Zone
3 アーケード
「さよなら,かもね」と彼女の部屋に走り書きがあった。彼女はあの炎上騒ぎのどさくさ以来,行方知れずだ。「夢の多重構造」と「時の単層構造」。これが僕と彼女の最後のテーマ。そして,いずれにしろ,彼女は僕の前から姿を消した。失神から目覚めるような朝に,祝福を。
この数日間は充実してる。
けれど,眠れば,世界中から僕が置いてきぼりにされそうで,怖い。
白いブレザーに真紅の蝶ネクタイ。一昨日,見知らぬ女が,僕を訪ねてやってきた。
「東塔三階,レスポワールへお出で下さい。ママは是非お礼をと申しておりました」
テロの際、救急局に担ぎこんだあの女からの招きだ。マスターの話によると,なんでも名うての経営者らしい。パトロールが巡回するアーケードを通って,招待に応じる。
レスポワールは,実にゾーン的な店だった。十メートルほどもある高い天井。そこからアールヌーボー風のネオン管が,何百となく垂れ下がり輝く。四隅の空間には,裸体の女達が浮きながら踊っていた。送風システムで宙に舞うその肉感的な体躯は,極上のディスプレイだ。その下にざわめくタキシードとナイトドレスの客。寄り添うバタフライの女たち。ごったがえす客と,グラスのぶつかる音を縫って,一番奥の個室に辿りつく。そこに,ギブスをはめた右足をシャギーの上に投げ出し,件の女はいた。
「もう,いいんですか」
「救急局は一杯で追い出されたのよ」
たしかそんな風な会話から始まったと思う。女は,生涯男を罵倒し続け,あげくの果てにただ一人で死んでいくような,そんな顔をしていた。
僕は四人の女をあてがわれた。そしてそれが形成人の存在を知った最初の日だった。
形成人――人間の快楽の為に,ゾーンより形成されてきた者たち。ある者は僕達の夜伽の為に,そしてある者は過重な労働の為に。つまりアーケード経済は一種の奴隷制の上に成立していた。そう言うと、「それは違う」とギブスの女は応えた。「この子たちは,そうした願望の元に形成され生まれてきたわけだからね。あんたに抱かれる事は快楽そのもの。重労働につく形成人も,重労働なくしての自分など考えられないというわけ」
強いディスコビートが流れていた。
「つまり,この子たちはそうする事に対し,考える余地などないの」
ミルに帰りついたのが,今夜八時。店ではマスターがフジノの弾くピアノを,退屈そうな顔をして聴いていた。マスターに形成人のことを話す。
「ああ,知らなかったのかい? ペルモス教徒のほとんどは,成功した形成人だよ。だからあんなに真面目に働く」
「そのとおり,そのとおり」フジノがピアノを弾きながら言う。
それも,僕にとっては新事実だ。
「ねえマスター,分らない事だらけだよ。あの爆発は誰の仕業だろう。僕は何の為にゾーンにやって来たんだろう。僕は誰で,どこに行くんだろう。そして……」
「君も変った」
鍵盤に向かってフジノが,イェ~と呻いている。
「二ヶ月以上経ち,欲しいものも分らず,酒浸りさ」
「本当に欲しいものなんてあるのかい」
「アーケードの住人達はどうなんだろう?」
「ゾーンじゃ人生なんて,ティッシュペーパーみたいに軽いものさ」
「で,快楽を追い求める?」
マスターは,手を笑わせてウイスキーを一口あおった。
フジノが弾いている気怠い曲は,『マイ・フーリッシュ・ハート』だ。
マスターは僕の方を見ると,溜め息をつきながら言った。
「違うね。逆だよ。快楽ってやつは,一端駆け出すと降りることの出来ない逆走回転のエレベーターさ。求めるんじゃなくて,僕達が振り回されるわけね」
僕はゆっくりと額いた。
◇
人生にオブラートを掛けるかのように,僕たちはしたたか飲んだ。
フジノはもうピアノが弾けない。僕らは笑いが止まらない。
何をカクテルしたんだい,マスター?
柑碧の空。そして波だ。
幻覚は,遠方からゆっくりと寄せて来る大きな波だ。僕は背筋を伸ばし,波に向って立つ。そして,巨大な泡立つ青いクリームソーダのような波に,満身の力を込めてブーメランを投げ込んだ。ブーメランはパフッという音を立ててブルーの壁面に消え入った。波の前進を阻むことは,とうてい出来なかった。たちまち僕は足を掬われ,飲みこまれ,ミキサーにかけられた卵のように,強い遠心力を覚えた。
突如僕はラジオ体操第一を開始し,そしてミルを飛び出す。
アーケードを全力疾走する。夜の湿った空気を蹴分け入る。僕は前へと,猪突する。
妖精の声が聞こえるようだ。
――馬鹿ねえ,そんなに飲んで。走っちゃ駄目よ――
僕はニヤリと笑い一直線に走り抜ける。眠りを知らずにごった返す通行人たちは,目を剥き道を開ける。ネオンが尾を引いて流れ続ける。アーケードは,巨大なミラーボールだ。
下半身だけをフル機動させ,上半身からいたずらに力を抜いていく。なんて心地好い下半身の反乱。軟体動物の奔放さを手に入れた肩や腕や頭蓋骨が,ガクガクと歓喜の混線を始める。
「ネガ・と・ポジ・よ」
妖精の顔が,ぐるぐると頭を回る。
記憶の裂け目から絞り出された酢酸が,僕の意識に流れ込む。そのクレバスの向うに,何万海里もの航海から帰還する船舶が,闇夜に放つ警笛が聞こえる。底知れぬ深みへと誘い続ける警笛だ。
――ねえ!――
妖精が遠くで叫んだようだった。彼女の声は三千回の屈折を伴って僕の脳裏に響き来る。
振り向く。
途端に凄まじい勢いで僕は横転し,頭部をいやというほどタイルに打ち付けた。ボロギレのように身体は転がり,その悲劇的シーンに酔いしれる。ああ,夜だ。輝かしきゾーンの夜だ。
ウォークマンを肩に垂らしたスパッツの女が駆け寄って来て,大丈夫? と僕を覗き込んだ。笑ってみせよう。なんて素敵な僕のブルーのスニーカー。
「気が知れないわ」
彼女のウォークマンから,僅かに音楽が漏れている。TFFの『ルール・ザ・ワールド』だ。
「ねえ,ヘツドホン貸しとくれよ。今とってもBGMが欲しかったんだ」
彼女は毛虫をみるように僕を見詰める。クラックをやっているやつ独特の,黒い隅のある目だ。
「テーマ曲さ。解るだろう?」
イカレてるんじゃないの,あなた。そう言い残して赤の他人は,赤の他人のまま去って行く。実に残念な事だ。こうして世界の友好の輪は,一つ広がり損ねていく。
おもむろに立ち上がり,疾走を再開する。ぬめりながら後方で渦を巻く愛しき過去。コンデンスミルクのような過去。甘ったるい,吐き気のするような日々。
人気を避けて,小さな路地に僕は飛びこむ。腐ったベーコンのような臭いの充満する小路だ。暫く走るとむがつきが込みあけ,僕はペンキが禿げ反り返っている壁に持たれて,三回吐いた。汚物は僕のスニーカーにかかり,顔に向け温かい湯気が上がる。ガラスタイルごしに,階下がら僕をなめるどす黒いネオン光。不思議な涙が僕の瞳に溢れていた。
角の向こうで爆竹がはじける音がした。酔ったノリでそちらに向かう。次の瞬間、僕は身を堅くした。
まだ温かい血を流し,唸りながら男が転がっていた。そして灰色の作業服を着た男が二人。一人が銃を持ち,もう一人がひどい火傷の跡を顔に残して,呻く男の前に立っていた。二人は僕を見ると,唾を吐いた。
「なんだ,き、きさま。マーゼンじゃねえようだな」ケロイドの男が震える声で呟いた。
あ,ああ,と合槌を打って,引き金に指を通した男が,銃を僕の方に差し出した。
「おめえも撃ってかねえか,このマーゼン野郎を。アーケードが焼けたのも,こいつらが,ええカツコし過ぎたからよ。だろう?」男は引きつった笑いで、僕に鋭い視線を刺す。「なんだ,お,おめえ,口きけねえのかよ。7セクションのトイレの落書き,知らぬ筈ねえだろう。マーゼンに捧ぐって,あったじゃねえか」
「もっぱらの評判だろうが。こいつらが,こいつらが妙な事始めなけりゃ,火をつけるやつも出はねえし,俺もこういった面にならなくて済んだ」そう言うとケロイドは,転がるマーゼンのパトロールに唾を吐きかけた。
「やれよ。そして俺達の顔も忘れるんだ。い,いいな」
唇まで震えた。銃が差し出される。持っていた男の手油で冷たく光る銃。たった今,呻き続ける男の腰を射抜いたやつだ。僕は差し出された男の手を,強く払った。乾いた音を立てて,銃はタイルを滑る。
「野郎!」
フルスピードで重い蹴りが入れられる。路上にもんどり反る。全身の筋肉が収縮する。
「優しく言ってりゃ,いい気になりやがって!」
息を吸おうとしたが,横隔膜が下がらない。苦しさにに身もだえする。スニーカーのゴムがタイルに擦れて,キュッという音をアーケードに響かせた。くそっ! 途端に,頭に血が上った。僕の中で扉が開き,何かがうごめき始める。
僕は唾を吐くと,横転した。男の二度目の蹴りが,空を蹴る。そこへ体ごとぶつかって行く。声を漏らして,男の身体は大きく揺れた。
歯を折ってやる。拳を握りしめた途端,組まれた腕が僕の背中に叩きつけられた。
死ね。思いつきり足を払う。一瞬,男は宙に浮き,奇妙な姿努でどうっと顔面からタイルに崩れた。
そばで笑いながら冷やかしていたケロイド男の顔色が変わる。
「この野郎! ふさけやがって!」
拳をすかさずかわす。男の顔が酔いにダブる。ゼリーの中の出来事のようだ。ゼリーは耳や鼻や口から僕の身体に流れ込む。
両足首を急に引かれ,僕は崩れ落ちる。
そこに顔面を鮮血でベットリと濡らした男の目が,怒りの光を放っていた。
「あの世に行きやがれ!」
ケロイド男の汚れたブーツが,横たわる僕の眉間に狙いを定めた。スローモーションフィルムのように,全てが残酷な明瞭さで見て取れた!
風景がショートする!
向かって来たブーツが,中身をつけたまま,グシャグシャになってもげ飛んだ。血飛沫を上げて男はもんどり反る。
眉間が熱い。
赤いゼリーがグラグラと身体の内部で泡を上げて煮立つ。
頭の中で目茶苦茶に鐘が打ち鳴らされている。
C5が暴走する。
のたうち回る男の血糊に,反吐を混ぜ合わせる。
「ヤ,野郎!バケモノめ!」
声のした方を振り返ると同時に,定められた銃が炸裂した。焼け火箸を当てられたような激痛が僕に走り,全身が弓なりにのぞける。
歯を折り損ねた男を,睨みつける。引きつった顔は,たちまち拭き飛んで,細かい肉片と化した。
急速に視野が狭まる。ホイッスルが鳴っている。死ぬのかな。どこかで,ボンヤリとそう思った。そして引き付けを起こしながら,僕の意議は闇の中へと解体していった。