2015年1月
モノ
先日、深夜に目覚めました。
ぼうっと一人部屋のソファーに座っていて、ふと、自分が自分の選んだモノたちに囲まれていることを妙に自覚し始める時間があって、少し不思議な感覚に包まれました。
齢をとるということはこういうことでもあるのか、と。幼い頃、私の身の回りにあるグッズは自分が選択できたものではなく、それゆえの居心地の悪さというものも感じていたようです。そんな居心地の悪さがなくなってきている。これも齢をとって見えてくる風景の一つなのかと。
インフルエンザワクチンは有効
WHOがインフルエンザワクチンは効かないと発表したというツイートを最近時々見かけます。え? そう思っていましたら、信頼するお医者さんが次のようなツイートを発信してらっしゃいましたのでご紹介します。
- 「WHO、インフルエンザはワクチンで予防不可と結論 病院は巨額利益、接種しても感染多数。 」という記事。
- ……しかし実際は、WHOはワクチン接種を推奨している。検索すればすぐわかることを堂々と「不可と結論」などと書きたてるひとびと。ワクチン打ったのに発症してひどい目にあったのかな??
- 経験的に一番大事なのは、「頻回の手洗い、うがい、鼻洗浄。」
- 「ワクチンがあたかも有効であるかのように宣伝し、市民をだまして医療機関は金儲けをしている。」という図式を主張したかったのだろう。
- 本音で言えば、時間とコストとマンパワーを取られて本業にとても支障をきたし、副作用が出たと騒がれる「インフルエンザワクチン接種」、毎年11~12月はこれがストレッサ―になる。地域貢献と公衆衛生という見地からつよい要望があるのでやっているが、やらずにすむならやめてみたい。
「インフルエンザワクチンは、感染を予防する最も有効な方法である。」
( Influenza vaccination is the most effective way to prevent infection.)
WHO記載のポイント
上記のWHOサイト中で、ポイントをいつくか箇条書きしておきます。
・ウィルスは主にA2種、B2種のサブタイプがあり、計4種の不活化ウィルスを混ぜた物を接種していること
・重症化しやすいのは、2才以下、65才以上、妊婦、慢性内臓疾患(肺・肝・血液)、糖尿病、免疫低下状態
・WHOが接種を推奨するのは、妊婦、6か月~5才児、65才以上、慢性疾患の患者、医療従事者
予防接種は流行るであろうウィルスのタイプを予測して、その幾つかを混合したものを注射するのですが、全く同一のものが入り込むのを予防する力しかないのは事実です。でも、少なくとも感染の確率をある程度は下げることが可能で、また上記のようなハイリスク群の重症化を軽減する力もあると考えられます(これも、全くタイプが異なれば無力ではありますが)。今年は、本州で40才代の看護師が亡くなっており、可能な予防はすべきでしょう。
母里啓子先生という元ウイルス学者の方が、マスコミでは予防接種反対論者で有名ですが、ちょっと意見が偏り過ぎていると思います。先生は学者としての側面はお有りのようですが、臨床医としてのご経験は、そのご発言の中身からはほとんどおありでないように思います。もちろん、僕は接種を受けています。
また、マスコミなどで医師の中に、常にウィルスに曝されているので、自然に免疫がつくなどとおっしゃる方もいますが、現役内科医などは寝ずに当直して多数のインフルエンザの患者を診ることもしばしばですので、下手したら自分自身が、最悪死ぬか重症化し得るリスクを背負っていることを知っています。タミフルを予防内服している仲間も多数います。
抗ウィルス薬とて、感染後48時間以降ではほぼ効果がないため、高熱が出てからでは遅過ぎることもしばしば。感染した機会があったと思った時に内服しないと確実ではありません。手洗いとマスク、うがい(水道水で可)は多少なりとも有効です。
インフルエンザは何型であれ恐ろしい
インフルエンザは何型であれ恐ろしい。
特に私ども病院(もともと免疫力の低下した人が多数生活する場)では神経を使います。特にこの時期では主症状(精神疾患)よりもインフルエンザで命を落とす場合もある。で予防接種が無効だとぬかす輩は数百人の医療現場を避けて試験管だけの作業をしている人なのであります。
当院も65歳以上の患者さんが多いので特に注意をしてます。毎週月曜日の各幹部会では冬場はまずインフルの罹患数を報告させています。今のところ入院患者さんにはいません。ラッキーなだけです。院内には常在菌があり常に私ら(医療従事者)はいつ罹患してもいい状態にいます。藁(それ以上の効果あり)でもすがりたいのであります。
現場を知らぬ学者医師はけっこういます。いいかげんに聞いたほうがいい。
ラーメン
息子と久しぶりにラーメン。幸せをかみしめるかけがえのない時間。
非常時には情報過多で追いつかなくなくなる
雲仙岳噴火災害を体験しました。いざ非常時になると物事が一気に多方面で進展するので、市民には検証が追いつかなくなくなるのだなとつくづく思いました。分かりやすく言うと首が回らない。マスメディアがよく書く「これからも多角的に考え続けていかねばならない」という状況が薄まり幾何級数的進展がみられるようになります。
三十年戦争当時のような中東
以下、孫引きを記します。
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現在の中東の環境とよく似ているのは三十年戦争当時の国際環境だろう。17世紀前半に起きたこの戦争によって、ヨーロッパの多くの地域が破壊された。
当時のヨーロッパ同様、今後、中東の多くは自国の領土を適切に管理する力を持たない弱体な国で構成され、武装集団やテロ組織がますます大きな力をもち、内戦と国家間戦争が頻発する地域と化していくだろう。宗派や部族のアイデンティティが国家アイデンティティよりも強く意識され、豊かな天然資源をもつパワフルなプレイヤーが今後も近隣諸国の内政に介入し、外部のプレイヤーはこの地域を安定化させる意思と能力を欠いたままだろう。
出典:『フォーリン・アフェアーズ・リポート2014年11月号』
ドベの私
私が生まれ育った地域ではビリっけつのことをドベと言います。
先般、わが家にサンタさんが運動不足を案じてWiiSportsを持ってきてくれました。テレビゲームです。中でもテニスがわが家の人気メニュー。ラケットにみたてたリモコンを握って振りますと、画面の中の私もラケットを振ります。
開始から1か月ほど経とうとする現在、家庭内に序列が成立しようとしています。家内ランキング一位、元ソフトテニス部の家人。二位、息子。そしてドベが私。特に私だけが突出してヘタクソ。というわけで日曜日の早朝、家族が寝静まる中でトレーニングを積んでます。遠方用のメガネにかけかえ、パーカーを脱いで身支度終了。さ、また今から汗かこう。
成人の日
総じて今の若者の方が私たちの世代よりまじめですし努力もしています。人権意識に至ってはもう完全に今の方がいい。昔のアダ名なんて、ここに書くことをためらうものもありました、ホント。
でも、メディアで騒がれている異物混入犯のように訳の分からない調子に乗った輩には、世間の恐ろしさを教えてやることも大人の役目。どうしてああも軽率なかまってちゃんなのか。もう犯人は確定されミスがないようにチェックされている段階でしょう。親はこの男を育ててきたわけで、なんともかとも。
展示系クリエイターの皆様の作品鑑賞オフ会
冬場になると人恋しさも募りオフ会をしたくなります。というわけで唐突オフ会をしました。唐突にBBSに告知し、お声を挙げて頂いた方6名が「いなほ」に参集。以下、散人さんのコメントから。
- 昨夜は少人数のオフ会楽しゅうございました。偶々ペコロス氏の誕生日だった。氏は小一時間いてまた次の宴会(誕生会)に行かれた。下妻さんもまた西日本新聞に週一のコラム執筆で活躍中、才気煥発ながら家庭人としての平衡感覚もお持ちの佳人であります。山本さんは古巣のテレビ局へ復帰、「またサラーリマンに戻りました」と笑顔。あおタントさんが仕事終わり次第参加した。笑顔でおじさん達の雑談に付き合ってもらった。幹事役の「まつを」さんありがとうございました。
男組
家人が帰郷。諸事情で出かけられなかった息子と二人、わが家の男組による暮らし。すこぶる順調。
1日目夕食、おでん。
2日目夕食、ステーキ。
手がかからずガッツリ系のものを食しました。出かけられなかった分、ちょっとゴージャスに。明日は手作り餃子の予定。
久しぶりに大型スーパーに行って少し驚いたことがあります。大量の商品。通りの真ん中は冷凍食品通り、その横がカップ麺どおり、その横がスパゲティや鍋などのソースやタレ通り。こりゃあ、一人暮らしが長くなる人が増えるはずです。
夕食の後にファイヤーピットで鬼火焚き。
娘が撮る写真
島原の片田舎で育った青年であった私にとって、油絵が分野のすべてだと思っていました。日本画や彫金や彫刻やデザインなどは、家庭環境上囲まれ育ちましたので知ってはいましたけれど、美大に行っていいよと言われていたら油絵しか選択する頭しかなかったでしょう。そんな地方の学生独特の偏狭な文化度だったのです。今の美術部の連中も地方では余り変わらないのでは。うまいなあ、娘。
ネットで中古本
ネットでつぎのような中古の『芸術新潮』7冊を購入しました。
芸術新潮 2011年 02月号 シュルレアリズム ¥ 1
芸術新潮 2005年 10月号 尾形光琳 ¥ 1
芸術新潮 2007年 12月号 ヤコブセン ¥ 101
芸術新潮 2010年 09月号 瀬戸内海 ¥ 1
芸術新潮 2007年 07月号 大人の住宅 ¥ 64
芸術新潮 2006年 05月号 武満徹 ¥ 190
芸術新潮 2009年 02月号 国立西洋美術館 ¥ 1
合計356円也。これに一冊当たり340円の送料等がついて〆て2100円ぐらい。新刊で購入したら9000円ぐらいのものだからお得です。到着した現物を見ても状態は美しく、ページの折り目もありません。
実は先般書いたように玄関を本棚化しました。ここに芸術新潮をはじめとした雑誌を並べ、リビングから浴室に移動する際に抜き取っていけるようにしたのです。早速昨夜は尾形光琳の号を持って入浴。光琳の才能と対比される女性関係や借金問題に係る記事に苦笑。道楽を極め尽くした男、光琳。風呂場での読書はやっている人物も他に見受けられ、有名なところではカントも確かこの習慣があったと記憶しています。極楽。
技と芸術
抽象的な概念ではなく、抽象的な観念ではないか?
新年早々ですが、私の疑問にお答えをお願いします。
定期購読しているナショナル ジオグラフィック 1月号に『人類はいつアートを発明したのか?』という記事がありました。で、その冒頭に
「人類の長い歴史で、最も偉大な発明は何だろう。石器でも鉄剣でもない。それは、抽象的な概念に具体的な形を与える、芸術的な表現方法だ。」
とありました。ここで言う抽象的な概念は間違いで、抽象的な観念と言い換えるべきではないでしょうか?正月早々、すっきりしないので、お答えをお願いします。
代治朗さん、私なら「こころに浮かぶ観念を目(絵画など)や耳(音楽)に訴える表現方法が芸術である」と云うでしょう。
そのとおり
代治朗さん、結論から書きますと「そのとおり」です。
「人類の長い歴史で、最も偉大な発明は何だろう。石器でも鉄剣でもない。それは、抽象的な観念に具体的な形を与える、芸術的な表現方法だ。」
と書くべきだと私も思います。
概念と観念の違いは哲学辞典などを引きますと基礎基本としてどの書でも書き記されています。ネット上でもゴロゴロ説明が転がっていますね。
なるべく分かりやすく書きます。概念はconceptの訳、観念はideaの訳です。ideaはアイデア。これは古代ギリシアのイデアからきています。哲学者プラトンはイデア論と言いましてとても有名な考え方を話しています。私たちの魂はこの世に生まれる前に、イデア界という世界にいたといいます。ですから私たちの魂の表出は、idea=観念の表出です。芸術表現は魂の表出ですから、「抽象的な観念に具体的な形を与える、芸術的な表現方法」と記すべきだと思います。
でもどうしてナショナル ジオグラフィックともあろう超一流雑誌がそんな風に書いたのだろうと疑問が残ります。英文ではconceptとなっているはずですから、この前後の文脈を読んでみないと分からないのかもしれません。
翻訳者が間違っている
分かりました。今回のナショナルジオグラフィックの間違った文章表現は、翻訳者によるものです。以下に示したのが日本語版の書き出しと英語版原文の書き出し。両者を比べますと、大幅な意訳を日本語版がしていることが分かります。この段階で間違った表現が差し込まれています。翻訳者に「概念」の定義への認識の甘さがあったのです。
日本語版文章
「人類の歴史で最も偉大な発明は? 一つの答えは「アート」、すなわち抽象的な概念に具体的な形を与える表現方法だ。」
これを原文に忠実に訳す。
「人類史上の大改革は、石器や鉄製剣ではなく、最初の芸術家達による象徴的表現法による創造であった。」
ね、日本語版文章はかなりの意訳でしょう。概念=conceptという表現など出てきません。the invention of symbolic expression(象徴的表現法による創造)とあるだけです。
やや軽率な記事
>『人類はいつアートを発明したのか?』という記事がありました。
アルタミラの洞窟壁画などの写真(スティーブン・アルバレス)に 添えられた記事(チップ・ウォルター)のようですが、現生人類の祖先とされるネアンデルタール人が野蛮で芸術とは無縁であったとする通説に対して、2000年に南アフリカのブロンボス洞窟で発掘された遺物に見る幾何学模様が刻まれた赤い粘土の塊など、推定約7万5000年前のものとされることからこれまで最古とされていた年代を3万5000年も遡ることとなり、人類が記号を用いた起原の問題が再燃したいきさつなどを 幾分センセーショナルにとりまとめた やや軽率な記事のようです。
ご指摘の、「観念・概念」の誤訳(多分)もさることながら、この記事は「人類が記号を用いた起原」を、いとも容易に「芸術(アート)の起原」に置き換えて語っていますが、アート=技術という程度の解釈で、厳密な定義がなされた記事とは思えません。
この時代(前史~旧史)に、生活・労働・政治・軍事など分野はなく、勿論のこと芸術のジャンルが確立していたはずもありません。壁画や粘土ばかりではなく、同記事が別記する土器や石器・武器であっても同次元にあったもので、生と死すら渾沌として、すべては呪的イデア宇宙の支配下にあったはずの、本来絵や文字ましてや芸術と呼ぶべきものではない観念の呪刻だったのであり、
芸術の起原が「生」そのものであったことは、容易に想起できるところとなります。したがって、現代芸術にあっても呪性は抜き去りがたい要素となるのは当然のこととなりましょう。
「芸術」なんて語はごく最近
「芸術」なんて語はごく最近に言い出したことであります。捨兄に同感であります。
まぁ「アート」を「芸術」と訳したのは明治期で最近の話であります。じゃ西欧ではいつ「芸術」なるものが云われ始めたかというと、18世紀の観念哲学(カントやヘーゲルに至る、ドイツを中心に展開)からで、それまでは、まぁ職人や技芸という呼ばれかたであります。
私の分野の芸能で言えば「神楽」です。起源は人様に見せるような「芸術」ではなく、ただただ「神人一体」の奉納で巫女が神と交流する場や時であります。芸術の起源なんてという問いの設定こそまぁ、ちゃんちゃらおかしいのであります。なんとかジオグラッフィックで書いた人は察するに理科系でしょう。用語もよく分からん輩と察しています。
「芸術の起原が「生」そのものであった」とは?
まつをさん、ありがとうございました。そういった検証をしないのが、私であり、まつをさん(学者)との大きな違いですね。
捨老さんが言われる「全ては呪的イデア宇宙の支配下にあった」は、記事を読みながら、うすぼんやりと、そう感じていました。呪的支配下で描かれたものをアートと言うんだ、と。記事本文に、「抽象的な模様もただ単なる、日時を数えた、或いは獲物の数を示したものと考えられる」と書いておきながら、その模様をアートと言っているのです。
「芸術の起原が「生」そのものであった」
ここをもう少し詳しく説明していただけませんか。
石器や鉄製剣も、洞窟絵画と同じ「生」そのものの欲動によって生まれた
>「人類史上の大改革は、石器や鉄製剣ではなく、最初の芸術家達による象徴的表現法による創造であった。」
まつをさんの名訳で、「石器や鉄製剣」と「最初の芸術家達による象徴的表現法」を区別した記述者の概念的思考レベルが一層ハッキリします。記述通り読めば「石器や鉄製剣」は「象徴的表現法」ではないことになりますが、本当にそうでしょうか。矢じり(鏃)やナイフ(剣)の形が概念化する以前、その形も存在も当然のように洞窟絵画に負けず劣らず同等に、抽象的かつ象徴的なものであったと言わざるをえません。洗練度を高めた今日なお、刃物(特に日本刀など)を見つめる文化の精神性に、遺憾なくその原始的抽象性をとどめていると思われます。
つまり武器であろうと食器であろうと、洞窟絵画と同じ次元の「生(死を含む)」そのものの欲動によって生まれたと言う程度の意味です(笑)。勿論、根元宇宙と呪的に同化した「生の欲動」をさします。ですから 正しくは、「石器や鉄製剣」の創造も「最初の芸術家達による象徴的表現法による創造であった」ことになります。
※もし、石鏃など石片程度のものは芸術に無縁だと思われる方があるなら、是非、大村の資料館で実見されることをおすすめします。その繊細な黒曜石の輝きに鳥肌立ち、考えも変わることでしょう。
>抽象的な模様もただ単なる、日時を数えた、或いは獲物の数を示したもの
ボクらは「一~1」などを何のためらいもなく数値表現として甘受する文化に馴らされています。しかし「一~1」とは、いったいどのような概念なのでしょうか。全体を「一~1」と言い、部分さえも「一~1」と言う。太古、本当に日数や頭数を、彼が言うように 1~10 と数えていたのでしょうか。未だ観念の渾沌を帯びた「一~1」なのではないでしょうか。数を数えない種族の報告もあります(ダニエル・L・ヱヴェレット『ピダハン』)。
西欧での「アート」は「人工物」を含意し人間技のこと
捨兄の論点と違うことを云います。否定ではありません、単に違うことだということです。
西欧での「アート」は「人工物」を含意します。人間技なのです。これは西欧の世界観の土台をなす「自然と文化の大分割」の思想を前にした時(明治期)、多くの日本人が当惑し、苦しみました。「文明開化」とともにこの国には、圧倒的な近代的権力を背景として「自然と文化の大分割」の思考が怒涛のように侵入してきました。西欧化の波に無批判な知識人たちは「自然と文化の相互利用」としてつくりあげられた日本文化のあり方そのものを否定するようにさえなりました(『現代思想新年号』)。
どうも西欧と日本の「芸術観」は異なるようで、どの立場かでまた「芸術」とは何かを語るべきのようです。
矢じりは、作り手の頭の中に矢じりのアイデア(idea)が現れたことによりできた
さすが捨老さん。
>アート=技術という程度の解釈
その通りであります。
この文ではartistをどうとるかということがありますね。この場合は、散人さんがおっしゃるように腕の立つ職人と捉えたがいいんですよね。Artはラテン語の「ars」が語源。腕、技術、学術、芸術、技芸や手仕事の意などであります。日本語の職人と峻別したがる「芸術家」と意味が違うんです。ですから代治朗さんはartistであります。
>芸術の起原が「生」そのものであった
代治朗さん、捨老さんの解説に、またまた蛇足ですが前述からの私流の解説をくっつけさせていただきますね。
矢じりはなぜできたか。それは最初、作り手の頭の中に矢じりのアイデア(idea)が現れたことによります。そのアイデアを実際の形として矢じりをつくる。そのときまだ世に「矢じり」という言葉はないわけです。つまり、そのときまだ世に「矢じり」という社会共通の概念はない。で、徐々に矢じりってこんなもんだと広まっていく。「ねえ、矢じり取ってくれ」「はいよ」なんてことになったとき、矢じりの概念ができたと。
実は同じことを昨年、身近で体験しました。ファイヤーピットです。実はファイヤーピットなる言葉があるということを、私は知りませんでした。私は頭の中でこんなものがあればいいなあと夢想し始めたわけです。ベランダで安全に焚き火ができるようにしたい。その時、小型鋳物炉は持っていましたが、これは違うよなと。形はこんな風に丸くって、高さがこんな感じであって、こんな風に使えてと考えていました。このころがideaが想起されていく過程。取り憑かれたように考えていくわけです。あの感覚、何かに取り憑かれたように脳みそを掘り起こしていく感覚。それはなんといいましょうか、自分でどうしてこんなことに懸命になっているんだろうと。炎にまつわる生の本来的畏敬と言いましょうかそんな感覚です。で、あるときバッタリ「ファイヤーピット」という言葉と製品写真にネットで出会ったわけです。「ああ、ファイヤーピットという概念、カテゴリーがあるんだ」と。それまで不安定だった思念が身を寄せる支柱を手に入れたような感覚がありました。
そしていよいよ代治朗さんによって形にしていただいたわけです。
というわけで、人類史のはじめに矢じりをつくった人は、実に抽象的な混沌とした脳みその使い方をしたはずです。私がファイヤーピットという言葉・概念と出会った現代とは違い、その当時の作り手は限りなく抽象的なideaを形に表していたわけです。
まつをさん、捨老さんが言われた
>芸術の起原が「生」そのものであった
が、より深く理解できました。そして、idea、言い換えれば魂その魂の表出が芸術なんですね。岡本太郎が「芸術は爆発だ」と言ったのを覚えているのですが、抽象的に脳内に想起されたideaを熟成させ、一気に、それこそ爆発的に可視化する行為が芸術だと言っていたのですね。やっと、理解できました。
散人さん、捨老さん、そしてまつをさん、長々お付き合いいただき、ありがとうございました。
息子の聴く曲
中学生の息子に「おまえの聴いてる曲を流してみなよ」と言って、カーステレオから流れ出てきた音楽。プログレオヤジの私にはELPのパクリに聴こえます。
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その名の通り、「あらゆるものに音楽が内在している」と考えそれをそのまま表現することをモットーとしている自然派アーティスト。 「そのまま表現する」ことに強いこだわりがあり、そのため既存の音楽における拍節に縛られない自由な曲調が最大の特徴。
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え~日本語になってませんがそういうことらしく、この曲はグルーヴコースターというゲームのためのオリジナル曲らしいのです。
父 「この曲は好きな部類に入るな」
息子 「ほう」
父 「40年ぐらい前にELPってバンドがいたんだけれどね、知ってる?」
息子 「知らない」
父 「エマーソン、レイク、パーマーって3人でやってたグループなんだけどね。パクッてると思うな、この曲」 。
時代は巡るって言いますが、こんな音が息子も好きだというのが少しうれしい。
格差社会は能力主義を阻害するようになる トマ・ピケティ
散人さんのコメント。
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トマ・ピケティ 『21世紀の資本』に年末年始は終始するだろう。
現在「格差」の進行する国家は多数になりつつある。それは資本(家)収益が経済成長(多数国民の利益)より大きいということで、著者は20カ国の過去200年の税の推移を調査し(それは気の遠くなる作業)、そのデータを元に論を展開していく。近頃の数理経済(殆どの大学がそうだ)とは一線を画し、あるべき社会の姿(それは民主主義が資本主義より優位性を担保すること)を想定した経済学を打ち立てた。
このまま「格差社会」が進むと、民主主義の基盤となる能力主義的な価値観を大幅に衰退させることになる、と警鐘を鳴らす。
21世紀最高の本がでたのではないか、という人もいる。700頁近くある大書なので読み通せるか自信がないが、経済の基礎的知識があれば大丈夫とあるので闇雲に読み始めている。
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年末にお会いした時もこの書籍が話題となり、着々と読書が進行していることが窺われました。恥ずかしながら私は読書にチャレンジしていませんが、格差社会と未来というテーマであること、さらにその研究が膨大なデータから組み立てられることから少なからぬ興味を掻き立てられます。
この本の翻訳者によるFAOはこちらに(クリック)。
さらに近々、本人による講義をTVで放送されることが分かり、私は録画予約を済ませました。番組名と放送時間は次のとおり。
- 2015年01月09日(金) 午後11時~午後11時54分
第1回「21世紀の資本論」~格差はこうして生まれる~ - 2015年01月16日(金)
第2回「所得不平等の構図」(仮)~なぜ格差は拡大するのか~ - 2015年01月23日(金)
第3回「不平等と教育格差」(仮)~教育VSスキル~ - 2015年01月30日(金)
第4回「資産格差の闇に迫る」(仮)~所得データはこうしてつくられる~ - 2015年02月06日(金)
第5回「世襲型資本主義の到来」(仮)~100年前の格差に回帰~ - 2015年02月13日(金)
第6回「これからの資本主義」(仮)~グローバル富裕税の可能性~
「パリ白熱教室」
ピケティの人気授業を世界初の独占収録!NHK教育にて
全6回シリーズの入門篇。各回120分。
各国で注目の『21世紀の資本』著者。アメリカではわずか1%の富裕層が、国の富の4分の1を握るようになったのは何故か? 所得と富の不平等を分析し、世界で一躍脚光を浴びる。
出会えてよかった物
昨年出会えてよかった物を振り返るとこうなります。
ファイヤーピット
ベランダで使う焚火台です。代治朗さんに頂きました。なかなか里山に行くことができなくなった状況を救いライフスタイルを変えてくれたものになりました。想像してみてください。仕事から帰宅し、すぐにベランダで焚火を楽しむことができるなんて、生き方の思考が変わります。
内窓インプラス
自宅に取り付けました。窓の断熱と防音が劇的に変化。凍えて越冬していた私の部屋が、冬場も使えるようになりました。いい取り付け業者との出会いがキーになるように思います。
里山雨水システムと露天風呂
昨年前半にはまっていたシステム。あおタントさんや機械屋さん、代治朗さんにお力をいただきました。日常的に活用するものではないのですが、これらの仕組みはこれまでチャレンジできなかった複雑なものであったと思います。
里山カバノンバー
土足で入室できるようにし、10年ぶりに室内の大幅なカバノンのリフォームをしました。森の中のバー。大人の隠れ家。散人さんに頂いたヘネシーナポレオン樽瓶が強烈な印象です。
雑煮
島原は具雑煮。うまい。
豊穣なる山海の幸が椀に込められたソウルフードです。
考えてみますと子どもの頃、一般的家庭でもフグやワタリガニを食していました。今も実家では野菜は頂くものとしてあります。抜群のおいしさを誇るシャッキシャキの野菜。水と空気と芳醇な陽の光。母なる大地。
あけましておめでとうございます
実家の庭の水盤にやってきた野鳥を眺めやりながら正月料理を楽しんでいました。
夜は散人さん、ケンちゃん、小にょろくんにお出で頂き宴。実家の地域では元旦に男性においでいただくと福の神がいらっしゃったと慶びます。
年末には散人さんにお呼ばれいただき、そしてこの夜も散人さんの獺祭をはじめ皆様方にお持ちいただいた美酒で面白可笑しく夜が更けていきました。
右端は前夜TV島原版「ゆく年くる年」で遅くまでメインキャスターを勤めた小にょろくん。ローカルな味わい深い番組。最近一層渡世人のにおいを放つようになった左端のケンちゃんが不条理の極みともいえる人生訓を、小にょろくんに垂れるの図。ま、そんなワイワイの宴のなか、月一のラジオ番組の企画浮上。コーディネイター及び出演
散人さん、進行 小にょろくん、アテンダント まつをで、これにゲストの皆さん方。人生は楽し。どうもやることになりそうです。そうなったらネットでも全国どこからでも聴けるようになるのではなかったかと思いますので、みなさんお楽しみに。