2006年5月
2006_05_20
酒にまつわる話
「飲みたかとやろ」
フィナーレはこの方、タヌキ親父さんが語られる「飲みたかとやろ」です。
同業の鉄工所の親父が、話して聞かせてくれた実話です。
従業員5名の小さな鉄工所を経営している腕のいい つまり、儲かっている裕福な社長の話です。
ある日 社長はとても汚れる出仕事が終わった夕方、顔も、作業着も汚れたまま自宅のすぐ近くの酒屋へ一杯飲もうと立ち寄りました。
ほとんど毎日、寄っているご近所さんの酒屋です。
先客が一人いました。
工員風の背が高く若いその先客は入ってくる社長をうさんくさそうに見ていたといいます。
社長は何気なく、ほんとに何気なくカウンターの前で注文もしないで うつむいていました。
それを見ていたその若い先客は500円硬貨を目の前に置いて
「おい 飲みたかとやろ、遠慮すんな 一杯飲め」
文無しの浮浪者に間違えられたその社長はくすくす笑う酒屋の女主人を尻目に礼を言って飲んだそうです。
もちろん その若い男は一杯飲み終わったらすぐ帰り、社長は礼を言ったきり他に話もせずに別れることになったそうです。
その話を聞いてすぐは浮浪者に間違われた事を大笑いしましたが、その後、その若者に感心する事しきりでした。
酒にまつわる話
「夢の谷」
今回は捨老さんにご投稿いただいた「夢の谷」です。
土曜日の深酒に、日曜日の迎え酒。とうとう週明けから永遠を見つめているありさま。
はしり梅雨の曇り空。盲然たる彼方に、若き日の自分の酔眼が、せせら笑うようにこちらを見ている。「だから、未来などと言う言葉は口にしなかったのさ」と言わんばかりに……。
正確にはどれほどの時間が過ぎ去ったのか、とにかく随分とむかし、新宿の場末の安酒場。帰省もせず暮れ正月をここらで過ごすことになるのかと、半ばすてばちにカウンターに着くと、案の定、隅の暗がりに例の酔いどれ姫がひとり。
「あら、あんたもひとり」
宵の口から飲んでるらしく付け睫毛が半分はげている。
「いいのよォ、ジュクはセイシュンよ、ジンセイなんだからァ……ジュクがさァ」
どうやらボクは慰められているらしかった。
ま、応える気もしないが、お愛想のグラスをかざす。あくまでも反応は横柄に。隠せもしなかっただろうが、学生だと思われるのが嫌で、一人歩きに慣れた胡散臭い裏径。何の意味があるのか天井からロープで吊り下げられたクロコダイルの剥製が、ボクを見て口をあけていた。この店で常連にだけはなるまいと思って飲んだのがつい夏のことだった。バーテンはカウンターの奥にしゃがみこんでタバコを吸っている。
寄せ集めて出されたようなナッツを齧り腰をあげようかと思ったころ、出し抜けに「日本海見に行きたい」と酔いどれ姫がじっとボクを見据えている。いつのまにか整えられた彼女の睫毛を見つつ、「あ、行ってみようか」とつい応えて、頭蓋骨の内側でからっ風が吹き抜けたようだった。有り金はたいて買った自衛隊払い下げの国産ジープ。九州まで走ってみようかと考えていたはずの、最初のドライブがヨッパライ女と日本海。
「しっかり厚着してろよ、涼しい車だからな」
笑いながら店を出たが、あの夜も空はネオンの上で曇っていたっけ。
青梅を抜けて、まだ中央高速が出来てなかった頃の山中の甲府街道をとにかく北へ。19号線の暗い信州道に入って、姫様はことのほかお喜びのようだったが、ますます冷える夜陰に、薄雪の積もった田舎国道がライトの中でボーと浮かび上がる。もうこれからは風景に明かりすら見えなくなるだろうというあたりで、けちな食堂を見つけてラーメンを啜りこんだころには、姫の酔いも醒め始めていたらしく、「故郷 新潟なの あたし」と仰せになった。ボクはふたたびアクセルを踏んだ。姫はミニから出た脚をロングコートで包むと眠る姿勢に入ったようだった。
悪夢のような闇の道を時折の対向車に照らされながら、ボクは頭を空洞にしてアクセルを踏んでいた。
長野市街に入った頃には夜も白みはじめ、姫は目を覚まし、突然「駅に寄って」とノタマウ。どうやら便所らしい。
駅で買ったらしい暖かそうなミルクを二本手に、嬉しそうに戻ってきた姫は化粧も直したらしく笑顔が晴れやかだったが、どうみても田舎に不似合いなアングラ化粧だ。よくみるとそれほどブスでもない。気づいてみればあたりは銀世界だった。
不思議に眠くはなかったが日本海はまだ遠い。とにかく北進するのみ。善光寺を脇に見て、積雪が厚みを増した朝の田舎道は爽快だった。国産唯一の4WDも快調そのもの、幌一枚の車内の寒さを忘れてさえいれば。
次第に道は山岳に向かい、やがて雪雲が暗く視界を蓋いはじめ、グランドキャニオンかと思うような川沿いの道を谷へ下る頃には、チェーンの不備を後悔し始めていた。速度が落ちたことを幸いに、姫はたびたび用足しに下車した。夕べの酒が祟ったらしい。コートで尻を隠してはいたが、その度に雪に尻跡と小水の跡が記念スタンプのように残った。
お昼近くになっていただろうか、行く手下方の河の支流に小さな橋がみえ、その先に童話の挿絵のような古びた小さな集落が見えた。
雪の薄い冬でよかった、と風景が教えてくれていた。おそらく近郷の人ですら、めったに見ることの出来ない冬の風景ではなかったろうか。
村に入った最初の筋に、ひときわ目立つ大きな建物があった。村全体が古色蒼然としてはいたが、明らかに近隣の民家とは違っていて、高い床や太い骨組みの柱材には幾星霜を持ちこたえた威厳のようなものさえ感じられ、自然と車を留め二人とも降り立っていた。
建物の軒は大きく突き出、これもまた時代物の大きな看板に「旅籠」とだけざっくりと彫り込んであり、屋号はなかった。おそらく村営の旅館兼公民館のようなものなのだろう。
「どこから来なさったね」
疲労のせいで呆然と立っていた二人の背後に、仕事を終えたらしい農夫の人のよさそうな笑顔があった。
「この分じゃ大雪だで」
農夫はうらめしそうに、山々に蓋いかぶさった雲を見やって「はよう入って、あったけー汁でも飲みなせー」と促す。
言われるままにボクたちは、ただ一組だけの宿泊者となることにしたのだったが、なによりも、ボクたち二人を世話する村人たちはとにかく優しかった。そして湯上りの姫が、意外にも年下の少女の顔だったことに驚かされた。
その夜、敷き分けられた布団に入って、姫は泣いていた。
「ホントはね、新潟にはもう、だァ~れもいないの、あたし」
そう言ってまた泣いていた。ボクはただ無能だった。
結局、村に二日世話になり、雪も心配したほどではなく、人々の優しさに送られて村を後にしたのだったが。
「今日からは、ここがあたしの故郷よォ」と、叫んで手を振っていた姫の笑顔が忘れられない。
数年の後、一人でやや胸をあつくしながら村を訪ねたことがあった。だが何ということだろう、ボクらが迷い込んだあの年に、村は水害で水没したのだと言う。その跡はダムとなって、村の中央と谷への道はすべて水底となり、人々も殆どが長野や東京へ離散し、新しい村は当時の村はずれに地図を作り変え、新建材の民宿などをほそぼそと営んでいた。皮肉なことに、この村や民宿のことが世に知られるようになったのは、水害の後のことだったのだ。
鬼無里村(きなさむら)という。姫も思い出すことがあるのだろうか。東京のどこかで、今ごろ孫を抱いていてもおかしくはないが、ボクはあれ以来あったこともなく、名さえ知らない。
酒にまつわる話
「酒と我が人生」
酒にまつわる話。壮絶です。散人さんからご投稿をいただきました。
2006_05_14
酒にまつわる話
「酒盛り」
酒にまつわる武勇伝は皆さんお持ち。第1弾、いわさんによる「酒盛り」です。
二十数年前の博士課程前期(いわゆる修士課程)に在籍していた頃、学生ゆえ金がない。でも研究室の面々でちょっと飲みたい。
実験用のエチルアルコールをお湯や水で割って飲むという荒業もあるのだが、美味くない。風味やこくってものがない。少し松葉を浸して風味付け(漬けすぎるとえぐくなるので注意)してジン風(本当のジンは松葉じゃないので注意)とか、みかんの皮とか使う技もあるけれど、やっぱり美味くない。酒は含まれる分析しきれない微量成分が総合的に美味さとして効いているわけで、そう簡単にでっち上げられやしない。
まあ院生ともなれば、他に手練手管を持っている。当然のことだ。でないと学部生にしめしがつかない。我が研究室の教授の所へ行って、「今夕研究室で若いモンだけでちょっと飲もうと言ってるんですが」というと、「そうか」と言って机の引き出しからスーパーニッカかなんか1本出して「ほれ」と言って下さる。酒好きの教授の机の引き出しに、いつもウィスキーが何本か入っているのは先刻承知なのである。
某研究室は、冬になるとストーヴの上に金盥が載ってお湯が沸いており、そこに一升瓶が浸かっている。また、別の研究室に行けば、密造のぶどう酒が一升瓶に入って貯蔵してある。ここは葡萄の実験をやっているので、実験に使った葡萄(ベリーA、生食用で糖度が高い)が大量に残る。捨てるのはもったいないし、醗酵の実習ということで皆で手伝って、でっかいゴミ用バケツに果実を入れ、金属バットで潰して、窄汁して瓶詰めしたものである。豪快かつ野蛮な作り方であるが、そこは専門教育を生かして、殺菌すべきものはきちんと処理しているので腐敗は起こらない。教授は全部ご存知だが、咎めることはなく、醗酵が完了する頃(ちょうどボジョレーヌーボーが解禁になる頃だ)「出来はどうか?」と味見される。流石は海軍兵学校上がりである。密造ぶどう酒は一瓶毎に味が異なり、ワイン作りの奥深さを学べる貴重な教材である。仕上がりを均一にコントロールする酒造のプロの凄さが実感できる。素晴らしい実習になる。もっともこれで醗酵の単位は貰えない。だが、この研究室からは有名酒造会社に毎年就職する。
酒肴が要る。
農学部なので野菜のてんぷらなら材料調達は容易である。実験圃場や温室の隅っこにいろいろ作ってあるのだ。アンデスの原種のジャガイモもある。非常に美味いものも多い。私は実験用にトマトを2000本以上栽培していたので、夏場なら冷やしトマトなら何ぼでもいける。実際、夏場の昼飯はトマトで済ませて、倹約していた。まあ飽きる。今でも後遺症でトマトはそれほど好きではない。というか、トマトの美味いまずいに非常に敏感になったのだ。美味いトマトは今も好きだ。更に某外国の大学から種を分けてもらった突然変異の特殊なトマトでピクルスも作ってある。このピクルスは、某女子大の家政科に出張って、助教授(ちょっと年増だが結構いける)に作り方を教えてもらってきたものだ。お礼に学生のレポート採点の手伝いをさせられたが、家政科の授業の学生実験の癖に量がある。「学生実験にしては実験量がありますね」と言うと「卒論です」卒論にしては薄い。よく考えると、ここの家政科は文系である。入試は英国社の3科目。レポートに理化学面での薄さがあるのは致し方がない。指導する教授方の工夫と苦労が想像できる。ここの研究室の助手の綺麗なおねーさんという副収穫もあった。(今は、立派な助教授にお成りだ。年月は恐ろしい。)
時々、実験用のウサギが逃げ出して、実験用の栽培物を食う。大騒ぎになる。誰かの卒論のテーマが食われて消えてしまうのだから当然である。しかし、逃げたウサギも捕まえて飼育施設に戻してないのに、消える。逃げたウサギが良く遊んでいるテニスコートの横のクローバーの生えている辺りは、バーミューダートライアングル並みのミステリーゾーンである。なお、ウサギの解体にはコツがある。コツさえ押さえれば結構簡単である。
理学部の某先生は、目、視神経の研究をなさっている。食用蛙を材料に使っている。(学会的にはイカも流行ってた。神経細胞がでかいので便利なのだ)先生の必要なのは脳と目の部分。蛙の口にハサミを入れて、目と脳が含まれる上顎だけ切り取る。かまぼこの断面みたいな切り口(真ん中に脊髄がある)を晒した脳無し蛙が蓋をしたバケツに沢山入っている。先生にはもうこれらの脳無し蛙は不要である。彼らは、脳を失っても数日生きている。ゴミバケツの底に何故か上を向いて座っている。こいつらは遅かれ早かれ生ゴミになってしまう。こいつらの足をから揚げにすると最高にいけるのである。いやいや中華街に行けば、高級料理として登場する。これを肴にするとビールが最高に美味い。学生の分際では滅多に中華街に行ってこれを食べることはできない。この蛙を貰う。うっかりひっくり返して、脳無し蛙があたり一帯をピョンピョン散歩して騒ぎになったことが一度ある。One is enough である。
なお醤油をつけて炙っても美味い。火はきちんと通すのは鉄則である。
とも也
うどん屋で飲む。『とも也』アップ。
2006_05_12諏訪の杜
『諏訪の杜』 アップしました。
2006_05_09プラトン
訳あって、久々にプラトン関係の書物を読み直しました。この歳になって読むと、彼の人生はほんと若い頃苦労してますよね。レスラーになろうとしてこけて、劇作家になろうとしてこけて、政治家になろうとしてソクラテスに弟子入りして、この師匠が国家から殺害され、プラトン自身も身の危険を感じて逃げて、帰ってきたのが40才ですよ。大変だなあ、本当に。この小麦のように踏まれても立ち上がるところが感動的です。
2006_05_08大阪姉妹殺害事件
かつての母親殺しによる大阪姉妹殺害事件。公判後、姉妹の父親が会見を開き、「もし、望む判決が下りなければ、2人で必ず殺します。それがダメなら、裁判所の前で腹をかき切ります」 当然の気持ちだ。国家が義をなさないならば、必殺仕置人が復活する。そんな国家になってはいけない。
更正できると判断した裁判官名を公表しよう。元山口家裁の和食(わじき)俊朗裁判官である。彼は2000年9月14 日、「長期間の矯正教育を受けさせるのが適当であり、年齢的に見ても矯正は十分可能」として、少年を検察庁に逆送致せず、中等少年院に送る「保護処分」とした。それから5年後、少年は矯正されぬまま「母親を殺した時と同じ興奮を得たいと思い」姉妹を殺害した。
2006_05_05映画『デーヴ』
映画『デーヴ』鑑賞。すばらしい。脚本、美術、そして役者。腕利きたちがよってたかってつくっています。お勧めです。暇をもてあましてサイトを覗いたそこのあなた、多分この作品はレンタルショップの片隅に立ってるでしょうから、ぜひこのGW中にご覧になることをお勧めします。ストーリーは、大統領の影武者が、ひょんなコトで実際の執務をすることになり……という映画。すばらしい。
2006_05_04太田孝三展
長崎県美術館で太田孝三展「シュレッダー氏物語(後編)」。息子と出かけました。無料。こんな真摯な作家が長崎にもいたことを知って欲しい。ご覧になることをお勧めします。
その後、帆船日本丸へ。
2006_05_01自由主義=民主主義ではない
いつも言っとりますが自由主義=民主主義ではない。同様に民営化主義=民主主義ではない。
自由主義と戦ったガルブレイス
偉大な経済学者ガルブレイスが4月29日他界した。冥福を祈りたい。彼はアメリカのニューディール政策のブレインとして自由主義と戦った。ん? 自由主義と戦う? そう、時は世界恐慌のただ中、自由主義は多くの国民を不幸にした。ニューディル政策は次々に打ち出され、次々に裁判所によって違憲判決を出された。なぜか? 自由主義を標榜する合衆国憲法に違憲であるというわけだ。
自由主義が絶対的正義ならば、植民地政策は正義だ
ここで問おう。自由主義は絶対的正義か。否。自由主義が絶対的正義ならば、植民地政策は正義だ。義を見てなさざるは、勇なきなり。ガルブレイスが死去し、いよいよアメリカはオイルマフィアが牛耳るバカブッシュ政権が牛耳り、オイルのために戦争をし、我が国に3兆円をテラ銭としてよこせとガン付ける国家となった。「豊かな国家になると、人々は自分のことのみに専念し、弱者のために一肌脱ごうとする気持ちが薄らいだ人々が増える」(ガルブレイス)