2008年1月
息子がつくった曲
帰宅するとトモスケが「曲をつくったよ」と寄ってきました。「僕の部屋の壁に貼ってるので見てよ」とのこと。で行ってみると、これ(写真)。メロディもあるらしい。なんだかなぁ。しみじみ。
こんな男の子がいたことを私は知ってます。40数年前に、こんな子がいました。
偽装
舟場吉兆、赤福、白い恋人、ミートホープ(事件発覚以降、謝罪文などを掲載すること無く削除)。各種偽装で話題になった対象です。ところでみなさんは、マクドナルドも調理日時偽装が報じられたのは覚えてらっしゃいますか? 私の記憶ではすぐに報道から消えました。他の対象メーカーが、連続テレビ小説のように報じられたことを考えますと、奇異なマスコミの対応。大手スポンサーというのは強いものです。
ここにきてマクドナルド店長への残業代不払い問題。日本的家族経営を諸悪の根元のように叩いていた評論家がどう解説するか楽しみです。
登山家ヒラリー逝去
登山家ヒラリー。1953年にシェルパのテンジンとともにエベレスト人類初登頂を果たす偉業を成し遂げた人です。今月11日に88歳で逝去され、昨日ニュージーランドにて国葬が行われました。偉大なるアウトドアマンのご冥福を祈ります。なお、この情報は現地在住のRyuさんからいただきました。
日本への植民地的待遇
パシリをするなら腕力はいりません。いつまでパシリをするのでしょうか、この国。「燃料使途の検証、明記せず 米が日本の要求拒否」
新テロ対策特別措置法に基づく海上自衛隊のインド洋での給油活動の話です。軍事的に支援をしても、北朝鮮の拉致問題への解決に協力もしない米国。日本はなんのために支援をしているのか。この意見は中央の右側の意見としても立ち上がったはずです。だから給油をするのしないのや、安倍首相退陣といった大芝居もあったと見ています。
で、大騒ぎして給油してやっても、この扱い。この植民地的待遇はなんでしょうね。米国からは北朝鮮の方が「国」としての対応を受けていると感じるのは私だけではありますまい。
にわしさん
宮崎から今帰ってきました。ふううぅ。にわしさんと美味しい酒を飲ませていただきました。初対面とは思えぬほどに意気投合。スタイリッシュな一時でした。I'll
be back ! 宮崎をチェキラッ!
格差社会と犯罪
ここ数年、犯罪の質が理解しやすいものになってきました。いわゆる生活苦による犯罪が増加し、オームのような常識を超えたものが少なくなりました。これは格差社会のあらわれとみています。世間で一番疎まれている夫婦に神田うの夫婦が挙げられることに異論を挟む人は少ないでしょう。「彼らのようなものから税を取れ」と。
現在の諸問題の解決には、かつての累進課税の税率に戻すことが有効であると思っています。苦しむ人々をつくらぬこと。貪る者たちを抑制すること。
最近の犯罪の話題でもう一つ。銃や刃物による突発的犯罪が増加していますが、これらの犯罪者の中でバイオハザードの類の殺戮ゲームの愛好者がどのくらい含まれているかということです。例えば佐世保銃乱射事件などですね。少なからぬ割合ではなかろうかと私は見ているのですが。「ゲームが凶悪なら犯罪が増加するというのは間違い」という稚拙な意見は捨て置きましょう。警察は犯罪者のデータは採っているはずです。
明日から宮崎。行ってきます。
娘と食事
娘とでBWPホテルへ食事にでかけました。娘と二人っきりで出かけるのは久しぶりで、いい感じ。娘もいつの間にか大きくなり、時々こうして出かけられるといいな。父親冥利に尽きます。
夕方、フィルハーモニックオーケストラ長崎のコンサートへ。演目は「火の鳥」。高校時代に聴き込んでいた曲です。田舎での生活が長かったので、実はこの曲の生演奏を聴いたのは初めて。ストラビンスキーって本当にシャープな天才だったんですねぇ。28才の時の作品ですよ、これ。そう感じさせてくれたオケも感心するほどいい演奏でした。
FMラジオ番組復活
小生のFM番組が下記のように明日復活します。ただしこれからは月1回の放送。内容はアーティストをはじめ製作の現場で活躍されるクリエイティブな方々への30分間インタビュー。これまでも様々なクリエイターの方々にご出演いただきました。これからもデザイナ、カスタムナイフ作家、漫画家、ミュージシャン、タウン誌編集者、放送関係者の方々などにお出でいただき、刺激的な製作現場の秘話をお聴きしたいと考えています。クリエイティブな生き方をしたい皆様方に聴いていただきたい内容です。●第一回 長崎市民FM、767MHz、1月15日(火曜日)20時半~21時。『Siteまつをの珍来ラジオ』 ゲスト:彫刻家マーサ野島氏(詳しくは1.10記事参照)
小にょろくん結婚
FM島原のパーソナリティにしてアマチュア噺家 鰻家小にょろ氏の結婚式。彼は伸びるでしょうね。写真は結婚式会場前のウエイティング・バー。ここで一杯ひっかけてスピーチ。おめでとう、小にょろ君!
映画『アース』
映画『アース』を観てきました。
奇跡の連続です。映し出される対象もさることながら、そのカメラワークにため息が出ます。この10秒ぐらいのショットを撮るのに、何ヶ月要したのかという圧巻の画面が、ずっと続いていきます。そして惜しげもなく、さらりと次に移る編集。そのダンディズムはさすがBBC。
バックを支える音楽はベルリン・フィル。環境の大切さも訴えますが、それを遙かに超えた感動的な芸術映画です。そして映画館で観るべき作品です。あの何万という鳥や魚の映像や、周囲を取り巻く音響はテレビでは表現できません。劇場で再び観ることが出来なくなる前に、この週末は『アース』へ。
真空管アンプ
thom氏に作っていただきました。合掌。感動的に繊細な音を出してくれます。なんともうしましょうか、くっきりと立体的に音空間が立ち上がるんですね。すばらしい。もう一度、CDを聞き直す日々。
インタビューアップ
世界的な活躍で知られる彫刻家マーサ野島氏にインタビューをしてきました。こちらでお聴きになれます。公共芸術、そして1960年代のフラワームーブメントに育まれた凄まじくハイクオリティな彼女の作品6点が、2月10日までカフェ豆ちゃんで展示されています。
月一でFMラジオ番組やります
オフタイムにFM出演。今月から原則月一でFMラジオに出演します。
長崎市民FM、767MHz、毎月第3週の火曜日20時半~21時。『Siteまつをの珍来ラジオ』
新年会
「新年会 in CabanonⅡ」
日時:1月5日(土)19時
会場:カバノンⅡ(長崎市) ←長崎市内です。里山とお間違えなきよう。
現在、まだ家族が移っていませんので、別荘状態。
キャンプ時代から作りながら飲むスタイルが、最も楽しいですね。キャンプは料理こそ主眼なわけでしたから。改めて今回そう思いました。すでにお膳立てされた宴に少しだけ感じる味気なさは、そんな料理というイベントとそれに伴う感動がないからかも知れません。今回は餃子パーティでしたが、天心パーティやお好み焼きパーティもおつかもしれませんね。
茶道
日本文化の大きな核となったのは茶道界でした。ここに吸い寄せられるように集積された様々な作品のレベルの高さは疑いようがありません。中国で茶道が隆盛を極めた宋。日本の茶道は、その宋の留学から帰国した栄西(臨済宗)が持ち帰った茶と道具に再興の起源をみます。宋の文化の影響を強く受けた茶道。
宋代の文化こそ世界史上最高の文化
私は宋代の文化こそ世界史上最高の文化の一つと考えています。その研ぎ澄まされた在り方は、純粋な科挙によって天下の秀才たちが挙って育て上げた結晶文化とも呼ぶべきものです。次代の明朝のちゃんちゃら文化と比べようがありません。ルネサンスの開花と室町文化の酷似
室町時代、宗文化と日本文化の関係は、崩壊期するビザンツ帝国とルネサンスの関係に近く、宋文化は日本の茶道文化としてその後の歴史に残ったと考えています(骨董趣味的反論がくることを憂いつつ記載)。
日本文化の上にモダニズムを
西洋化が近代化ではない
わが国では明治以降、近代化と西洋化が混濁して語られてきました。西洋化することが近代化することであると。愚かなことです。住宅地の景観を見ればよく分かります。西洋の住宅街に民家は多く残っていますが、日本の住宅地にどれほどの民家が残っているかと。
自国の歴史の上にモダニズムの花は咲かねば
例えばイギリスで近代化を行う場合、自国の歴史の延長として近代主義、モダニズムがあります。イズムとしてのみのモダニズムは成り立ち得ません。表層的イズムは嘲笑の対象です。自国の歴史の上にこそモダニズムの花は咲いているのです。実は民主主義の有り様もそうであるわけですが。日本の美術界は直接日本文化の上にモダニズムを築いていける時期に来ている
そこで、今回は美術史について記してみましょう。私は近年、日本の美術界は直接日本文化の上にモダニズムを築いていける時期に来ていると思っています。そのために日本美術史についてもう一度整理する必要があります。現在の日本美術史の書かれ方は間違っています。西洋美術史という柱があって、それに対抗するかたちで日本美術史が書かれる現在の在り方は間違いです。
例えば家紋とエンブレムどちらがモダンか?家紋の裏にあるセンスは脱帽もののモダニズムといえます。日本人のセンスは抜群のものがあります。というよりも日本の美意識が世界のモダニズムの発火点です。西洋美術のモダニズムへの猪突は、市民革命と産業革命と、そして浮世絵等で西洋に伝播された日本美術によってもたらされたものです。
もう一つ例を挙げましょう。右は日光東照宮の屋根に乗る「つつが」(椎名兵庫、鋳物)です。この作品は当時で金200両。幕府創始者を神と祭る東照宮の屋根に乗せるものですから当代最高の作品が選ばれるはずです。ところがこの作品を知る現代日本人が何人いるかと問うてみてください。現在の美術史の書かれ方がおかしなことになっているとは思いませんか?
なぜ現在の日本美術史では大きく採り上げられないのでしょうか。それは鋳物を下に見る西洋美術の枠組みがあるからでしょう。こういった西洋美術の枠を透かしてみる見方が、日本美術史の書き方をおかしなものにしています。そして実はこんな枠をとりはらってみると、現在採り上げられていない作品がこの国にはまだまだ眠っています。たとえばそれほどよくもない横山大観なんぞをありがたがっている裸の王様的見方を取り払えたとき、この国の美意識のすごさを私たちは再発見出来ると考えています。誰かやってくれないかなあ。