまにか馬は見渡す限りどこまでも続く静かな海に佇んでいる。その馬が暗黙のうちに私を誘う先には、激しく飛沫をあげながら落ちていく巨大な滝があった。その圧倒的な激しさの中においてもなお静かに佇んでいた馬はいつしか姿を消し、そこには暗闇の中に滝を浮かび上がらせる巨大な満月がわたしの前に姿を現した。今のところ物語はそこまでである。

仮に海が無意識の象徴であるとしたら、その海の中へ降りていったところに、無意識に潜む、いや無意識そのものがエネルギーの巨大な奔流となって流れているということになる。それは生命誕生のときから刻み込まれた経験や記憶の集積と捉えることができはしまいか。一瞬といえども止まることなく、また二度と同じ姿になることもないが、常に奔流としての姿を崩すことのない巨大な滝が、自分自身の心の奥底に渦巻くカオスであると同時に、そのカオスが宇宙全体にまでつながり呼応しているというフラクタルな関係として浮かび上がってくる。それはカオスであると同時に互いにつながっていることこそが重要なことなのだと思う。それではそのカオスを照らし出す「月」とは一体何か。それも「私」という意識のメタファーなのか、それとも「私」の外にあって私の意識に働きかける力なのか。「馬」が姿を消した今、今度は「月」が何かを語ろうとしているのではないだろうか。

「心の現実」という考え方がある。科学というあくまで客観的なものの捉え方ではなく、人が感じることがなにより「現実」として大切にされるべきなのだと思う。逆にいうと、主観的なものの見方、感じ方を意識的に排除することで科学が進歩してきたといえるのだが、今に至って排除してきた「心の現実」のあまりの巨大さに押しつぶされようとしているのが今の時代といっていいのかもしれない。

私もそれとは気づかないうちに、科学と同様に近代西洋が築き上げてきた美術の枠組みの中で物事を見たり感じたりすることを、ことさら抵抗もなく受け入れてきた多くの日本人のひとりである。そこでは良くも悪くも明治以後の日本の絵画が、近代西洋の芸術という枠組みの中で既に閉じた世界のシステムとして成立しており、そのシステムの中で具体的なイメージをつくりあげることによって作品が完結してきた。そのことははじめからわかっていることであり、「描くこと」自体が近代西洋絵画というシステムの中にいやでも組み込まれてしまうことを意識しはじめると、もはや今ここで描くことの意味さえ見失ってしまうのだ。私のこれまでの空白の10年とは「私は何者か」や「私が描くこと」への問いが、既に組み込まれた安易な自己表現の方法論として空しく闇にすいこまれていったからだと思う。

近代西洋絵画とは、ある意味で科学が排除し無視してきた「心の現実」との葛藤ではなかったろうか。そして現実を科学によって人間が支配しようとする西洋社会の奢りを、主観的な叡智で捉えようとした芸術家が、現代美術と呼ばれる巨大で醜い塊を生み出したのだと思う。したがって現代美術の多くは時代の証言者とはなっても、それ以上のものを生み出すことはなかった。それは悲しいかな、近代西洋が生み出した科学と芸術の宿命なのかもしれない。近代の西洋絵画史のなかでひと際精彩を放ったのが、アフリカや東洋の精神をとりいれたものであったことが如実に物語っているといえる。

願わくば古代から営まれてきた絵を描くというプリミティブな経験の蓄積と、そこから生まれる思考によって活性化される意識の、さらにその奥から聞こえてくるかもしれない美しさの要請に耳を澄ますことができないものか…それはおそらくあのカオスからたちあらわれてくるであろう「風景に出会えることを信じるという精神的な営み」から生まれるのではないだろうか。そして作品を見る者も、そこに出会えることを信じた瞬間に「心の現実」としてエネルギーの交感がはじまるのだろう。「心の現実」として見ることのできる風景を共有することができれば、どれほど素晴らしいだろうか。遥かな昔においてつながっていた心が、作品を通じて再びつながることができるのではないだろうか。それでも実際にそうした風景に出会うことが容易にできるとは思えない。その試みは、自分自身の心を読み解き、世界の有り様を読み解くことが非常に困難であるのと同様に、自分の心のカオスに立ち向かうことが、どれだけ難しく危険なことなのかを私はまだ知らない。たとえ認識論の壁を超えたとしても、さらに果てしなく広がる存在論の闇。それはかつて幼い頃に感じていた自分がいなくなることの恐怖にも似ている。はたしてこの漆黒の闇の中で描くという行為はどこへ向っているのか。そしてふたたび描くことが本当にできるのだろうか――しかし既にその物語は始まっているのかもしれない。馬が海(心)の深みに私を誘い、業の織りなすドラマを滝の姿として月の光のもとに映しだす。つまり心(宇宙)のカオスの闇を照らすあの「月」が、今静かに語りはじめているからだ。

2006_03_03

『イリス展』

久々に私の絵画作品の展示会をします。

『イリス展』

3月3日(金)~3月18日(土)。

速魚川ギャラリー(島原市)。

ギャラリーでのご紹介文
今回は福岡のフェルト作家松井ひかり氏とのコラボによる展示会。私がF6作品を彩度を渋くおさえ、彼女の作品があやどってくださるという構成。モード的色彩にあげてますのでお気に召したらお一ついかが。会場は島原の文化発信基地、猪原金物店のギャラリー。この猪原金物店、金物店とは名ばかりの(失礼)超マニアックな店。築百年を越す建物に手を加え、駐車場前には島原の湧き水が早魚川となってこんこんと流れております。ギャラリーは中庭に面し、ここで手打ち蕎麦を食することもできます。この界隈はネオクラシックなおしゃれな街に変身中で、粋な小物をあつかったギャラリー絃燈舎や喫茶の青い理髪店があります。早春の光の中、島原ぶらり散策はいかがでしょうか。お出かけの際は、湧き水を汲んでかえるポリタンクもお忘れなく。

2006_03_01

『ナガサキのおばあちゃん』

長崎から平和を発信する新しい本ができました。『ナガサキのおばあちゃん』

作・高橋克雄 絵・吉田隆。←ほれ、私の飲み仲間の黒糖庵氏ね。

私もまだ読んでないんですが、大人が読んでぴんと来る内容でもあるらしいですよ。黒糖庵氏は上のような挿絵を担当です。定価1,200円で長崎県内の主要書店では3月8日から販売。買ってやってください。長崎県読書感想文コンクール指定図書選定。

 


 


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Profile まつを

Webデザイナー。長崎市・島原市との多拠点生活化。人生を楽しむ。仕事を楽しむ。人に役立つことを楽しむ。座右の銘は荘子の「逍遙遊」

「よくこんな事をする時間がありますね」とおたずねになる方がいらっしゃいます。こう考えていただければ幸いです。パチンコ好きは「今日は疲れたから、パチンコはやめ」とは思わないもの。寸暇を惜しんでパチンコ玉を回します。テレビ好きも、疲れているときこそテレビをつけるもの。ここにアップしたものは、私が疲れたときテレビのスイッチを押すように作っていったコンテンツです。