2015_01_08

技と芸術


長崎県美術館に「ガウディ×井上雄彦展」を観にいってきました。すばらしい。この企画を推進したキュレーターに拍手を贈りたいと思います。井上雄彦氏の技に圧倒されると同時に、先般からの「Bar指のつけね」の話題を思い浮かべていました。その論議を以下に掲載します。
技と芸術に関しては長崎県在住の日本西洋画画壇のホープ柏本龍太氏も熱く語っていただいていました。柏本氏は第1回日本アートアカデミー大賞グランプリ受賞者。氏のトークもここでお聴きいただけます。ぜひ。

  • 代治朗さん
    新年早々ですが、私の疑問にお答えをお願いします。
    定期購読しているナショナル ジオグラフィック 1月号に『人類はいつアートを発明したのか?』という記事がありました。で、その冒頭に
    「人類の長い歴史で、最も偉大な発明は何だろう。石器でも鉄剣でもない。それは、抽象的な概念に具体的な形を与える、芸術的な表現方法だ。」
    とありました。ここで言う抽象的な概念は間違いで、抽象的な観念と言い換えるべきではないでしょうか?正月早々、すっきりしないので、お答えをお願いします。

  • 散人さん
    代治朗さん、私なら「こころに浮かぶ観念を目(絵画など)や耳(音楽)に訴える表現方法が芸術である」と云うでしょう。

  • まつを
    代治朗さん、結論から書きますと「そのとおり」です。
    「人類の長い歴史で、最も偉大な発明は何だろう。石器でも鉄剣でもない。それは、抽象的な観念に具体的な形を与える、芸術的な表現方法だ。」
    と書くべきだと私も思います。
    概念と観念の違いは哲学辞典などを引きますと基礎基本としてどの書でも書き記されています。ネット上でもゴロゴロ説明が転がっていますね。
    なるべく分かりやすく書きます。概念はconceptの訳、観念はideaの訳です。ideaはアイデア。これは古代ギリシアのイデアからきています。哲学者プラトンはイデア論と言いましてとても有名な考え方を話しています。私たちの魂はこの世に生まれる前に、イデア界という世界にいたといいます。ですから私たちの魂の表出は、idea=観念の表出です。芸術表現は魂の表出ですから、「抽象的な観念に具体的な形を与える、芸術的な表現方法」と記すべきだと思います。
    でもどうしてナショナル ジオグラフィックともあろう超一流雑誌がそんな風に書いたのだろうと疑問が残ります。英文ではconceptとなっているはずですから、この前後の文脈を読んでみないと分からないのかもしれません。

  • まつを
    分かりました。今回のナショナルジオグラフィックの間違った文章表現は、翻訳者によるものです。以下に示したのが日本語版の書き出しと英語版原文の書き出し。両者を比べますと、大幅な意訳を日本語版がしていることが分かります。この段階で間違った表現が差し込まれています。翻訳者に「概念」の定義への認識の甘さがあったのです。
    日本語版文章
    「人類の歴史で最も偉大な発明は? 一つの答えは「アート」、すなわち抽象的な概念に具体的な形を与える表現方法だ。」
    英語版原文
    The greatest innovation in the history of humankind was neither the stone tool nor the steel sword, but the invention of symbolic expression by the first artists.
    これを原文に忠実に訳す。
    「人類史上の大改革は、石器や鉄製剣ではなく、最初の芸術家達による象徴的表現法による創造であった。」
    ね、日本語版文章はかなりの意訳でしょう。概念=conceptという表現など出てきません。the invention of symbolic expression(象徴的表現法による創造)とあるだけです。

  • 捨老さん
    >『人類はいつアートを発明したのか?』という記事がありました。
    アルタミラの洞窟壁画などの写真(スティーブン・アルバレス)に 添えられた記事(チップ・ウォルター)のようですが、現生人類の祖先とされるネアンデルタール人が野蛮で芸術とは無縁であったとする通説に対して、2000年に南アフリカのブロンボス洞窟で発掘された遺物に見る幾何学模様が刻まれた赤い粘土の塊など、推定約7万5000年前のものとされることからこれまで最古とされていた年代を3万5000年も遡ることとなり、人類が記号を用いた起原の問題が再燃したいきさつなどを 幾分センセーショナルにとりまとめた やや軽率な記事のようです。
    ご指摘の、「観念・概念」の誤訳(多分)もさることながら、この記事は「人類が記号を用いた起原」を、いとも容易に「芸術(アート)の起原」に置き換えて語っていますが、アート=技術という程度の解釈で、厳密な定義がなされた記事とは思えません。
    この時代(前史~旧史)に、生活・労働・政治・軍事など分野はなく、勿論のこと芸術のジャンルが確立していたはずもありません。壁画や粘土ばかりではなく、同記事が別記する土器や石器・武器であっても同次元にあったもので、生と死すら渾沌として、すべては呪的イデア宇宙の支配下にあったはずの、本来絵や文字ましてや芸術と呼ぶべきものではない観念の呪刻だったのであり、芸術の起原が「生」そのものであったことは、容易に想起できるところとなります。したがって、現代芸術にあっても呪性は抜き去りがたい要素となるのは当然のこととなりましょう。

  • 散人さん
    「芸術」なんて語はごく最近に言い出したことであります。捨兄に同感であります。
    まぁ「アート」を「芸術」と訳したのは明治期で最近の話であります。じゃ西欧ではいつ「芸術」なるものが云われ始めたかというと、18世紀の観念哲学(カントやヘーゲルに至る、ドイツを中心に展開)からで、それまでは、まぁ職人や技芸という呼ばれかたであります。
    私の分野の芸能で言えば「神楽」です。起源は人様に見せるような「芸術」ではなく、ただただ「神人一体」の奉納で巫女が神と交流する場や時であります。芸術の起源なんてという問いの設定こそまぁ、ちゃんちゃらおかしいのであります。なんとかジオグラッフィックで書いた人は察するに理科系でしょう。用語もよく分からん輩と察しています。

  • 代治朗さん
    まつをさん、ありがとうございました。そういった検証をしないのが、私であり、まつをさん(学者)との大きな違いですね。
    捨老さんが言われる「全ては呪的イデア宇宙の支配下にあった」は、記事を読みながら、うすぼんやりと、そう感じていました。呪的支配下で描かれたものをアートと言うんだ、と。記事本文に、「抽象的な模様もただ単なる、日時を数えた、或いは獲物の数を示したものと考えられる」と書いておきながら、その模様をアートと言っているのです。
    「芸術の起原が「生」そのものであった」
    ここをもう少し詳しく説明していただけませんか。

  • 捨老さん
    >「人類史上の大改革は、石器や鉄製剣ではなく、最初の芸術家達による象徴的表現法による創造であった。」
    まつをさんの名訳で、「石器や鉄製剣」と「最初の芸術家達による象徴的表現法」を区別した記述者の概念的思考レベルが一層ハッキリします。記述通り読めば「石器や鉄製剣」は「象徴的表現法」ではないことになりますが、本当にそうでしょうか。矢じり(鏃)やナイフ(剣)の形が概念化する以前、その形も存在も当然のように洞窟絵画に負けず劣らず同等に、抽象的かつ象徴的なものであったと言わざるをえません。洗練度を高めた今日なお、刃物(特に日本刀など)を見つめる文化の精神性に、遺憾なくその原始的抽象性をとどめていると思われます。
    つまり武器であろうと食器であろうと、洞窟絵画と同じ次元の「生(死を含む)」そのものの欲動によって生まれたと言う程度の意味です(笑)。勿論、根元宇宙と呪的に同化した「生の欲動」をさします。ですから 正しくは、「石器や鉄製剣」の創造も「最初の芸術家達による象徴的表現法による創造であった」ことになります。
    ※もし、石鏃など石片程度のものは芸術に無縁だと思われる方があるなら、是非、大村の資料館で実見されることをおすすめします。その繊細な黒曜石の輝きに鳥肌立ち、考えも変わることでしょう。

  • 捨老さん
    >抽象的な模様もただ単なる、日時を数えた、或いは獲物の数を示したもの
    ボクらは「一~1」などを何のためらいもなく数値表現として甘受する文化に馴らされています。しかし「一~1」とは、いったいどのような概念なのでしょうか。全体を「一~1」と言い、部分さえも「一~1」と言う。太古、本当に日数や頭数を、彼が言うように 1~10 と数えていたのでしょうか。未だ観念の渾沌を帯びた「一~1」なのではないでしょうか。数を数えない種族の報告もあります(ダニエル・L・ヱヴェレット『ピダハン』)。

  • 散人さん
    捨兄の論点と違うことを云います。否定ではありません、単に違うことだということです。
    西欧での「アート」は「人工物」を含意します。人間技なのです。これは西欧の世界観の土台をなす「自然と文化の大分割」の思想を前にした時(明治期)、多くの日本人が当惑し、苦しみました。「文明開化」とともにこの国には、圧倒的な近代的権力を背景として「自然と文化の大分割」の思考が怒涛のように侵入してきました。西欧化の波に無批判な知識人たちは「自然と文化の相互利用」としてつくりあげられた日本文化のあり方そのものを否定するようにさえなりました(『現代思想新年号』)。
    どうも西欧と日本の「芸術観」は異なるようで、どの立場かでまた「芸術」とは何かを語るべきのようです。

  • まつを
    さすが捨老さん。
    >アート=技術という程度の解釈
    その通りであります。
    この文ではartistをどうとるかということがありますね。この場合は、散人さんがおっしゃるように腕の立つ職人と捉えたがいいんですよね。Artはラテン語の「ars」が語源。腕、技術、学術、芸術、技芸や手仕事の意などであります。日本語の職人と峻別したがる「芸術家」と意味が違うんです。ですから代治朗さんはartistであります。
    >芸術の起原が「生」そのものであった
    代治朗さん、捨老さんの解説に、またまた蛇足ですが前述からの私流の解説をくっつけさせていただきますね。
    矢じりはなぜできたか。それは最初、作り手の頭の中に矢じりのアイデア(idea)が現れたことによります。そのアイデアを実際の形として矢じりをつくる。そのときまだ世に「矢じり」という言葉はないわけです。つまり、そのときまだ世に「矢じり」という社会共通の概念はない。で、徐々に矢じりってこんなもんだと広まっていく。「ねえ、矢じり取ってくれ」「はいよ」なんてことになったとき、矢じりの概念ができたと。
    実は同じことを昨年、身近で体験しました。ファイヤーピットです。実はファイヤーピットなる言葉があるということを、私は知りませんでした。私は頭の中でこんなものがあればいいなあと夢想し始めたわけです。ベランダで安全に焚き火ができるようにしたい。その時、小型鋳物炉は持っていましたが、これは違うよなと。形はこんな風に丸くって、高さがこんな感じであって、こんな風に使えてと考えていました。このころがideaが想起されていく過程。取り憑かれたように考えていくわけです。あの感覚、何かに取り憑かれたように脳みそを掘り起こしていく感覚。それはなんといいましょうか、自分でどうしてこんなことに懸命になっているんだろうと。炎にまつわる生の本来的畏敬と言いましょうかそんな感覚です。で、あるときバッタリ「ファイヤーピット」という言葉と製品写真にネットで出会ったわけです。「ああ、ファイヤーピットという概念、カテゴリーがあるんだ」と。それまで不安定だった思念が身を寄せる支柱を手に入れたような感覚がありました。
    そしていよいよ代治朗さんによって形にしていただいたわけです。
    というわけで、人類史のはじめに矢じりをつくった人は、実に抽象的な混沌とした脳みその使い方をしたはずです。私がファイヤーピットという言葉・概念と出会った現代とは違い、その当時の作り手は限りなく抽象的なideaを形に表していたわけです。

  • 代治朗さん
    まつをさん、捨老さんが言われた
    >芸術の起原が「生」そのものであった
    が、より深く理解できました。そして、idea、言い換えれば魂その魂の表出が芸術なんですね。岡本太郎が「芸術は爆発だ」と言ったのを覚えているのですが、抽象的に脳内に想起されたideaを熟成させ、一気に、それこそ爆発的に可視化する行為が芸術だと言っていたのですね。やっと、理解できました。
    散人さん、捨老さん、そしてまつをさん、長々お付き合いいただき、ありがとうございました。






 

Plofile まつを


デザイナー。長崎市・島原市との多拠点生活化。人生を楽しむ。仕事を楽しむ。人に役立つことを楽しむ。座右の銘は荘子の「逍遙遊」。↓これは私の作品たち。

「よくこんな事をする時間がありますね」とおたずねになる方がいらっしゃいます。こう考えていただければ幸いです。パチンコ好きは「今日は疲れたから、パチンコはやめ」とは思わないもの。寸暇を惜しんでパチンコ玉を回します。テレビ好きも、疲れているときこそテレビをつけるもの。ここにアップしたものは、私が疲れたときテレビのスイッチを押すように作っていったコンテンツです。