2015年10月
ADHD 製薬会社の力と過剰な診断により患者数が急増
ADHDに関する二つの記事を要約転記します。多動タイプの方は私の周りにもいますが、その多くは愛すべき個性として捉えられるべきものだと思っています。
フランスの子供がADHD発症率が圧倒的に低いのはなぜか
アメリカでは学齢児童の少なくとも9%がADHDと診断され薬を服用していますが、フランスでは0.5パーセント未満です。まず捉え方の違いがあって、ADHDを、アメリカでは生物学的問題だとされ投薬がなされます。 しかしフランスではまず社会的環境に原因があるとされ心理療法やカウンセリングがなされます。
食事との関連についても、フランスでは合成着色料や防腐剤などが問題視されていますが、アメリカではあまり考えられていません。
さらに教育哲学の問題もあります。フランスでは子どもが生まれたときから型にはめこんでいきます。お菓子を食べる時間や食事の時間は制限され、我慢することを覚えさせられます。そうすることで、子どもの心を安定させることができます。早期に生活ルールの中で自分をコントロールするすべを身に付けさせるのです。
(出典:Psychology Today)
ADHDは作られた病であることを「ADHDの父」が死ぬ前に認める
「ADHDの父」と呼ばれるレオン・アイゼンバーグ氏は亡くなる7カ月前のインタビューで「ADHDは作られた病気の典型的な例である」とコメントしていました。氏によれば、実際に精神障害の症状を持つ子どもは存在するものの、製薬会社の力と過剰な診断によってADHD患者の数が急増しているとのこと。医療判定機関と製薬会社の関係が指摘されています。(出典:不登校・ひきこもり支援カウンセラー甲斐由美子氏のサイト)
イラク進攻「誤りだった」、ブレア元英首相が謝罪
ブレア 「我々が入手した情報が間違っていたという事実については謝罪する。(フセイン元大統領は)国民などに対して化学兵器を集中的に使用していたが、それは我々が考えていたような形では存在していなかった。計画の誤りや、政権を排除すればどうなるかという認識の明らかな誤りも」(出典:CNN)
ブッシュの「イラクは大量破壊兵器を持っている。」はウソ
米ブッシュの「イラクは大量破壊兵器を持っている。」 だからイラク打つべしという情報がウソだったことは米国も認めているところ。上動画のようにウソを言います。特に後半に注目。ブッシュ米国の同盟国としてブレア英国は参戦。結果、イラクから政治的安定は失せ、ISISが蔓延っています。残念ながら、かの国はかように愚劣極まりない偽情報を発信した事実があることを忘れてはなりません。
メデュース号の筏
中学校壁面に描いた模写
大塚国際美術館を訪れた際に懐かしい作品に出会いました。ロマン派ジェリコの名作。私が中学校2年生の時に模写させてもらった作品です。夏休みに学校に通って、畳3枚ぐらいのサイズのボードに脚立を渡して描きました。その絵は長いこと中学校の生徒玄関ホールの壁に飾っていただいたようです。校舎建て替えに伴い処分されたと思います。写真でも撮っておけばよかったな。
本当に田舎の中学校でした。図書館に置いてある書籍数も限られたもので、だからこそむさぼるように美術関係の本を読んで、みんな読んでしまったように記憶しています。ホント、少ししかなかったですから。少ないからこそ重箱の隅をつつくような読み方をしたんでしょうね。そんな訳で、中学校の時にはアンフォルメルだとかオプアートだとか頭に入っていて、でもって、誰ともそんな話題ができないでいました。
そのころ好きだったミハイル・ヴルーベリの『座るデーモン』
その頃、すごいなあと思っていた絵の一つにミハイル・ヴルーベリの『座るデーモン』があります。
でも、彼の作品はこの一作しか観ることができなくて。ネット社会になった今はいいですよね。彼の作品も数多く観ることができます。だけれども今の時代を生きる子たちは、一つの作品を飽くほど何度も観るってことができにくくなっているかもしれませんね。そして明らかに、古代ギリシアの時に比べれば、現代人は一つの物事に長く沈思黙考しなくなっていると痛感しています。
未来が過去に
昨日が映画『バック・ツー・ザ・フューチャー』のデロリアンが飛びこんだ日だとか。『2001年宇宙の旅』で描かれた日も過去となりましたし、『鉄腕アトム』が誕生した2003年も過去のこととなりました。もちろんジョージ・オーウェルが管理社会を描いた『1984』も。
スティックパソコン
って、なんでしょうね?
よくわかりません。詳しい方、教えてください。これってネット接続はどうするんでしょうか?????
- やまさんのコメント
ネットに関しては、WiFiを搭載してるので無線で接続ですね。 USBのポートも有るので、有線でのUSB系でのネット接続も出来ると思います。 その時は、マウス、キーボードをBluetooth接続になります。 ストレージに制約がありますが、普通のPCとして普通に利用できると思います。
使い方としては、持って歩いて回ってそこらのTVに差し込んで使うパーソナルな使い方。 小型PCとしての使い方ですね。 ただ、マウス、キーボードをどうするのかという問題がありますが。 あと、家中のテレビ全部に常時接続する。 これは、安いPCとしてのばらまき型の使い方です。 持ち歩かなくて良いし、いつでも家族みんながPCを使える。 この場合主な使い方が、ネットブラウズ、ゲーム、動画視聴とかになるかと思います。 動画配信と言えばPC上で小さい画面で見るのが普通でしたが、 テレビの大画面で見るに耐える高品質の動画をネット上で利用できるようになったって事ですね。 自宅利用のPCは元が取れないが持論ですが、これだと何年使うかですが取れますね。
- いわさんのコメント
1万円切れる機種も出ましたね。 USBで外部に大きいHDDも取り付けられます。 (USBポートが一つなので、USBハブを付けて、とするのが良いとは思います)
村上春樹はノーベル賞をとらない
キー局が毎年ノーベル賞発表の頃になると、村上春樹がとるのではないかとハシャグ姿↑は腹立たしい限りです。奴らはそれを知らないほど馬鹿の集まりか、あえてお祭り騒ぎを演出しているのか。いずれにしろ許しがたいと思っているのは私だけではないでしょう。
村上春樹はえらい。ノーベル賞がとれなくなるであろうことを知って、2009年受賞式典であの歴史的スピーチをしたのです。歴代日本の作家とは違い、問題意識が村人ではないのです。彼の民族の母国に行って、彼の民族の批判をし、帰ってきたのです。こんなことをした作家を、他に私は知りません。
「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」
すばらしい。これに拍手を送らずに何に拍手を送るというのでしょう。youtubeにあるであろうこのスピーチ動画を張り付けようと探したのですが、動画はすべて削除されていました。やっぱり。よって文章で以下再度紹介いたします。
-常に卵の側に- 村上 春樹
私は今日小説家として、ここエルサレムの地に来ています。小説家とは、“嘘”を糸に紡いで作品にしていく人間です。
もちろん嘘をつくのは小説家だけではありません。知っての通り、政治家だって嘘をつきます。外交官だろうと、軍人であっても、あるいは車の販売員や大工であろうと、それぞれの場に応じた嘘をつくものです。しかし、小説家の嘘は他の職業と決定的に異なる点があります。小説家の嘘が道義に欠けるといって批判する人は誰もいません。むしろ小説家は、紡ぎだす嘘がより大きく巧妙であればあるほど、評論家や世間から賞賛されるものなのです。なぜでしょうか。
私の答えはこうです。小説家が巧妙な嘘をつく、言いかえると、小説家が真実を新たな場所に移しかえ、別の光をあて、フィクションを創り出すことによってこそ、真実はその姿を現すのではないかと。ほとんどの場合、真実を正確に原型のまま把握することは実質的に不可能です。そう考えるからこそ、私は真実を一度フィクションの世界へと置き換え、その後フィクションの世界から翻訳してくることによって、隠された場所に潜む真実をおびき寄せ、その尻尾を掴み取ろうとしているのです。そのためには、まずはじめに私たちの中にある真実がどこにあるのかを明らかにしなければなりません。これは良い嘘をつくためにはとても重要なことです。
しかしながら、今日は、私は嘘をつこうとは思っていないのです。私はできるだけ正直であろうと思っています。私が嘘をつかない日は一年のうちほんの数日しかないのですけれども。しかし、今日はそのうちの一日です。
そういうわけで、“本当のこと”をお話します。このエルサレム賞は受け取らないほうが良いのではないか、この地に来ないほうが良いのではないか、そう助言してくる人が少なからずいました。もしここに来れば私の本の不買運動を展開すると警告してくる人さえいました。
もちろんその理由は、ガザ地区で激しい戦闘があったからです。国連のレポートによると、1,000人以上の人々が封鎖されたガザの中で命を落としました。その多くは、子供や老人も含む非武装市民です。
授賞式の案内が届いてからずっと、私は自らに問いかけてきました。このタイミングでイスラエルの地を訪れ文学賞を受賞することがはたして適切だろうか、このような衝突下にあって、わたしが片方を支援するという印象をつくり出してしまうのではないか。圧倒的な軍事力を浴びせることを選択した国家政策を支持することになるのではないか、と。もちろん私はそのようなことを望んでいません。私はいかなる戦争も支持しませんし、いかなる国の支援もおこないません。付け加えれば、私の本が不買運動をおこされるのを見たいとも思いませんしね。
悩みぬいた末、しかしながら最終的に私はこの地に来ることにしたのです。決断した理由の一つは、あまりに多くの人がこの地にこないほうが良いと私に言ってきたからです。他の多くの小説家と同様、私は自分に言われることと全く反対のことをする傾向があります。「そこに行かないほうがいい」、「そんなことはしないほうがいい」と言われると、ましてや警告なんてされようものなら、私は「そこに行きたくなる」し、「それをしたくなる」のです。これはいうなれば小説家としての私の特性です。小説家というのは特殊な人種です。小説家は、自分の眼で見たり、あるいは手で触れたりした感覚無しには、何も信じることができないのです。
これが、私がここにきた理由です。私は欠席するよりもこの場所に来ることを選びました。何も見ないよりも自分の眼で見ることを選びました。そして沈黙でいるよりも話すことを選んだのです。
これは、私が政治的メッセージをこの場に持ってきた、ということではありません。もちろん善と悪を判断することは小説家には最も大事な役割の一つではあります。
しかし、その判断をどのような形で他に伝えるかということについては、それぞれの書き手に委ねられているのです。私自身は、それを現実を超えた物語に変換することを好みます。今日皆さんの前に立って政治的メッセージをお話するつもりがないというのは、そういう理由からです。
そのかわり、この場で極めて個人的なメッセージをお話しすることをお許しください。これは私がフィクションを書く間、ずっと心に留めていることです。紙に書いて壁に貼るとか、そういったことではなく、私の心の奥に刻み付けていることがあるのです。それはこういうことです。
「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」
そう、壁がどんな正しかろうとも、その卵がどんな間違っていようとも、私の立ち位置は常に卵の側にあります。何が正しくて何が間違っているか、何かがそれを決めなければならないとしても、それはおそらく時間とか歴史とかいった類のものです。どんな理由があるにせよ、もし壁の側に立って書く作家がいたとしたら、その仕事にどんな価値があるというのでしょう。
この比喩の意味するところは何でしょうか。あるケースにおいては、それはあまりにも単純明快です。爆弾・戦車・ミサイル・白リン弾は高くて硬い壁である。卵はこれらに撃たれ、焼かれ、つぶされた、非戦闘市民である。これがこの比喩の意味するところの一つです。
しかしこれが全てではありません。もっと深い意味もあるのです。このように考えてみませんか。私たちは皆それぞれ、多かれ少なかれ、一つの卵であると。皆、薄くてもろい殻に覆われた、たった一つのかけがえのない魂(たましい)である、と。これは私にとっての“本当のこと”であり、皆さんにとっての“本当のこと”でもあります。そして私たちは、程度の多少はあるにせよ、皆高くて硬い壁に直面しているのです。この壁には名前があります。それは“システム”というのです。“システム”は私たちを守ってくれるものですが、しかし時にそれ自身が意思を持ち、私たちを殺し始め、また他者を殺さしめるのです。冷たく、効率的に、システマティックに。
私が小説を書く理由は、たった一つしかありません。それは個が持つ魂の尊厳を表に引き上げ、そこに光を当てることです。小説における物語の目的は警鐘を鳴らすことにあります。糸が私たちの魂を絡めとり、おとしめることを防ぐために、“システム”に対しては常に光があたるようにしつづけなくてはならないのです。小説家の仕事は、物語を書くことによって、一人ひとりがそれぞれに持つ魂の特性を明らかにしようとすることに他ならないと、私は信じています。そのために、生と死の物語、愛の物語、あるいは多くの人が泣いたり、恐れおののいたり、笑い転げたりする物語を紡いできたのです。これが私が、来る日も来る日も、徹底的な深刻さで大真面目にフィクションを紡いでいる理由なのです。
私の父は昨年90歳で亡くなりました。父は教師を引退し、たまにパートタイムのお坊さんとして働いていました。父は学生だった時に、陸軍に招集され中国の戦場に送られました。戦後生まれの私は、毎朝朝食の前に、我が家の仏壇の前で父が長く深い祈りをささげているのを見ていました。あるとき私は父に、なぜそんなことをするのかと尋ねました。父は私に、あの戦争で亡くなった人のためにお祈りをしているのだと教えてくれました。
父は、敵も味方も関係ない、亡くなった全ての人のために祈っているのだ、と言いました。仏壇の前で正座している父の背中をじっと見つめるうちに、私は父の周りを漂っている“死の影”を感じた気がしたのです。
父が亡くなると同時に、私が決して伺い知ることのできなかった父の記憶も失われてしまいました。しかし、私の記憶の中にある、父の陰に潜む“死の存在”は、今なおそこにあるのです。これは、私が父から引き継いだ、ほんの小さな、しかし最も重要なことの一つです。
私が今日、皆さんに伝えたいと思っていることは、たった一つだけです。私たちは皆、国家や民族や宗教を越えた、独立した人間という存在なのです。私たちは、“システム”と呼ばれる、高くて硬い壁に直面している壊れやすい卵です。誰がどう見ても、私たちが勝てる希望はありません。壁はあまりに高く、あまりに強く、そしてあまりにも冷たい。しかし、もし私たちが少しでも勝てる希望があるとすれば、それは皆が(自分も他人もが)持つ魂が、かけがえのない、とり替えることができないものであると信じ、そしてその魂を一つにあわせたときの暖かさによってもたらされるものであると信じています。
少し考えてみましょう。私たちは皆それぞれが、生きた魂を実体として持っているのです。“システム”はそれをこれっぽっちも持ってはいません。だから、“システム”が私たちを利用することを決して許してはならない、“システム”に意思を委ねてはならないのです。“システム”が私たちを創ったのではない、私たちが“システム”を創り出したのですから。
以上が、私が皆さんにお話しようと決めた内容の全てです。
最後に、このエルサレム賞の受賞について、心から感謝申し上げたいと思います。また、私の本が世界中の多くの人々に読まれていることについても、同様に感謝申し上げます。そして今日、この場で皆さんにお話する機会を提供いただいたことに、お礼申し上げます。
大塚国際美術館のすばらしさと限界
実直な個人的所感を書きます。
大塚国際美術館のすばらしさ
1.「盆と正月が一緒に来たような豪華な作品群」というしんのじさんの表現のとおり、古代から現代まで、西洋絵画と聞いて想起する作家はほぼあります。なかったのは、ミュシャ、マグリット、マチス、ワイエス、ベーコンぐらいかな。
2.一堂に集められているため関係性がよく理解できます。クリムトを知っている方なら、ギリシア美術や中世イコンとの関係を改めて深く思い知ることができます。
3.実物大展示や空間再現というかたちが、気付いていなかったことを教えてくれます。
4.長い長い展示の〆がレンブラントの自画像だけを集めた展示室。拍手喝采。私が神のごとき筆致の画家と崇めるレンブラントで終わっていて「そのとおり」と。
5.これら作品の写真撮り放題。自分の愛する作品と共に写真に収まることができます。さながら美術愛好家の巨大プリクラセンターです。
大塚国際美術館の限界
次のような限界はあります。
1.色彩再現がうまくいっていない作品もあります。たとえば、モネやクリムトなど作品によっては違和感を覚えられるでしょう。
2.細部の凝視には対応できません。たとえば、ボッティチェリの『春』に描かれた草花の筆遣いを見ようとしてもできません。これは求めること自体が無理かな。グーグル・アートプロジェクトの方がうまくいっています。
訪れる際のコツ
- ボランティアガイド率いる御一行で廻らない。修学旅行で京都の街を巡ったときのようになります。つまり作品に浸った鑑賞ができない。超初心者ならばお勧めです。
- 終日時間をとっていく。行けば分かります。
- 美術愛好家でない人とは一緒に行かない。行くにしても、飽きたら先にホテルに帰っていてもらうよう約束してスタートする。
- 食事は天候さえ許せばモネの睡蓮があるところがお勧めです。
大塚国際美術館をストリートビューで巡る
美術館内部を一部分ストリートビューで巡ることができます。上写真をクリックしますと、入口の長いエスカレーターが出てきますので、これを上って行ってください。システィナ礼拝堂が登場しますよ。システィナ礼拝堂内部に入るにはこちらをクリック。
ジョット
最も感銘を受けました
今回、最もまいったのはジョット。鑑賞全ルートは4㎞あるので、当初はルネサンス期は別にしても、古代から中世までは流そうと思っていました。ところがどっこいその辺りが実によかったんです。ジョットのスクロヴェーニ礼拝堂の素晴らしさ。ジョット・ブルー。私は全く分かっていませんでした。
ジョットで画像検索するとこんな感じ(クリック)で絵画が一枚ずつ紹介されます。これが元凶。ご存じのとおり近代以前、絵画は建物と表裏一体の存在とされていましたので、その空間が再現された大塚国際美術館の展示法は染み入るような理解を私たちに与えてくれます。なんと上質な空間。現代人にも十分通じるエレガントさと純粋さがそこにありました。
大塚国際美術館
3日間の休暇が手に入りました。目的地として定めたのは大塚国際美術館のみ。前後はホテルライフ。結果、ほぼ終日この館内を巡っていました。結論から書きます。すばらしい。美術愛好者ならば訪れられることをお勧めします。
陶板で再現された西洋美術の至宝とも言うべき作品が約1,000点。一山くり抜いて造られた美術館の鑑賞ルート全4㎞。実物大で再現された巨大西洋美術全集だと思ってください。
もし「本物を観なけりゃはじまらないよ」という人がいたら、「じゃあ、美術全集なんて観たってはじまりゃしないって君は言うんだね」と返そうと思います。本物に接しないと芸術的感性が磨かれないのならエコールドパリなど一世を風靡した芸術家は生まれていません。
ミケランジェロの『最後の審判』
入館して最初に目に飛び込んできますのがシスティナ礼拝堂。言わずと知れたミケランジェロの『最後の審判』です。四方八方から包囲され鑑賞する圧倒的空間。開館時間の9時半とほぼ同時に入館しましたので、ほとんど人気のない状態でゆったりとこの贅沢な空間が独占できました。私はベンチに寝っ転がって天井画を長いこと観ていました。なんて贅沢な。実際のシスティナ礼拝堂で1時間近く寝転がっていることなどできません。接近した鑑賞もできて、『最後の審判』の下方はこんな風に漫画タッチ。
殿様井戸
千々石街道沿いの井戸
伊能忠敬一派が地図に書き残した「お立ち場の水」。元シマバリアンの私でさえ知らなかったこの史跡に出かけてみました。
今はこんな有様でして、水質もどんよりとした状況。ね、神社だと数百年は継承されるのに、人間ゆかりですと殿様であろうとこんなもの。諸行無常。人生を勉強させられること大の様相でありました。
案内板の誤り
よく見ると道沿いに、こんな案内板が出ていまして、殿様井戸と呼ばれているようです。この案内板に書かれた内容には誤りがあります。それは朱線の箇所。井戸はこの一箇所ではありません。昨日書きました魚洗川には水もあり、井戸もあり、殿様はそこで休憩されていっておりました。それに龍馬はたかが武器商人のパシリであって、このように持ち上げるのは歴史に誤解を招きますし、そもそも「ますです調」と「だ調」も混在していますし。がんばれ島原。
古地図を解く8 魚洗川に湧水はあった
魚洗川では各所で湧水が湧き出ていた
魚洗川在住の栗原農園さんから、次のようなコメントを頂きました。「現在はダムの関係で湧き水は減りましたが、ダムができる前は各所で湧き出てました。
また、貴サイトを拝見しましたが、塚については祖父たちが「腹の神様」と祭る塚らしき物が千々石街道沿いにあります。 また、現在はわかりにくくなってますが、やはず橋より山手から入る道があり、音姫観音の横を通り現在の赤岩観音の大鳥居に続く道が千々石道と聞いてます。小学校の遠足のルートでした」
口碑こそが地方史に重要な意味をもつ
まつをさんが挙げられた「魚洗川在住の栗原農園さんのコメント」 このような口碑こそが、地方史に重要な意味をもつもので、亡失されることなく明記され正確に記憶される必要があります。
塚は「腹の神様」として祀られていたようですが、懐妊した神功皇后伝説では「腹鎮めの石」などとしても語られ、民俗においては「子生み石~子安石~夜泣き石」などと展開される石は、原母神(グレートマーザー)の孕み子と考えられたもので、まさしく「石生れ→魚洗」伝承につながる元型的口碑のようにおもえます。
土地にはさらなる古話や傍証が生残っている可能性があります(笑)。
古地図を解く7 現地に出向く
千々石街道を巡る考察をしていましたが、ついに魚洗川と赤岩神社に行ってきました。
〔結論〕
千々石街道は、極力高低差がなく、なおかつ極力水が入手しやすいルートで、島原半島を横断していた。赤岩神社は巨岩信仰のアニミズム的信仰のもとに置かれた神社である。
魚洗川(いわれご)を流れる土黒川(ひじくろがわ) |
千々石街道は極力水が入手しやすいルート
写真をご覧ください。これが魚洗川の奥上原橋から写した土黒川。そう、こんこんと清水が音を立てて流れていました。本当に澄んだ水です。これから上流にある新矢筈橋上で川を確認するともう水無川でした。つまり千々石街道は、極力水が入手しやすいルートでできており、その最も高い標高場所が魚洗川でした。魚洗川に流れる水は、雲仙火山溶岩および凝灰角礫岩中の割れ目からの湧水であろうと思います。地図1 |
魚洗川(いわれご)の語源は石生川(いはあれがわ)
さらに写真をご覧いただけば、岩がゴロゴロとしていることも分かります。つまり、捨老さんのおっしゃるように「石生川(いはあれがわ)であった可能性」が高いと思います。人知を超えた力に満ち溢れた赤岩神社
こちらの本社にあたるのが地図1の鳥甲山の赤岩神社でしょう。よしここまで来たらと思い、訪ねることにしました。田代原の近くの鳥居周辺に車を止めて、山道に入って行きます。
古地図を解く6 赤岩神社
鳥甲山に鎮座され古くから住民の信仰を集めた赤岩神社。魚新川集落にも現在2社の赤岩神社を確認しています。こちらと、こちらです。2社とも川周辺と言っていい場所です。
赤岩とは
赤岩観音の「赤岩」という言葉に、もしやと思い検索をかけますとこんな記述を見つけました。
「常時は道(水無川)であっても、雨季には道自体が川となる可能性です。つまり、《魚生川(いおあれがわ)→石生川(いはあれがわ)》」という捨老さんの指摘と関連がありそうですね。寺井さんも、魚洗川が溶岩流の末端に位置することを指摘しています。下の火山土地条件図を見ても流れておりますね。なお赤岩神社とは神社名であり、おまつりされていらっしゃるのは白衣観音であることは前述のとおりです。
出典:国土地理院 火山土地条件図 |
かつて国見町で岩屋神社の扁額がついた祠をあちこちで見かけた
噴石と「赤岩」と言う名の関連のご指摘ですが、ボクはまだ赤岩神社も烏兔神社も、見聞しておりませんし資料も持ち合わせないので何とも言えませんが、昔(高校生のころ)国見町周辺をブラついたことがありまして、そのとき「岩屋神社」の扁額がついたミニチュアのような石鳥居の祠を 山辺のあちこちで見かけた記憶があります。
赤岩神社は本山のような位地だったのでしょうか。大岩の裂け目や大岩の下に社殿を作る様式は全国各地で見られます。たしか長崎の穴弘法も似たような様式だったと思います。噴石が神の吐瀉物と云う考えは大昔からあったようです。
古地図を解く5 魚洗川=石生川(いはあれがわ)説
魚生川(いおあれがわ)→石生川(いはあれがわ)
昨日の写真を見る限り魚洗川の古道ではないようですが、想像しますにおそらく古道は谷道ではなかったのでしょうか。と云うのは、常時は道(水無川)であっても、雨季には道自体が川となる可能性です。
つまり、《魚生川(いおあれがわ)→石生川(いはあれがわ)》であった可能性です。
日本最初の天皇(神武天皇)は、名を「神倭磐余毘古(かむやまといはれびこ)」と云いますが、まさに「いわれご=磐生子」であり聖域の古称となりえます。鳥兜神社の創建も、この地名にあやかった創建のようにも思えてきます(笑)。
捨老さん、なるほど! 魚洗川の地名の由来は「石生川(いはあれがわ)」ですか。納得できます。
また、大閑道人さんご指摘のとおり、写真からも住民や旅人の霊山として、ランドマークになっていたと。
さらに、調べていたように、魚洗川は水の豊かな土地のようです。そのことについて島原半島ジオパークで著名な地学専門家 寺井邦久さんに聞き取りをした結果、次のようなコメントをいただきました。
出典:産総研:活断層データベース |
「魚洗川は土黒川の上流に位置する。あそこは山手に千々石断層などが迫り、複雑な地層をしており、地下には伏流水が流れている。その証拠に国道389号線沿いの牧場の地面はじゅくじゅくの状態だ(地図上で青い箇所)。さらに魚洗川は溶岩流の末端でもある。一般の方はご存じないが、溶岩はひび割れだらけで、水タンクだと思ってもらっていい。以上の地形的なことから、魚洗川は水が豊富であろう。湧水があるかどうかは確認していない」
ピースがはまってきたようです。あとは時期を見て現地に行ってみようと思います。
古地図を解く4 魚洗川という地名の謎
当時は高い山や特徴のある岩を目印に歩いたのではないか
当時の道幅って、どのくらいでしょうね。 「荷附馬には、通行不可」だとすれば、幅、1メートルもないのでは?? そうなると、次の疑問は、道の両側には、脊の高い木は生えていなかったのか、というもの。 道幅が狭い上に、道の両側に脊の高い木が生えていれば、 歩いていても、空はあまり見えなかったのではないか、と推測。
私は、高い山とか特徴のある岩を目印に方向を確認しながら歩いた、と考えたが、 果たしてこの考えは妥当でしょうかね。
魚洗川という地名は物語のはじまりでは
魚洗川。面白い地名ですね。「いわれご」も一見妥当な転訛に充てられた表記のようにも見えます しかし「本当にそうなのでしょうか」。古地図を読み解く醍醐味はこのあたりからはじまります(笑)。漢字名が後付であるかぎり 一考の余地があります。地名には突発的で単独なものもありますが 多くの場合その「名前」の登場には、生活史誌的な全体性から生まれ出た事を自己証明するかのような理由があります。「なぜ いわれご」と呼ばれるに至ったのかの一考は、古地図の誘いとも言えます。
まつをさんが提示された「天保郷帳」には「黒丸は一里塚」とあります。一里塚には、平地の街道であれば、榎・楠・松など時代によって定められてもいたようですが、山中となれば、よほどの巨老木でない限り名づけ標識には不向きとなり
特徴ある大岩や地形が有効となり、多く山道の標塚とされます。塚につけられた仇名も、そのまま旅の指標になりえます。たとえば 「いわれご」と一里塚は重なる位置にあるのでしょうか。そもそも、なぜ「いわれご」なのでしょうか。その命名には、全体性から生まれ出た自己証明は秘められてはいないのでしょうか。物語もこのへんからはじまるようです(笑)。
「いわれご」の語源には二説あり
「いわれご」の語源は、地元の郷土史家によれば二説ありとのこと。語源1、千々石の行商が魚が傷まないように清水で魚を洗ったから。
語源2、「いわ」は岩もしくは大きな石、巨石。その昔山岳信仰で栄えた霊峰雲仙の入り口の岩を指す。
これは大閑道人さん、捨老さんのご指摘のとおり、ランドマークとなる巨岩から「いわれご」の名が来ているとの説ですね。
魚洗川から山手を仰ぐと山が!
今、グーグルマップで調べてみてゾッとしました。魚洗川から千々石街道沿いに山手を仰ぐと、こんな光景になっています。正面に山が。この山は鳥甲山(とりかぶとやま)。住民の信仰を象徴する霊山で、赤岩観世音が巨岩下の穴に祀られています(出典:千々石deその日暮らし)。
赤岩観世音についての伝承
以下、赤岩観世音について転記(出典:奥雲仙の自然を守る会)。---------------
〔奥雲仙むかし話(赤岩観世音さま)〕
国見町八斗木(はっとき)の南、鳥甲山(とりかぶと)822mの東で、矢筈岳(やはず)のすぐ西にあたるとこが、”観音平”(かんのんびら)とよばれています。その中腹にあたるところに岩穴があり、この中に、島原半島三十三番の札所中の第二十八番の白衣観音(びゃくいかんのん)がおまつりしています。この赤岩観世音さまは、たいへん古くからおまつりしてあったそうです。
大宝元年(七〇一)、行基(ぎょうき)というえらいおぼうさんが、雲仙に温泉山・満明寺をひらかれました。この時、行基上人は田代原にも、寺や僧坊を建てたいという願いを込めて九千部岳で苦行をしました。
赤岩観世音さまは、この行基の願いを助けてやろうとした伝説があります。この言い伝えから考えると、温泉山よりまえ、いまから千三百年もまえにまつられたことになります。この赤岩観世音さまにおまいりすると、ご利益が多いせいでしょうか、魚洗川(いわれご)や八斗木(はっとき)の人はもちろん、島原や有明など、遠くの村からもたくさんの人々が、おまいりにきています。
〔ご命日〕
むかしは、なにごとにも旧暦でしたので、この観世音さまのご命日も、旧の三月十八日だったそうです。この日は、晴着をきた善男善女(信仰の深い男女)が長い列をして、おまいりしました。またこの日は、里のほうから道ばたでいろいろなものを売る店が赤岩観世音さまのある山奥までのぼってきました。そして、お酒やうどん、おかしなどを売っていました。おかしは、まるいおこしのようなものや、ゆびわの形をしたおかしがありました。これを紙のこよりや、シュロの葉などをとおして、木の小枝につるしました。この小枝を肩にかつぎ、みんなで声高らかに歌を歌いながら、夜の山道を下り、家まで帰ったものだといいます。つぎに、旧の七月九日は『千日ごもり』といって、この日におまいりすると、千日おまいりしたと同じご利益があるといわれたので、おおぜいの人たちが集まりました。夜になると、ご詠歌(えいか)の合唱があり、それに流行歌がまじって、大変にぎわい、夜明けまでつづきました。このように、映画も、テレビも、カラオケもなかった時代の信仰と娯楽をかねた行事でした。
〔赤溜り(あかだまり)〕
むかし、八斗木(はっとき)小学校の西側の丘で、神代(こうじろ)村との境のところに、広々とした野原がありました。今では、ほとんど開拓され畑になっていますが、ここは、八斗木小学校の運動会をしたところです。ここの南側を『赤溜り』といいます。ここでは、毎年旧の三月十八日になると、赤岩観世音さまの出開帳(でかいちょう)が、ありました。出開帳とは、老人や子供たちが、山奥までのぼれないため、赤岩観世音さまにこの『赤溜り』まで、来ていただいて、お祭りをしたのです。これをはじめた人は、岑若狭守(みねわかさのかみ)という人だそうです。ここでは、まわりを長い幕でかこみます。そして、中に祭壇(さいだん)をかざりました。まん中に、観世音さまのかけじく、そしてお神酒(おみき)、大きな魚、野菜、白米、塩などが並べられました。この時も、またで店が並んで、にぎやかだったといいます。
〔その後の赤岩観世音さま〕
大正九年(1915)赤岩観世音さまを鳥兎(うと)神社の境内にうつされました。だから、赤溜りでしていた三月十八日のご命日も、七月九日の千日ごもりも、この鳥兎神社にうつされました。近ごろは、毎年八月十六日に”千日祭り”が行われて、芸能やのどじまん大会でにぎわっています。また、鳥甲山の中腹にある赤岩観世音さまは、あたらしくつくりかえられました。入口には大鳥居(おおとりい)が奉納されて、巌(いわや)の中には、古い像や新しい像がきちんとおまつりしてあります。遠くや近くの町から、たくさんの信者の人たちがおまいりしています。
赤岩観世音さまのご詠歌
島原半島三十三番の中、二十八番
白衣観音
なにたかき いわやの
やまの いわよりも
かたきは のりの
ちかひ なりけり
崇台寺観音堂
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「いわれご」と一里塚の関係について
各一里塚はどこにあったかについてはだいぶ探しましたが分かりません。 伊能忠敬の計測したやつが手掛かりがあるのではないかと調べてみたのですが。 島原城から二つ目の一里塚がどこにあったのか? なお伊能一団の千々石街道計測は、1812年11月11日。 ただし伊能らは二団に分かれ、一派が伊能を中心に南回りルートを計測し、 他の一派が千々石街道を計測とのこと。出典:『島原領測量と島原藩の地図作成』松尾卓次。
古地図を解く3 魚洗川に湧水はあったのか
魚洗川に湧水があったか否か。地下水学会誌の論文『名水を訪ねて(44) 長崎県の名水 -島原湧水群-』に出会いました。この論文によると、有明町から西有明町までの地域には合計98ヶ所もの湧水が存在するといいます。以下、この論文から紹介します。
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島原半島の湧水は3つのタイプに分類できる
- 雲仙火山溶岩および凝灰角礫岩中の割れ目からの湧水
普賢岳や眉山などの安山岩質溶岩流の末端から湧き出るもの。標高 300~400m以上の急斜面沿いに多い。宇土出口、江里神社、熊野神社など。
- 扇状地砂礫層 ・眉山崩壊堆積物中か らの湧水
扇状地末端から湧き出るもの。深江町から島原市の標高20m以下の海岸線のもの、白土湖、浜の川湧水など。
- 竜石層の砂礫層中か らの湧水
標高100~120mの地形変換点や竜石層を切る浸食谷の谷頭付近においてシルト質細粒層を不透水基盤として上位の砂礫層中より湧出するもの。
魚洗川の標高は、標高がワンクリックでわかる地図で確認。結果は312m。ということは標高 300~400m以上の急斜面沿いに多いという①の可能性ありでしょうか
古地図を解く2 魚洗川
現れたキーワード 魚洗川
千々石街道を巡ったイベントがネットで紹介されていました。そのコースとして、1日目:島原城桜門→杉谷→魚洗川茶屋跡→田代原 との記事。魚洗川?! 懐かしい。これは「いわれご」と読みます。私の地域では「いわらご」と呼んでいました。島原に住んでいた子供の頃に耳にしていた地名。そうか、魚洗川を千々石街道は通っていたのか。
万事この調子です。千々石街道に関する本なしでこの記事を書き進めていますので、こうして事実に出会うたびに新鮮な驚きを味わっています。本なしで調べすすめる面白さ。しばらくこれで行きます。
で、魚洗川ってどこだ? 検索。
↑おお、ビンゴ! 前記事でthomさんたちと話題にしていた場所です。
↑「伊能忠敬測量による長崎県内の主な街道・千々石街道」サイトでも、魚洗川は「字魚洗河内」と記されています(地図右上)。
ネット上にあった魚洗川の情報
検索をすすめますと、興味深いことが分かってきました。
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・島原の殿様が千々石街道で長崎へ出向く際、魚洗川で一休みし昼食を食べていた。
・千々石から魚を島原方面まで運ぶ途中、ここで魚が傷まないように洗っていった。これが魚新川の名の由来か。
・ここは往来が多く、茶家もかなりあった。 「魚洗川のこおりどうふ」、「魚洗川の馬」と言えば有名だった。
・昭和10年ころ1800m下方に開墾地ができ多くの住民が移住。昭和26年には一軒残っていた。
(以上出典:千々石deその日暮らし)
・かつての魚洗川集落は現在の雲仙普賢岳災害の砂防ダムの中に位置した。 そこには多くの石垣群や井戸などが残っていた。(出典:栗原農園HP管理人さんのブログ)
両ブログとも実に前向きな姿勢の方のサイト。勉強になります。
なるほど、魚を洗ったり、茶屋があったり、井戸もあったりと、水が豊富な所だったということですね。私は前回の終わりに、「飲み水の確保ができやすいコース取りという認識は誤り」と書きましたが、前言撤回しなければなりません。このコースは飲み水の確保ができやすいコース。
扇状地 魚洗川
なぜ水が豊富なのか。地図をじっと見ます。
「あ! ここは扇状地だ」
扇状地ならば水が出ることも考えられます。調べてみました。するとここは火砕流や土石流が積もった扇状地で、堆積物の厚さは最大20m以上とのこと(出典:日本の活火山)。扇状地では堆積物が砂礫ですから、水は地下に浸透し伏流として地下を流れます。
湧水が出るには山間部すぎないか?
けれど水が出やすいのは扇形の先っちょの扇頂部であり、魚洗川はもっと山間部。う~ん。前述のブログに、昔の魚洗川集落が砂防ダムの中に位置していたというのは、堆積層が薄い所に居住され井戸から水を得られていたと理解していいのでしょうか。それとも川か湧水があったのでしょうか。
魚洗川遺跡といい、少し下った百花台遺跡といい、海からだいぶ距離のある場所に、昔からの居住区と水の関係が不思議ではあったのです。でも海からずいぶん距離のある岩戸湧水や舞岳湧水も豊富な水に恵まれていますし。
なおこれ↓は、湧泉箇所が記された地図(出典:「農業用地下水研究グループ: 日本の地下水、地球社)。こうしてみると山間部にも湧水が見られることが分かります。それぞれどこなのでしょう。興味津々。
古地図を解く 千々石街道
以下、スリリングで推理小説を読んでいるようでした。
なんだ、この島原城から千々石に島原半島を横一文字に走る道は!?
古地図の面白みにはまり、この地図(クリック)で島原半島を見ていて驚きました。 「なんだ、この島原城から千々石に島原半島を横一文字に走る道は!? 無茶苦茶な道だな」 この地図は幕府の命でつくられた天保国絵図。幕府の命でつくられた地図に記されているということは、主線道と認識された道であるということ。
この道に何か書いてあるな、どれどれ……(上図アップ部分)。読めない。そこを捨老さんから「此壹里山之間坂有難所荷附馬不通」、つまり「ここから一里は山間部の坂で難所があり、荷物を付けた馬は通れない」という意味だと教えていただきました。合掌。当時から険しいコースであったことがわかります。
千々石側からのルートは推測つくが
どこだろう? 千々石(ちぢわ)から山の中へ分け入る道は心当たりがありました。千々石から田代原キャンプ場に至るコースです。通ったことがあります。これって九千部岳Ⅰ断層沿いの険しい道なんです。おいおい、あれを徒歩でいくなんて、とんでもないですね。
一方、田代原キャンプ場から東へと伸びて島原城に至る道が思い浮かびません。どのコースだ? 島原城付近のコース周辺を確認しますと、三会村の寺中名と、杉谷村の山寺名が読み取れます↑。
現れた伊能忠敬
そこで 「三会村寺中名 杉谷村山寺名 街道」 で検索しますと、「伊能忠敬測量による長崎県内の主な街道・千々石街道」というサイトが出てきました。ここは以前拝見したことがあり、伊能忠敬が計測した道を辿っていらっしゃる優れたサイトでした。詳しく読んでいきますと、こんな地図↓が載っていました。
赤い道が、千々石街道といい、伊能忠敬が計測して歩いています。お!、地図中に杉谷村山寺名があります。その近所に三会村寺中名があることも知っています。これか。探していた道は千々石街道というのか。そして伊能忠敬も通った道なのか。千々石街道の詳しいコース図はここからダウンロードできます(pdfデータ)。ダウンロードして地図を見ますと、田代原~島原市側の山道は前述サイト管理者も道不明瞭・危険と記した状況とのこと。実に興味深いルート。地図に見入ってしまいます。
現れた勝海舟や坂本龍馬
さらに「千々石街道」で検索しますと、一説には勝海舟や坂本龍馬が通った道との見方もあるとのこと。これは怪しいでしょうけれど。さらにこのブログ管理者は千々石街道を実際に歩いてらっしゃいます。体を張ったリポートはここから。江戸時代の街道跡が山中に残っているのですね。文章も面白いですし、掲載写真も必見です。やはりコースの多くが忘れられた状態になっているようです。
地図をずっと眺めていました。礫石原から国道389号に抜ける部分がピンときません。あの一帯は舞岳もあるし、稜線と深い谷が近い距離で並んでいますよね。なぜあそこに荷物を運べない街道ができたのか? 歩き専用道ってのがあったのでしょうか。
同感。 私もあの辺りが一番ピンときません。 歩いたリポートではこことここあたりですよね。
教科書的に言うなら、当時は大量荷物の運搬は海路であり、陸路中心の思考は現代になってから。車社会出現以前は身一つで移動する道も必要だったと。けれど、お立ち場の水から赤岩神社までのコースのとり方がピンときませんよね。今では消えていますし。それがなぜ主線道として活用される道であったのか……。
クリックで拡大図 |
わかったかも。 第1に、3D化してみると適切なコース取りです。 第2に、湯江川、土黒川と川を辿り、飲み水の確保ができやすいコース取りです。
なるほど、確かに。その道がなぜ現在に残っていないのかも不思議です。
道は川の氾濫で消えた
>その道がなぜ現在に残っていないのか
その点が私たちが共通に思い浮かべていた謎でしたね。これも解けたようです。
↑湯江川上流をグーグルマップでアップしてみます。
さらに、湯江川流域には地形的に氾濫しやすいと考えられる場所があるという論文があり、そこに土石流の氾濫予想ルートが記された地図を見つけました(『雲仙普賢岳地域の地形変化と災害危険度の予測.』- 京都大学防災研究所)。
この図と千々石街道を重ね見ます。すると……。
もうお分かりですね。二つの川は度々氾濫を繰り返していた。江戸時代は千々石が移動は主要街道の一つであったため、その度に修復されてきていた。しかし、鉄道の発達によって海岸沿いのコースに流れが移りました。戦前はこの一帯は住む人とて少ない地域でもありました。さらにモータリゼーションが発達。こうして修復の手は止み、氾濫に任される状態が続き、街道は消えていったのでしょう。