1999年1月
1999_01_19
日本の産業はほぼ2割ぐらい過剰
日本の産業はほぼ2割ぐらい過剰だといわれています。過剰設備,過剰雇用,過剰債務ですね。これは縮小することになります。ということは……。
1999_01_18
みんな昔に戻ればいいというもんでもない
ではみんな昔に戻ればいいのでしょうか?そんな画一的なものでもないということは,ちょっと考えれば分かります。
例えば,江戸時代の幼児死亡率の多さを,我々は受け入れることができるかということです。あるいは,昔の食べ物を食べ昔の生活をすれば体によいのならば,なぜ人生50年だったのか。
私たちの世代は,発展途上国の生活というのはどんなものだったのか,子供の頃実際に体験してきて育ちましたので知っています。特に私は田舎育ちでしたのでね。その良さも悪さも知ってます。井戸から水を汲んで飲んでました。電球は便所の二燭光の薄暗い電球一つでした。小学校の時分に扇風機がやって来たとき,これで夏も涼しく過ごせると思ったことを強力に憶えています。
昔あった地域コミュニティの再建がよく叫ばれています。この問題が語られるとき,雇用者の増加と人口移動でその崩壊が起こったように説明されています。けれどそれだけじゃなかったことも私たちは知っています。中にとっぷり浸かっている者にとっては,けっこう鬱陶しいものでもあったんですね。単なる仲良し組織ではなかったんです。あれは枠であり,規制であり,互助であったんです。例えば,旅行一つするにも,近所近辺に断りを入れて出掛けるというような。けれど,これが社会の風紀を保ち,子供の教育的役割も果たしていた。ですから,私たちは選択を迫られているわけです。
1999_01_17
エネルギー奴隷
エネルギー奴隷という考え方があります。現代の生活は,エネルギーに換算すると人間何人分になるか。現代のアメリカンライフで,一人当たり奴隷1700人使っているのに等しいといわれているようです。ということは日本人の生活は,一人当たり奴隷760人使っていることに等しい生活ということになります(参考:一次エネルギー1人当たり消費量比較)。
1999_01_16
足るを知る
「足るを知る」は,フルで書きますと「足るを知る者は常に楽しむ」となることわざです。この問題を論議していきますと,一方の極として「足るを知る人間なんか誰一人いないのが社会で,それでこそ社会は生成発展するのである」(三島由紀夫『小説家の息子』)という結論が出てくると思います。それは了解しつつ,少し考えてみましょう。私自身も混沌としている問題です。人文的問題というのは,常に自分自身に質問を帰しせながら進んで行かざるを得ないのです。
1999_01_15
老荘思想は 足るを知る思想
湯川秀樹は,中国思想の素養豊かな家庭で育ちました。ある時,秀樹が老荘思想を読もうとしたところ,父親から「お前にはまだ早い」ととめられるわけです。「それは大人が読む本だから」と。私の心に焼き付いているエピソードの一つ。老荘思想は,足るを知る思想です。
1999_01_14
人生のランキング
冷蔵庫。これ省エネが年々進んできたというイメージがあるでしょう? 確かに省エネは進んできた。けれど消費エネルギーとなるとそうじゃない。理由は簡単。大型化が進んだからです。全冷蔵庫中で301リッター以上の冷蔵庫が占める割合は,1983年に9%だったものが,1990年には44%にまで拡大しているんです。私たちの物質的欲望ってやつは,煽られれば限りなく膨らんでいくんですね。映画『ET』を見たとき,主人公の坊やは貧しい家庭の子という設定のようだったようですけれど,映し出される家屋や家具や冷蔵庫は,はるかに私の家のものより豪華だった。恐るべしアメリカンライフ。あれで「ボクは貧しいんだよう」という認識をもってるわけで,頭を抱えてしまいます。以上が,科学技術だけでは,私たちの満足感はみたされないという話。
ここいらで,自分にとってはなにが大切で なにが大切でないかを,はっきりさせておくべきですね。自分の人生で最も重視するのは,第一にこれで,第二にこれで……と五位ぐらいまでランキングをして,グラつかないように人生上のどこかで決意しておく。そういう意味で「足るを知る」 そうしないと,この世の中はもっと忙しくなっていくと思います。
「GNPは何%の伸びた」なんていうのも,あれはもの凄いことをいってるわけです。なにが凄いかと言いますと,あれは複利計算なわけですね。「昨年より何%伸びた」ってことですから,毎年ごとの複利計算。つまり「この10年間,毎年GNPが2%ずつ伸びた」っていうとき,それをグラフにしたら直線にはならないで,徐々に急激に上に向かうカーブになるわけですね。そんな価値観で国も比較をしてきた。社会の欲望の伸びを示唆してるようでしょう?
このごろ当サイトのBARの方で複数の方が,途上国の人々のゆったりとした生活について書き込んでくださいっています。考えてみる必要がありますね。こんなこと書きますと,科学技術はみんな悪かのような言い方をするyes,no人間が時々いらっしゃいますが,そんなものじゃない。技術は私たちに一面で幸福をもたらしてくれています。もう一度書きますが,足るを知るということが大切なのだと思います。
1999_01_13
下痢と嘔吐
1月11日から下痢と嘔吐が続きました。どうしたんでしょう。まるで胃の蠕動運動が停止したようで不快そのもの。おかげで2kgのダイエットが成功。
1999_01_12
イギリスは解体する
イギリスは解体する可能性が近年高まっているとおもいます。
あるとき一緒に飲む機会のあったアーティストに「キミはイギリス人かい?」と質問をしたところ,彼は顔をゆがめて「いいや,オレはウェールズ人だ」と答える。どうもこの傾向は彼の国には強いようで,自分はウェールズ人,スコットランド人,アイルランド人,イングランド人と思っているようです。アイデンティティからしてこの有様。
さらにEUという組織に内包されたわけですから,英国という外枠の必要性はより弱まるのではないかと思います。
王室の弱体化の問題もあります。サッチャー首相はひっそりととんでもないことをしていったのです。つまり王室に税金を払わせるようにしたんです。これはそれほど騒がれませんでしたが,歴史的に見ると名誉革命に並ぶ出来事だと思います。王室から税金を取ると言うことは,決定的なことでしょう? 大英帝国のシンボルの王室も一般国民と近い地位に引きずりおろされつつあるのです。それに追い打ちをかけるのが,ダイアナ問題です。これによってチャールズの人気は落ち,その息子たちも聞くところによりますと,王位を継ぐ意志が薄いようですね。
もし,国王がいなくなったら,どんなことがおこるでしょうか。実は国の三権(司法・立法・行政)のシステムがみんなチャラになるんです。英国の議会は,貴族院と庶民院からなっています。任命権をもつ王室がなくなったら貴族院が消失する。すると最高裁判所(正式には最高法院)が消失する。といいますのも英国の最高裁判所の裁判官は,貴族院に属する法服貴族がつとめているのです。さらに内閣をとりまく枢密院も消失する。こうして基礎的な政治システムを組み直さなくてはならなくなる。この過程で,国家解体が起こる可能性が高いと思います。
実はすでに各地方ごとに議会法の在り方を変えています。解体の方向に向かう流れがすでに始まっていると考えるのは間違いでしょうか。
1999_01_10
高速に大量のお金を回す
景気がいいって,どういうことでしょうか?近代経済学的にいえば「高速に大量のお金を回す」ことなのです。
見事な例えがありましたので紹介します。
「水不足は節水のせいだということになる。①誰もが水をじゃんじゃん使ってじゃんじゃん水を流し,ぐいぐい水を飲んでじゃあじゃあと小便をする。 ②大量の水および小便が下水を通じて排出され,海や川に流れ込む。 ③水が蒸発して雲になる。 ④雲が雨を降らす。 ……ヘンだと思わないか?が,不況について,我々はいつもこの手の説明を聞かされているのである。」
金を使え一点張りの経済理論に疑問を呈した文です。近代経済学の理論には,資源が有限であること,それに伴って社会倫理がどうなるかという視点が欠落していると思います。
1999_01_09
ユーロを作ったということは 政治が金融機関と戦ったということ
ユーロについて。この頃は盛んにメディアがユーロを取り上げてますね。マスメディアが書きにくいことをここに書いておきます。
①ユーロを作ったということは,政治が金融機関と戦ったということ。
歴史のお勉強。銀行のルーツは両替商です。フィレンツェのメディチ家なんかもそうでしょう。ユーロにするということは,参加各国のお金を両替して儲けるってことができなくなります。次に,各国のお金を売り買いして博打のように儲けるディーリングができなくなります。金融機関はユーロ創設に反対したですよ,たぶん。金融資本主義といわれるほど,金融機関は強い力を持ってます。この声をねじ伏せてでもユーロを作らなくちゃいけないほど,ヨーロッパは追い込まれてた。
②その追い込まれた原因は,最初,日本の台頭だと言われてました。ユーロの発想が始まった頃,そう言ってました。でも今はそれよりも,ディーリングだデリバティブだという国際的金融ギャンブラーに対抗して,安定した経済を作ろうとしたのでしょう。(もちろん原因はもっと複雑ですが,とにかく分かりやすく書きます。)
③さっそくコラムニストがこんなセリフを言ってました。「世界中が同じ通貨になればいいんですよ」 この意見もおバカさんの意見です。一種類の通貨になれば,その国独自の金融政策ができなくなると言うことです。途上国にはメチャクチャ厳しい経済状態にあるところが多いのです。一つの通貨にしたら,貧困している国はイッキに崩壊します。
1999_01_08
サラ金地獄
サラ金地獄について書きます。まず次の計算をしてください。これ以上の金額のローン引き落としをされている人は,ちょっとしたトラブルから自己破産になる可能性のある人だと一説にいわれています。
(手取額 - 住宅ローンの支払い等)×20%
例:(月手取額25万円×12カ月+ボーナス150万円-住宅ローンなし)×20%=年90万円(月で割ると7.5万円)
①現在ではクレジットカードを持たない人はまずいないでしょう。ところが現在,サービス財の購入に関して,私たちは法律(割賦販売法)で保護されていません。ですからエステティックサロン・外国語会話・学習塾・家庭教師派遣業などでトラブルが多いのです。
②サラ金地獄は,クレジットの返済ができずサラ金に駆け込んだ時点からスタートします。ここでサラ金疑獄のシステムに乗ったわけです。3年後には夜逃げなどの悲惨な状況が待っているといいます。平成9年で自己破産7.1万人,夜逃げはこの2倍の数と言われており,自殺者は3,000人,これに絡んだ犯罪はメディアでも伝えられているとおりです。
③どのくらいの利息をとられるのでしょう?クレジットで10~14%,銀行系利息なし,キャッシング35%,大手の武富士あたりで25~30%というところでしょうか。サラ金の貸付金利は『グレーゾーン金利』といわれ,おおまかにいって18~40.004%の間でなされています。この金利は法のすきまをぬったものです。
④まず消費者としてしっかりとした自覚を持つことが,こうした地獄を見ずにすむ第一歩ですね。もしご相談なさるならば,まず各地方公共団体にある消費生活センターにご相談なさるのもいいでしょう。
cf.この件に関し,常連客のこばえさんから次のようなレスを頂きました。
「 サラ金地獄は 投稿者:こばえ 投稿日:01月11日(月)00時32分30秒 ……弁護士さえちゃんと立てて裁判にもつれ込めば、意外と簡単に片付く問題ですよね。日本は、裁判というものの有効活用をあまりしていない国で有名だったりします。サラ金地獄に陥り、返済が不可能になった人は、まず消費者相談窓口に行き、その旨を相談する。そして、民事の訴えを起こすんですよ。<返済を迫られている場合。そして、今現在の収入や、就労状況などの説明をし、双方で弁護士を立てて話し合い、月の支払額を再決定することも可能なんですよ。万が一、それでも決められた額を払いきれないとする。その時は、例えば月に1000円でもいいから振り込むんです。そうすれば、再度訴えられたとしても、「払う意志あり」と見なされて、懲罰はなしです。……こういうの、公言しちゃいけないんだけどね。<計理士談。 でもそんな事で自殺するなんてもったいないもんね、使わなきゃ、裏技も。(苦笑)
1999_01_07
中国は2300年前に出来たEU
中国は2300年前に出来たEU(ヨーロッパ連合)のようなもの。そう考えると分かりやすいと思います。例えば日本をみていただけばわかりますが普通の国では,諸外国の文化に触れたり離れたりすることで,文化が変わってきました。ところが中国では歴史上,次々に新しい文化が生まれてきました。他の文化圏と大きな融合をすることもなく,一国内でふつふつと異なる文化が沸き上がってきたのです。これは内部に,本当なら別々に国家を作っていていいほどの複数の民族や集団がいるからなのです。つまり複数の国家の集合体。この集合体は前221年,秦の統一以来少しずつ強固なものになってきました。
中国史のパターン
中国の歴史をみますとおおまかに次のようなパターンになっていることが分かります。「強引に中国を統一する大国ができるがすぐに潰れる → 大帝国が長期に続く → バラバラになる」
1999_01_06
ご愛読ありがとうございます
このコーナーを読んでますというお声を,この数日間に数人の方からかけていただきました。有り難いことです。実はこのコーナーで扱う内容を,徐々に掲示板に移動させていき,最終的にはコーナーを終了させてもいいかなと考えていました。例えばケインズの近代経済学は,某経済学者との新聞紙上における討論によって練られ完成されていきました。そのような形にしたがいいかもしれないと思っていたのです。しかし,このコーナーを継続して読んでくださっている方が,いらっしゃると知りまして,その思いを新たにした次第。
1999_01_05
天は人の上に人を造らず
ではさっそく,よく間違ったニュアンスで使われる名言の例として福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」をみてみましょう。あの名言の後には次のような文章が続きます。
天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らずと言えり。されば天より人を生ずるには,万人は万人皆同じ位にして,生まれながら貴賎上下の差別なく,万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物をとり,もって衣食住の用を達し,自由自在,互いに人の妨げをなさずして 各ゝ安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今広くこの人間世界を見渡すに,かしこき人あり,おろかなる人あり,貧しきもあり,富めるもあり,貴人もあり,下人もありて,その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。その次第甚だ明らかなり。実語教に,人学ばざれば智なし,智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は,学ぶと学ばざるとによって出来るものなり。
厳しい指摘ですね。人は生まれながらには差はないが,生後その差が現れるといっているのです。つまり結果の平等は否定されているのです。ここがよく間違われて引用されるところですね。
1999_01_04
最高の徳とは知である
「ソクラテスは次のように言っている。『人間にとって最高の徳とは,知である。』 このように……」なんぞといった引用スタイルの文章がよくありますね。あれに出くわすたびに「で,あんた自身はどう考えとるんかい?」と思ってしまいます(みなさん,自分の意見を書きましょうね)。
まあ多くの場合は,自分の論を正当化するために使われていますから,上の文は次のように読み替えていいでしょう。「偉い人はね,こんなに言っているんだよ。だからボクの言ってることは正しいんだったら……」
これはこれでいいと私は思います。偉大な思想はそんなに簡単に超えられないものですから。こんな文を書くときには,以上のようなニュアンスを自分が書いていると意識しておいてくださいね。
標語主義
ところが始末におえない連中がいるんです。自分の主張を正当化するために,一方ではソクラテスを持ち出し,一方ではソクラテスに対立していた人を持ち出し,なおかつ両者の関係の吟味をしない奴らです。私はこれを標語主義と呼んでいます。いろんな先哲の名言,たとえば「人間は考える葦である」だとかそんな言葉を,思想体系を理解することもなく断片的に使うんです。やさぐれ批評家にこのてが多いんですね。これは儒学なんかの影響が大きいんじゃないんでしょうか。孔子の時代に紙はまだなく,書き留められていたのは竹簡といって,竹を薄くひょろ長くしたものを革ひもで綴ったものに書いていたんです。ですから論語の文章も短く標語的なものにならざるを得なかった。この伝統があって,水戸黄門の印籠よろしく,名言をここぞというときに出す。
でもそれは断片であって,やたら滅茶苦茶な使い方をして威張っている輩がいるわけですね(よくカントの言葉なんかは,滅茶苦茶な使われ方をされていて目眩がすることがあります。道徳法則なんかそうです)。「合掌するのは,手のシワとシワを合わせるので,幸せなのよね」なんて言っているのと変わりはしないんです。そしてそんな言葉に,「そおかあ~」と納得している顔をしてる人をみると,「まあどっともどっちだから,まあいいか」などと脱力。どうして例えば「それじゃその時,指のフシとフシを合わせるから,不幸せなんてことも言えるじゃない」とでも考えないのかなあ。検証的情報の受容こそが,情報操作に陥ることない情報活用能力の基礎なんですけどね。今からバーチャルな世界が拡張されるに従って,こんな態度が形成されないと,情報操作が実に容易なことになっていくのですが。
1999_01_03
紅葉
紅葉しています。本州以北の方は信じられないことでしょうが,正月というのに,ここ九州の島原半島ではあちこちで紅葉が見られます(写真は本日写したもの)。赤い葉はさすがにまばらですが,黄色く色の変わった葉はあちこちに見られます。そしてこんな時期に紅葉が見られたのは,私が生まれて以来初めてのことです。ある学者は,あと十年もすれば九州でマラリアが発生する可能性があると指摘しています。
1999_01_02
人気のあった就職先が破綻
私が大学を卒業する頃,大学生に最も人気のあった就職先は商社でした。その次が金融関係。この業界に最も優秀といわれた人たちが就職していったのです。
今の状況をみますと,これらの業種が破綻しかかっています。もう一度書きます。最も優秀といわれていた人たちが,中堅となった業種が現在破綻しかかっています。人間の知恵とは何だろうと思います。人間の賢さとは何でしょう。
確かに時代的・構造的な問題があるでしょう。国際情勢という問題もあります。
しかし私がここで申したいのは,もっと広い視点を含めた問題です。それは例えば,自分の進路を考えるとき,時代的・構造的な問題も考えて進路選択をしなかったのだろうかと言うことです。自分の一生を考えるとき,長いスパンでみつめることをしなかったのでしょうか。それが出来ないのならば,人類の将来を長いスパンで見つめることなどできないというわけです。優秀と賞賛される人が,近視眼的視点しか持っていないのならば,これはまずいのです。そういう意味で,教育は大切なことだと思います。
1999.1.2