2010年3月
八幡宮
かの半島に想う
投稿者:しんのじ 投稿日:2010年 3月29日(月)22時50分11秒
僕は八幡宮に関係のある町に住んでおりますが、この町の大部分を占めるエリアが、昔は高麗町といっていたそうで、おそらく朝鮮半島からの渡来人の方々が多く住んだ地域ではないかとにらんでます。
かの半島の方々と我々とは、微妙に気質が違ったり、もちろん過去の悲しい想い出が水を差し、なかなか円滑な関係とはいかないのかもしれません。けれど、同じ東アジア地域を支えるもの同士、言わばヒョンジェ(兄弟)の関係にある者同士、なんとか関係改善に向けて動けないものかと念じます。
八幡
投稿者:大閑道人 投稿日:2010年 3月28日(日)22時54分39秒
ハチマン・ヤワタ、もしくは、ヤハタ。どうでもいいけど、バハンと読むかも?? バハンだと、バガバット、つまりは、梵語の「尊き者」の意であるとか。これはこれで、面白い。
ハタまた(笑)
投稿者:捨老 投稿日:2010年 3月28日(日)16時40分29秒
春休みのお勉強と言うわけではないのですが(笑)、秦氏の起源ともなれば膨大な一書を著しても間に合わないほどのもの。少なくとも稲荷(秦氏)起源の伝承は雄略紀(五世紀頃)に顕れており、紀記編纂よりも遥かな以前 いわば神話期の登場といって過言ではないのでしょうが、日本史端緒の主人公たる藤原鎌足や曽我氏らとの血縁も囁かれており、エホバに神頼みせずとも秦始皇帝の血を継ぐとも まことしやかに語られたりして、軽口を叩くような話題ではないのかも知れません。そこんところは まつを円卓の名に隠れて御免こうむることにして(笑)。
稲荷伝説に比べれば八幡神の登場は欽明朝(六世紀頃)の頃とされ、正史への表出は天平年(八世紀)のこととなって、いかにも遅れて登場した神様のような印象を持ちますが ここんとこが面白い。
と言うのは 八幡信仰が神功皇后とその御子応神天皇の伝承に深く根ざしていて、北部九州や香椎や香原などにプレ八幡信仰形態と呼べる民俗が残存しており、元八幡の名で呼ばれていることも少なくなく これらはあからさまに、神功皇后とその御子応神天皇を本尊として仰ぎ祀る信仰形態で、その連綿たる信仰形質の上に八幡大神が登場したと考えられています。となると八幡信仰の萌芽は皇后・御子の生存中か没後の四世紀頃に遡ることになります。神功皇后はご存じのように韓土出兵を決行した皇后で、その血筋も韓国(からくに)の血を継ぐことが神話にも明記されていて、渡来民との広く深い関わりを想起させずにはいられない人物だと言うことになります。
面白いのは、欽明朝に宇佐の地で、八幡神を憑依して文字通り宇佐八幡信仰の始祖の一人となった神異の人(シャーマン)の名が辛島勝(からしまのすぐり)と、伝えられていることです。辛島=韓島の意であってみればこれは渡来系の人物の名とされていますが、いにしえの秦氏の血を継ぐ人物であったのかも知れません。つまり秦(ハタ)は和語的ハタ(渡)に韓土的形容語パタ(大・巨・衆など)を、重合させた美名であったと考えることが出来ます。
日本。
投稿者:田屋敷酒散人 投稿日:2010年 3月28日(日)15時53分43秒
朝鮮渡来系(王朝も色々あるが)の盟主中臣鎌足(藤原氏)が、それまでの渡来系との政争・闘争に勝利し、「日本国」を確立(といっても西半分)を確立し、各地にある歴史(風土記)を剽窃しながら自分達に都合のいい歴史を編んだ。爾来日本史の礎になった。地域の歴史を抹殺した。「皇国史観」である。
俗史では「エホバ乃至ユダヤ」との関係を云う人もいる。だが一顧だにされない。
まぁ「正史」というが「物語混じり」であるから、「真史」は闇の中。歴史は東西問わず簒奪王朝の歴史である。近代の植民地簒奪は歴史を書けなかったから、潰れたのである。その国の歴史は統治ツールの最重要物である。戦前は大多数「神国日本」と思っていたのである。
縄文。
投稿者:田屋敷酒散人 投稿日:2010年 3月28日(日)15時34分48秒
有史以前「縄文」から「島原」には人が住んでいて、当時(文字を持たない)の人は「チマパーラ」と呼んでいたそうです。「チマパーラ」とは灌漑用水で水が豊富な所という意味だそうです。「水」が人の住む条件の第一であった。
ヤ・ハタ
投稿者:大閑道人 投稿日:2010年 3月28日(日)14時49分32秒
ヤ・ハタとはヤーベ=エホバのこと、あるいは、それを祀るもの(つまり、秦氏=「ローマ人」)。
「やさか」もまた、ヤサカ=イヤサカ=イヤーサカ(イヤー=ヤーべ)。
いろいろと、想像 or 空想を刺激する材料がありますね。
ハタ
投稿者:田屋敷酒散人 投稿日:2010年 3月28日(日)14時01分13秒
「八幡」=「ヤ ハタ」=「ヤ・秦」=秦氏がたくさんすむところ。
二匹の狐
投稿者:捨老 投稿日:2010年 3月28日(日)13時06分31秒
朱色の社殿にお狐様と言えば、誰しもコンコン様(お稲荷様)を思い浮かべるのかも知れません。ところがお稲荷さんと八幡様は出自を異にする全く別の神様なのです。
八幡は宇佐の地神を出現の根拠としており、お稲荷さんは帰化民である秦氏のもとに祀られた神様です。また八幡様の眷属は普通のオアゲ色の狐ではなく、「白狐」あるいは鷹もしくは三歳の幼児(応神天皇)の姿で顕れると言います…。
ま、そのへんのところは皆様の高見に委ねるとして。ちなみに、由布岳などのように美しい2コブの峰は、昔から「双耳峰」と呼ばれていますが これは雪の積もった峰が、八幡の眷属白狐の耳に例えられたのがもともとの表現だったそうです。
狐の憂い
投稿者:代治朗 投稿日:2010年 3月28日(日)07時42分2秒
[稲荷]というのは、五穀の神である倉稲魂神(うかのみたまのかみ)のことで、山城の国・伏見の稲荷山に鎮座し、それが各地に勧請されたわけであるが、この神の使わしめが、狐ということになっている。・・・・・王子稲荷は、関東の稲荷社の総本山である。ゆえに、毎年大晦日の夜には、関八州の狐が全員集まる。音無川の岸辺につらなる松明かと、見紛うばかりの狐火が、ゆらゆらと群れをなして、境内へ入って来るのだそうな。(池波正太郎 雲霧仁左衛門後編から)
おそらく各地の狐にも緊急招集がかかっていることでしょう。
神々の深き憂い
投稿者:捨老 投稿日:2010年 3月28日(日)00時07分8秒
そもそも神々の世界と言えば指さすことも憚られる幽玄の彼方。その影さえもさだかならない八百萬の神々を天照大御神の名に下に、統括を試みたのが日本史の始まり。といえども、その妖雲たちこめる深淵から起り立ち並ぶ日本の神々と御座所。最初から「統括」に尻まくる神々もあまたあった。いかにも官制と紛らう「神社本庁」も歴史は浅く妖しさ漂う世界だ。
あからさまに言えば、ことのおこりは幕末・明治維新にかけて功のあった志士達を祀る東京招魂社創建(明治2年)に端を発する。10年後には靖國神社と改称され、軍務官(兵部省に改組)の所管から内務省に移ったが人事のみを所管し、祭事は陸軍省・海軍省が統括した。この時点ですでに組織内部のおどろおどろしさは発酵状態にあったのだろうが。
問題は戦後(昭和21年)、この鬱陶しさを国が擲って、あるいは押し付けられた政教分離の精神にのっとってか、神社が東京都知事認証の単立神社(単立宗教法人)として個々に立った時から始まる。この時とばかり腹に覚えのある内務省・陸軍省・海軍省の生き残り共が、「神社庁」を立ち上げて東京を中心に神社の統括を開始した。
しばらくは良かったが やがて地方もいつまでも騙されてはいない。昭和26年以降徐々に整い始めた宗教法人法を背景に、それぞれの地方で神社庁を立ち上げはじめ 黙っていられなくなったのが、名ばかり本宗と仰がれはしても脇役でしかなかった本家 伊勢神宮も「神宮司庁」として名乗りを上げた。この時点で神社庁は地方神社庁と同格にならざるを得なくなり、名を「東京神社庁」と改め、別に「神社本庁」の誕生を見るに至った。
以上の成り立ちで解るように「神社庁」「東京神社庁」「神社本庁」「神宮司庁」のヒエラルキーは明確なものではなく、その包括力も明確なものではない。全国八万社の統括という謳い文句もおどろおどろしい内容を孕んで妖しい。ましてや日本史勃興の誇りに満ちた八幡信仰の総社とされる宇佐八幡総社が「大宇佐八幡庁」の気概がなかろうはずがない。
神々も政治もヤクザも 莫大な上納金を見逃せば地獄に堕ちる以外道はないのだ(笑)。
跡目争い
投稿者:田屋敷酒散人 投稿日:2010年 3月27日(土)11時49分0秒
全国4万あまりの八幡宮の総本社宇佐新宮(大分)宮司の跡目争いが激化しているそうだ。
「神社本庁」に属しているが離脱届けを出す勢い。「神社本庁」が伊勢を本宗として全国八万。その内の半分が宇佐系となる。
「本庁」も驚いたろう。「本庁」というから「官製」かと思ったら宗教法人である。すでに「出雲系」は「本庁」から離脱している。で今回の騒ぎ。何か日本の「記紀」の「伊勢、出雲、宇佐」の成り立ちを彷彿とさせる、今回の「跡目争い」。戦後マッカーサーに一度ペシャンコにされた神道系がその後復活したが、氏子減少も相まって今回の「騒動」があるような気がする。
「卑弥呼争い(畿内対九州)や朝鮮系対大和系」の暗闘もあるような気がする。
自分の家
美意識のかけらもない先住者の暮らし
この空間との初めての出会い。始めてみたときに、これはいけると思いました。
現状がどのようなものであれ、これはいけると。
カオスと化した現状にめまいを感じるようでは、セルフビルダーとしてアウトです。
ロケーション、隣家との接続、光と風の通りぐあい、室内の連続性と予想される動線、そしてこれらを支える構造。どれもが私には合格でした。
あとはライフスタイルを吟味し、改装コンセプトを固める。
それに応じ、一部をぶち向き、基本トーンに沿って、天井・壁・床の在りようから始まって、小さなアイテムまで落とし込んでいくという、ワクワクする作業をしていけばいいわけです。
現場を見たあと、数日間冷やしました。で、やっぱりあのマンションはいける、楽しいと。で、ここを購入しました。
これが我が家から見た風景。坂の街長崎の典型的な風景です。縦に広がる風景。これに夕日が斜めから射したり、雪が降ったりしますと、まるで映画のスクリーンに映し出される名ショットのようにさえ感じます。
さて、ここをどうリフォームしていくか。
というわけで、それから1年間は里山のカバノンではなく、ここに通うことになりました。
欲望に煽り立てられた果ての部屋の混沌
なぜ、人の部屋というものは混沌に向かい猪突し、生活臭にむせかえるのでしょう? 答えは簡単。釈迦はそれを煩悩と呼びました。欲望のなせる技です。現代社会では欲望は煽り立てられています。テレビが煽り、新聞・雑誌が煽り、ネットが煽り、路行けば乱立する看板が煽り立てます。騙されちゃいけません。家を考える際は、自分が譲れないことはなんだろうと振り返る。自分の人生にとって必要なことをランキングする。
わが家の場合、いらないものとして切り捨てたのは、電気ポット、ゲーム、テレビ台、サイドボード、私個人用の一般的机、プリンター、鏡面台、ベッドなど。
よっこらしょ。
これがリフォーム直後の家の状態。
前回と同じ、キッチン部分のショット。
ただし、まだ入居前で家具を入れ込んでいない状態です。
人生の楽しみとしてのリフォーム
自分でできるところは自分でやり、できないところを大工さんにお願いする。これがリフォームの基本姿勢でした。趣味です。暮らすために趣味を役立てているのではなく、趣味の結果を暮らしに役立てる。家を作る。こんなにおもしろい趣味は早々できるものではありません。デザインに腕がふるえ、大量の買い物ができ、それが身の回りにかたちとなって現れてくる。面白いに決まっています。家づくりの際は、一気に大量の思考とオーダーが必要になる。だから多くの人は自分でやることを断念します。ならば、ゆっくりとやればいい。こちらが楽しめるペースでゆっくりと選んでいく。ゲームのようなものです。
これが初期段階に私が描いた配置図の一つ。システムキッチンです。
一般的なものに比べますと、上部収納庫が、通常よりもずっと低い。こうじゃないと使いづらい。けれどここまで下げてしまうと、シンクで洗い物ができないんですね。そこで側面図のように、シンクの付いた下部部分を手前に出しました。影うちやすい部分には照明を配置。
で、できあがりがこのようになります。
これはカバノンで新年会をしたときの模様。腕をふるうじだらくさんの図です。ね、ずいぶんと上部収納庫が低く設定してあることがわかりますね。こうすると日常的に収納庫を使うようになります。
間仕切り案
当初の段階で、マンションの内部空間に決定的な特色をつけるアイテムを考えていました。それは部屋の間仕切りを、全面透明ガラス製にするという案。こうすれば、広くとられたサッシ部からの眺望を、どの部屋からでも楽しめます。まあ、普通のお宅では発想されませんね。しかし、これは周囲からの反対や憂慮などが溢れまして結局頓挫。代わりに考え出した間仕切り案がこれ。
天井までの高さというところは変わりません。この面を透明なガラス案から、障子案に変更。ただし紙製障子ではなく化学製のもの。これを通常は開放して使います。
で、できて、開け放した状態がこれ。
里山のカバノン
里山のカバノンを作る際に基本としたのはル・コルビジュエのカバノン(休暇小屋)だったことはいつかお話ししたかとは思います。本来、極小住宅が好きで、カバノンを構想する際も当然あの黒川紀章の銀中カプセルタワービルのことも資料にあたっていました。後にカプセルホテルの原型にもなったところとして知られています。
こんな物件を見ていると、ほらあなたもポンと小さな別荘を持ちたくなる気持ちになりませんか? で、今日、この銀中カプセルタワービルにお住まいの方のブログを見つけました。極小好きにとっては、面白いことが満載です。
2年間手作りでつくったカバノン
長いこと里山の休暇小屋カバノンのことを、あまり書いてきませんでした。最近ご覧になり始めた方は「え、そんなものがあるの?」という感じかもしれません。まず説明的な写真や文章も書いてきていません。私の文章は本来そんな感じなのです。でも、ふとしたきっかけで人は舵を切ることがあります。今回そんなときが来たようです。里山にあるカバノンのことを書いていこうと思っています。
そんな気持ちになった理由の一つは、この銀中カプセルタワービルにお住まいの方のブログを読んで、とてもおもしろかったこと。「ああ、こんなふうに実際を描写してあるのも楽しいなあ」とつくづく思ったからです。もう一つの理由は、最近の多忙さ。どんとどこかで抜きたい。カバノンや里山のことを明かしてみましょう。
さて、↓これが里山にあるカバノンです。カバノンは一辺3mの極小別荘。2年間かけて、ぼちぼち手作りしました。左ドアと男性を比較していただくと、いかに小さい建物か分かりますね。右の入り口に至っては、茶室のにじり口のイメージ。屈みながらでなければ入れません。
真ん中に出し入れできる緑色のオーニングがついてます。これで雨の日もデッキで食事OK。昔の写真ですので、デッキがまだちゃちいですね。前日貼った最近の写真と比べていただくとよくわかります。四隅の柱は、この里山で育った丸太を使っています。そう、カバノンは掘っ立て小屋の作り方でできています。右側の屋根を破って柱が一本突き出ているのが分かりますか?カバノンは一本の角を生やした建物なんです。
次回は、内部のようすでしょうか。
カバノン室内
この写真は、カバノン室内から左側ドアを見たところ。ドアに双眼鏡がかかっていますね。これはR兄さんからのいただきもの。これでバードウォッチングを楽しませていただいています。その横にランタン。その横に彫塑。これは今預かっている日展入選作家Sさんの作品。この像のサイズと比較しても、カバノンの極小ぶりが想像できるでしょう。その横は外の枕木デッキで食事するときのテーブルの天板。普段は室内にしまっています。
手前に低いテーブル。ここで足がわりに使っているのは、百科事典ジャポニカをボンドでくっつけたもの。写真に少し写ってますね。もはや百科事典はデータ化されてしまいこの状態。時代ですね。で、テーブルの上に乗っているのはマスコットのキキ。こいつが一番カバノンに長く住みついている住人です。
写真左隅に、ギザギザに切り込みの入った丸太がありますね。
少し角度を変えて見てみましょう↓。ギザギザ丸太は階段です。これと平行に沿って手すりも取り付けています。両方ともこの里山で採れた木で作りました。ギザギザは斧で荒く削りだしています。こんな皮膚感覚がたまりません。
ギザギザ丸太を登ったところに、ロフトが見えます。ここにベッドがおいてあります。天井をみると光が差し込んでいますね。半透明の波板ボードを張って、光を取り込むようにしています。よくセルフビルド用の既製ミニログが売ってありますが、あれは室内が暗くって生活しづらいですし、湿気が大変。カバノンで眠ると、朝日と鳥の声で起きる贅沢を味わうことになります。
ということで、カバノンの極小空間内部の半分が、広々高い天井のスペース。もう半分が中腰かソファーに座って暮らすスペースになっています。
中腰スペース
中腰スペースを見てみましょう。ここはお見せするには抵抗があったのです。なにせ、一般のお宅でいえば押し入れ。写真をご覧ください。今、あなたがイメージしたスペースより、ずっと狭いところです。小さなキャンピングカー内部を想像していただけるといいでしょう。ただしキャンピングカー内は立って歩けますが、ここはすべてかがんで動きます。そんなところに里山を楽しむための極小アイテムが詰め込まれています。
棚の中は酒類が主。ゲストの皆さんにお持ちいただいた酒類です。みなさん凝り症ですから、時期にもよりますが懲りに凝った酒が置いてあることが多いです。その横にナベ類。お決まりのダッジオーブンもあります。
カウンターの上にいろんなものが、載ってますね。左側にカセット式卓上コンロ。これで細々と食事してたんですが、最近は機械屋さんやしんのじさんやじだらくさんたちのご登場で、巨大ゴトクやオーブンや携帯冷蔵庫といった凄まじい調理器具が里山に投入されるされることしばしば。いや本当にすごい。最近の里山の魅力はゲストの皆さん方に引き出していただいているってことです。
グラスが見えますね。これは川合一民吹きガラス工房からプレゼントしていただいた手作りグラスです。いいですよ。ゲストたちにも大変人気があります。その横に極小シンク。わかりますか? アップしてみましょう↓。
洗面器程度のシンクです。
その横に緑のウイスキー瓶が逆さまに取り付けられています。下部にグラスを押し当てると、いつでもウイスキーがワンショット分出てきて飲めるようになっています。シンクの上の方に白い水タンクが見えますね。近くの湧水を汲んできて割って飲む。最高です。
夜になれば下で飲んで、上で眠る。このショットのようなやつが、「写真が嘘をついている」と呼んでいいでしょう。こんなにゴージャスじゃありませんし、もんのすごく狭いんです。
この辺りを見られると、里山が「喰う呑む眠る、ボーッとする」に特化してチューニングした場所だということがお分かりいただけると思います。
ロフト
ロフトには、ベッドの枕元に小さな机が置いてあります。
時々ですが、ここでアイデアを練ったり、ぼーっとしたり。机の下には書籍や雑誌がぐっしゃぐっしゃと詰め込まれてまして、これを引っ張り出して読んだり。
外の風景が見えますね。朝、起きて一番最初に目にするのがこんな感じ。これに鳥の声。幸せです。
ステージとテラス
じゃあ、外に出てみましょうか。
里山も広いように見えますが、実は狭いところです。この写真は過ごしやすい季節のものですね。
枕木デッキはかれこれ十年の紆余曲折を経て、ここまできました。人間って水平が好きなんです、ほんとに。これはアウトドアをやってらっしゃる方は、分かっていただけると思います。
写真の手前をステージと呼んでいます。里山音楽会などのときは、ここが舞台になります。これに対してカバノンのすぐ前がテラス。ここでオセロをしたり、飲んだり、食事をしたり。そう、カバノンの中にいるよりも、圧倒的にテラスを中心とする外にいることが多いんです。ステージが1、テラスが0の認識。ステージに聖なるものが降り立ち、色即是空なる私たちがテラスに座する。この両者をブリッジが結びます。
ブリッジの左横が石の炉。焚き火をする場所です。
雲仙の女子高生不明
雲仙市小浜町の高校3年、種村侑里さん(18)が2月28日夜から行方不明となり、雲仙署と県警生活安全企画課は5日、種村さんの写真を公開して情報提供を呼びかけている。種村さんは身長155センチで中肉、丸顔。髪は黒のショートストレートで、当時、紺のブレザーと緑と黒のチェック柄スカートの制服を着ていたという。心当たりの方は長崎県警察本部 電話095-820-0110まで。インタビューアップ ウーバンギャーカス
長崎インターネットラジオに西海市大瀬戸町のフォルクローレグループ ウーバンギャーカスをアップしました
芸術談義
奴隷。
投稿者:田屋敷酒散人 投稿日:2010年 3月 1日(月)13時04分19秒
ローマの美術は「奴隷」の所産である。「復興」はギリシャへの憧れ(市民)であった。奴隷にしろ植民地にしろ、略奪した富を文化、芸術に変えた、のが永い欧州の歴史であった。
野武士が伸し上がって国持ち大名になると、出自を誤魔化すために回りに「美術」が欲しくなる。
武を誇示するだけでは「野暮」になり、誰かに云われた「美」を手元に置く。アートマネイジャー千利休が暗躍する。朝鮮雑器を法外な値段で売りつける。
いつもスポンサーが居た。しかし現在、大衆とやらはスポンサーには成りきれない。芸術家も大衆をどう捕らえるか、まだ掴みきれていない。
「バカボンド」の作者は「私は娯楽を書いている」と言い切る。がしかし宮本武蔵を通して、「武芸者」や「芸術家」の辿る修羅の道を渾身の力で描いているから感動があった。
孤高なる旅人
投稿者:捨老 投稿日:2010年 3月 1日(月)11時21分2秒
芸術の気概にいささかの疑念も持つものではありませんが、芸術を貴ぶポーズだけが俗化しある種歪んだステータスをシステマティックに構築し、外観だけを文化社会然としたスタイルに整えようとする悪習は、ローマ社会以前から おおよそは政治がもたらすもののようで、この最大にして最強のスポンサーの擁護によって恩恵をうる芸術こそ、伝統の名のもとに容認される様式芸術であり、組織芸術(公共芸術 家元芸術)であろうと思われます。それゆえ「メジャーでなければ芸術にあらず」という信仰さえも、芸術家自身の内に芽生え育つことも事実のようです。
とはいえ、この恩恵から漏れた個々の芸術にこそ 芸術の神髄が潜むことを、読み取るのもまた民衆の文化力であり真の文化の土壌ではなかろうか、と生意気にも思ったりするのですが(汗)。
そこにはいつも「はやり物」の蔑みが潜むことも免れないようです。
キップ
投稿者:田屋敷酒散人 投稿日:2010年 3月 1日(月)09時40分13秒
「キップ」が売れて、ナンボと思っていた。商業演劇はそんな気風の場所であった。「商売」である。キップの上がりで、社員の給料やボーナスを出していた。「芸術家面」する輩は皆無だっが、芝居に関する知識は尋常ではなかった。そんな中、文化庁が芸術祭に大衆芸能部門を創った。「大衆」を相手にしない「芸能」はあるのかい?と皆、国をせせら笑った。が役者が勲章を欲しがるので、エントリーしたがった。「河原乞食のくせして、何をいまさら」と思っが、長いものには巻かれろで、エントリーした。
捨老兄に弁明するが、「芸術家」なんて代物は「野垂れ死に」しようが「この世は何事もなし」と私は思っています。
ただ、寄付やお情けでやる「クラッシック楽団」などがまだ、長崎あたりでは存在する。こんな「楽団」が文化なら、鼻ほじってテレビ見てたほうがマシだと思う。
異職同源
投稿者:捨老 投稿日:2010年 2月28日(日)16時33分43秒
一度でも展覧会に出展する、一度でも本を出版する、あるいは文や絵、其の他芸術活動で収入を得ると、その人との出会いを、人々はある種特別な人間に出会ったかのような反応を示す。常人とは思えぬらしい。そのたびに「本屋へ行ってご覧なさい CDショップへ行ってご覧なさい。アーティストはゴマンといます 珍しい職業でもありません」とお茶を濁しておく。きっと長崎にだって1000人ははるかに越えるだろう。
事実ボクの内では どれほど効率が悪かろうとアートは職業の一種でしかない。マグリットは死ぬまで隣人に銀行員と思われていたらしいが、あやかりたくて若いころは何気ないそぶりの生き方を心がけたものだった。しかし そのこと自体が異風でもあったらしい(笑)。
今歳をとって 芸術とは所詮個人に帰属するものだと言う思いが強い。思い入れの強さや 自意識の強さが 芸術を自ら特殊な高みにポジショニングするとしても、やはりエンターティーメントにすぎないことは歴史の証明するところだ。アーティスト を特殊視する社会自体が文化度に問題があるような気がする。
日本にはアート・マネイジメントの講座がない
投稿者:田屋敷酒散人 投稿日:2010年 2月28日(日)13時49分15秒
昨夜から金属造形家が来て、拙宅に泊まる。あれこれ話をした。日本にはアート・マネイジメントの講座がないらしい。
「まぁ、金の話をしないのが学校ですから」
「御者のいない裸馬で走っているようなもの」
「日本には、本阿弥光悦や千利休などアートマネイジャーがいたんですがね」
「各自治体では文化、文化と煩いのですが」
「騒いでもダメでしょうね」
「美術音楽の先生を減らしているそうです」
「平均点人間を作ったほうが角がたたないからです」
「皆が理解できないからいいのです」
「99%の人間が食う寝る遊ぶしか考えないからアートの価値が出る、残りの1%の人が分かってればいい。それでも100万人くらいはいる。長崎にも千人くらいはいる」