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  • 2016_10_31

    ヨーロッパの都市分布


    出典:Amazing Maps
    赤ドットは1,000人以上の街の分布を現した地図。
    これを頭に入れていないと政治、経済、文化、そしてそれに関わるニュースは分かりません。
    世界的に豊かな国が集まる北欧の、過疎状況を頭に入れておきましょう。日本が真の豊かさに達せられないのはこの人口状況に行きつかないため。これから減少していきますが、北欧レベルに行きつくまでに苦難の道を我が国は通ることになります。
    私が認識していなかったのはルーマニアの多さ。国名は「ローマ人の国」という意味ですから、元々歴史は古いんです。下図の小さな田舎町をアップしてみても、多くが都市計画によって整えられていることに驚きを覚えます。








  • 2016_10_30

    Coming soon 長﨑アートパーティ2017


    長﨑アートパーティ2017の開催を予定させていただいております。お楽しみに。
    なお、長崎インターネットラジオのゲストの皆様方には案内メールを差し上げましたが、メールが不達になるケースが見られます。お届きになってらっしゃらない場合はお手数ですがご連絡いただけば幸いです






  • 2016_10_29

    「有明海 そして船を持つこと」まとめ

    今週、皆様方とお話をすすめてきましたテーマを「有明海 そして船をもつこと」として次のページにまとめさせていただきました。
    bar_yotabanasi/ariakekai/index.html


    天草は長崎ではありません → 天草を巡って → 有明海の交流 → 舟所有の文化と鎖国 → 北欧の圧倒的ボート所有率 → 船を持つこと → 海に還る → 大宰府は博多湾と有明海の分水嶺で標高わずか40m → 博多湾と有明海はつながっていなかった






    • 2016_10_29

      縄文時代に有明海が最も陸地を被ったころの図

      前日の記事で誤解を招いたかもしれません。最も内陸部まで有明海が入りこんでいた頃の海域は次のとおり。博多湾と有明海はつながっていなかったというのが、現在の通説のようです。

      出典:『有明粘土層の堆積環境とその鋭敏性につい て 』三浦哲彦・赤峰剛徳・下山正一から作成

      以下、下山正一の説を転記します。氏は現地調査の結果としてこう記します。

      「図は海成層の分布限界線と縄文海進最盛期の有明海の海域図です(理解を即するようにサイト管理者が通常地図と合体)。海成層の有無にこだわって佐賀平野の大量のボーリング資料を点検しました。海成層のある地点を黒丸で、ない地点を白丸で印してゆくと縄文海進最盛期に最大に広がった有明海の海域が浮かび出てきます。さらに海成層下限の等深度線を描くと谷状地形が現れ同時に海成層の分布限界線が引けます。(略)海成層の分布限界線は縄文海進の最盛期である約6000年前の海岸線と言うことになります。」(出典:『有明海と佐賀低平地の成り立ち』下山正一

      「北部九州のうち, 玄界灘 ・響灘沿岸地域の海成層上限高度は一様ではなく, +0.4から+4.5mまでの値が見積られる. 有明海沿岸の佐賀平野と筑後平野の縄文海進ピーク時期の海成層の上限高度差は-1.9mと+4.8mで, 隣接地域としては最も大きい. これらの上限高度の差は過去5~6,000年間に生じた垂直変動量とみなせる.」(出典:『北部九州における縄文海進以降の海岸線と地盤変動傾向』下山正一

      つまり真鍋大覚の「博多湾と有明海はつながっていた」という説は誤りとなります。






    • 2016_10_28

      大宰府は博多湾と有明海の分水嶺。標高わずか40m

      「Flood Maps」という便利な地図があります。これは海面が上昇するとどうなるか表示するもの。使い方は簡単、左上の「Sea level rise」から上昇する割合を指定するだけ。標高40m以下を塗りますとこのようになります。

      そうしますと興味深いことが浮かび上がってきます。
      大宰府という場所の意味です。
      大宰府は博多湾と有明海の分水嶺。その標高、わずかに40m。
      なるほど、だからここに大宰府が築かれたのか。
      大宰府付近を拡大し、標高30m以下を塗った状態で見てみます。

      以下、出典:「西田進のホームページ」
      • 北九州防備としての大宰府
        663年朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で、日本・百済連合軍は唐・新羅連合軍に大敗を喫した。唐・新羅連合軍の日本進攻を恐れた大和政権にとって北九州の防衛強化が急務となった。
        博多湾からの侵攻を防ぐため水を貯えた大堤である水城(みずき)を築いた。博多湾から有明海まで見通すことができる絶好の地に大野城を築いた。さらに有明海からの侵攻に備えて、基肄(きい)城小水城を設けた。
        地図で30mの等高線を描くと左のようになり、水城の重要性は一目瞭然である。なお、御笠川は博多湾に、宝満川は有明海に注ぎ、分水嶺はJR二日市とJR天拝山の間付近を通り、その標高は海抜約40mである。日本海(博多湾)と太平洋(有明海)の間の日本一標高の低い分水嶺ではないだろうか。



      さらに真鍋大覚(まなべ だいかく)の「博多湾と有明海はつながっていた」という説をご紹介しておきます。氏は九州各地のボーリングでのハイガイ化石調査による放射性炭素年代測定を元に、3,500年前の古代九州の状況を次のように発表しています。以下ウィキから転記。

      1. 博多湾と有明海は太宰府付近を瀬戸にしてつながっていた(真鍋はこれを「針摺瀬戸(はりずりのせと)」と命名している)。
      2. 福岡平野,筑紫平野は海底にあり、福岡地方は群島だった。
      3. 島原半島は雲仙岳をいただく大きな島だった。






    • 2016_10_27

      海に還る

      by しんのじ


      1975年香焼の海(出典:Googleマップを使って過去の地形図や空中写真を見る

      僕の人生で、一種の羨望をもって強く脳裏に刻まれる死に方をした、ある男の人の話をしよう。男の名はMという。彼は、僕が高校卒業まで暮らしていた香焼のある小さな湾沿いに家を構え、うちから数軒先に住む、物作りが大層上手な初老の男だった。

      会社勤めを終え、好きなことをして悠々と暮らす、寡黙で少々人嫌いの彼は、海から拾ってきた海藻で堆肥を作り、自家用に見事な野菜を育て、また流木や打ち捨てられた漁具を収集しては、息を飲むような手漕ぎボート(筏と呼ぶには立派すぎるほどの出来栄え)を拵え、晴れた日には、陸から見えなくなるほど遠くまで漕ぎ出し、見事な釣果を挙げて帰還することもしばしば。我が家もMさんからの大量の魚のお裾分けを頂戴した事が、一度や二度ではなかった。

      ある日、忙しく研修医として走り回っていた頃だと思う。母から知らせが入り、Mさんがご自慢の手製の舟から落ちて亡くなったという。喪服を用意し、ご自宅での葬儀に参列した。懐かしい近所の人が集まって、口々にあの人らしいと静かな声で囁き合っていた。つい僕も父に、「羨ましい死に方やね」と不謹慎にも言ってしまったが、「最高やろうなあ・・・」とまともに返ってきたのは少々びっくりしたが、同時に少し嬉しくもあった。あの日、少し曇った空の先には、幼い頃から馴染んだ香焼の海が広がっていた。

      小さな頃は、海で拾った発泡スチロールで帆掛け船を作って競走させるのが鬼ごっこと並んで日常的な遊びだったし、海の廃品で造った筏に乗るのが夏の楽しみだった(母をはじめ大人達からは危ないといつも怒られていた)。親の目を盗んで、針で突いたらすぐに破れそうな粗末な一人用ビニールボートを漕いで島の裏までこっそり回り込み、尺ギスや大カワハギを釣って意気揚々として帰ったのも良い思い出。

      亡き父とは3人乗りの船外機ボートに始まり、ついには小菅に23フィートのフィッシングボートを置くに至るも、お互い忙しくなって、さほど一緒に釣りに行く機会はなかった。でも、個人的な話になるが、どうしても主治医の面談を拒否し続けた父に、迷いに迷った挙句、末期癌の宣告を行ったのは、釣りにかこつけて小船で出かけた帰り、忘れもしない、その夏初めて蝉が鳴いた7月1日の夕刻近くだった。

      そして今は、細長い小舟に乗っている。どうしても海から離れられない自分がいる。叶うことなら、最期は海に還りたいと願っている(事故死でない形で)。もちろん父の遺骨は一部海に散骨した。彼が愛した最後の職場、佐世保の九十九島の海と、愛して止まなかった香焼の海に。






    • 2016_10_27

      船を持つこと


      • しんのじさんのコメント
        マイボート(動力船)の所有は、歴史的にはFRP(ガラス繊維強化プラスチック)および小型船外機の普及が大きかったと思います。価格、手軽さ、船足の速さ(同サイズの木造船よりかなり速い)等によって拍車がかかり、恐らく昭和40年代に一気に広まったのだと思います。漁船自体も徐々にFRP化が進み、今では木造船は極めて珍しくなりました。
        マイボートで気を付けなければならない2つの問題があります。一つは船底の貝類や海草の付着。係留してあるボートなら、最低でも年2回は貝殻落としの必要があり、1回/1-2年は船底塗料の塗り直しが必要となるのです(最近、技術が進歩して変わっていたらすみません)。
        また、船外機は時々沖で機関停止を起こします。単にプラグにガソリンがかぶり過ぎて着火しないに始まり、ビニールごみを吸水口に巻き込んでのオーバーヒート、腐食による種々の問題、スクリューの破損(材質が柔らかいので、浅瀬で砂を巻き込んでも簡単に曲がってスピードが激減する←体験済みです(笑))。
        そういうことを知っている、沖によく出る人は、小型の緊急用船外機をサブで取り付けたり、2機がけ(効率は少し落ちるが安全度重視)で対応します。
        船外機ボートは、使うのは簡単ですがトラブルは少なくないし、日々のメンテも結構必要なので、係留して滅多に乗らなかったりすると、テキメン駄目になってしまうものなのです。
        なので、マイボートは、所有したらまめに乗り、まめにメンテしない限り、全く無駄なものになり得ます。更にお金をかけ、マリーナに陸置きすれば若干問題は軽減しますが、後は財布次第ってことになります。
        ということで、しょっちゅう乗らない人は、マイボートを持つメリットは、今の日本のシステムではほとんどない。この事がより一層の普及にブレーキをかけているのでしょう。ヤマハなんかは、クラブ制で比較的安価に運動性能の良いモーターボートをレンタルするシステムをもっています。時々だが乗りたいという人には、このシステムがベストかもしれません。

      • しげさんのコメント

        現在、20年モノ20フィート、60馬力2サイクルのボートを主有しております。維持費の主なところでは、係留に30,000円/年、船底塗装15,000円/年(DIY)。消耗品交換に20,000円位でしょうか(インペラ、サーモスタット、ギアオイル、プラグ等)。これまで最もお金がかかった故障は、船外機を持ち上げるヒルトモーターの不良。これには交換に10万円近く要しました。他に燃料(レギュラーガソリン)が釣り一回につき10~20L(燃費2KM/L)。それから、台風のたびに、もやいを点検に行っています。ほとんど自分でメンテナンスを行っていれば、維持費用に年間10万円見ておけばお釣りが来ると思います。
        小型船外機艇は、風波に左右され易く、休日と出航できる日がうまく合致する日は多くありません。しかしながら、のんびり浮かんで釣り糸を垂れて過ごす時間はなにものにも変え難いストレス解消です。そのためにがんばって維持している状況です。
        私のボートは、既にかなり古くなりました。最近のボートは、標準で4サイクルの船外機を搭載し、インジェクション仕様。始動も簡単、静か、燃費も良く、充電性能や信頼性も相当向上しています。所有という観点からみると年間20回以上出航すれば良いのでしょうが、10回以下でしたらレンタルのほうが安く付くと思います。私の場合、完全に赤字ですね……。

        ちなみにこれまでのトラブルですが……最初所有の8馬力船外機、冷却水通路詰まりのため修理不可、9.9馬力船外機へ載せ換え。プロペラスリップのため交換。5馬力予備船外機始動不良のため、2馬力船外機へ換装。60馬力船外機、アイドリング不良のため、キャブレターオーバーホール3回(DIY)。オーバーヒートブザー作動……サーモスタット交換。プロペラスリップのため交換。既出ですが、チルトモーター交換。
        こうしてみると結構故障してますね。全て、自力帰港できたため、余り故障の意識がないのかもしれません。

        佐世保という土地柄でしょうか、私の職場では、6-7人位がボートを所有しています。やはり、皆さん維持が大変そうですね。係留費用は、場所と設備次第ですが2~15万/年と幅があり、漁港係留は安価ですが、設備の整ったマリーナでは、20フィートで15~25万/年要します。 安心を買うか、コスト優先の違いでしょう。
        叔父が、船齢30年以上の28フィートFRP張り木造船(漁船)を所有しておりますが、とにかく遅いです。 最高速がたったの8.5ノットしか出ません。 メリットは、船体が重く、エンジンが船内にあるため非常に安定していて少々波が立ってきても安心して釣りが可能です。これは、とても小型軽量な船外機艇には真似できません。 また、ディーゼルのためA重油が使用できかつ燃費も良いです。






    • 2016_10_26

      北欧の圧倒的ボート所有率


      出典:日本マリン事業協会(資料:ICOMIA'2000年統計による)から作成
      北欧の圧倒的ボート所有。7人に1艇ですよ。つまりこれって、家族持ちは一家に一艇というところでしょうか。日本は368人につき1艇。
      狭い国土に暮らすという事はこういう事なのかもしれません。それにしても。
      こんな記事を読んだ日には、どういう事なんだと思う気持ちも禁じえません。→サイト「旅と写真といい女」の記事「スウェーデン流ゆとりライフ」。駐車中のほとんどの車にはボートを引くためのフックが車に付いています。

      • 散人さんのコメント
        けっこう持っている。
        自家用舟に関して云えば、島原の友達は今数えても五人はいます。定まられた場所に年間のもやい料(係留リ料)を払えばいいそうです。彼らはみな釣りが趣味で舟まで購入したそうです。ただみな自営業で時間が自由に使える立場で、勤め人は土日に限られるので難しいのではないのでしょうか。

      • まつをのコメント
        恐るべし、日本で北欧的ライフスタイルを楽しめる島原。ボートが持てる。夏小屋が持てる。空気はうまい。水はうまい。魚はうまい。野菜も抜群。そう、まず人が多すぎるところは、豊かさの価値観がおかしくなるんですよね。
        散人さんの島原と北欧の共通点は、その一、人口密度が低く、自然が豊かで近い。その二、時間的に調整できるライフスタイルを持ってる人が多い。ただ相違点は、もやい料(係留リ料)がスウェーデンの湖や田舎の海ではいらないこと。

      • グッドマンさんのコメント

        写真はノルウェーでフィヨルド観光をしたときのものです。フィヨルドに面して小さな集落が点在しており,その後ろは切り立った崖や急な斜面だったりします。こうなると,ボートは生活の足として必需品になるわけで,所有数が多いのも当然かと思います。

      • まつをのコメント
        グッドマンさん、これは説得力のある書き込みを有難うございます。こんな地形であれば、他地区に出るには舟がいりますよね。

        これとよく似た地形が島原半島の南部にあります。上が口之津から南有馬地域、下が小浜から串山地域。ここは今でこそ海岸沿いに道が通っていますが、行ってみればお分かりのとおり、俊敏な山が海に落ち込んでおり、かつては舟なしでは他地域との交流ができなかったでしょう。なのに舟文化が根付かなかった不思議。こうなってきますと民族性の違いというべきでしょうか。
        某知人のお母さんは生月山間部に住んでいましたが、生涯海を見ることなく終わられたという話を思い出します。






    • 2016_10_25

      舟所有の文化が華開かなかったのは鎖国が原因ではない

      以下の考えは間違っていました。
      「鎖国が原因じゃないでしょうか。これだけ海に囲まれていて、個人でプライベートユースの船を所有しない体制になったのは」
      こんなことを夢想し始めたのは、島原・天草の話をする中で、次のような疑問が出たからでありました。
      「まつを 現代の日本人は、自家用車は持っているのに、自家用船を持たない。これを不思議と思っていない不思議。フィンランドなんかですと自家用船を結構な割合で持ってます。外食は気軽にするのに、船は持たない。」


      江戸時代の漁場管理の概念図。(出典:水産庁
      鎖国が原因ではありません。古くからの海の利権によるものです。
      江戸時代、漁村は認定制。認定されていなければ漁はできませんでした。
      浜の前の漁場は周辺漁村が管理し、外海は自由が原則(「磯猟は地付根付次第なり、沖は入会」)。ところがですね、漁場の境界を巡る争いが相当ピリついていました。陸地の村境設定よりも早い頃から海の境界線設定はなされていたようですので、相当ピリピリしていますね。利権をめぐっての抗争。江戸時代に水を巡って争い事が起こっていたことを考えますと分かりますよね。ですから、個人で舟でも持とうものなら利権者から嫌疑がかけられていたことでしょう。このことについては、『水主浦漁場の階層性とその形成過程――近世期肥後国天草郡において――』橋村修が勉強になりました。
      ましてや経済的余裕がない時代ですので、遊びの舟はあり得なかったわけです。






    • 2016_10_24

      有明海の交流


      上図は大正12年頃の航路(島原三角天草地区、クリックで拡大、出典:『長﨑のりもの史』永田信孝)。現在よりも航路が複雑に入りこんでいることが分かります。それだけ海路は重要だったわけです。

      • 散人さんのコメント
        明治中期に所謂「からゆきさん」は東南アジアを中心に約五千人いたといわれる。この内半数以上は天草島原出身者であった。とくに島原半島は普賢岳のふもとのシラス台地で農耕に適さず、そのうえ台風も多く、農民はとことん貧しかった。
         姉しゃんなぁ どけいたろうか 姉しゃんなぁ どけいたろうか
         青煙突のバッタンフル 唐はどこんねき 唐はどこんねき
         海の果ばよ しようかいな
        口之津港には香港にあるイギリスの船会社バターフィルから石炭の貨物船が入港していた。土地の人は外国船をみな「バッタンフル」と呼ぶようになった。船底に石炭と一緒に押し込められ、20日あまりの過酷な旅だった。

      • まつをのコメント
        雲仙は明治・大正期から上海租界の欧米人の保養地として繁栄した。昭和初期には外国人向け雲仙観光ホテルも建設された。 外国人たちは、長﨑から茂木街道を歩き、茂木から船で小浜へ渡った。小浜から雲仙まではカゴで上った。

      • じだらくさんのコメント
        鹿児島からの帰り道、長島~牛深、鬼池~口之津と初めてフェリーで長崎に帰ってきた時に口之津の資料館に立ち寄りました。
        三井三池の石炭が口之津港から輸出されていたことを知りました。海を結ぶ道っていうのは陸路が整備される以前は大変重要だったんでしょう。戦前、父が長崎から雲仙に行く時はペンギン水族館のある網場がら小浜まで船で渡って行ったということを聞いたことがあります。海上の交通路という視点から考えてみると現在の認識とはまったく異なる世界観が見えてくるのでしょうね。
        以前は茂木からフェリーに乗って富岡まで釣りに行ったりしたこともあります。有明海の航路はほんの少しの距離なんですね…。

      • まつをのコメント
        じだらくさん、それこそが長崎港が衰退していった原因の一つでした。 1889(明治22)年に九州で算出した石炭の輸出港に、口之津ほか4港が加わったんです。 これによって長崎港からの石炭積出漁が減少したんですね。
        え、長崎港から石炭を積み出してたのかって? この写真をご覧ください。「長崎港ニ於ケル汽船石炭積込ノ景」(九大コレクションから) http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/ja/recordID/403385

      • 散人さんのコメント
        曙座は二月(ふたつき)に十日間は芝居小屋になる。
        当時(昭和30年代)の九州は所謂どさ芝居の宝庫であった。それは炭鉱の隆盛と密接な関係があったのだ。炭鉱夫達の娯楽の頂点に田舎芝居が君臨していた時代だ。大牟田を本拠とする一座が春になると海を渡って島原にやってくる。
        昼間三輪自動車で一座が街中を宣伝して駆け回る。
        「吉野屋一座本日曙座にて初日でございます。今回は一座新星の月ヒカルが島原初お目見え、絢爛豪華衣装を纏(まと)い踊りますは娘道成寺、慕いしお方の裏切りに身を狂わんばかりの嫉妬の焔(ほむら)燃や続ける蕾(つぼみ)の十七。……」 
        大仰な宣伝口説に縁側で居眠りしていたばあ様の目パチリと開いて「五時に出るよ」と十才の散人に囁く。散人「川端屋は?」とラーメンねだると「芝居の前にな」と銀歯みせてニヤリと笑う。ばあ様は母の親、今で言う認知症がまだらに入っていたのか、普段は日当たりのいい縁側で夢か現(うつつ)か居眠りの日々、それが田舎芝居が来るとピンシャンとなり必ず散人を連れ曙座へ行く。
        「おかあさん!子供に芝居見せると碌(ろく)なもんにはなりませんよ!」と娘(母)に咎められても何処吹く風の又三郎、二人は町行きの路線バスに乗り込むのでありました。

      • 散人さんのコメント
        侠客、と云っても直ぐ「お金」で転ぶ田舎侠客の話です。
        対岸(有明海)の大牟田三井三池炭鉱の労働争議(S34年~35年)の折、島原の侠客連はお金で雇われ、スト破りにポンポン舟に分譲し彼の地へ向かった。
        向かったはいいが所詮思想もなにもないお駄賃欲しさの田舎侠客たちは、屈強なる炭鉱労働者に完膚無きまでに打ちのめされ虚しく島原に帰還してきた。
        ある日散人が小学校から我が家に帰ってくると「う~ん、う~ん」と呻き声が聞こえて来た。何事かと玄関を開けると上がり框の板張りの上に5、6人が包帯のぐるぐる巻で転がっていた。
        父は戦前軍医だった。軍医は外科が中心であった。「あいつらは板張りで寝かしとけばいい、畳の上は贅沢じゃ」と大牟田で返り討ちにあった田舎侠客たちを指差して云った。

      • 散人さんのコメント
        売春防止法の完全実施は昭和34年、前年の33年に赤線が廃止された。
        それまで島原の港に遊郭が軒を並べて存った。大牟田三角天草からの客で大いな賑わいだった。散人高2のころ、40年17歳の年、その一軒の元遊郭の娘と割りなき中となった。その人は同級生。当時の思い出を詞にしてペコロスさんに提供した。

        「島原十三夜」 詞 散人 曲 岡野雄一 歌 岡野雄一

         十三夜の月明かり 障子窓越しに 部屋ん中ばユラユラ水底にする
         窓ば開ければ有明ん海に 月明かりの一本道キラキラ伸びとって

         オイデオイデ、て手招きばしよると
         「どこまでも手ばつないでこん道ば逃げて行きたかね、
          今夜、二人でこん町(島原)ば出て行きたかね」
         「よかと?よかと? ホントにうちでよかと?」

         遠い遠い夜 思い出す泣き顔よ 十七の恋 島原の夜 十三夜






    • 2016_10_23

      天草を巡って

      天草に関わるBar指のつけねの話題をいくつかピックアップしてみました。

      • ペコロス岡野さんのコメント
        「ハゲ雨」
        捨老さま、天草出身の母も半夏(ハゲ)雨と言うてました。半夏生の時期に降る、梅雨の終わりの大雨。漫画のネタにも唄のネタにも(笑)すでに。それにしても昨日の雨は凄かった。

      • 散人さんのコメント
        「周縁からの蘇生」
        「百年の孤独」のガルシア・マルケスが死去から数日たった。
        私は日経新聞のコラムを読みながら、あっ岡野雄一もそうだ、と思った。それは、マルケスが20世紀に入り、もはや物語の系譜が欧米先進国では途絶えたといわれていた時期(1967年)に「百年の物語」で文学を蘇生させた。コロンビアのカリブ海地方という文明の周縁地域からの咆哮であった。
        同じように最早都市部から何も力強い物語(メッセイジ)を発信できなくなったかのように思える日本。昨年岡野雄一の母を中心とした「岡野家の百年の孤独」の物語がじわりと長崎に降臨し、スサノオのごとく東征し始めている。彼の作品には天草の海と母が移り住み家族をなした長崎の風景が皮膚感覚になっている。
        ガルシア・マルケスと岡野雄一とは「周縁地域からの人間の蘇生」を企てたという意味においては同族だと私は思う。

      • しんのじさんのコメント

        「山ときたら、海で!」
        恥ずかしながら初冬の天草・羊角湾でのチョイ漕ぎ風景を。
        あのエリアには珍しく大荒れで、九州一のスキルをもつプロガイド氏と一緒だったから海に出られたといった日でした。それにしても嬉しそうに漕いでるなあ(笑)。

      • くにひろさんのコメント
        「具雑煮」
        唐突に思い出しました。島原の具雑煮白菜入ってますか? 必ず入れないといけない一品だったら、天草四郎説完全にアウトです。
        江戸時代以来もグレーゾーンです。白菜は、日本では20世紀になって広まったものです。江戸時代は清からの輸入品で、長崎では植木鉢に入れられて売られてたようです。

      • 散人さんのコメント
        「英国と漱石」
        漱石は190年10月より二年間余、ロンドン留学をした。その間五回も下宿を変えた、最後の住まいはザ・チェイス81番地。当時熊本に住まいし鏡子夫人に23回の手紙を出している。「英語がうまくしゃべれない、不愉快な二年間だった」と云う。
        1903年 博多号でロンドンより帰国する。長崎で下船するが其の後の足取りが不明。熊本に寄って帰京した説が有力。当時の長崎の人は誰も「漱石」を知らないので何も資料がない。
        資料がないと言えば、1896年、五高教授時代に学生の修学旅行の引率で天草・島原を旅しているが、これまた当時の島原の人は「漱石」を知らなかったので全く資料がない。

      • 散人さんのコメント
        「 鉄幹晶子」
        昭和7年に与謝野鉄幹・晶子夫妻はキリシタンの残影を求めて天草を訪れる。その後、夫妻は有明海を島原に渡る。途次歌を読む、
         鉄幹  むらさきに温泉獄(普賢岳)は暮れゆけど 夕日けぶれり天草の灘
         晶子  四郎等(ら)の談合の島洗い うへに夕日さす天主あるごと






    • 2016_10_22

      天草は、長崎ではありません。

      • 下妻みどり こないだ行った天草のホテルにこんなものがあって、いまだに真意をつかみかねている。
      • 鶴野パール よく天草は長崎県だと間違えられんです。そのたびに訂正しなければならないので。
      • 下妻みどり なるほど、そうなんですね…。
      • 鶴野パール 天草人の意地もありますね^^;
      • 下妻みどり それは感じましたー。でも、長崎と天草は、いろんな面でつながっているし、あらためて「近い」と思った次第です。
      • 鶴野パール そうですね。天草には長崎の文化が色々、入ってますし、言葉も熊本よりも長崎の方が似てます。天草から船に乗って長崎へ豆腐を買いに行く人がいると、聞いたこともありますよ。
      • 下妻みどり ほー!たしかに船だとすぐですもんね。地図の線引きと生活圏はかならずしもおなじではないですしねー。
      • 鶴野パール そうです、そうです。熊本県人としての意識は強いですが、昔から進学や就職で長崎に行く人は多いです。
        長崎に原爆が落ちた時、天草から後片付けをしにいって被曝した人達もいますね。
      • まつを これは島原出身の私にはよくわかります。おっしゃるように島原と天草は一つの文化圏。私が幼い頃、テレビは熊本放送しか入りませんでした。
      • まつを 島原半島の口之津のおじさんがこんなこと言ってました。「海を見ていたらエビが食べたくなって、フェリーでちょっと行ってきた」 近いんですよね。
      • 鶴野パール はい、島原に渡っても、他県に来たという感覚ないです。昔は船で、よく行き来してたんでしょうね。
        島原天草の乱も、島原と天草のキリシタンが起こしたのですしね。
      • 下妻みどり 「海の近さ」って、もっと取り戻していいものではないかと…天草から見る島原の「目の前っぷり」に、強く思いました。(そりゃ『談合』もするなぁ…と)
      • 鶴野パール そうですよね。
        天草から海を渡って長崎、水俣、鹿児島にも行けるのって、陸を伝って行くより便利だし、開放感があります。
        フェリー代をもっと安くしてほしいですよね。
      • まつを これはお分かりのとおり、かつて海路こそが主ルートであった証。ですから、島原弁は天草ひいては鹿児島の方言に近い。薩摩→天草→島原と人は巡っていたと。かつての海に住む人々は思いのほか移動していました。学校ってのもないですから縛られない。

      • まつを 現代の日本人は、自家用車は持っているのに、自家用船を持たない。これを不思議と思っていない不思議。フィンランドなんかですと自家用船を結構な割合で持ってます。外食は気軽にするのに、船は持たない。
      • まつを これだけ海に囲まれた国なのに、海を自分たちのものだと思わない不思議さ。漁師のもの、お上のものって思ってるんじゃないの? なんでそこまで矮小になったんでしょうね、日本人。
      • まつを 鎖国が原因じゃないでしょうか。これだけ海に囲まれていて、個人でプライベートユースの船を所有しない体制になったのは、鎖国が原因であると。公用あるいは商用の登録した船以外の所有を江戸時代に禁じたんじゃないでしょうかね。裏どりできないか。
      • 下妻みどり 鎖国は決定打で、それ以前から、海の自由さは少しずつ剥ぎ取られ、やがては低いものにさえ位置付けられていったのだと思います…。
      • まつを そう、島原・天草の乱が決定打で、この地域は重点的に取り締まりが行われたのではないでしょうかね。裏どりの資料がどこかにないものか。
      • 下妻みどり 海から見る天草・島原の乱というのも、日本を取り巻くテーマとつながっていることでしょう。
      • まつを 古くは九州を含む南シナ海沿岸に住む人々は倭と呼ばれ、海洋でつながっていたことを考えると、時代が下がるにつれ、陸地中心の領土感覚が徐々に成立したわけです。
      • まつを 最初に提示された写真も、陸地領土主義的発想の賜。といいますか、陸地領土主義と海洋交易文化の衝突を象徴するような写真ですね。
      • まつを 『江戸時代~明治時代における天草漁民の生活』(Tran Thi Mai Hoa)という一文を見つけました。
        これによると明治初期、天草は長崎県だったことがあったのですね。
        「天草(略)は、明治時代に幾度もの政治機構上の変化を経験した。富岡県は天草県となり、その後、長崎県と合併し、長崎県天草部として長崎県の一部とされた。(略) 最終的に1877年(明治10)に熊本県の一部となった。」
      • まつを さらにこうあります。 「天草における漁村の形成と発達は、幕府が地域住民に対して沖合漁業に従事する許可を与えた1645年(正保 2 )以降になってからようやく見られるようになることが明らかにされている。(略) 当初七ヵ浦として成立した定浦は、以後数次の変遷を経て最終的には二四ヵ浦に増加したのであるが、この定浦以外の村々は臨海村落であっても「魚不仕」村であり、「 無海無株 」 の村として漁業に従事することができなかった。」
      • 下妻みどり 天草から見る島原は、まさに目の前だから「陸続き」な感じさえあるのだが、これが天草から長崎市内に渡ると、それはやはり「海の向こう」の存在になる。だから、天草から長崎に嫁いできた「ペコロスの母」のみつえさんは「思ってたより遠いとこに来ちゃった…」と感じたのじゃないかと想像したりした。
      • 下妻みどり 国境や県境が、揺るぎないもの、すべてを分けるものだという感覚は、いろんなものごとを、時に危険なほど貧しくする。そんなものは、本当はゆらゆらしているほうが、息がしやすいはずなのだけどなぁ。






    • 2016_10_21

      家の境界はファジーに


      お客さんって、なんでしょう。
      実家ではよく縁側や玄関や居間で、近所の人が話を楽しんだり飲み食いしてますが、これを「客」と呼ぶことには違和感を覚えます。We 「私たち」という概念に内包される方々であって、客と呼ぶ客体化された対象ではありません。訪ねても、よそよそしい挨拶なしで「あ、どうも」的なあいさつ。なぜならば「私たち」だからです。散人邸の居候文化の醍醐味もこうした「私たち」の概念が育っていくところにあるでしょうし、我が家のバルコニーバルもそのために設けています。私たちがみんなで楽しむところ。
      つまり家の境界をファジーにしておくってことはとても大切で、そこで育つ子供の世界観に影響を及ぼします。
      ここで、当ててお見せしましょう。
      「家の境界が堅い家庭内は、とっ散らかっている」
      循環しない血液が腐敗するように、外部と循環しない家庭内環境は腐敗しやすいものです。ですからいよいよ家庭内に他者を入れようとしない。お客が来るとなると臨戦態勢で掃除し、他人行儀のもてなしをするという悪循環が発生するわけです。

      • 大閑道人さんのコメント
        縁側。まことに、うまい表現です。言い得て妙。 縁=境界線の、側=直ぐ側。境界の両脇にあるもの。 こっちでもない、あっちでもない。こっちでもあり、あっちでもある。 まさしく「我々(という概念)」で暮らす領域ですね。 サッシ窓が縁側を駆逐した。そして、自他の区分=境界を明確にした。
        ※ ついでに、この世とあの世=人間を超えたものとを遮断て、人間は、傲慢になりました。

      • 散人さんのコメント
        「ようけ(たくさん)採れましたんで」と近所のおばさんが、春の昼下がり土筆(つくし)を新聞紙でくるんで持って来た。「まあまあごくろうさん」と母はおばさんを縁側に誘う。振る舞うのはお煎餅とお茶に決まっている。
        「小池都知事が」とか「扶養手当が」とかテレビで今、庶民を無理やり政治とか国家とかの事柄に誘導するが、当時(昭和30年代)は一切なかった。季節折々の食材をいかにいい味付けをして家族に振る舞うかに腐心していた。その食材情報をやり取りするのが「縁側」であった。路上の立ち話程度で済むのだがそこは近所のよしみ、茶菓ぐらいはと「縁側」に誘う。で、ことのついでに縁談事の話も生じたりする。
        「お宅の看護婦見習いのミヨちゃんと山田の次男とどうでしょうかね?」「うん、いいかもしれない」なんて話が進行していく。良縁に繋がっていくのだ。






    • 2016_10_20

      凪待ち



      • しんのじさんのコメント
        狂ったように週末の度にシーカヤックを漕いで方々の海に繰り出していたあの頃。つい無理をして出発したら、案の定、昼前には波高が高くなっていき、辺り一面に兎が跳んでいる(と、舟漕ぎはちょっと荒れた海を言います)。
        たぶんしばらく荒れるから凪待ちしようと、岬や無人島に逃げ込んで何時間も、ゆっくりと飯を作ったり、仲間連れだとよもやま話に花を咲かせ、風と波を気にしながら、ただひたすら落ち着くのを待つ。
        だいたい多くは午後4時頃か。ピタッと風が止み、海が穏やかになる時間帯が訪れ、ホッとして、急いで舟を出し、出航地に舳先を向け、帰路を急ぐことが年に数回あったと記憶しています。ひとえに天候の読みが甘かったせいなのですが、手もち無沙汰でぼんやりと海と空を長いこと眺めるあの時間が、今思うと何とも贅沢で貴重なひと時でした。
        そして今、夕凪さんがいらっしゃいました(笑)!って、笑っちゃいけませんが中年男の下手なフリとご一笑下さい。ということで、夕凪って、僕にとってすごく大好きな言葉ということを言いたかったわけなのです。うっすら夕焼けが辺りを包む頃、出航地が見えてきて、ああもう舟から降りなければならないんだなー、ちょっと無茶したけど楽しかったなー、などと考えるでもなく頭に浮かぶ中、気がつくとビーチはすぐそこ。ああ、そろそろ海の成分が枯渇している、漕がねば!

      • まつをのコメント
        独身時代のある日、夏の日。
        友人とディンギーに二人乗り込んで、有明海の沖に出た。帰ってこれなかった。
        有明海の流れは想像を超えて早い。川のようだった。向こうからタコ坊主が波立てて近づいてきたぞと身構えたら、なんのことはない、球体ブイだ。ロープで固定されたそれは、激しい流れに当たり波立っていた。それほど私たちは速く流されていたのだ。
        セールを操り戻ろうと何度も試みたが徒労と化した。ままよと流されるに任せた。凪まで待とう。頭上には濃い青空の中、太陽がぎらついていた。艇に寝そべった。
        「熱いなあ」と私がつぶやく。
        「ん……」と相手は気のない返事をした。
        気付くと奴は、セールがうつ影の下で横になり涼んでいた。そしらぬ顔で、足先を使い舵を緩やかに切り、自分の方に影を向ける。
        「熱っいなあ」と彼が唸った。
        そしてまたしばらくあって、影はわずかずつ奴の方に動いていく。そんな意地汚い寡黙な争いが幾度となくゆっくりと続いた。
        開けぬ夜はない。暮れぬ日はない。
        夕凪がやってきた。
        オールの手漕ぎで私たちが帰り着いたとき、陽はずいぶんと傾いていた。あれをほうほうの体という。それから一週間、私は寝込んだ。水さえ飲めぬほど、喉が腫れた。そんな訳で、私は禁煙に成功し、今に至っている。

      • 夕凪さんのコメント
        しんのじ様。初めまして夕凪ともうします。シーカヤックの高さから見る波や夕日も、とても綺麗なのではないでしょうか。
        仲間とウェイクボードに夢中だった頃、日がな凪待ちをしていました。凪待ちの時間も含めて海の醍醐味として楽しんでいたことを思い出し、慕わしい仲間たちに集合を呼びかけてみたくなりました。
        皆様にも、それぞれの夕凪がおありで、手前は勝手に共有体験をさせていただいた次第です。海はたくさんの事を繋げてくれます。






    • 2016_10_19

      身体を鍛える


      熟れたザクロの実が弾けるように家呑みが終わり、私たちが今まさに布団に潜り込まんとするとき、散人氏は「じゃっ!」と言い残し深夜の帳の内に雄姿を消します。
      「今からお出かけですか?」
      「檀家廻りです」
      「お強い」
      「この歳になると、身体を鍛えんといかんのです。内臓から負荷を掛けるわけであります」
      この言葉を聞くたび、20代の終わり頃書いた拙作のこんな一節を思い出します。

      •  マーゼンの野郎らは身体鍛えろって言ってるけどさ,こうやって不節制やっていることと,鍛えることにどんな違いがあるって言うの?どっちにしたって負荷をかけているわけだろう?同じじゃないか。
         全身にシャンプーをかけると,身体は生ゴミの詰ったポリバケツのように思えた。
                                               (出典:拙作『ゾーン』
      ファンタジー小説を地でいく自己研磨(笑)。
      で、「Bar指のつけね」でこんな話題が立ち昇っています。

      • 捨老さんのコメント
        最近の人間工学とやらを駆使したと言われる奇妙な形のデカ靴を、勝手にフランケンシュタインの靴と呼んでいる。いわゆる死人も立ち上がって歩き出すかも知れない靴のことだが(笑)、これが値段もなかなかでフランケンシュタイン級だ。
        で、気付いたことがある。履いて見ると確かに優れものと思わせる履き心地で、歩きやすい。しかし、歩きやすいと言うことは、筋力を労疲させないと言うことだ。つまりは、筋力を老化させると言うことでもある。
        これにくらべて、古いタイプの、いわゆるズック靴(これを探すのに一苦労する)は、確かに履き心地がよろしくない。ところが、履いてジョギングやランニングしてみて、明らかに脚力がアップするのを実感できる。つまり、裸足に近い自然の歩行は、無駄な筋力を使うと云う事なのだ。脚力の衰えを気にされている方があるなら、ぜひとも旧式のズックを捜すことをお勧めします。まずは老爺心でした(笑)。

      • 散人さんのコメント
        捨兄のフランケンシュタインの靴の話は何も足の筋肉低下だけでなく、近頃、人工知能たるネットの情報だけ探索する輩の脳の筋肉低下の話でもある。ここはやはり面倒でも老眼近づけ活字を追うことで脳を刺激する作業、即ち読書せねばならない。
        という訳で刊行されたのは知っていたが東京書籍発行の「昭和天皇実録」一、二巻を贖った。刊行時定価二千四十円が古本で九百円、届いて驚いた美麗本である。義理で買った人が直ぐに売ったものだろう。一巻700ページを越す長尺もの、この秋はこの本と寒さを凌ぐこととしよう。






    • 2016_10_18

      お好み焼


      池波正太郎の『食卓の情景』を諏訪の森さんから借りています。エッセイを読んでいると食べ物に関する記事を書くこともいいなあと、つくづくと思います。池波先生が速筆で躊躇うことなく書いていることが伝わってきて爽快ですし、第一読みやすい。元が劇作家で客入りがあってナンボの世界に生きた人。読まれる文章が染みついています。「今日のお昼はスパゲッティ」的記事は避けてきたのですが、最近のここの記事が飲み食い記述に入念なのはこれが所以です。
      ということで、池波先生の文章に「どんどん焼」、つまり氏のソウルフードであるお好み焼きを扱った沁みる一編があります。すぐに影響を受ける口。写真のお好み焼屋に行ったことを思い出しました。店名は「とも」。島原の商工会館の近くにあります。気取らないいい店です。写真の爽やか男前くん。なんといいますか幸せになってほしいと思ってしまう、すっとした好青年です。

      • 夕凪さんのコメント
        好青年とのご紹介にあずかり、お恥ずかしいかぎりです。なんとか幸せになりたいと思っています。
        しかし先日からの酒宴、至高の極みでございます。 まつを先生、散人先生が揃い踏みされますと森羅万象の理が映し出され、英知に溢れた空間に滞在できた私は今も酔い続けております。
        それが、里山のシチュエーションとなると一入のことです。まっこと、ありがとうございました。
        それと件の店は、「もんじゃ焼き」も絶品でございました。






    • 2016_10_17

      居候文化


      豪邸散人邸にはしばしばお世話になります。若手の方と突然訪ねていっても、豪快に呑み泊まっていきませんかと一流の寛容さ。これは氏の血脈の中に御候や侠客を迎え入れる伝統が息づいているからでしょう。
      今ではなかなかお目にかかれませんが、半世紀前の富める家には何するともない居候がしばしまいたものです。豊かとは言いがたい私の育った食卓にさえ、複数の職人が常時入れ替わり立ち代わり居た記憶があります。
      散人氏は言います。
      「不定期的に画家と称する人がわが家に来ては滞在していました。まずイーゼルを開いてキャンバスを置いてですね、それから描かないんですよ。日がな一日ゆったりと暮らして、一緒に食事して呑んで、描かない(笑)。で、そろそろ次の金持ちさんの所に行くかとなると一気に描いて、一作残していく」
      サラリーマン家庭で育った人には理解しにくいかもしれません。散人氏はこうした伝統を皮膚感覚で吸収され、自身もハイテクくんや、ケンちゃんに一室を与え居候を抱えてらしたことがあります。ですから、自由にやりなよという懐があるわけです。居心地がいい。

      その割には呑みの場の描写が少ないじゃないかと思ってらっしゃる人もいらっしゃるでしょう。御意。なぜこの場では寡黙かと申しますと、書けないのです(笑)。
      けれど、前回の呑みで出た話題の一端だけ書いてみましょう。
      「いやあ小泉今日子は本当にかわいかったですよ」
      他に山口百恵、倍賞千恵子、太地喜和子等々の話題。いずれも散人さんが共に仕事をされた女優さん。
      「書いていいですか?」
      「まだ生きている人もいて、いろいろと障りがね(笑)」

      • 散人さんのコメント
        拙宅が紹介されて恐縮であります。
        侠客、と云っても直ぐ「お金」で転ぶ田舎侠客の話です。
        対岸(有明海)の大牟田三井三池炭鉱の労働争議(S34年~35年)の折、島原の侠客連はお金で雇われ、スト破りにポンポン舟に分譲し彼の地へ向かった。
        向かったはいいが所詮思想もなにもないお駄賃欲しさの田舎侠客たちは屈強なる炭鉱労働者に完膚無きまでに打ちのめされ虚しく島原に帰還してきた。
        ある日散人が小学校から我が家に帰ってくると「う~ん、う~ん」と呻き声が聞こえて来た。何事かと玄関を開けると上がり框の板張りの上に5、6人が包帯のぐるぐる巻で転がっていた。
        父は戦前軍医だった。軍医は外科が中心であった。「あいつらは板張りで寝かしとけばいい、畳の上は贅沢じゃ」と大牟田で返り討ちにあった田舎侠客たちを指差して云った。






    • 2016_10_16

      家呑み

      バルコニーバルを企画するも、そぼ降る雨。
      天空の満月に後ろ髪を引かれつつ室内へ。今夜は家族が帰省。昨日、お姉さんと猿之助を楽しんで、家人たちは今朝から共に実家へ。というわけで男たちの饗宴。

      ジャズが流れる中、話が進みます。間接照明だけに切り替えればバーとして楽しめるように設計していましたので、今夜は好機。オーダー円卓上に浮かぶルイス・ポールセンのPH 4/3ペンダント、そしてハンス・ウェグナーのYチェアー。
      家呑みは落ち着きます。店呑みの気忙しさにも捨てがたいものがありますが、基本は家呑み。そこにある酒を気ままに呑む。そしてつまむ。接客という概念なしでざざざっと呑む。いいですよね。無粋な輩に出会うこともなく、自分の好きな音楽をかけ、自分の好きな光量下で呑んでいられます。そう、一般にお店の照明は明る過ぎるところが多く閉口。

      今回は香りの饗宴でありました。しんのじ’sスパイシーカフェ製の出来立てウインナー。しんのじさんは長﨑浪漫工房での習得後、自宅工房を開設された由。本日作りたてのウインナー。燻製ウインナーをはじめとする作品(そう、作品!)は、市販のものとは別部類に属するもの。一口ごとに驚嘆の声が漏れます。プチッと口の中で音が立った瞬間、パッキングされていた旨味と風味が立ち昇ります。
      これを受けたのが、じだらくさん持参のセントジョージテロワールジン。カリフォルニアの蒸留所。大地に根付く草木の風味を味わえる名作ジン。例えて言うなら樽酒のようです。調べて知りましたが大層な高級ジン
      さらに幻の珍味ガゼ味噌
      「今回のものには柚子が入ってるんですが、何も入ってないものが最高なんです」
      「初めて」
      「長崎県の壱岐なんかをはじめとする島嶼部や、小浜でつくってます。原材料はウニ」
      酔うのがもったいないほどの日常性を越えた香りの乱舞。

      締めは貝柱をふんだんに使った炊き込みご飯。じんのじさんのご相伴にあずかりました。
      「ダッジオーブンより、この大石順一さんの土鍋のほうがおいしくできるんですよね。高温に耐えられる土探しからはじめたって聞きました」

      「そういえばキャンプ行ってないですよねー」
      3人ともそれぞれ野遊びの剛の者にして、キャンプ自体から遠退いていることに思い至り、次回はキャンプ、できれば田代原でと祈念して散会。

      家人からメールが来ていました。
      「実家に着いています。昨日から色々お騒がせしました」
      どもども。なんの、私は酒呑んで寝入り御もてなしもできませんでした。合掌。

      • じだらくさんのコメント
        何とも言えないゆったりとした時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。
        次回はぜひ野外のキャンプ場で!
        いつになるのかなぁ…

      • しんのじさんのコメント
        まつをさん、昨夜は大変お世話になりました。体中の凝りがすーっと抜けていくような心地よい時間を、どうも有難うございました。
        ジン。ヒノキや杉の若葉をちぎった時のような、爽やかで峻烈、しかし人工的でない芳香が素晴らしかったです。もっとお酒に強かったらなあと軽く嘆きもしましたが、考えてみれば、僕がもっと飲めれば、まつをさんの分が少なくなってしまっていたので、実は調度よいバランスなのか(笑)。
        がぜ味噌。途中、買い出しに寄った街の中で、たしかじだらくさんがそのような名前を口にされたような、とドキドキワクワクしていたら、幸いにも空耳ではありませんでした。はらわたを含めた海栗の中身全てを用いて手造りされた、濃い灰褐色の一見地味なペーストは、ゆっくりと口中に拡がる滋味が素晴らしい。塗りつけたキュウリの瑞々しさとも相性抜群で、海の恵みを丸ごと味わうような密かな贅沢を十数年ぶりにさせていただきました。
        ソーセージ造り、やっと手順が体に染み込んできたところです。ただ今回は、肩ロース肉のブロックを横着してほとんど筋切りしなかったため、電動ミンサーの刃や軸に絡みついて機械が動かなくなってしまったりと、色々貴重な経験をしました(笑)。手抜き仕事は宜しくないですね。
        大石さんの土鍋。今日のお昼も、スーパーで安売りしていた塩鮭の切り落とし&アラで炊き込みご飯を作りました。今日は塩鮭をお湯で軽く霜降りにしておき、ニラ、ショウガ、ニンニク、鷹の爪にえのき茸など合わせました。カミさん共々山盛り二杯飯となってしまったのは、中年道邁進中の二人には少々宜しくなかったかもですが、まあ、いいか(笑)。






    • 2016_10_15

      鈴木英人(すずきえいじん)風に描く


      信頼する河野先生のところに鈴木英人のシルクスクリーンが掛けてあって、ぴったりの透明感溢れる雰囲気を放っています。今日、時間が取れましたので鈴木風に海を描いてみました。一作目としてはまあまあかな。やってみて詳細に観た結果、様々な技法が取り入れられていることに気づかせていただきました。






    • 2016_10_14

      携帯電話のバッテリーダウン


      私の携帯電話が不調です。 バッテリーが壊れた模様。
      写真のように電源につないでいる時だけ通話・メールできます。それ以外は調子がいい時だけ通信できます。迷惑おかけします。
      追伸:バッテリー交換で復活しました。






    • 2016_10_13

      村上春樹とノーベル賞

      • 散人さんのコメント
        若手評論家 神谷匠蔵の文章「村上春樹がノーベル賞を受賞するべきではない理由」の抜萃。
        村上春樹の文学は、
        ①伝統に対する主体の優越である。
        ②主体にとっての伝統の無意味さ。
        ③社会や政治に対しても、自分の実存に対しても徹底的に無関心を貫く。
        ④商業主義で空洞化されたアメリカ人の精神性を移植したことこそが村上春樹という作家。
        ところが、ヨーロッパの主流文化人のアイデンティティはこのアメリカの精神性に対して全力で抵抗する。彼は日本人でありながらアメリカ人のような文章を書く。
        ヨーロッパ文化人には村上春樹は評価されいないのだろう(散人の意見)。そのヨーロッパ文化人の中核はどういう人達なのかは、各人が考えて頂きたい(散人)。

      • まつをのコメント
        1年前に下の記事を書きました。神谷某は政治的視点が欠落している幸せな内弁慶くん。こいつ、村上春樹の前に立ったら震えあげる輩でしょう。
        • 2015_10_19
          村上春樹はノーベル賞をとらない
          キー局が毎年ノーベル賞発表の頃になると、村上春樹がとるのではないかとハシャグ姿は腹立たしい限りです。奴らはそれを知らないほど馬鹿の集まりか、あえてお祭り騒ぎを演出しているのか。いずれにしろ許しがたいと思っているのは私だけではないでしょう。
          村上春樹はえらい。ノーベル賞がとれなくなるであろうことを知って、2009年受賞式典であの歴史的スピーチをしたのです。歴代日本の作家とは違い、問題意識が村人ではないのです。彼の民族の母国に行って、彼の民族の批判をし、帰ってきたのです。こんなことをした作家を、他に私は知りません。
          「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」
          すばらしい。
        それよりも散人さんの立てられた「ヨーロッパ文化人の中核はどういう人達なのか」という問いの方がとても興味があります。
        ヨーロッパ文化人の中核。難しいですねぇ。そして、おもしろいですねぇ、「ヨーロッパ文化人の中核」ってお題。近代の出発点で言えば、フランス文化を中心にブルジョア文化を語るべきだと思います。中世ならば、オーストリアのハプスブルク家を中心に貴族文化からの流れを語るべきでしょう。もーッと昔からなら、ローマを語らないといけないでしょうし、その源流をステレオタイプ的に語るならば、ギリシアとキリスト教を2本柱として語らねばならないでしょう。ホントはちょっと違うんですけどね。






    • 2016_10_12

      島原の湧水巡り


      天をおおうかのごとき大木に出会いました。その袂には清涼なる湧水。

      「こんな所が島原にあったなんて知りませんでした」
      「そうなんですね、多くの方がご存じない。今度、巡ってみましょうか。お連れしますよ」
      「それはありがたい。ぜひお願いします」
      松下先生、とても楽しみであります。






    • 2016_10_11

      島原 海のカフェ・山のカフェ

      今日は海と山、二つのカフェをご紹介。2軒ともアクセスしにくいところにあります。けれど、わざわざ訪ねていくだけの価値のあるお店です。

      • 升金の倉

        見事なピクチャーウインドゥ。地元の人々にも海の美しさを再認識させてくれるほどです。

        「この扉を開けるの?」と初めて訪れた人は思うでしょう。中に入ると、待っているのは大人な空間。見事な梁。オーナーは、島原の名家の血筋を引く知的でチャーミングなご婦人。手が空いてらっしゃるときには気さくに歴史解説をしてくださいます。
        「この蔵は、元々は島原の殿様がつくられたもの。大手に建ってたんです。それをこの土地に移築され現在に至っています」

      • 山の上のカフェ Garden

        島原の丘陵をたっぷりと楽しませてくれる店です

        店内も陽光がたっぷりと取りこまれています。
        これら2店舗は、島原の自然環境の豊かさを訪れる者に提示してくれる素晴らしい建築が支えています。海と山、陰と陽。旧と新。これらを際立たせる建築の魔力を理解するためだけに出かけていく価値のある両者です。あとは物語性。これは偏に知性の問題です。先進国の人々が求めているのは物語性。






    • 2016_10_10

      キューピッド

      形のないものと言って、頭に浮かんだギリシア神話とローマ神話。ローマ人は様々な文化を自分たちのものとして取り込んでいく民族でした。帝国をつくった国家はこの傾向を持っていることが多いんです。かつてヨーロッパを取りまとめていたハプスブルク家しかり。
      そんなこともあってローマは様々な神々を取り入れ、ローマ風にアレンジしていきました。その典型がギリシア神話の取り込み。
      ジュピター(以下英語読み)は、ギリシア神話に言う神々の王ゼウスのこと。ネプチューンはポセイドン。ヴィーナスはアフロディテ。バッカスはディオニソス。

      ではあの愛らしいキューピッドは、ギリシア神話では何と呼ばれているか。答はエロス。このあたりのウィキ解説はなかなかなもので「そうだったのか~」が詰まっていますのでお読みください。

      ということで語源を辿ればエロスマヨネーズという意味のキューピーマヨネーズ。近年興味深いことが起こっています。あのロゴを海外向けでは避けているとのこと。それが右のロゴ→。以下引用。
      「09年にマレーシアに進出したキユーピーはマレーシアの認証機関から「マヨネーズのパッケージに使用しているキユーピー人形が(イスラム教で偶像崇拝を禁じられている)『天使』と誤認される可能性がある」との指摘を受けた。」(出典:PRESIDENT Online) 今年5月に米国で販売をする際にも、右のロゴを採用。現地スタッフに「社会情勢や多様な民族、宗教に配慮すべきだ」と指摘され、 衣服を着ていないことも問題視されたといいます。

      • 散人さんのコメント
        上の記事で思い当たったのが、サルトルとレヴィ・ストロースの論争です。
        レヴィ・ストロースの考え方は「構造主義」と云われている。それはこの人間世界は各地・各民族それぞれの歴史・風俗・習慣を持ち、行動の規範は「善」なるものを基礎にしている、と云うものです。
        サルトル
        歴史には法則がある。
        ストロース
        歴史、歴史というけれど、それってお前ら(西洋)にしかない概念だろう。西洋独自の概念ですべてを判断しようというのは間違いだ。
         この論争の後、構造主義が主流になり、サルトルの実存主義は否定されていく。






    • 2016_10_09

      ソウルフード


      有明海を望む地に育ちました。そんなシマバリアンのソールフードに出会いました。
      「ミナ」と言います。絶妙な味付け。ウイスキーに抜群に合います。
      「一人でね、ミナをチューチュー吸って、酒呑んで、鴎外読んでると、寂しい気持ちになる」
      散人さんの沁みる吐露であります。
      今夜同席させていただいたのは、散人さんと書家の龍一郎さん。右と左の間で痛烈な酒。

      次の日の龍さんの雄姿。散人さん作の文を、龍さんが書く。お疲れ様。日本人だねえ。こんな時も時計してらっしゃる。
      「愛だとか魂だとか、ありもしないものをどうして人は書きたがるんでしょうね」と知的ご婦人に向かって散人さん。「形のないものは宝石だとかそんなものにして見せていかんといかんのですよ」
      見上げると、空は見事に晴れていました。

      • しんのじさんのコメント
        たくさんあり過ぎて困る・・・いつも食べたくなるけど、めったに作らない、あるいは作ってもらわない モノも含めて(食に対する執念と記憶だけは異様に強いんだから(汗))。
        イリコ出汁で、切り餅とサツマイモの角切りが入った七草粥。蕗のとう味噌 (刻んだとうをカラ炒りし、合わせ味噌と甘く合わせた物)、墨造りの柚子ゴショウ入り薄塩即席ヤリイカの塩辛、上の写真よりちょっと大ぶりな丸~三角のミナ(僕は酒に弱いので、ビールに合わせてます)、あじフライにマ ヨとウスターソース混ぜたのかけたヤツ、アゲマキのピカタ(片側だけ貝殻を外したアゲマキ貝に塩コショウと小麦粉をはたき、卵を少しつけてフライパンで焼き、ウスターソースをちょっと付けたモノ)、もぎたてのトウモロ コシの茹でたの、サツマイモのツルと鶏(または揚げカマボコ)の煮付け、ブリ大根、摺りゴマを効かしたブリの腹身のヅケとその茶漬け、等々。早春から季節を辿っていくと、異様に食い意地が張っているこをと痛感して しまうばかりのバカしんのじでした・・・。






    • 2016_10_08

      ウィキペディアの寄付依頼

      はじめてウィキペディアからの寄付依頼が表示されたとき、寄付しようと思ったことは事実です。そんな時、私は1日置いて実行するようにしています。これまで痛い目に会った代償として私が学んだ習慣。
      一日経つと疑問が浮かびました。
      その1.基本はクレジットカードでの寄付になりますが、私はクレジットカードを持ちません。その頃も大手企業からカード番号の流失が問題になっていました。そんなリスクを冒してまでやることではない。
      その2.「私たちは小さな非営利組織です」と書き、「儲かってませんで」的テイストをにおわせていますが、ならば組織の収支を公開すべきです。たとえば創設者ジミー・ウェールズへの報酬はいくらなのかさえ分かりません。公表しないということは、公表できない状態だろうと大人は判断します。
      その3.さらに、これは少なからぬ人が指摘していましたが、その当時の寄付依頼画面はこんなものでした。 このドヤ顔腕組みの上から目線態度はいかがなものか。これは、人にものを依頼する態度ではなく、してやってるでの態度。ウィキペディアの意識が端的に表れたサイン。
      郵便局に口座を開いてほしいですね。そう、郵便局。第一に郵便局は馴染みがありますし、第二に、カード番号、メールアドレスなどの個人情報を公表しないで済みます。ここは日本。「グローバリズムがどうたらで」という寄付される側の都合を優先していることが問題。






    • 2016_10_07

      大人のクイズ 「ネバダの謎」


      出典:US Census Bureau

      この地図は米国各州の最大貿易相手国(輸出)を示したものです。これを見て下の問いにお答えください。かなり高度な問題です。目の覚めるような解答を頂けば幸甚に存じます。

      問 ネバダ州の最大貿易相手国(輸出)がスイスなのはどうしてですか。






    • 2016_10_06

      米国の人口分布


      クリックで拡大可。出典:demographics.coopercenter.org/DotMap/
      米国は大統領選の只中。この地図を理解していると見えてくるものもあるでしょう。
      1ドットが1人を表しています。圧倒的に東部の人口が多いですね。反対にプレーリーからロッキー山脈にかけての中央部の閑散としたこと。


      最も人口の少ないエリアの一つであるモンタナを舞台にしたのが、敬愛する映画『天才スピヴェット』の舞台。世界の動乱も縁遠いこととして十年一日の暮らしをしている人々がいるアメリカ。
      ドットの色は、青が白人、緑が黒人、赤がアジア系、黄色がヒスパニック系、褐色がその他。






    • 2016_10_05

      中国の核実験場


      上エリアはタクラマカン砂漠の北東部。昨日の話題でいう「全人類に最も近いエリア」。


      ちなみに同サイズ枠で九州を囲めばこんなになります。
      中央に耳のような形に見えているのがロプノール。かつて存在した塩湖で、「さまよえる湖」として知られています。西岸には都市国家楼蘭(ろうらん)が栄え、シルクロードの要衝でした。しかし3世紀頃から乾燥化が進行。楼蘭とロプノールは次第に砂漠の中に消えていきました。1900年、探検家ヘディンが楼蘭の遺跡を発見。さらにロプノールの発見へと続きました。このあたりの話は私たちの世代にはよく知られたところです。

      以下、ウィキペディアから
      「1960年代よりロプノール地域は核実験場として使われ、1996年までに核実験が45回実施された。そのうち23回が大気圏内核実験でロプノールの北西約100km地点、22回が地下核実験でロプノールの北西約220km地点で行なわれた。1950年代から1960年代にかけてロプノール付近は軍事上の立ち入り禁止区域となり、1980年代に立ち入り禁止が解除された。」
      昨日の記事でいう「全人類から近いエリア」は核実験場になっていました。

      上エリアに青い人工物が見えますね。中国の発表によると「塩田」なのだそうです。核実験場に塩田。長辺は約20kmという超巨大な建造物。上写真をクリックしていくと次第に建物が姿を現しそのスケールが実感できます。

      • 散人さんのコメント
        この記事に関しては、あのNHKが隠蔽の加担をした疑惑がある。「NHKシルクロード核実験」で検索するといろいろと出て来る。






    • 2016_10_04

      全人類から近いエリア・遠いエリア


      出典:CIA Factbook 2008
      ブルーの濃いエリアほど全人類から近い場所。レッドの濃いエリアほど遠い場所。
      確かにね。人口の多いところは中国、インド、そしてEU。となると、全人類から最も近い平均中心点はなんとタクラマカン砂漠。逆に全人類から最も遠いエリアはイースター島あたり。







    • 2016_10_03

      人民元がIMFの主要通貨に

      「中国の人民元が、1日から国際通貨基金(IMF)の主要通貨に加わった。IMFは1日から、加盟国の出資額に応じて割り当てる仮想通貨「特別引き出し権(SDR)」の構成通貨にドル、ユーロ、円、ポンドと並んで人民元を正式に加えた。構成通貨の変更は、ユーロが発足した1999年以来となる。構成通貨入りは人民元の国際化を進める中国の悲願だったが、中国は金融取引で多くの規制を残していることから、真の主要通貨入りはまだ先との見方が多い。」(出典:朝日新聞

      米国が国連の拠出金をなかなか支払わないことは有名なことです。なぜか。国連総会は1国1票制。大きな国も小さな国も1票ずつ。米国の思い通りには動きません。ですから支払わず、代わりにIMFにつぎ込んできました。IMFは拠出金の大きさに応じて影響力がふるえます。今から25年前には、IMFは米国の世界コントロールのための機関でした。
      そんなことを踏まえて見ますと、今回のニュースは感慨深いですね。いろいろなことが透けて見えます。
      すでに2014年6月にラガルドIMF専務理事は、世界経済における中国の影響力拡大に伴って、IMF本部をワシントンから北京へと移転することもありうることを口にしていました。またIMF副専務理は中国人が務めています。






    • 2016_10_02

      老人番組


      朝食の食卓での家族の会話。
      私 「あれっ、サンデーモーニングって、老人番組になっちゃってるね。出てる人、老人だらけじゃない」
      関口宏が73歳。パネリストは岸井成格72歳、涌井雅之71歳、幸田真音65歳、西崎文子57歳、青木理50歳。
      私 「番組が始まったころ40代だった関口さんも、気づけば70代のジーちゃんか~」
      採り上げられている話題は「米大統領選TV討論」。トランプ70歳、クリントン68歳。
      息子 「あ、またジーちゃんが出てきた」
      張本76歳がスポーツコーナーに颯爽と登場。
      息子 「今度は介護人も一緒」
      フリップを持った女子アナが張本の後に付いてきてのコメント。

      1960年代に、ビートルズをコジキ芸人と罵倒した細川隆元がやっていた「時事放談」というTV番組があって、出演者が完全にジーちゃんに見えていたので、当時の小学生は「ジジイ放談」とか言ってたんですが、あの当時細川は60代だったんですね。いや、現代の方々は見事に若々しい。
      団塊の世代が車を買えばマイカーブーム、家を買えばマイホームブームと言われました。消費の核の世代。これを引っ張るTV出演者たちは結局同じままでスライドできるという構造。老人テイストのスタジオセット、彩度なしの服装で、老人パワー見せ続けていただきたいですね。






    • 2016_10_02

      昔はAll About Japanスーパーおすすめサイト

      「ほぼ日刊イトイ新聞」が話題に上っったあと、帰宅して「あ、そういえば」と。「Siteまつを」は同時期に受賞したことを思い出しました。
      賞の名前は、「All About Japanスーパーおすすめサイト大賞2003」。「What's Best!」の厳選サイトに認定されたんですが、同時受賞サイトが「ほぼ日刊イトイ新聞」などだったと思います。
      ここの立ち上げは1998年2月9日。インターネットの黎明期です。受賞年の2003年は一般の皆さん方がインターネットに入った頃。今のように企業サイトの乱立は見られず、検索にはgoogleよりも圧倒的にyahoo!が使われていました。「ほぼ日刊イトイ新聞」の立ち上げも同年6月6日。
      サイトの名が知られてくると、面倒くさいことも起こりやすくなるもので、突然クレイマーが現れたり、ちょっとした炎上みたいなことも経験しました。ネット上の論争は不毛なものが多く、個人運営のレベルを超えたゴタツキが起こるんですね。
      うんざりした私はプロバイダとサイト名を変更。裏路地にひっそりとあるバーのような場所に引っ越しました。分かりやすく言いますと失踪です(笑)。知り合いの方だけに新しいアドレスをお知らせしてネットを楽しんでました。それから徐々にまた多くの方にお出でいただくようになり、やみくもにカウントを稼ぐこともせず現在に至っています。このサイトにカウンターが付いてないのはそうした事情。
      このあたりの心情を「ろじっくぱらだいす」さんが「カウンター論」という記事でうまいこと表現されてますので読んでみてください。
      現在、訪問者は安定。これも皆様方のおかげだと感謝しています。その一方で、新たな方々との出会いもまた大きな楽しみとしていることです。

      「All About Japanスーパーおすすめサイト」受賞した際の選者コメントはこちら。
      • 「人生を、生活を、仕事を、人に役立つことを楽しんでいるかと問う、アート&野遊びエッセイのサイト。主役は九州在住のまつをさん。絵、文、音、そしてアウトドアと写真満載で楽しみ方を伝授してくれます。魅力的なフレーズのテキストボタンがゾロリ。ドキッ、ウ~ム、クスッとしながら、時間が経つのを忘れてしまいますぞ。圧巻は約720坪のプライベート・フォレストでの道楽三昧。満月の夜から始まるオーディオ音楽会、かっぽ茶での森の茶会、手づくりの休暇小屋づくり・・・里山道楽、ココに極めりです!」
      「あれ? なんだか違うぞ」と思われた方も多いはず。その頃は現在のサイト構成とずいぶん違いまして、私の作品と里山道楽が中心コンテンツでした。現在、これらの作品は縮小化したり、表だったところには置いていません。今回せっかくですので、改めてご紹介。


    • 2016_10_01

      カバノン・バー


      モテ期。それは大体の方が30代であることが多いようですね。婚約した途端、モテはじめるっていうあの現象なんなんでしょうね。今回、モテ期の男性がお二人、カバノンバーに呑みに来てくれました。魅力的なナイスガイです。動きがシャープで、打てば響く感性。ご一緒させていただいていてこちらまでエネルギーをもらいます。例によって、話題がピンボールのように瞬時に飛んではハジけます。

      これは古賀くん差し入れの、対馬の河内酒造製 赤米100%で造った純米酒 赤米の酒/10,000円。昔、トリさんに味あわせていただきました。どうも今では一般には入手できないようです。

      夜半雨脚が強まり、また散人さんの豪邸にお世話になりました。合掌。
      ところで(笑)、
      「モテキ診断」というサイトがありました。やってみました。こんなん出ました(胸張り!)
      • 「60代以降にモテ期が訪れるようです。 このモテ期は通常のモテ期と違い、恋愛要素は限りなく低いです。 ですが、あなたを慕う人物や、あなたのことを人として好きな人達がたくさん現れます。 50代で少し愛から遠ざかる可能性のあるあなたにとって、60代で再び愛に触れられるのはとても素敵なこと。 今までで一番の幸せを手に入れられるかもしれません。」
      お、いいねぇ。散人さんは今もバリバリ現役でご活躍ですが、もうちょっと待っててください。
      追伸:古賀くんへ。古地図に島原半島を横断する道を見つけたことから始まる、推理小説的端末はこちら。

      • 散人さんのコメント
        診断しました。60歳以降です。今私は68歳です。
        そりゃ才能のない私は、20代から50歳までは必死(自分なり)で生きてきました。この生き馬の目を抜くような競争社会でなんとかオマンマを食うていくにことは大変なことでありますし、女(失礼)にかまけている余裕はありませんでした
        まれに女性が出来ても手前の事が頭の中から消えず、相手の悩み心情は所詮上の空で聞いてたのであります。これが「愛」だったのかと云えばそうではなかったのです。西洋では至上の愛はマリアのキリストへの思いだと云われているそうで、無償の愛という訳で、とてもその心境には到達できませんが、不出来な散人も60過ぎて片鱗らしきものが出てきました。唯々「聞いてあげる」、仕事の愚痴、子育ての愚痴、などを聞いてあげる、ことです。
        今の方は45歳で、無理していたら親子の年齢差であります。どうせお付き合いするなら美人がいいので美人です。ですが二人の高校生を持っているので、仕事と養育で日々キリキリと神経を尖らしています。常時熱いトタン屋根みたいな人で、うっかり触ると火傷しような人で、軍手をはめ、そろりと用心しないといけません。が努力?の甲斐ありで、一年で屋根の一部が素手で触れるようになりました。あとはゆっくりと面積を増やしていくだけです。

      • ryujiさんのコメント
        まつをサンと一緒でした。 が、実際のモテキは40才前後...小説か漫画のようにモテました。 今は「金の無いジジーは絶対にモテない」と信じて、女性に近付きません。 もっぱら酒とゴルフ(仕事絡み)の日々です。



         

         

         

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    Plofile まつを


    デザイナー。長崎市・島原市との多拠点生活化。人生を楽しむ。仕事を楽しむ。人に役立つことを楽しむ。座右の銘は荘子の「逍遙遊」。↓これは私の作品たち。

    「よくこんな事をする時間がありますね」とおたずねになる方がいらっしゃいます。こう考えていただければ幸いです。パチンコ好きは「今日は疲れたから、パチンコはやめ」とは思わないもの。寸暇を惜しんでパチンコ玉を回します。テレビ好きも、疲れているときこそテレビをつけるもの。ここにアップしたものは、私が疲れたときテレビのスイッチを押すように作っていったコンテンツです。