2012年9月
世界の行く末
15年前のこのコーナーの記事を見直していたら、次のような文を書いてました。
モノと金のだぶつきと偏在。エネルギーの捨て場の枯渇
「①最初の崩壊は金融システムの破綻として出現します。それに対しては大国の世界戦略の失敗という批判が浴びせられます。底には,モノと金のだぶつきと偏在という分かりやすい状況があります。こうして世界はターニング・ポイントを迎えたように見えるかもしれません。②けれど文明のターニング・ポイントは,さらに根元的な波がもたらします。それは環境・エネルギーという要因で起こる波です。エネルギー問題はエネルギー不足の問題ではないのです。それはエネルギーの捨て場の枯渇の問題です。地に空に海に廃棄物が充満し始めます。雨の降る地域が地球的規模で移動し,食糧問題が起きます。こうしておこる第二の崩壊で,より深刻な文明の曲がり角を迎えることになるでしょう。」
この記事後、世界的レベルで繰り広げられるマネーゲームはアジア通貨危機に終わることなく、ギリシアを端緒とするEU危機に広がろうとしています。原因は大国ではなく各国の世界戦略の失敗として批判が浴びせられています。また、フクイチ問題はわが国の国策の文明的転換に及び始める様相も見せ始めました。ペルー沖ではエルニーニョ現象が起き世界食料への影響が心配され始めています。
また、EUといえば、これに関して14年前に次のように書いていました。
ユーロができたのは,政治が金融機関と戦ったということ
「①ユーロを作ったということは,政治が金融機関と戦ったということ。歴史のお勉強。銀行のルーツは両替商です。フィレンツェのメディチ家なんかもそうでしょう。ユーロにするということは,参加各国のお金を両替して儲けるってことができなくなります。次に,各国のお金を売り買いして博打のように儲けるディーリングができなくなります。金融機関はユーロ創設に反対したことでしょう。金融資本主義といわれるように金融機関は強い力を持ってます。この声をねじ伏せてでもユーロを作らなくちゃいけないほどヨーロッパは追い込まれてた。②その追い込まれた原因は,最初,日本の台頭だと言われてました。ユーロの発想が始まった頃,そう言ってました。でも本音はそれよりも,ディーリングだデリバティブだという国際的金融ギャンブラーに対抗して,安定した経済を作ろうとしたのでしょう(もっと複雑ですが分かりやすく書きます)。
③さっそくコラムニストがこんなセリフを言ってました。「世界中が同じ通貨になればいいんですよ」 この意見もおバカさんの意見です。一種類の通貨になれば,その国独自の金融政策ができなくなると言うことです。途上国にはメチャクチャ厳しい経済状態にあるところが多いのです。一つの通貨にしたら,貧困している国はイッキに崩壊します。
鳥取砂丘は環境破壊の跡
かつてこのコーナーに掲載した復刻版記事シリーズ。
鳥取砂丘は環境破壊の跡
鳥取砂丘は環境破壊の跡です。古墳時代(4C~6C),中国地方の山中で砂鉄を原材にした製鉄業が始まりました。この砂鉄を溶かす木炭を作るため,山中の木々が伐採されました。そのため土砂が流失し海へと流れ出て,さらに細かい砂だけが冬の季節風によって打ち上げられ長年の間に堆積したのです。大砂丘になったのは安土桃山時代。中国地方ではこのような被害がひどかったようで,松江藩ではこの保護に乗り出しているほどです。実はこの製鉄場のことをタタラといい,映画「もののけ姫」の舞台ともなりました。ところが現代日本人の多くは,このことを読んで驚くかも知れません。このような歴史を教えられていないからです。歴史が,人間と人間の抗争中心の記述では,大切な側面が欠落してしまいます。歴史は人間と環境の関わりをもっと記述すべきではないかと思うのです。未来を見通すための道具として歴史は語られるべきです。
もう少し,そんな例を語ってみましょう。
メソポタミア文明は環境破壊で追い込まれて行った
メソポタミアについて。前8000年頃から人類最初の農耕牧畜がここを含む「肥沃な三日月地帯」で始まりました。メソポタミアとは「川の間の土地」という意味で,ティグリス・ユーフラテス川にはさまれた地域です。ここに成立した都市を地図上に確認していくと,面白いことがわかります。最初シュメール人が前2700年頃に建設した都市国家ウル・ウルク・ラガシュ,次に古バビロニア(前19~前16C)の都バビロン,さらにアッシリア(前11~前7C)の都ニネヴェ。これらの都市はだんだんと川の上流へと上がっていっているのです。
これは環境破壊によります。灌漑農業にともなう塩化現象で土地が白く水産化カルシウムで覆われてしまい,上流へと逃れていった跡なのです。この地の収穫量はかつての最盛期(前2400年)と比べると現代4分の1だといいます。
環境が歴史を変える
このように環境が歴史に与える刻印には,大きなものがあります。フランス革命期は寒冷期であり食料が不足気味でしたし,1989年の東欧革命の際も,天候不順による農作物ととりわけ食肉の深刻な欠乏がその底にありました。2012_09_08
長崎市の湧水
長崎市の湧水が話題になることはあまりない。水の都といえばたとえば島原が頭に浮かぶ。実際、わが家の飲料水は基本的に島原のものを使っている。けれど汲みにいく時間が工面できないときがあるわけで。というわけで長崎市の湧水。飲用は自己責任で。
現川駅方面の湧水。
畑の道沿いに湧いている。トンネルを掘った際に湧き出したものといい水量豊富。より大きな地図で 湧水 を表示
観音茶屋観音水。
滝の観音の観音茶屋にある。ボーリングで自墳。100円。大きな地図で見る
西町湧水。
個人住宅と川の間にある浅井戸に自墳している。8月9日の平和祈念式典での献水としても使われいるとのこと。大きな地図で見る
道ノ尾温泉
前で冷泉が汲める。7リッター100円。大きな地図で見る
ムカデにかまれる
11日23日夜、ムカデにかまれ、ポイズンリムーバーと所持する塗り薬で対応。手馴れた(苦笑)緊急対応のため痛みなし。12日昼、オオスズメバチに刺され、病院で処置。アナフィラキシー・ショックなし。よかったよかった。なおアナフィラキシー・ショックの恐ろしさは川おじさんのサイトをご覧ください。病院の話によると、今年はハチやムカデの被害が多いとのこと。春の寒のもどりが弱く、ここで例年ならば死ぬ昆虫がそうなっていないためかとのこと。
2012_09_14
文明は初期には攻撃的。徐々に温和となっていく
文明はその初期には攻撃的ですが,それが飽和すると穏和で循環的な性格に変わっていきます。
たとえば農業文明も最初は凶暴
まず農業文明について。「農業でもして,ゆっくり暮らします」なんて言葉を耳にします。農業には穏やかなイメージがあるんですね。けれどこのイメージは昔からあったものではないんです。それどころか農業文明はその初期,極めて凶暴なものでした。これは農業文明を持ち込んだ弥生の遺跡,例えば長崎県壱岐の「原の辻遺跡」などをみれば明らかです。農具と一緒に多くの武器が出てきますし,戦いで傷ついた人骨も出てくるんです。
江戸時代になってやっと温和に
紀元前300年頃,農業文明をもった弥生人が,縄文人のいた日本に武装侵略してきます。この農業文明の侵攻と紛争の波は,戦国時代にピークを迎えます。その後江戸の鎖国政策とあいまって文明の飽和状態を迎え,循環的経済が志向されるようになります。人糞を畑にまくなんていうのは,その代表ですね。こうして農業のおだやかなイメージが定着していきます。
工業文明も最初は植民地獲得に明け暮れ
工業文明も同じパターンをとります。18世紀後半に始まる工業文明はその初期、植民地化獲得に明け暮れ極めて攻撃的です。そろそろこの文明も飽和状態が見え始めました。地球的諸問題ですね。循環的経済を志向する穏やかな集団が,今,各地で立ち上がろうとしているのかもしれません。
縄文海進
過去の気候をかなり推定することができるようになっています。近いところで特徴的な時代を見てみましょう。
6000~4500年前、海面は5mぐらい高かった
6000~4500年前は今よりも温かく,海面も高かった(縄文海進といいます)。九州有明海沿岸で現在よりも-1.9mと+4.8m(『北部九州における縄文海進以降の海岸線と地盤変動傾向』下山正一)。この時代に我が国では縄文文化が始まります。関東地方に珊瑚礁があり,今の奄美の気候でした。ただし暖かかったのは縄文前期であって、縄文時代でも寒い時期もありました。
縄文時代、九州にはほとんど住んでいない
縄文海進があった早期のころ、九州の人口は極めて少ないと言われています。下の図をご覧いただくとそのことが分かりますね。縄文の大型遺跡として有名な三内丸山遺跡も青森にあります。
縄文時代は約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)
縄文時代は通説に、約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)とされ、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代とされていますが、縄文期以前に開始した縄文海進のピークが6000~4500年前ころと言うことではないでしょうか。
2012_09_16
現代人の時間感覚
右肩上がりの歴史観
私たち現代人は時間がたてばたつほど,物事は発展するというイメージを持っています。未来という言葉は,今と異なった文明の姿をイメージさせるでしょう? これがいわゆる「右肩上がりの歴史観」と私が呼んでるやつです。近代以前,時間は振り子のようなイメージ
けれど,かつて人類は時間に対してそんなイメージは持っていませんでした。近代以前,時間は振り子のようなイメージでとらえられていました。自分の父も祖父も曾祖父も私と同じ生活をし,そして私の子孫も永劫まで私と同じような生活をするという感覚。たとえば中世ヨーロッパでは,人間が歴史を作るっていう発想もなかったのです。つまり,全能の神に抱かれたキリスト教の歴史観ですね。
右肩上がりの歴史観を植え付けた思想家たち
ところが,こんな時間感覚に疑問を抱く連中が現れ,近現代の時間感覚を植えつけ始めます。まずイギリスのベーコンは,進歩とは物的進歩と捉え,思想を技術的問題としてとらえることで,現在への流れを導きました。
その後,弁証法を唱えるヘーゲルやマルクスの思想がこれに裏打ちをしていきました。ジョン=ロックの機械体系的社会認識やアダム=スミス以来の経済学ってやつも,この発展をめざす時間感覚に沿ったものです。
「理由」から「方法」へと、学問が問いの方向を変えた
このように時間感覚の変化には,学問が「理由」を問ってた時代から,「方法」と結びついた時代への移行が背景にあるんですね。「理由」を問い続ける文化では「人間ってなんだろう?」という点にいつも帰りますが,技術を追い続ける文化は効用性・能率が支配する直線的感覚が支配しています。
酒浸りの生活を脱するためティー
19世紀イギリスの産業革命期、酒浸りの生活を脱するため紅茶を楽しむ習慣が広まったとか。ティーです。人間ドックの結果、酒を断たねばならないことになりました。お茶系に凝ってみようと思います。
ということで本日のティー、ブルーベリー&クランベリー。艶やかな赤い酸っぱみのあるノンカフェインのフルーツティー。
ライター 下妻みどりさんのインタビューをアップ
先日出版された『長崎おいしい歳時記』の作者、下妻みどりさんにインタビューをお応えいただきました。とても読みやすく、そして長崎愛に溢れたこの一冊。てらった食べ物ではなく、長崎市で日常に食せるものを対象に書いてあり、それでいて「食いたくなったな」といつの間にか思っている。そんな長崎に住む幸福を再認識させてくれるお薦めの本です。
プチ入院から退院
ご心配をおかけしました。良好です。退院するときに気づきましたが、病院天井は写真のようにパンクな状態。室内に寝て過ごす者にとって外見は気になるものではないなと。それよりも医師や看護士のケアの方が大切。
この病院、制度として対応が整っており感心しました。例えば、毎日朝夕執刀医がベッドまで訪問診、毎朝に看護団が「本日のスタッフです」との来室、退院時の「入院患者満足度調査」アンケートなど。お世話になりました。
2012_09_27
減食日記
今回、私の周囲には食の見直しを迫られている方が結構いらっしゃるということを知りました。なにかの参考になればと思い減食に至る記を綴ってみます。
人間ドックに入ったのが9月20~21日。その1週間前ぐらいの体重が73.5キロ。そのころから少しずつ食を調整していました。といっても通常の方が食べるぐらいの量になったということです。4日前ぐらいから酒も絶ちました。その頃、心配事も周囲で重なり多忙な日々でした。
病院の「標準食」の少なさに驚く
人間ドック前夜の19日21時から絶食。20日朝食なしで人間ドックへ。採血等検査。病院で用意された昼食は標準食ということでしたが、私としては「えっ?」という感想。ごはん小茶碗1杯、味噌汁、トリ肉(パス)、温野菜少々。いかに私が採り過ぎていたか今にして思えば分かります。
人間ドックは2日間コースを採りました。周囲で体調不良となる方々が多かったためですが、結果としてこれが今回の発見につながり結果的に正しい選択でした。
無駄に豪華な宿泊ホテル
さて2日間コースはパックになっているらしく、用意されたホテルをキャンセルしても料金は同じとのこと。ならば泊まるかと行ったホテルの部屋の風呂写真がこれ。押して知るべし、部屋のゴージャスさ。ダブルベッド仕様の豪華な部屋。だからどうしろというのか。夕食は翌日の検査に向けた消化のよい軽い食事で飲酒なし。長い夜。
大腸ポリープ切除へ
21日、朝食なし、昼食なしで検査。結果がよろしくなく、その場ですぐにプチ手術手続きをとって帰宅。以来、食事量は家人の協力によって控えめ。断酒宣言。ハーブティに凝り始めたわけです。
減食日記2
-3キロのダウン
21日以来、家人に管理してもらい食事。結果、プチ入院直前の体重は70.2キロ。ざっと2週間前から-3キロのダウン。入浴時に顔を洗うと油分が減ったことに気づきます。血圧も105~60にダウン。この状態で21~23日の入院へ。21日施術。終日絶食。点滴。お茶類は飲めてルイボスティなどを楽しんでました。空腹感なし。眠れないかと思いましたが、その心配もなかったようです。
病院食
病院食を紹介しましょう。世界の病院食などを紹介したサイトはこちら(クリック)。興味深いサイトです。
22日、朝食は下写真の流動食。重湯、味噌汁具なし、豆腐っぽいもの、梅干しペースト。ゆっくり摂って満腹感あり。
昼食、三分粥、味噌汁ほぼ具なし、大根の煮物、みかん、たいみそペースト、ジュース。15時ごろに点滴終了。
夕食、五分粥、吸い物、大根の煮物、タイの煮付け、白玉。足りないかなと思いつつも、食べ終わる頃には満腹。
血圧が平常値に
血圧が終日110~60程度であったため薬を1種減(後に主治医に確認)。夜はいつの間にか眠りに落ちていてました。8時ごろでしょうか。体が軽い
23日、目覚めると朝の5時半でした。廊下を歩くと軽い。なんといいましょうか、体の重心が変わったような感じで爽快です。けれど体重を計ると70.2キロで入院前とほとんど変わりません。ずっと横になっているからでしょう。本当に体が軽く感じました。
朝食、七分粥、味噌汁、はんぺん、たいみそペースト、ビスコのようなもの、牛乳。牛乳を飲むと体がいやな感じになりました。牛乳は合わないようです。減食食事でいると体の反応がよくわかります。普段はそのあたりが鈍感になっていることに気づきます。
絶えられない空腹感なし
入院中、絶えられない空腹感は経験しませんでした。頭はすっきりしています。そして体が軽い。体重計での変化はありませんでしたが、心持として頬の肉が少しだけとれた気も。こうして手術を機に減食へ向かっていきました。帰宅し、昼食はごく軽いお粥、味噌汁、高野豆腐の煮物、ヨーグルト。夜食はお粥、豆腐の味噌汁、タイ、山芋とカボチャの煮つけ。
夜、入浴後に69.8キロ。やっと70キロの壁突破です。
減食日記3
ダイエット・プラトーを超える
28日の起床時体重69.2キロ。シャバに出て動き出し入院中減らなかった体重が減少。なかなか超えられないダイエットの停滞のことをプラトー現象といいます。この壁が私の場合は3キロ。入院という管理状態でこれを越えることができたのかもしれません。運動はしばらく控えるように医者から言われています。余談ですが絶食は素人では3日までが限界とのこと。プチ絶食の記録がここにあります(クリック)。
朝食
昼食
夕食
で、三食これを食べてみて、痩身の家人の通常量であることに思い至りました。
50代から自分に「爺ィなのだ」と言い聞かせる
ボクも粗食に目覚めたのは50代のことでしたよ(笑)。何せ 飲むワ喰うワで、100キロ近くなってしまっていて、実際は体重を測るのも嫌になっていて 正確には分からないのですが、人様に挨拶しようにも、体がふんぞり返っていて、夜の町では、ヤクザに挨拶されてしまう始末(笑)。
ダイエットを気遣ったこともないのですが、ある日ふと、腹も減ってないのに習慣のように飯を喰ってることに気付いたのでした。いつのころからそうなったのか判然としませんが、若い頃は確かな空腹感を乗り越えて食事の時間にたどり着いていたことに思い至ってからは なんら苦労することなく粗食に慣れてしまいました。歳とると、だんだん腹も減らなくなるのです(笑)。
歳をとるって言うのはね、老眼はすすむし、体力は落ちるし、手すりがあったほうが無いよりは安心したり(笑)。そりゃ確かにね あちこち細かいことを言えばきりがないようで。でもね メンタルなところでは、思春期以来何ら深化しているようにも思えないものが、自分を支配してましてね(笑)。
以来 粗食・減食が効を奏したのか、自然なダイエットとなり、酒も旨いワ、調子もいいワの医者いらずでここまで来てしまいましたが、50代ころから、たえず何かにつけ自分に「爺ィなのだ」と言い聞かせることを務めのようにしています(笑)。
これはね 実を言うと、「自分はまだまだ若い」と言ってしまうことよりかなり、難しいのです(笑)ホント。試して見て下さい。だからって老いぼれてしまえってことではないんですから(笑)。
入院中に8キロ減
腸閉塞の手術以来、とにかく快便なんです。医者が、便の通りを良くしてくれたのでしょうか(笑)。起床後出かけるまで、三度トイレへ行きます。毎朝必ずです。脳内がスッキリする事この上なしです。そして、朝食が美味い。
私も、手術前は74キロ近く体重があり、デスクワークでしたから、そうなったのでしょうが、入院中に8キロ減で現場復帰し、61キロまで体重が落ちました。携帯で「あれどこにある?」って聞けば済むことでも、歩いて当人の所へ出向くように心がけ、多少重いものでも機械(天井クレーン)を使わず腕の筋力をつけようと無理したのです。歩くことはよかったのですが、重いものを無理して運ぶ方は、肩を痛めてしまいました。夜、寝られないぐらい痛い。「自分は若い」これが駄目だったんですね。「爺なのだ」と自覚した訳ですね。自分に言い聞かせはしませんでしたが(笑)。
「ガタが来る」
自戒も含めて。
本歌 アダモ 「雪が降る」
替え歌 「ガタが来る」
ガタが来る 若さにゃ来ない
ガタが来る 重い身体に
むなしい夢 白い涙
バカ食いの日々 夜は更ける
若さは来ない いくら呼んでも
白い腹が ただふくれるばかり
ララララ・・・ムムムム・・・
(セリフ)
ガタがくる 暴飲暴食の日々に
ガタが来て 通院摂食の日々
歳老いて取り戻した安堵の日々を祝福しよう
歳老いて はじめて取り戻した
この痴呆のような安堵の日々を
祝福しよう
すべては鈍麻したのさ
すべては過ぎ去ってしまったのさ
友川かずきの出口のない焦燥も
終りのない 森田童子の葬送も
人は誰しも
長すぎる激痛には耐えられないから
疼痛の風景の彼方
嵐のように揺らぐ あれが
照れちまうような青春だったとしても
息も絶え絶えに
よくもここまで辿り着いたもんだ
長すぎる童話は悲惨だから
老人はもう 乾いた笑い方しかできないのさ
そろそろ
許してもらおう