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  • 2013_10_30
    もっと緑を

    里山に行きたい。

    里山に行けない。

    緑欠乏症に陥る。

    気づくとあちこちに緑を置こうとしている自分を発見する。

    疑似里山体験をしようとしているのだ。




  • 2013_10_29
    ヴェルヴェット・アンダーグラウンド
    ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのボーカルだったルー=リード逝去。上画像のジャケットはアンディ=ウォホールによるもの。私たちが大学時代にはこのアルバムは聴いとかなきゃいけない一枚だった。そう、その当時は好きでもないんだけれど聴いとかなきゃいけないアルバムってのが何枚もあって、たとえばコルトレーンの『至上の愛』だとか、浅川マキの『MAKIⅡ』だとか、ザ・バンドの『ザ・バンド』だとか、そんなものだ。こんなこと書くと、今でもどこかからお叱りがきそうな感覚がぬぐえない。まるで脱北者の様に。
    このアルバムの音楽はきれいに忘れていたが、ジャケットは忘れない。やっぱり凄いんじゃないかウォホール。
    • 散人さんのコメント
      ニュヨークに住み着いた当初、休日にはテクテクと歩いてセントラルパークを横切りメトロポリタン美術館に行っていた。そこには洋の東西時代や古今の名画が飾ってあって圧倒された。がある日帰りの経路を変更しいつもと違う通りを歩いていたら、モダンアートの美術館に出くわした。入るとアンディ・ウォホールの作品が飾ってあって衝撃を受けた。メトとは全く違うのである。メトの作品群を嘲笑うような作品群であった。
      20世紀を切り開いた「アメリカ」が確かにそこにはあった。
      それ以来私は散歩道の経路を変えた。近代美術館から先にした。 生粋のアメリカンの彼女は大いに喜んだ。 「fumio、メトってダサクない、私、いつもそう思ってた」と云った。



  • 2013_10_28
    洗面所リフォーム

    生活感溢れるショット。先週に続きプチリフォーム。素材をだいぶん木材に入れ替えたところ、温かいテイストに移行。ちっちゃな湯船にちっちゃな洗面所。こりゃ「湯」と書いた暖簾でも下げよう。



  • 2013_10_27
    ジェイコブ・コライダー - Don't You Worry 'Bout A Thing


    これもまた抜群のセンス。スティーヴィー・ワンダーの名曲を一人で多重録音。



  • 2013_10_26
    クティマン - スルー東京


    抜群のセンスですね。和楽器とデジタルな音が見事に織り込まれた作品。


    • 2013_10_25
      『捨老彷徨記』
      捨老さんのBarでのお話も、ここに抜粋・調整しご紹介させていただきます。
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    • 南アルプス・清内路。
      気持のいい秋風が刈入れの進んだ野の道をすり抜けていく。気付いて見ると 赤とんぼがつかず離れずついてくる。野仏と間違えられたか よっぽどトボケた爺ィヅラしているのだろう。BBS投稿のタイミングにも 小舟を乗り移ようなおぼつかなさだ。おかげで真夜中の心御柱神事というものにも遭遇した。最終章は思いっきり陶酔感に充ちて来たようだ。知らない田舎の大根焼酎あかねちゃんが旨い(笑)。

    • 今 焼津の「大崩海岸」という崖っ淵のホテル。
      未だかつて経験のない不快な夏を逃げまくり(笑) ネット事情の悪い田舎めぐりで PCを忘れて過ごしてました。おかげさまで 行く先々 天候に恵まれ 爽快な日々で在りました。写真は先日までいた 出雲の玉造温泉の 手作り夏祭り。玉造川の土手に常設されたステージで 安来節やら ドジョウ掬い 土地の人々のボランティアで 温泉客の喝采を浴びておりました。粛然として古式の(?)品のいい温泉街の川風が心地良く、朝夕は肌寒いほどでした。お勧めです。東海の海辺はまた暑くなりそうです。


    • あれは第何次思春期だったか(笑)。何人かの悪ガキ共が 定期入れを開いてコソコソ見せ合っていた。彼らの定期入れには それぞれ学内の目ぼしい娘たちの写真が入っていて ボクのも見せろと言う。ボクの定期入れにはヘップバーン。皆が大笑いした そして中の一人は どうやって手に入れたのか ボクの好きな邦子ちゃんの写真を持っていた。ボクは大いに傷ついた。以後ボクの定期入れには 背中に翼の生えた首のない石の女が住み着いた。
      60歳過ぎの夏 南仏をプロヴァンスからスペイン近くまで酔いどれて旅をしたが モンペリエの広場の真ん中に立っていたサモトラケのニケには感動した。ルーブルのものより輝いて美しく見えた(笑)。

    • 「この先行き止まり」とか「抜けられます」などと言う。手書きの案内が掲げられていないのは 偶然の通りがかり人が少ないのか はたまた 長崎は裏路地が多すぎて そんな手間を省いて声を掛けあうことを愛したのかも知れない(笑)。長崎は興味つきない裏路地に満ちている。
      もちろん裏路地は何も夜の占有と言うわけではない。酒場街の細路地も 墓場の塔婆路も通勤通学の路となるのが長崎だ。館内や十人町 住吉や西町 本河内水源地のダムの石垣の下にだって町はある。
      ひとたび裏路地彷徨に目覚めると 旅が楽しくなるのは必定。よその街でも 世界の街でも。
      実は世界は大通りではなく綾なす裏路地で連綿と繋がってきたことに気づかされる。かのアッピア街道ですら単なるささやかな田舎道に過ぎないのだから。
      近頃観光客を気遣ったのか「シーボルト通り」などと小ジャレた標識が立っているが 「通り」は間違いだろう 紛れもなく裏「路」なのだ(笑)。「唐人街道」には呆れるばかりだ 後の歴史さえ歪めかねない。
      少し気に入った裏路地を見つけたら しばらく馴染んでみる。抜けられなくなるかも知れないのは 裏路地が綾なす人間路地(笑)。

    • ボクはどの町でも 若い頃から ふらっと一人飲みに慣れてるだけの 何てことない酔いどれ。間違いなく70爺は 近頃では旅先で倒れる可能性も考慮しておくようにと 家族に念を押されているしまつ。
      「なんば言うとね もう一晩くらいおらんば うちんがたに居ついてくれても よかとよ。一人見送っとも 二人見送っとも 変わらんとやけん」
      最近ヨイヨイの爺様を看取ったクラブのあるビルのオーナーでもある美人ママが ずっと以前に離婚した無心男と 子供を挟んで長い係争中なのは もちろんボクのせいではありませんが 50を過ぎて幾分シワも増えた分だけ 言うことに迫力が増しました。そのママ母(笑)の要望で つい帰宅を一日延期したようなわけで…(汗)。
      ボクはと言えば「長崎力」とでも言いますか 散人さんが仰るように「空気」を吸ったせいでしょうか(笑) 長崎から戻った時は 他の町へ行った時と明らかに生気が違うと家族は言います。

    • みなさん 気分のいいサマータイムをお過ごしのご様子。慶賀のいたりです(笑)。 まだそこそこ生きてはいます。
      風天老人としましては 多少大変な夏とあいなりました。七月の法事を皮切りに 新盆だの葬式だのと立て続き その上先の相棒の古希の祝いまでやりましたし その度に 仙台 大津 吹浦 一宮 仙崎と 東へ行ったり 西へ飛んだり。もちろん遊びと言う訳ではないので 風光明媚な場所ばかりを選んで歩く訳にもいかず おまけに逃げようもない猛暑。齢を忘れるわけにもいきませんが どれもこれも 今生の最後のことかと思えばこその強行軍。このさい思い切って 久しく会わなかった人を訪ねたり 陸酔の旅の途中 もう一つ弔問も済ませなければなりません。今 無用のひと時を公園の流水に足を浸して ボーっと宿酔をさましています(笑)。

    • 岡山。眉山からは市街が一望できていいところです。今切川のほとりでノンビリ飯を食べて ボクは西北の旧い田舎町の大麻比古神社という所から 裏手に続く卯辰越を越えて播磨灘沿いを 鳴門まで歩きました。いい旅でした。岡山も暇があったらせひ高梁にも足を向けて見て下さい。

    • さて晩秋 ながい旅はまだまだ続きそうです。
      荒波を潜り抜けて やっと遡上し始めたやつを「ぶな毛」と呼ぶそうだが 産卵を控えていくぶんやつれ気味の大年増と言ったところ。それ以前のものを「目近」や「銀毛」といって高値がつくそうだ。酢飯には銀毛がいいらしい。シャケもこの季節秋味とよばれて輝きを増す。中でも鮭児(けいじ)は一万匹に一匹ほど混じった幻の鮭と言われ 漁師さえもめったに口にすることはなく 築地送りになって どこぞの金持ちか ヤクザが 大枚払って食ってしまうらしい。
      庶民は塩ジャケがいい相場だが ちかごろ あの白く粉吹いたような厚塩のショッパイやつを見かけなくなった。減塩は国民の習性になって 日本人の味覚も変わってしまったようだ。塩辛も辛くなくなったし 減塩はわかるが 明太子の唐辛子まで薄味になってしまったのは やっぱり市場優先ってことか。かつては 九州土産の明太子をうまそうに食っていても 脇から手をだしたがる人はいなかった それほど辛かったもんだった。

    • 憑かれたように歩き続けた芭蕉の健脚。
      帰路が欲しくて泣きじゃくりながら歩いて眼球も乾いた山頭火。
      所詮帰路を辿る以外になかった牧水の飛翔の夢道 逃避行。
      帰路を荘厳しつつ念じ歩いた西行法師。
      つくづく脚は弱くなる アキレスの夢。


    • 雨が降っている。あたかも強迫観念に支配された者のように 早朝の徘徊を断念することへ幾許かの躊躇を伴う。
      早朝の覚醒はたかだか年老いた者の生理的習いに過ぎないことを 改めて自らに言い聞かせる可笑しさに濡れ鴉が反応する。覚醒した世界と夢の世界とのあいだになんらかの厳密な境界線があると想像するのは 誤謬にちがいないのだとでも言ってるかのように。たしかに 夢の翻弄に覚めたとしても 日々繰り返し彷徨と徘徊に明け暮れているのだ。
      二列の列車のうち動かない方の列車の窓から動き出した列車を見るとき あたかも自分の方の列車が動き出したかのような思いがするのと同じように 世界の彷徨が自らの彷徨を停止させて見せる のかもしれないことを思い知る。
      「人生?召使にでもくれてやれ」 リラダンが著した『アクセル』の主人公アクセルのセリフが気に入って 繰り返し諳んじていた若いころ。花園神社裏の路地の狭い酒場で酔いどれ客に交じって 藤圭子が気さくにギター抱えて唄っていた。ブラウン管の彼女が幻だったのか 酒場の彼女が夢だったのか。いやいや 停止していたのはボクの列車だったかもしれない。
      さ 今日がはじまる。

    • うんざりするほど長かった夏も こうまできっぱりと逃げ去ると 酒飲み達も急に屋台の 道にはみ出した椅子に座りたくなるらしく 上着のジッパーを首根っこまで引き上げて ぼんのくぼさすりながら おでんの湯気に首を突っ込みつつ 「一本浸けてもらうか…」などと 屋台にそっぽ向いた姿勢で 「しらたまの…白玉の…なんだっけ??」ととぼけたことをぬかしながら股に椅子を引きずりこんだりする。
      ま そんなこんなで 白々明けの徘徊も似合わなくなり 汗さえかかないので ゆんべの名残りが胃の腑あたりで熱くなる。体に悪い季節とはなりました。朝風呂あとの粥がうまい。


    • 静岡の宵と早朝を徘徊した。
      夏場は市街地からほとんど見ることのできない富士山が 珍しく日の出前黒々としたシルエットを見せていた。幸運であったかも知れない。
      あんがい土地の人は無頓着らしく 人々はこのビューポイントさえ知らぬ気であった。とにかく今年は秋が遅いとみえて 富士はふたたび重空の奥に姿を隠した。
      わが日乗も気まぐれに宵闇に途切れがちであるが 新宿の抜弁天を右に折れて五分ほど行った余丁町に断腸亭跡はあったらしい。「余既に餘命いくばくもなきを知り、死後の事につきて心を労すること尠からず」 と 30代にして老人計画に余念のなかった荷風散人を思うと もう少し身を入れて爺ィを勤めようかと思ったりする今日このごろである。


    • 家だろうがホテルだろうが 歳とると早起きでね。しょーがないから どこにいても早朝1~2時間そこらじゅうを歩き回ります。この早朝徘徊で昨夜の酒はみィ~んな汗になってしまうわけで いたって健康 夜の徘徊とのギャップが楽しめます。ただ…時折出会う老人達に挨拶されると どーもね。「仲間」の烙印を押されたように切ない。

    • どうやら斜里岳ふもと清里の住人は津軽や弘前の移住者であるらしく 弘前風ねふた祭りに付き合えということで参加してきましたが 一度でも青森あたりの祭りを見た者の目には それはそれは 痛々しいほどのささやかな祭りではありました。
      人々の熱意にほだされて 一緒に飲んで参りましたが 戦後の入植地だとのことでした。一度ならず厳冬の北海道に挫折した若い頃の思い出が さわやかな夏風で払拭した気分の旅ではありました。

    • 確かに、日本の町々は明るすぎる。馴れてしまうと 電力節約した銀座にドキッとするが それを日常にする勇気は日本人にはないらしい。
      谷崎潤一郎も「陰翳礼讃」に、パリ帰りの人の話として おそらく世界中で電燈を贅沢に使っているのは日本とアメリカくらのものだろうと 随分昔に書いている。パリの真ん中に「マツダ・ランプ」の日本の看板が掲げられたのが初のネオンサインだったから やめられないと言うわけでもあるまい。
      フランスなどは日没後の明るい時間が9~10時ころまで続くこともあるが ロンドンやローマの夜だってそんなに明るくしているわけじゃない。それで一層古い建物や路地に深みのようなものを感じたりもする。地方都市の暗さは 日本の地方とは比べものにならない。
      陰翳(いんえい)の美こそ日本的な美意識ではないかと谷崎は言う。モンサンミッシェルの佇まいに憧れて旅行する日本人は たいてい何もない辺鄙な田舎の夜の長さに牢獄を味わって帰って来るようだ。現地では 日本人観光客のため精一杯照明時間を増やしているのだが モンサン江ノ島のようにはいかない。

    • いやなに ね 昔のことばかりが良いと言うわけではないのですが 石畳ひとつにしても 踏み固められて手作り感の漂う素朴な小路と 都会のプロムナードなみの整然とした規格石タイルの拡幅された路幅とでは 比較する以前に別世界の様相でね。びっしり並べ立てられたぼんぼり街路灯に 照らし出される昨今の明るい新町通りを見ていると 昔すっぽりと闇に包み込まれた小さな田舎町で 商家や旅籠の格子から漏れる薄明かり以外に 照明らしいものと言えば 所々の門灯籠くらいしかなかったあの頃の むせぶような胡弓の音と対照的なしゃがれた男唄が 旅愁をふるわせる哀調の旋律となって 想わせぶりに鳥追いに隠された貌が白く仄めきながら 靡くように艶めき流れていく女の手踊りと浴衣の行列を 旅籠の二階の手すりから身を半ば乗り出して眺めていた。
      薄暗い軒下の小路のことが もう何世紀も以前の 記憶の外の出来ごとだったような まったく違う宇宙のことのように思われてくるのです。
      住民の願いは叶って町は綺麗になったし立派になった。観光客も増えて豊かになった。通りすがりの旅人やよそ者の感傷に付き合ってはいられない。すべてが変わっていくのは 何も昨日今日始まったことではなし…。とは言うものの 「どの町とも同じ馬鹿祭りになってしもうた」と土地の古老の憂いの眼差しは 古びた格子の奥の暗がりから じっと表を見いっているのです。「風の盆」の名を惜しむかのように。♪~おわら踊りの 笠着てござれ 忍ぶ夜道は オワラ 月明かり~♪

    • 小学校2~3年生のころ 何の目的で行ったどの地区だったのかも思い出せませんが 父に連れられて行った時の対馬の異風景の断片がいつも脳裏から離れず 夏が来るたびに思い浮べては断念し もう数十年が経ってしまいました。
      一度は 下宿先でも捜そうと思い立ったこともあったのですが 折悪しく対馬が関西方面の学生たちによる大麻騒動で 面倒なことになっている時期だったらしく断念し それ以来 歳だけを重ねてしまいました。
      ボクは幼いころターザンは女性だと信じ切っていたころがあります。それと言うのも 対馬のあのころの若い海女たちの屈託のない笑いと Tバック顔負けの三角な布を麻ヒモで結わえつけただけの赤褌 あとは大きなナイフを縛りつけてるだけでスッポンポン あの健康的な赤銅色の胸や尻 まさしくターザンだったのです。何人かは磯から 別の組は小舟から それぞれ海に入って手桶を押しながら 波間に消えていく海女たちの快活な仕事ぶりを どこか途方もない夢の国のなりわいを眺めているように 魅了されて見入っていたものでした。
      もちろん ボクの記憶の対馬はもうないのでしょうが 肥タゴを背負った馬や人 内陸の渓谷や岩盤のこと 万関橋のこと 石の屋根 石の蔵…。歳をとらないうちに行くべきでした。
      …甲府で酔っぱらってました。

    • 机上の想像の旅も それはそれで高尚な旅に違いない。古今東西を問わず「遊」とはすべからく想像の賜物である。「落ちる」とは「裸になる」ことにほかならない。何と言っても旅の神髄と醍醐味は未知の場所に裸身を晒すことにある。案内パンフレットも肩書きも身分保障もなく 潤沢な路銀とてない。未知なる道程の中ほどで 未知なる道連れが生まれるのか 生まれないのか。旅人の真のIDは未知なる旅程の中ほどで 未知なる人々の手によって生まれるもの。しかし そんな旅は若い日に経験しなかった大人達には もう無理かも知れない。
      よく「人生は旅に似ている」と言われますが 旅の何に似ているのか。人それぞれのタカに合った切り口で決まること。…などとほざきつつ 酔いどれ爺ィの旅は続きます。

    • このさい 『方丈記』をお勧めしたい。むかし鴨長明というオッサンがいたが 「方丈」と言うから一丈四方つまり二畳よりちょっと広い程度の 小屋を建てる自作の木製組み立てキットを持ち歩いて 好きな処でお茶をたて一服やってごろ寝して 旅した人だ。日本精神の大変芳しい部分を学べるものと確信する。
       ゆく河の流れは絶へずして しかももとの水にあらず
       淀みに浮かぶうたかたは かつ消え かつ結びて
       久しくとどまりたる例(ためし)なし
       世の中にある人と栖(すみか)とまたかくのごとし

    • 老いの才覚などと言われても この程度のもんだし 後ろ向きの生き方が幸せを呼ぶと言われても 前向きだってそう長かない。
      二十歳のころ まだ道路事情もよくなかった真冬の野母を散策してるとき 人里離れた古寺の 荒れ果てた裏手の暗い池の面 薄氷を透かして目に染みた色鮮やかな蝶の拡翼。
      時に人は口にする「家の畳の上で皆に見守られて果てたい」と。仏に成る 神に召されるとは いったいどんなことをさして言うのか あいにく 無信心のボクにはわからない。
      生と同じように死もまた賜物。だとすれば 斃れ 腐敗し 崩壊し 拡散する 虚空へのすべての旅程を なんびとにも阻害されることなく感じとれる。その特別な場所に辿りつきたいと。
      そんな奇妙な想いを 本気で胸に畳み込んで駆け抜けた青春だったが いま年老いて 生への執着が薄れるのと同じように 終焉のかたちものぞまなくなった。



    • 2013_10_24
      『田屋敷酒散人 新宿彷徨』
      散人さんのBarでのお話は泡のように消え去らせるには惜しい時代性を反映したもの。ここに抜粋・調整しご紹介させていただきます。
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    • 私は医科の家で生まれた。
      長兄が医学部に入るまでは母にうるさく勉強を強要された。母は大した勉強もしてないくせに私にはうるさかった。兄が永遠に合格しなかった時の保険にされたのだ。中二のとき兄が合格したら、母は途端に「一人いればよか」といい私を投げ捨てた。「好きなことをせい」である。当初は茫然としたが、勉強しなくてもいい生徒ほど「楽な」ものはなかった。しかしトップクラスの成績がほとんど最下位になってやはり慌てた。その後、高校に入学できるぐらいまで持ち上げた。
      高校からが独自の人生を私は歩み出した。親が何も云わないのだから自分で進路校や学部を決定した。文学部だと母に云うと「なに!結核病みしか行かんぞ」とせせら笑われた。「東京に行く」「何しに」「大学受験」と金額を云ったら、所定の金額を投げてよこした。19歳で東京に出て、46歳で帰郷するまで、それこそ手作りの人生だった。投獄一度、腹を切られたのが二度、フォークで胸を刺したのが三度(いづれも愚連隊相手だったので直ぐ釈放された)、賭けマージャンの賭博容疑で逮捕されたのが一度。こう考えるとよく会社を首にならなかったのが不思議。38歳で小さな演劇製作会社の取締役になった。

    • 昭和47年春、会社に入った。配属は有楽町日劇、王冠ビルである。当時はレビューがまだまだ盛んで、宝塚、日劇、松竹(SKD)が競っていた。レビューは「大おどり」と云っていた。ダンシング・チームは男女合わせて60人ぐらいはいた。全員が舞台に出ると華やかであった。歌手のゲストを一人呼び、景を展開していく。私は春の踊りから仕事した。まぁ雑用係である。ゲストは水谷良重、今の八重子である。今は新派の大立者だが、当時はジャズシンガーだった。「大おどり」は春夏秋で二ヶ月づつ六ヶ月。あとは人気歌手のコンサートである。まだウエスタンカーニバルも年二回ほどやっていた。
      翌、48年11月に、ロック・スペシャル・ライブと称して、あのジミー・ヘンドリックスの来日公演があった。ジミヘンを最初に見た日本人の一人である。
      翌49年、喜劇と演歌をやりたくて、会社に申し出て新宿に移った。喜劇と人情物の本を書きたかったのだ。

    • 中学時代は柔道、高校はラグビーと平面の運動をやっていた。何故柔道なのかというと、父の命令であったから。父は軍人だったので「まずは身体じゃ」といっていた。
      就職してある夜、新宿の大ガード近くでヤクザと喧嘩になった。肩が触れたか触れないかぐらいの些細な理由であった。二対二で互角。私は得意の寝技に持ち込んで「腕ひしぎ十字固め」で関節を折れるぐらいに痛めてやった。千人くらいの見物人がいたそうだ。
      新宿署に一晩泊まった。上司から怒られた。けれど首にはならなかった。女房は娘を抱えて「もう こんどは絶対 やめてください」と泣いていた。

    • 作家、色川武大氏は、雀士の名を阿佐田哲也という。雀聖と云われた。氏に私が興行のことで悩みを云うと「玄人同士の勝負は簡単じゃない、8勝7敗で恩の字と思わなきゃ」と優しく諭していただいた。
      私も一時、娘が生まれてまもないころ小遣いがままならず、新宿のフリー雀荘で金曜日から土曜の朝まで麻雀を打っていた。見も知らない人との真剣勝負だ。気を張り詰めたまま十時間打ち続けて家に帰り、鏡を見ると一気に10歳ぐらい老けて見えた。博打で稼ぐのは大ごとである。

    • 劇場に職を得て、駆け出しの日々は仕事が終わってもまともには住家には帰らなかった。同じ独身同僚や先輩達と「新宿裏町めぐり」の毎日だった。まぁ歌舞伎町自体が「裏街」とも云えた。上場会社社員も底辺労務者も、夜の歌舞伎町は飲み込んでいた。
      そんな日々、あの人と出会った。その名は内藤陳。
      出会いは、所属劇場にショーの繋ぎのコントを依頼した時だ。景の変わり目に3分から4分軽いコントをやってもらう。持ちネタの「ハードボイルド だぞ」が中心のコントだ、もうトリオ・ザ・パンチは解散していたのでピン芸だった。
      千秋楽の夜、「来なよ おれっちの店に」と新宿ゴールデン街のスタンドバー「深夜プラスワン」に連れていかれた。その後「来なよ おれっちに」と今度は近くにあるアパートに連れていかれた。「ほい」とドアーを開けるとそこは本の洪水!本また本。「どこに寝てるんですか?」「ほら こうやって」と陳さんは畳に散乱している本を手で押しやってスペースを作った。本の仙人、遊行人。
      「本読んでる?」「まぁ、商売のネタ探し程度には」「イヤだね、オレッちは好きなんだよ、女よかなんぼかネ」
      目先の利く編集者がいて、月間プレイボーイに陳さんは「読まずに死ねるか」というハードボイルドやミステリーの読書コラムを書いていた。
      当時陳さんは女流推理作家といい仲になっていた。その女性は作家生島治朗の妻だった人だ。まもなくその女性が酔ってアパートの階段をころげ落ちて死んだ。あっ、陳さんとこの階段だ、ととっさに思ったがどの新聞も書いてなかった。それ以来陳さんの酒量は増えたように思えた。
      私は陳さんから紹介してもらったハードボイルド「シブミ」は今でも最高傑作と思っている。「傑作だと思いますよ」と云うと、陳さんはいつものしわくちゃ顔で「ウッシシ」と笑ってくれた。

    • 当時劇場の宣伝部には男が三人と女性事務員が一人、計三人でやっていた。
      部長は金沢さん。早稲田出の人で江戸っ子を自称していたが真偽の程は分からない。恐ろしく小心な人で、一念発起でゴルフをし始めたはいいが、練習場で初めて打った球が隣の打席の人の頬を掠め、ばかやろう!と怒鳴られ、恐れをなしあとの篭のなかの玉全部をそろっと捨ててきて金輪際ゴルフを止めたぐらいの小心者だった。会議があると「よろしく」と必ずどこかに消えていた。
      係長は通称あっちやん。あっちゃんはどっかの美大出で、デザイン担当の万年係長だった。デザインの専門家だけど何故か東宝アドセンターに全て発注していた。要するに楽をしていたのだ。あっちやんは山梨の大月から一時間半かけて新宿の劇場まで通っていた。遠いので三日に一度は休んでいた。「あつしは相当親戚を殺している」と総務の課長は嘆いていた。休む理由に親戚を「危篤」にさせていたのだ。
      私は平の宣伝部員で、主にプログラム編集とポスターのコピー創りが仕事だった。演劇評論家に演目解説を依頼すると「書いといて」とまるでいいかげんだった。けれど原稿料を届けると必ず評論家の先生方は一杯奢ってくれた。実力が認められるとあっちの先生、こっちの先生から「書いといてよ」と依頼される。毎回徹夜で代筆していた。中には私の原稿にダメを出す先生もいた。代筆させてダメもないだろうと腹もたった。
      この三人ででたらめだけど、とても楽しい宣伝部が三年続いた。

    • 本社に週一召集がかかる。朝から一時間の会議があり、これは殆ど居眠りしていた。12時に終了、それから直ぐ近くの帝国ホテルへ昼食に仲間と行く。私はいつも鴨サンドとコーヒーだった。たしか1600円だったと思う。こんがり焼いた鴨の皮が香ばしくて旨かった。北京ダックにしろ鴨サンドにしろ皮が旨いのであって、肉まで食うのは田舎ものだと先輩が云っていた。
      当時帝国ホテルを住いにしていた人は、山田五十鈴、藤原義江、田中絹代の諸氏であった。おのお三方はしばしばお見かけした。山田五十鈴さんはまだ50代後半で東宝の舞台の大スターだった。ロビーを艶然と歩いてらした。越路吹雪を劇団四季に取られ、確実に稼げる女優は山田五十鈴と美空ひばりだった。森みつ子さんはその後である。この二人で飯が食えたと云ってもいい。

    • 僕が劇場の宣伝担当をしてたころ部長は50歳になりたてだった。今生きてるなら80歳半ばぐらい。あの年齢の人達は「キャッチ・コピー」とは云わず、「惹句(じゃっく)」と云っていた。
      宣伝ポスターなんかは半年前くらいには創り上げるので、新作ものは苦労した。「若山富三郎で侠客もの」ぐらいの情報でキャツチ・コピーを仕上げなければならなかった。
      1982年、ミュージカル時代の到来に対応する新劇場を会社が作った。劇場のキャツチ・コピーを創ろうということになった。その昔「今日は帝劇 明日は三越」という名キャッチがあった。外部から専門家(コピー・ライター)に来てもらい一緒に考えた。その方はJR民営化当初の「デイスカバー・ジャパン」を創った人だった。名は忘れた。そしてできたのが、劇場名「シアター・アプル」、りんご、である。キャッチ・コピーが「魔法のりんご、と誰かが云った」である。社長賞を頂いた。

    • 新宿花園神社境内で蜷川演出「オイディプス」を観た。これは大変な時代になったぞ、と嘆息した。これが1976年(昭和51年)のこと。もう本腰いれてやらんとイカンと思い始めていた時代。
      当時の花園神社界隈の飲み屋街は治外法権的存在であった。怒号殴り合いは茶飯事で、中には血まみれで反吐はく飲んだくれもいた。演劇というと赤黒桟敷の流れの劇団が割拠し、我ら大商業演劇資本を敵視していた。そんな中、花園飲み屋街で彼らと出くわすと、チャンチャンバラバラが必ず起きた。殴り合いの「喧嘩」をしつつまた仲良くもなっていった。そんな時代を活写しているのが『平凡パンチの時代』である。

    • 父が死んだ時、千万単位で金が入った、全て使った。女房はあきれていた。五年くらいで無くなった。何に使ったかは、勿論道楽である。家など買わなかった。母も呆れていた。「貴方も諦めなさい、あんな極道男と一緒になったんだから」と女房に言ったらしい。
      で、母が死んだ。また数千万単位で金が入った。今度は心配した姉が半分をよけて女房にやった。彼女はマンションを買った。その時、彼女を軽蔑した。自分はまた五年くらいで使い果たした。今はもうない。それでよかったと思う。死ぬ時なにも残さない。
      しかし世の中には凄い人がいるもので、戦前フランスで蕩尽の限りを尽くした男がいた。薩摩治郎八である。10年間で今の金で100億円を使い切った。その伝記を注文した。
      当時、30年前の東京・京都の料亭は殆ど行った。京都では若手の歌舞伎役者とお茶屋で芸子遊びをしまくった。何が残ったか、何も残らない。ただ楽しかっただけである。

    • 今は大人の唄を歌う歌手がいない。それはナイト・クラブが消滅したからだ。
      70年代から80年代まで、東京には一流から場末の三流まで多くのナイト・クラブがあった。必ずビッグ・バンドがあり、歌手達の逗留門でもあった。客できた業界人に見出してもらうのだ。私も仕事柄20歳半ばで出入りしていた。
      大歌手水原弘にナイト・クラブで見出されたのが「北原ミレイ」。ハスキー・ボイスでテンポのいい歌手だった。デビューはあの「ざんげの値打ちもない」である。私はいまでいう追っかけになった。
      熊本から出てきて新宿で歌っていたのが八代亜紀。「雨の慕情」でレコード大賞を取って、故郷熊本で凱旋公演をした時、私は連れていかれた。東京の劇場の人間を従えてきたと云う訳である。心情が痛いほど分った。

    • クラブ・ハイツは新宿コマ劇場の隣の東宝ビルの階上にあった。ある日、私が劇場の玄関に立っていると、トントンと肩を叩かれ振り返ると江利チエミさんだった。喫茶店に誘われ、劇場で「アニーよ銃をとれ」をやってる桜田淳子の演技のダメ出しをされた。
      そのあと戦後の大スター江利チエミさんも、大劇場では公演出来なくなり晩年はクラブ・ハイツに出演していた。栄光盛衰。哀れさに茫然とした記憶がある。

    • 「青春の歌4時間スペシャル」という番組を観ていた。ひばりさん、はるみさん、伊東ゆかりさん、沢田研二さん、百恵ちゃん、昌子ちゃん、続々と登場で我が青春時代がオーバラップしてきて久ぶりにしんみりとした。
      本番に入ると電話は使えなくなる、演出部のサードは劇場内を走り回る。舞台中央のエレベーターマイクが歌手の歌い出しにぴったりとはまらなければ、操作部に「エレマイクテンポ早い」と出す。今度はとって返し五階にある照明室に階段を走って行き「ピンスポ正確に」とダメ出しする。
      ゼイゼイして地下にある演出部に帰ると何やら不穏な空気が漂っていた。「何かあったんですか」と近くの先輩に聞くと「良子ちゃんが風邪引いてぶっ倒れて来れないとよ」という。課長が近づいてきて私に「大部屋の適当なヤツにセリフ教え込め」「えっ、開演まで二時間しかないですけど!」「二時間ありや上等よ、終了」で今度は大部屋に行ってなるべく本役に似てる娘を探して事情を話してその場で稽古を始める、「ギャラ三倍よ」「ハイハイ」てな感じでハネるのが夜10時。仲間と居酒屋に小一時間いて、寝に家に帰る。
      そんな情景が思い出されてしんみりなった。つまり それは 遠い夢のあとさき。

    • BSで「女優倍賞千恵子」を観た。カメラマンの木村氏が「あのひとはやっぱり天才だよね」と述懐していた。私もそう思う。
      30年くらい前、所属劇場で春秋に倍賞さんのコンサートをやっていた。5年続いた。入りもよかった。淀みのない声で魅了していた。寅さんの空きスケジュールで公演していた。
      私の企画の芝居で演出家が、ヒロインの役をどうしても倍賞さんでやりたいというので頼んだ。
      稽古になった、倍賞さんは演出家の求めどうり即座に変えてくる。稽古場の全員が凍りついた。いままで経験したことのないことだった。通常演出家のダメがあると、少し演技プランを考える間をとるのだが、倍賞さんの場合、瞬時であつた。こんな役者さんはいなかった。
      「私ね 歌劇団だったでしょ だけど寅さんやってて 舞台の芝居は もうないと あきらめていたの ありがとう」と初日に云ってくれた。

    • 藤圭子は艶歌の星であった。二十歳半ばで東京の劇場の一月を張っていた。2000人の劇場を一月満員にするには相応のヒット曲と力量が必要だった。彼女は既にそれらを身につけていた。
      とにかく二十歳半ばであっても美少女だった。北国生まれの抜ける白い肌、切れ長の瞳、楽屋の廊下ですれ違うとき挨拶をすると、いつもうつむきかげんで「おつかれさま」と意外な低い声だった。だがステージでは高音が美しかった。それこそ艶があった。泣きの声である。
      五木寛之の名作「海峡物語」「新海峡物語」は、高円寺竜というレコードプロデュサーが主人公。実在の馬渕玄三氏がモデルだった。まだ娘だった藤圭子を売り出した人だ。ある日馬渕氏に居酒屋に誘われた。「君は演歌で生きるんだそうだな、そうなら旨い飯食おうと思うなよ」と云った。

    • 坂本九さんが「御巣鷹山墜落」で亡くなったのはあまりにも有名。あれが8月12日。10月に散人が所属する劇場は冬休みに家族向けのミュージカル「シンデレラ」を企画していた。これは某お菓子会社のスポンサー付きで(安倍元総理夫人の父上の会社)東京を含め全国10大都市で公演するのが決まっていた。
      ある日の制作会議で「キャスティングが弱い、もっと宣伝力のある役者を入れろ」と我社トップが激を飛ばした。一堂沈黙。
      その中で私が発言した「あの九ちゃん 未亡人の柏木由紀子さんはどうでしょう」「え~っ」「まさか」とつぶやく声がした。トップが云った。「オモシロイ 決まれば話題沸騰。よしそれで行け! で誰が交渉する?」 更に深い沈黙が覆った。トップが私に云った。「よし、お前が口説け、以上終わり」
      翌日私は五本木にある故坂本九宅まで行った。「云うんじゃなかった。まだ四十九日が終わったばっかり、とても奥さんの柏木由紀子さんは芸能界復帰の気分になる訳がない」などと途中気分が重くなった。玄関に入ると畳二畳分ぐらいの九ちゃんの遺影があった。ますます重くなった。
      結果は出演OKとなった。直ぐマスコミに発表した。大騒ぎになった。「坂本九未亡人柏木由紀子復帰!」の見出しが芸能欄で踊っていた。
      私は社内で一躍ヒーロになった、が「あいつは血も涙もないヤツ」と陰口を云う同僚もいた。女房までが「お父さんしかあんな非人情なことは出来ない」とまだ幼稚園ぐらいだった娘に云った。柏木さんは後に「奥さんが子供を抱えて 頑張ってる姿をみるとご主人も喜びますよ」という私の言葉で決心した、と云った。

    • よくパルコ劇場に通った。青井陽治演出の男女二人の朗読劇「ラブ・レターズ」は必ず観た。ラブ・レターズの初演は1990年、役所広司と大竹しのぶ、だった。天才のくせに上がり症のしのぶさんは私が楽屋に行くと「手」を差し出してきた。彼女の手は震えていた。両手で包むと舞台化粧の顔がデレ~っとなった。

    • 平幹二朗さんの「王女メディア」を、新宿花園神社の初公演を観にいったのが1984年。平さん50になったばかりの脂の乗り切った時季、感動して三回も観た。毎日演出の蜷川さんの奥さんの隣の席だった。「Tさん うれしいわ」と奥さんが云ってくれた。
      こっちは怖いもの知らずの30才半ば。蜷川さんで大舞台を使って近松物をやろうと意気込んでいた矢先、演劇室の後輩の曽田が蜷川さんを横取りして独立した。私は大いに気落ちした。いつ寝首を掛れるか分らん世界だなぁ、と背中に冷たい脂汗をかいた。

    • 演劇記者なるものが大手新聞にはいた。
      演劇なんかてんで知らないのに、劇評を書いてた。特に朝日。しらなきゃベテランの劇評家に書いてもらえば云いものを、朝日だからと偉そうに芝居のイロハも知らないのに劇評を書くから、トンチンカになる。
      興行会社はまぁ穏やかであるからいいが、生きのいい新興劇団は腕っぷしの強いやつがいる。朝日なにするものぞ! で朝日の記者が殴られていたのも目撃したことがあった。
      顔見知りの役者に「どうしたの?」と聞くと、「なんにも分からんくせして、ヨタ書きやがるからだ」と怒っていた。
      歌舞伎座出入り禁止の大手新聞記者もいた。とにかく夜郎自大なのである。あいつらは。

    • 当時を振り返れば「酒とバカの日々」でした。
      それは殆ど毎晩、浴びるように飲んでいました。昼ごろ劇場に出て公演が終わるのが夜9時、10時頃から打ち合わせと称して、飲み始めて朝の電車に乗り家に帰る日々。
      ある朝、家のある駅に降り立つと迎えのホームに娘が立つていた。通学時である。「○○子さ~ん、通学ご苦労さま~」と大声で云うと、我が娘は脱兎のごとくホームの端まで逃げた。
      帰ってきて父を怒ろうにもその日には帰ってこない。一週間も経つと忘れてしまう。「お父さん、飲むのもいいけど、程々にしたら。倒れられたら私、大学に行けなくなってしまう。それとこの前、女の人から電話があったけど適当に処理しといたから、はい」と手を出し金を要求された。千円出すと「冗談でしょ」と五千円踏んだくられた。その時代は酒にまみれ女にまみれていた。どちらも足抜けするのは大変である。家の窓ガラスを誰かに割られた時は、さすがに妻は「実家に帰る」と云った。後で分かったが女だった。
      私はそういう傾向があるのだが、偏執狂的女と出来てしまい往生した。目がキツネになり、髪の毛が猫のように立ち上がる。怒ったときだ。一度はハイヒールを額に投げつけられた。見事にヒールがでこに当たった。家庭はグチャグチャ。居場所が無くなって同僚の家から出勤すること一ヶ月。妻の兄のとりなしでやっと家に帰れた。
      酒とバカの日々の40代でありました。

    • 作家 連城三紀彦氏のにこやかな微笑みを思い出す。あれは監督神代辰巳を芝居の演出に引き込む時、常に連城氏は監督の側に居た記憶がする。
      連城氏原作の映画「戻り川」の監督をしたのも神代辰巳だった。この直木賞作家は私に「シナリオ・ライターになりたかった」と云った。が謂わば「鉄火場」のような映画の世界には彼の繊細さが不向きだったのだろう。また芝居の世界も似たようなもので、やはり彼は一人でできる創作の場がよかったのかもしれない。
      あの時代は、臭気プンプンたる野望の塊みたいな人間がうごめいていた。芝居では蜷川、唐、寺山、二丁目には野坂さんや枯れ木灘の作家などがうごめいていた。こっちは芝居屋でとことんいたぶられた。ところが神代さんが店に来ると元気のいい輩が一瞬でシュンとなった。なにせ身体を張った戦争忌避者で迫力が違う。島田雅彦なんて青二才の作家はブルブル震えていた。元気がいいのは中上健二でなにせ身体がでかいので一目置かれていた。
      作家連中は皆映画演劇に憧れていた。何故なら女優さんとお付き合いがしたいからだ。私が生半可な書評をしたとき野坂さんから延々と三時間くらい説教をくらった。

    • 舞台の世界は、売れる人が一番だ。これはもうはっきりとした世界だ。切符が売れなきゃ、アホみたいな世界。
      大衆芸能と云い方はあるが、大衆絵画という云い方はない。なんだか絵画は売れなくても立派に成立しているように見えるが、なにあれは公的機関や画商がバックに付いていて直に大衆を相手にしなくていいだけの話だ。歌舞伎役者はうそでも客に舞台から頭を下げるが、画家は頭を下げない。大衆には下げなくて商売が成り立つからである。では音楽家といえば、現在各オーケストラが存亡の危機にある。公的機関や新聞社がスポンサーについており、観客動員以上の給料を貰っていたからで、当然不況になると弱い。落語家は寄席のその日の上がりを分ける。上がり以上は貰えない。
      芸事は大衆の投げ銭で生きていくのである。



    • 2013_10_23
      世界の終わり


      「現代は末法である」という発想は、すべての時代が犯してきた過ちである。



    • 2013_10_22
      住まいをカスタマイズする
      何千万円も背負い家を建てるなどまっぴらだ。既製品の人生などもっと御免だ。
      ステイ ハングリー、ステイ フーリッシュ。
      中古マンションを購入し、リフォームしながら暮らしている。自分が暮らす空間ぐらい自分で作る。とりあえずというカタチで暮らし始め、少しずつ改造する。

      たとえばこれは現在のわが家の流し台コーナー。

      ここは前住者の頃、下写真のようなカオスを呈していた。倦怠感が澱のように溜まった空間だ。

      生きていることを謳歌しよう。日々の暮らしで視野狭窄症になっていないか振り返ってみよう。上記のような生活空間にいて、人生が楽しかろうはずがない。断捨離以前。

      ライフスタイルをシェイプアップする。自分たちの生活空間を空想する。無理しない程度の住居空間を入手する。そして自分にとって心地よい空間に仕立てていく。
      それは住居全体のテイストと、さまざまな小物のテイストを調和させていく作業でもある(クリック)。

      わが家は完成していない。
      たとえばベランダはこんな感じで改造した(クリック)。


      今回は洗面コーナーを作り直した。このマンションに住み始めて7年目での作業。ビジョンが確定し、なおかつ時間がとれて、気合が入った時に一機にやる。イラストレーターで図面を描いてからの作業だ。
      カスタマイズ前が下写真。

      狭く日当たりが悪い。すぐに立ち去りたくなるような寒々しさだ。横にはランドリーコーナーがある。ここは家人のための温かいスペースにコーディネイトし直すべきだ。そう気づくのに7年かかった。申し訳ない。
      木材で被う。頭の大きなネジで止める。石鹸塗装を施す。壁面に女性の好む小物を入れる。シルバーの小物を配し空間を締める。日陰に強い植物を入れる。で、できたのがこれだ。

      出来合いの洗面セットを投入していなくてつくづくよかったと思う。デカいプラモを作っているようで至極楽しい作業だった。
      • 散人さんのコメント
        当時庶民は借家が主だった。が「マルイマルイは駅のそば」のコマーシャルが流れ出したころ、40年代初頭だろうか、建設大臣だったと思うが田中角栄が「庶民に家をもたせりゃええ」と云い、「とは仰いますが大臣、お金はどういたします?」と役人しぶい顔して云うと、「丸井方式じゃ、月賦じゃ」「大臣、担保はどうされます」「お前、東大出じゃろう」「はい、一応」「ダメじゃな東大も、命を預かるんじゃ」「と?」「生命保険にいれるのじゃ」
        正に天才とは角栄のことで、全国小建設会社はもうかる、ローン会社も、生保も、三法まる儲け、いや一番儲かったのは国家、固定資産税で永遠に金が入る。
        一方庶民は金利元金を払い、固定資産税を払い、尚減価償却で10年住むと売るときは10分の1にもならない。まるで「生かさず殺ろさず」の類。「幸福とは持ち家」なりの国家を挙げての一大キャンペーンに庶民が舞い上がった。
        「houseあってのhomeなし」と名言を教えてくれたのは小田島教授だったか。特に田舎の子供は皆都会に出る、七間の家の使うのは一間だけ老父老妻はこれで充分、あとの六間にゃ風が舞う。なんのよかろ2DKのアパートと変わりない。
        「娘が嫁に行くとき家がないと恥ずかしい」と恥ずかしいのは娘の無教養とは知らず外聞にこだわる庶民の悲しさ、金貸しの魔の手が忍び寄る隙を与えるのです。
        国家は庶民国民から税という現金を搾り取る身体としか見ていない、ご用心を。



    • 2013_10_21
      アクアリウム


      捨老さんが豆屋に目覚めたように、私が最近時間があれば頭の片隅で考えているのはアクアリウム。
      深夜目覚めて一人考え事をしているときに、ふと生き物の気配がほしいと思った。で、小さな熱帯魚でも飼うかと思った。いろいろ調べていくと熱帯魚も大変な手間がかかることがわかった。ならばフェレットでも飼うかと思った。フェレットも大変だな、ハリネズミでも飼うかと思った。もう無茶苦茶に連想が続いて行った。
      で、自分の心に気づいた。私は熱帯魚を飼いたいというよりも、水槽の中の水草を眺めたいのだと。小さな水槽がいい。この世界も深そうだ。





    • 2013_10_20
      成長


      君を毎日同じ柱の前に立たせてコマ撮りする。10年間続け、これを一機に見れば感動ものの体験をするだろう。
      君は「どうせオレなんか」と言う。
      待ってくれ。身体がこれだけ成長するのに、心だけ成長しないなんて、おかしな話じゃないか。だってそうだろう。君が着ているその服も、買った時は少し大きめのを買ったんじゃないかな。つまり自分が成長することを前提としてたんだよね。なのに心が成長しないだって? おかしな話じゃないか。それは、とらわれというのがどれだけ心の成長を阻害するかってことを証明している。
      君は日々の生活に空しさを感じ始めていないかい? 実はそれは心の容量が大きくなってるからじゃないかな。心が大きくなってすきまができているから、空しさを感じてるのかもしれない。
      だからフラフラしないでいこう。君の心が、君にこのすきまを埋めてくれって言っているんだからそうしよう。自分を磨こう。
      身体が成長するように、心も成長する。当たり前のことなんだけど、僕たちって時々そのことを忘れるものさ。



    • 2013_10_19
      超能力


      私はこんなことをよく空想している子どもでした。どっきりもここまでいくと夢がありますね。



    • 2013_10_18
      法爾庵 仏間
      義母は義父の意を汲み、初七日の法要を正しい初七日にあたる日に行われる。葬儀の花も白に統一された。静かな故人へのおもい。






    • 2013_10_17
      法爾庵 墓

      家人にはじめて墓に案内されたときのことを憶えている。
      丘陵地に広がる墓地だった。車を降りて「どこだい?」と私は聞いた。家人が指さす方を見ると墓があった。

      台座を登りお参りをする。
      墓石の方々の角が欠けていることに気付いた。これはどうしたことかと問う私に、家人はこう応えた。
      「昔のことですが、博徒たちが大きな墓石はツキが出ると、欠いで持っていった跡だと聴いています」
      土地に歴史あり。



    • 2013_10_16
      法爾庵 蔵




    • 2013_10_15
      法爾庵 書斎

      おとうさん。今でも南無阿弥陀仏の意味を教えて下さったことを憶えています。

      インドはインド・ヨーロッパ語族。南無とはナマステのナムであり「どうぞ」という意味。阿弥陀仏とはアン・ミター・ブッダ、つまりアン・カウンタブル・ブッダ、計り知れないほどに有難き仏という意味。

      今、おとうさんは阿弥陀仏のもと横たわっていらっしゃいます。
      南無阿弥陀仏。どうぞ計り知れないほどに有難き仏様、義父を篤き信心のもと御浄土に導きくださいますように。
      おとうさん、本当にありがとうございました。安らかにおやすみください。南無阿弥陀仏。



    • 2013_10_14
      弔辞
      おとうさん。
      おとうさんと呼べる方がいらっしゃらなくなってしまいました。

      50年前、有明海の砂浜を走っていた少年が、今こうしてここに立たせていただいています。深い縁を感じます。

      初めてお会いしたのは、あなたの娘さんとの交際の許しを得に伺った時でした。歴史を感じさせる赤い煉瓦壁、重厚な屋根。中に入ると、おとうさんが刻まれた背丈ほどもある仏様が屹立されていました。そして仏教へのおとうさんの深い造詣を知りました。驚愕しました。

      通夜の席で、おとうさんのお話をさせていただきました。若いころ幾つかのご苦労もされたかと拝察します。けれどこうして晩年、時の総理の名が記された勲章を受章される程のお仕事を成し遂げられました。私どもにとっても名誉なことです。

      命のあやおりの中、ここに集う親族の中にはお腹の中に新しい命を宿している人もいます。新しく縁を結ぼうとしている人もいます。こうした喜びごとも、おとうさんがいらっしゃったからのこと。ささやかな私の家で妻や子供と笑いあえるのも、おとうさんがいらっしゃったからのことです。

      ありがとうございました。安らかにおやすみください。



    • 2013_10_12
      文章腹筋力

      「よくこんな事をする時間がありますね」とおっしゃる声を聴いた。やれやれ。久々に書こう。
      みなさんご存じのように、このコーナーは毎日更新している。それは腹筋トレーニングのようなものだ。毎日やっておかねば文章力は落ちる。腹が出てぶよぶよの体型のような文体を晒すこととなる。
      特に現在の仕事に身を置くようになって、やっていてよかったと思うようになった。スピーチや文章を求められることが多い。基本的にここの文章は毎日15分で書く。さあ何か書くかと思ってから、仕上げまで普通15分程度。これは十数年間近く毎日続けることによってできることだと思う。毎日やらねば文章腹筋力はみるみる落ちる。

      もちろんここに文章を綴るということは、単に文章を書くに留まらない。発想力や編集力や交友力トレーニングなどにつながる。それは腹筋トレーニングが、ストイックな筋トレに留まらないことと同様である。
      結局文章は、そうしたことなしに生まれ出はしない。



    • 2013_10_11
      「22年生きたネコとの思いで」

      Gallery EM 西村江美子さん
      から展覧会のご案内です。

      クラミサヨ - ペン画の世界 -

      2013. 10. 12 (土)~ 10. 26(土)11: 00 - 18: 00
      10/16, 23 (水)休廊
      * 10/12, 13 は作家在廊
      今展では宮崎市在住のイラストレーター、クラミサヨのペン画の世界をご紹介いたします。クラミサヨは1980年、石川県白山市生まれ、2001年、北陸学院短期大学卒業。2010年、講談社KFSアートコンテスト浅葉克己賞受賞以降、創作絵本グランプリ、キャネット・ネコのイラストコンテスト等で受賞多数。クラミは商品パッケージやTシャツ、挿絵等に愛すべき猫や菌類など親しみやすいモチーフをユーモアを持って、描く事によって、独創的な世界を創りあげています。お楽しみいただければ幸いでございます。



    • 2013_10_10
      10月10日
      私たち年代は、この日はビビットに頭に焼き付いた日だ。
      晴れの特異日。つまりやたらと例年この日は晴れる。
      前回の東京オリンピック開会式の日。つまり晴れの特異日だからこの日が選ばれた。
      旧、体育の日。つまり東京オリンピックを記念し設定された。

      つまりこのころは、日本の都合で、開会式の日時が設定されていた。
      ところがどっこい、2020年東京オリンピック開会式は7月24日。烈火日。「7年後は今より暑い? 東京五輪は米国の都合で決まる競技時間をどうするのか」という話題がネットで語られている。そうか欧米人がエアコンの効いた部屋で観るために、選手たちは命がけで炎天下の競技を強いられるというのか。人権はどこにいった? 国際化とはなにか?



    • 2013_10_09
      台風報道と地域メディア
      台風報道ほど地方局の活躍が期待されるものはないだろう。一部の民放キー局の吹き飛ばされそうなレポーターを写すパフォーマンス的つくりでは、住民の安全は守れない。たとえば避難所の再確認やそこに至る行程の安全性、交通途絶ほか各ライフラインの現状など、各行政当局が持つ情報の流通とライブカメラによる現地状況報道が期待される。
      災害情報の入手に利用したメディア源の分析として、総務省のこんな分析がある。その要点はつぎのとおり。
      • 震災前後を通じて、災害情報の主たる情報源は依然としてテレビである。ただし、被災地ではラジオの利用も多い。
      • テーマごとに見ると、「原発・放射能」「食の安全」については、テレビは相対的に信頼度が低い傾向が見られる。その一方で、新聞は比較的、信頼度を維持している。
      • 先進的な利用が話題となったソーシャルメディアは、現時点で既存メディアを十分補完する程、利用されているとは言えない。ただし、役立ち度、信頼度については「大学・研究機関や研究者のツィッター」がやや高めに出ている。

      ところで、各地に開局されたコミュニティFM放送局。あれは災害時の対応を期待して設置されている。各局の台風情報への姿勢はどうなのだろう。県や市の災害対策本部からの情報を提供すれば予算的問題はないなず。当局と地元メディアの通常の連携体制づくりが必要だ。大規模災害が起こってからでは遅い。



    • 2013_10_08
      嵐の前の静けさ

      非常に強い台風が憂慮されるコースで接近中。写真は10月8日午前3時半の我が家からの夜景。無風。静寂。嵐の前の静けさ。この近辺も、そして皆様方のお宅も、大過なく過ぎますように。



    • 2013_10_07


      ふと気づくと、桜の木はもう葉も落ちてこのありさま。近年特に日本人は桜の木を植えたがるが、考え直していいのではないか。一年間でこんな寒々しい姿を半年間近く晒し続ける樹木は珍しい。私はパスだ。



    • 2013_10_06
      里山美食倶楽部お疲れ様会










    • 2013_10_05
      野島泉里展
      彫刻家の野島泉里さんが作品展を開催します。

      以下転記。
      雲仙ビードロ美術館で「野島泉里展」が開催されます。期間は10月1日(火)から12月1日(日)までの約2か月のロングランです。石彫近作約40点、ドローイング約15点を展示します。
      雲仙ビードロ美術館には、19世紀ボヘミアグラスを中心に、約300点の名品がコレクションされています。石彫の展示される企画ギャラリーを中心として、ガラス作品のある展示室にも石彫を配置する予定です。クラフトマンシップにも通底する石彫作品とガラスの名品がどのような響き合いを見せるのか。ガラス展示室には、野島マーサのセラミック(陶)彫刻作品も展示されます。秋の雲仙は紅葉が有名です。温泉と紅葉、石彫と陶、そしてガラスの名品をぜひお楽しみください。
      野島泉里展
      2013年10月1日(火)~2013年12月1日(日)
      開館時間 9:00~18:00(入館受付は17:30まで)
      会場: 雲仙ビードロ美術館企画ギャラリー
      * 野島泉里展の観覧には、ビードロ美術館の入館料が必要になります。美術館の常設展とともにお楽しみください。
        大人     700円



    • 2013_10_05
      溝口一博クインテッド・ライヴ
      溝口一博さんからライブの案内です。

      日時 10月27日(日)午後6時30分スタートです。
      会場 パラノイア(旧ファンファン)
      料金 前売\2500 当日\3000
      出演 溝口一博 Ts、久保 盟 Tb、佐伯哲也 P、川端 昇 B、山田圭二 Ds。今回はトロンボーンに久保 盟を迎えて新しいサウンドをお送り出来る事と思います。沢山の皆様のご来場をお願い申しあげます。
      お問い合わせ、前売り券のご予約はメールまたは夜間095-826-7648サロマニアン、携帯電話090-1974-3102溝口まで。



    • 2013_10_04
      2PLATS

      熊本。旧友キタズミくんと久々に会った。

      案内してくれた店は「2PLATS」。ビストロ。

      使いやすいサイズ。また行くだろう。

      リートフェルトのシュレーダー邸を思わせる配色だ。




    • 2013_10_03
      安藤真由さん、行動美術展で受賞

      長崎インターネットラジオにご出演いただいた安藤真由さんが、行動美術展で損保ジャパン美術財団賞を受賞。会友推挙となりました。おめでとうございます。これが受賞作品です。




    • 2013_10_03
      Next Floor

      悪夢のような食の風景です。



    • 2013_10_03
      サグラダファミリア


      完成の暁の姿をご覧になりたくありませんか。これが公式に提供された姿です。



    • 2013_10_02
      ハングドラム


      お聴きください。



    • 2013_10_01
      タレント

      昨日このサイトをご覧いただいているという方と話していて改めて感じたのが、多様性。里山で楽しんでいただいた方々は職種、年齢など様々な多様性に富んでいらっしゃる。それぞれがそれぞれの状況と得意分野を持ち、気取らず、森の中の夜を楽しんでいただいていることに心から感謝。人生を広げよう。交友を楽しもう。

      「芸」という字には、芸(うん)という元々ある字と、藝(げい)の略字の二つがある。藝の語源は、人がかがんで土に木を植えている姿から来ている。もう一つの芸は、芸香(うんこう)というハーブの一種のこと。書斎のことを芸窓(うんそう)、書庫を芸台(うんだい)ともいう。
      里山に十年間木を植えてきた。何十本と植林をした。そして好みのテイスト空間を構築させていただいてきた。藝だ。
      そしてまた機械屋さんの背中押しと代治郎さんたちのサポートなどによって、夢の夢だった里山露天風呂の現実味が出てきている。合掌。

       

       

       

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    Plofile まつを


    デザイナー。長崎市・島原市との多拠点生活化。人生を楽しむ。仕事を楽しむ。人に役立つことを楽しむ。座右の銘は荘子の「逍遙遊」。↓これは私の作品たち。

    「よくこんな事をする時間がありますね」とおたずねになる方がいらっしゃいます。こう考えていただければ幸いです。パチンコ好きは「今日は疲れたから、パチンコはやめ」とは思わないもの。寸暇を惜しんでパチンコ玉を回します。テレビ好きも、疲れているときこそテレビをつけるもの。ここにアップしたものは、私が疲れたときテレビのスイッチを押すように作っていったコンテンツです。