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2017年11月



2017_11_30

多以良ガネさん祝賀会


改めて見直しました、多以良ガネさんの姿勢。

「道徳なき経済は罪悪であり 経済なき道徳は寝言である」

昨夜、多以良ガネさんのお祝いがありました。厚生労働大臣表彰を受賞された祝いの会です。出席者は300人超。
第1に、「道徳なき経済は罪悪であり 経済なき道徳は寝言である」という二宮尊徳の言葉を引いて、偽善美に陥りやすいテーマを大舞台で実直に語った氏の態度は見事でした。
第2に、大宴会がはけた後、散人さんの馴染みの店で片手ほどの人数で呑んでいたのですが、氏は駆けつけ、この場こそホームと安らいでくれていました。
思うがままに生きようとする多以良ガネさんと散人さん、これからも社会の虚飾を剥ぎ取っていってください。

 

2017_11_29

メッセージ

今年最高の映画作品を観ました。『メッセージ』。ブレードランナーの監督ドゥニ・ヴィルヌーヴの前作を観てみようという軽い気持ちで見始めたのですが、完全に心奪われました。なんというエレガントな作品でしょう。

 

2017_11_28

迎仙閣の紅葉


近年、長崎市内の紅葉の名所として知られてきた迎仙閣の庭を拝見してきました。


予想していたよりも広い庭園に驚きつつ周遊。室内では宴席が行われている気配。

これぞブランディング。無料開放によって画像が拡散され、庭園の名が上がり、引いては所有する企業の名も上がります。長崎県美術館が鴨井玲などの所有作品を前向きには画像公開しないことが、いかにマイナスになっていることか。

 

2017_11_27

出島表門橋


完成なった出島表門橋。訪ねてまいりました。実に美しい橋。
昨年夏でしたか、もんのすごい暑い一日が終わろうとする頃に小島くんから電話が。夕刻、彼が我が家に連れてきてくれたのが出島表門橋を設計したNey & Partners Japanの代表 渡邉竜一さんでした。桁外れに気さくな方。
出島表門橋の出島側は国指定史跡なため、地面を掘って橋台を設置することができない。そこで出島側は置いたような構造になっている(写真参照)等といった話を聞かせていただいた思い出が。

 

2017_11_24

旧本田家住宅


県下最古の民家が長崎市の古賀にある。そう聞いて行ってみました。
近所で場所を訪ね、山中に入りこみ、途方に暮れていたその時、振り返ると藁屋根が見えました。いやはや、分かりにくい場所です。人の気配なく指定重要文化財ですが、ゆっくりと見学できました。 本田家はこの地方の中堅層農家で、建設年代は十八世紀初頭。町人長屋の屋根の多くが板葺きであった頃、農家は保温性の高い藁葺きであったことに改めて感慨。「おうえ」と呼ばれる囲炉裏の間の床が、竹スノコだったことには驚きました。
長崎市中里町1478番地。

 

2017_11_23

司馬遼太郎に曲げられた歴史観

日本人の歴史観は、NHK大河ドラマと司馬遼太郎の小説でできている

・多くの日本人の歴史観は、NHK大河ドラマと司馬遼太郎の小説でできている。
・司馬は天才主義である。歴史は天才によって動くとする。
・彼は明治をよしとし、昭和を悪とした。
・これが日本戦後の屈辱史観を広げた。

司馬遼太郎は、歴史は天才によって動くとする

  • 散人さんのコメント

    司馬遼太郎は小説家である。殆どの胡乱な国民は、司馬史観に決定的に影響を受けた。高度成長期に司馬の天才主義的で、主体主義的な歴史観が中間管理職に拍手を持って受け入れられた。
    司馬は、英雄は描くが民衆は描かない。全ての決断は英雄たちに帰結されるという天才主義。歴史は一人の天才で動くという司馬の歴史観は、一人では絶対に動かない文化や経済が軽視される。高度経済成長期が終わった今、歴史小説は徹底して下級武士や庶民を描く藤沢周平や池波正太郎に移った。

    ヒットラーや日本陸軍だけを悪者にする考えはもう止めにすべきだと思う。大戦は、一個人や一組織の責めにするような単純な事柄ではない。それは多分に司馬遼太郎のような作家の言説に影響されたと云える。

    今日殆どのマスコミが伝えないことがある。それはマッカーサー証言である。
    「日本の戦争は自衛戦争である」
    彼は、昭和26年5月、米上院議会 軍事会合委員会にて、そう云い切った。 今日なぜ、広くこの証言を知らしめようとしないのかが戦後日本の病巣である。今日の「全て日本が悪るうございました」という屈辱史観を広く宣伝したのが、司馬遼太郎である。

    1.日本人の歴史観は司馬遼太郎によって形作られた。司馬本を読むと分ったような気になる。これがいけない。2.司馬作品の勘違い、作為、を明確に指摘する評論家がいなかった。3.「明るい明治」と「暗い昭和」という単純な二項対立史観。
    で当時は大出版社全盛時代で司馬批判はタブーであった。現在は書店に頼らずネット販売の時代、版元も群雄割拠の時代になり司馬批判書も出てくるようになった。

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    2017_11_22

    伊藤博文

    伊藤博文らは若い頃テロリストである

    ・維新の志士たちはその初期にはテロリスト的に動いた者もいた。
    ・現代は、過去の病質で成り立っているのかもしれない。
    ・伊藤博文は知の政治家で偉大であった。
    ・明治の政治家には志がある。

    維新の志士たちはその初期にはテロリスト的に動いた者もいた

  • 散人さんのコメント

    『明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織著。吉田松陰は単なるテロリストとかつて私は書いたが、やはり出版された。第一に、松下村塾も玉木文之進なる人物が造ったのであって、松蔭は塾頭に過ぎない。松下村塾の塾生たちは今のイスラム国のようなテロリスト集団。当初は攘夷と云っているが、イギリスあたりに大砲を打ち込まれると一転して、イギリスを後ろ盾にして、近代という名の欧州隷属国家を造り上げた。

    西郷のテロ集団について。薩長の幕府打倒計画は、将軍慶喜の大政奉還という策で頓挫するかに見えたが、西郷はあくまでも幕府打倒に固執し、赤報隊というテロ集団を江戸に送った。赤報隊は江戸において、旗本・御家人を中心する幕臣や佐幕派諸藩を挑発することが目的。挑発といえば聞こえがいいが、あからさまに云えば放火・略奪・強姦・強殺である。倫理観の強かった江戸社会において、最も罪の重かった蛮行を繰り返した(出典:『明治維新という過ち』P.56~57)。

    明治維新の英雄というのは相当人を殺しているわけで、伊藤博文なども何人かは殺している。が、高杉や木戸(桂小五郎)や西郷、大久保も。みな死んで幸いというか、浮かび上がった人物たち。出自は分からない人間だ。ボナパルトもよく分からない。秀吉も。淀んだ社会というのは、世襲で継ぐ世の中。
    やはり何処の馬の骨か分からない伊藤博文が日本の近代をリードしたということは、凄いことだと私は思っている。彼が初代総理になった要因には、英語が話せたということもあるそうで、凄いではないか。勝、西郷よりも伊藤が凄いと思っている。

    『政治的リーダーと文化』の中で瀧井一博は、伊藤博文を「知」の政治家だったという。当時の伊藤に近い人の証言などを集め「洋書や英字新聞を読んでいた」等、伊藤の「知」の部分を実証していく。

    伊藤博文は、欧州遊学でかの国が民衆統治に「キリスト教」を利用していることに注目した。そこで帰国後、天皇を現人神に祭り、日本独自の「天皇制」を制定した。 民主主義は政治体制とは異なる思想である。であるから民衆を抑止する「精神」が必要。欧州は「キリスト教」を前提に民主主義を定めた。日本は「天皇」を前提に定めた。伊藤博文は其の事に気づいていた。

  • 伊藤博文による韓国近代化政策は、むしろ韓国人自身に評価された

  • 捨老さんのコメント

    現代は、過去の病質で成り立っているのかもしれない。明治のテロリズムを正当化する類の歴史解釈が進行したように、その種属の文化記憶がクライマックスを記憶した時点で、進化意識は硬直し、生活様式も化石化する習性を持つのかも知れない。
    例えば、日本人の冬のコタツのように。例えば、イギリスがパックス・ブリタニカに拘泥するように。例えば、ペルーのインディオが山高帽を付け加えた奇妙な習性で停止したように。例えば、蜂や蟻が高度な社会性や巣作りの方式を保ち続けるように。その同属の異端は変革の夢を抱かせはしても、同属としては、絶滅種の類であり病種なのかも知れない。
    見た目には特異な点のないオスミア・アボセッタと言う種の蜂がいて、この蜂は集団性がなく、一匹の幼虫のために、美しい花びらの巣を作ることで知られているが、絶滅寸前種でもある。
    むしろ病を定義づけることよりも、例えば、生命は健康病としてしか、健康のカタチを知らないでいるのかも知れない。

    伊藤博文の暗殺によって軍制を敷かざるを得なくなった日本政府であったが、それまでの伊藤博文による韓国近代化政策は、腐敗しきっていた李氏朝鮮からウリナラ(自分の國)を取り戻す政策として、日本人によりも、むしろ韓国人自身に評価され着々と成果をあげていたことを歴史が示していることを、知る韓国の知識人や一般人は今も多いのである。

  • 維新期に活躍した人々にあった志

  • まつをのコメント

    資料に当たるにつれ、伊藤博文にしろ維新期に活躍した人々は、志というか、心までは飲まれまいぞという姿勢があることを感じます。若き日、伊藤はグラバーの手引きで密留学をしていたのだから、英国のエージェントではないかという私の予想は見事に外れでした。日英同盟に反対しています。当時の世界情勢を考えるとロシアと一戦を交えるなど国際感覚としては危険極まりない。そう伊藤は我が国を憂い行動したのでしょう。 列強のプランに乗りつつ猪突するも、日本を売らないといいますか。どうもそんな手ごたえを感じる事例が多々あります。


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    2017_11_20

    江戸無血開城はパークスの演出

    江戸無血開城が西郷と勝の話し合いで決したとは美談すぎる

  • 散人さんのコメント

    江戸無血開城は、西郷と勝の話し合いで一気に決した美談となっている。しかし実は、時のイギリス公使パークスの強い働きかけで実現した(出典:『勝海舟の真実 剣、誠、書』草森紳一著)。裏の根回し役がいて、新興日本を蚕食しようと企む欧州列国が陰の主役だったとは。

    パークスは幕府軍の後ろ楯であるフランスを嫌っていた。
    と同時に武器商人のグラバーも嫌っていた。グラバーは江戸決戦を望んでいた。単に儲かるからだ。事実、無血開城三年後、グラバー商会は倒産。
    パークスは、英国の公式外交機関の長であるから、真っ当な近代国に日本を仕立て上げようとしたのは事実であり、恭順の意を表している慶喜将軍を極刑にしてはいけない、と西郷を諭したようだ。


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    2017_11_19

    坂本龍馬の虚像

    龍馬はスパイ的武器ブローカー

    ・龍馬はスパイ的武器ブローカー。グラバー、土佐藩・幕府、薩長のトリプルパシリ。
    ・彼は無名であった。
    ・土佐新聞の小説『汗血千里の駒』で有名に。これは薩長に対抗する土佐の企画。
    ・これをさらに司馬遼太郎がパクった。
    ・船中八策はアーネスト・サトウの受け売り。

    スパイ的武器ブローカー。これが龍馬。武器商人グラバーから受ける、日本人ブローカー組織が龍馬の亀山社中。亀山社中の初仕事は、グラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺を薩摩藩名義で購入し、長州藩にまわしたこと。
    しかしそれは帳簿上のことだろう。薩摩藩は海洋藩。グラバー商会と話がつけば、薩摩藩島嶼部で外国船と接触し密貿易した亀山社中が、武器を長州藩に運搬した可能性も拭えない。

    坂本龍馬トリプルエージェント説

  • じだらくさんのコメント
    坂本龍馬トリプルエージェント説というのがあります。
    土佐脱藩浪士ということで、幕臣の勝海舟のもとで情報の収集にあたる。
    幕府側もそれを承知で土佐藩及び諸藩の情報を得る。
    そこにイギリスが加わるということで龍馬トリプルエージェントという具合です。
    ですから龍馬は単にグラバーのパシリというわけでなく、土佐藩や幕府・薩長のパシリでもあったと私は思います。まあ、いいように利用されて多くを知りすぎたために、殺されたといったところではないでしょうか。
    死んだ後、土佐藩の連中が坂本龍馬を持ち上げたというのには、日本海海戦の前、明治の皇后陛下の夢枕に坂本龍馬が現れたということを意図的に流したということなどもあるようです。
  • 土佐の自由民権派が坂本龍馬像をつくった

  • 捨老さんのコメント
    土佐に自由民権派の機関紙として「土陽新聞(後の土佐新聞)」があったが、明治16年に一般に購読させるための刷新をはかり増刷した。その時の一般読者向けの目玉掲載が、坂崎紫瀾の小説『汗血千里の駒』だった。
    東西に走り回る竜馬伝の骨格は、このころすでに出来上がり、維新以降、影の薄かった土佐派を鼓舞する狙いがあったようだ。勿論、坂崎紫瀾も民権思想家であり運動家だったから、掲載の途中で不敬罪などで受牢しており、掲載も中断したこともある。それまでは竜馬は、日本中の誰も、土佐人でさえも知らない人物だったと断言できる。
    武器商人の手先として、半ばスパイ忍者もどきに行動していた人物を、人が記憶するはずがない。事実、志士たちの中でも知らない者がほとんどだった。したがって彼に関する書簡や文献も捏造が多い。以降、志士の誰よりも創作物語の多い人物となっていくが、これは子飼いの書生に自分の伝記を書かせて以降、清水の次郎長が有名になって行く時期に重なっている。
    中岡慎太郎とも親交のあったと言う次郎長が、よくぞ竜馬伝に登場しないものだと、時には不思議にもなる。「皇后の夢枕」の話が事実かどうかは知らないが、宮内大臣だった田中光顕が喧伝に一役買ったことは疑えない。
    このことは、司馬遼太郎も知っていたはずで、今頃、草葉の陰で冷汗でもかいているのではなかろうか(笑。<
  • 坂本龍馬にしがみつくのは成熟拒否の表れ

  • 散人さんのコメント
    龍馬の「船中八策」は英国のアーネスト・サトウの受け売りである。
    「坂本龍馬にしがみつくのは成熟拒否の表れ」と、同じ土佐高知出身の精神科医野田正彰氏は云う。
    龍馬は青春そのものです。同じ土佐でも岩崎弥太郎にはそんなイメージは抱かない。人は年齢を重ねるごとに成熟していかないといけないのに、青春像にしがみつくのは、申し訳ないが、人格的に未熟だからです。

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    2017_11_18

    国家転覆の現地黒幕グラバー

    グラバーは死の商人

    ・グラバーは死の商人。
    ・反幕府と、幕府の双方に商売していた節操の無い商人である。
    ・彼は明治維新の戦闘長期化を願っていた。
    ・彼はロスチャイルドのジャーディン・マセソン商会の傘下にあった。
    ・イギリス政府は当時、私的経済活動を黙認していた。

    グラバー自身が「徳川幕府の謀反人のなかでも自分が最大の謀反人だ」と云っている

  • 散人さんのコメント

    歴史的建造物としての「グラバー邸」は評価できるが、グラバー自身はとんでもない「武器商人」だった。いいかげん長崎の人も気づいたら、と思う。

    後年グラバーは「徳川幕府の謀反人のなかでも自分が最大の謀反人だ」と云った。

    1865年、坂本龍馬の亀山社中の仲介で、長州藩が薩摩名義で武器を輸入することとなり、反目していた両藩が急速に近づくきっかけとなった。背後にはグラバーがいた。グラバーの真骨頂は、反幕府と取引する一方で、水面下では幕府とも取引をしていたことである。二重取引である。節操の無さを絵に描いたような商人であった。

    1868年、グラバーの手元には、一日にして紙くず同然となった各藩の約束手形、山と積まれた無用の銃、弾薬、黒色火薬が残った。もっと長期戦を目論んでいた。
    1870年、ジャーデン・マセソン商会へのグラバーの債務は膨れ上がり倒産した。

    グラバー商会は倒産するまでに、艦船輸入、薩摩6隻、熊本藩4隻、幕府・佐賀・長州4隻、宇和島その他5隻、計24隻を売った。他商社を圧倒する数。しかし新造船は僅か。殆どがアメリカ南北戦争終了(1865年)で使い道のなくなった艦船。マセソン商会のある上海に集まってきていた。それを日本に回した。

    幕末のイギリスの外交政策は、植民地化ではなく、貿易の発展のみを求める小英国主義。英国公使パークスも、グラバーの商取引の大部分が禁止された密貿易であることを知り、嫌いながらも事実上黙認してきた(鳴門教育大学紀要参考)。

  • 幕末、長崎こそが日本へのキリ穴だった

  • まつをのコメント
    ジャーディン・マセソン商会……英国ロスチャイルド傘下の英国商社。1832年設立。金儲けのために中国人をヤク中にしていた会社。アヘン戦争は、この会社が政府をけしかけ起こした。なお香港上海銀行は、こうして稼いだ金を本国に送るために設立した銀行。
    グラバー……ジャーディン・マセソン商会の長崎代理人。武器弾薬の販売を手がける。
    坂本龍馬……グラバーに接触していたブローカー。武器弾薬の販売を手がける。

    幕末、長崎こそが日本へのキリ穴だったわけです。


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    2017_11_17

    明治維新は関ヶ原の戦いのリベンジマッチ

    来年は明治維新150周年。これを記念し、当サイトでこれまで諸氏によって構築されてきた明治維新観を記します。既存の歴史観を180度転換するものです。

    先進国は江戸幕府に、今でも見られる鉄板的手法を適応しただけです。例えば近年で言えばアフガニスタンなど、鎖国している国を自国の傘下に入れたやりかたです。

    明治維新は関ヶ原の戦いのリベンジマッチ ~反政府的勢力を分析する

    「この国を開かせるには、国内騒乱を起こし、傀儡(かいらい)政権を立てればいい」欧米はそう思いました。そこで、日本の歴史を調べた。その結果分かったことは、関ヶ原の戦いが徳川幕府に反抗した最後の戦いであること。
    (出典:知識の泉)
    じゃあ、反徳川勢力は残っているのか? 残っていたんですねぇ。西軍側。毛利であった長州藩。島津の薩摩藩。そして長宗我部氏旧臣(郷士)との二重構造が幕末まで続いた土佐藩。
    じゃあ、関が原の戦いの復讐戦をさせればいい。敗戦した西軍の生き残りをまとめ幕府にぶつける。明治維新は関ヶ原の戦いのリベンジマッチとして企画されました。

    グラバーにやらせたこと ~大量の武器をまく

    グラバーは坂本竜馬をパシリとして使い、長州藩と薩摩藩を結び付け、大量の武器を流しました。彼は南北戦争の中古品の武器を日本に注ぎ込み、内乱をあおったのです。
    英国側は、ジャーディン・マセソン商会 → グラバー → 坂本龍馬他 で倒幕勢力に武器弾薬の販売を手がける。フランスは幕府に武器販売。という図式です。
    グラバーは倒産後、死ななかった龍馬である岩崎弥太郎が作った三菱に重鎮として着任します。

    グラバーにやらせたこと ~反政府的勢力を洗脳する


    1863年、グラバーは伊藤博文、井上馨ら5名の若者をイギリスに密航留学させています。彼らを長州ファイブといいます。伊藤23歳。


    1865年、グラバーは薩摩の若者17名もイギリスに密留学させています。

    彼らは後に国家の要職に就きます。
    1902年1月30日、日英同盟を締結。
    お雇い外国人(1868-1900年)の50.5%がイギリス人。イギリス人4,353人、フランス人1,578人、ドイツ人1,223人、アメリカ人1,213人。他がそれに続く。

    なぜ日本は植民地にならなかったのか ~緩衝地帯として残す

    植民地にならなかったのはアジアでは日本とタイの2国だけ。
    タイはなぜ植民地にならなかったのか。第一の理由は、インドを中心とする英国植民地と、ベトナムを中心とする仏国植民地の緩衝地帯としてタイを残したため。
    日本が植民地にならなかったのは同様の理由。つまり欧米列強の緩衝地帯として日本を残しました。

    「下関事件に関する英仏米蘭四国代表者覚書」

    その証拠が、「下関事件に関する英仏米蘭四国代表者覚書」です。これは1864年、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国代表によって結ばれたもの。その中でこう決められています。「第四、我々は、如何なる領土の割譲も、如何なる独占的利益も、開港場かそうでないかを問わず、日本に要求せず、日本から受入れしないことに同意する。」


     

    2017_11_15

    髪型は大事だな

    一部世間で話題になっていたショット。
    これ、トランプ大統領のヘアスタイルを画像処理で変えてみたもの。えらく温厚な知性派に見えるじゃないかと。

    でもね、忘れちゃいけません。あの髪型を選んでいるのはトランプ自身。ああいう風に見られたい人物だということです。

     

    2017_11_14

    サイコパス


    サイコパスは心理学学術用語。なぜマスコミは使わない

  • 散人さんのコメント
    座間の痛ましい9人殺し。
    各ワイドショーでは、バカ芸能人を始めとする素人集団が、得て勝ってな分析(当て推量?)を行っているらしい。曰くアニメの影響、曰く幼少期の両親の離婚が原因、などと根拠のないことを云ってるらしい。らしいというのは、私はこのクソ番組なんか見もしないのだけど、築波大の精神科の専門医がある雜誌に以下を書いていた。
    これは完全にサイコパスの犯行であるが、あるテレビ局ではこの文言を使わないでくれと言われた、と。
    どうもマスコミは精神障害に関して、過度に抑制的である。あの相模原事件(19人殺し)も、今やその動向が分からない。実を言えば今でも裁判が開けないでいるのだ。
    サイコパスというのは心理学のれっきとした学術用語である。これの何を恐れているのかマスコミは使わないどころか、バカ芸能人達にお門違いの憶測を垂流させている。
    DSMICDでの精神疾患分類では「反社会的パーソナリティ障害」としている。
  • 「賢いサイコパス」と「愚かなサイコパス」

  • じだらくさんのコメント
    橘玲という人が書いた『言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)という本の中に、「賢いサイコパス」と「愚かなサイコパス」という記述が出てきます。「愚かなサイコパス」は事件が起きるとその存在が明るみになるのでしょうが、賢いサイコパスは周りも気づかないんでしょうね……。ひょっとしたら知らないだけで、自分自身サイコパスってこともあるんでしょうか?
  • 個性重視はサイコパスを可視化できなくする

  • 散人さんのコメント
    個性重視の昨今は、今回の件を巻き起こす危険な傾向にあると思っている。
    個性は「個別」とも言うが、対義語は「普遍」であろう。学問等はこの「普遍性」を追求してきた営為の所産である。がしかし近頃の世の中は「個性重視」ばかり唱える。年端もいかない子どもたちに「個性」を求める。変な話である。今はもっと進んで個性が巷に溢れ過ぎ「多様性」を認知せよとなった。だから「サイコパス」も多様性の群れに紛れてしまったのだ。
    これは「知性」の敗北と云える。
    「こんな仕事、私らしくない」と一月で辞める人間。「自分は普通の人と違う」と根拠のない自信を持つ輩。しかし彼ら彼女らは個性と個性がぶっつかると面倒なことになるのを分かっているので「論争」を避ける。妙に物分りのいい若者が巷に充満する。
    個性重視はサイコパスを可視化できなくする。残念!
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    2017_11_12

    ウソのような血圧治療法

    ハンドグリップ法は降圧薬に匹敵するくらいの効果あり

    ハンドグリップ法。4週間続けるとOK。降圧薬に匹敵するくらいの効果が期待できるとの声も。方法は次のとおり。

    • フェイスタオルを折ったものを丸めて握る。ポイントは親指と他の指がくっつかないこと。
    • 1回2分を左右2回ずつ、合計4回行う。
    • これを1日おきに4週間続ける。
    (出典:NHKスペシャル「血圧サージが危ない」

    米国心臓学会の研究チームが、過去の治療法を分析した結果、効果を認めたのはたった2つだけ。一つが、ウオーキングなどの有酸素運動。もう一つがこのハンドグリップ法。ハンドグリップ法の原理は、ものを握ると、脳は血圧上昇と判断し交感神経を抑えていくというものだそうです。


      なるほど昔は木刀の素振りが健康法の一つ

    • しんのじさんのコメント
      なるほど、血圧と交感神経系とシンプルな動作とに密接な関係がある、と。大変興味深い情報です。
      個人的にも、この夏は忙しさにかこつけて自転車をサボっていましたが、自転車にしばらく続けて乗っていると、血圧や体重のコントロールがとてもスムーズにいく理由が、有酸素運動だけでなかったことになるかもしれません。
      また、僕は出来ていませんが、ひと昔前は木刀の素振りが健康法の一つとして各地でよく行われていたと思います。これもあるいは「握る」という動作で交感神経系のコントロールをすることが、心身鍛錬と相乗効果があっていたりするのかもしれませんね。
      残念ながら、最近では安心して木刀を振るえる場所も少なくなっています。少なくとも朝晩に振っていれば、不審者に思われ、通報されるリスクや、もちろん他の利用者に危害を与えてしまうリスクもゼロではないですし、難しいところです。

     

    2017_11_10

    スタイルは大切

    上の文章。ひらがな表記の場合よりも、すっと頭に入ってきませんね。私たちの思考が、いかにスタイルによって規定されているかが分かります。

     

    2017_11_09

    海洋国家と陸上国家

    (出典:スタンフォード大学のORBISプロジェクト)

    かつて長距離主要ルートは海路であった

    かつて長距離主要ルートは海路であった。移動をイメージするとき、陸路が最初に浮かぶのはモータリゼーション発達の後の現象である。
    そんなお話を何度も書いてきました。今回もそれ。

    古代ローマも平清盛も海を掌握した

    上図は、古代ローマ帝国で、ローマから移動できた距離を表したものです。海路と陸路の差は歴然。

    最初に武家として覇権を握ったのは平清盛。彼も瀬戸内海を掌握する人物であったからこそ、なせた業。そう考えると有明海を中心としたクニが、古代にあってもおかしくないと考えるのは当為だと思います。

    現在は陸上国家

    逆に、鉄道網や道路網が発達した現在、世界の覇権を握っているのは、アメリカ、ロシア、中国という陸上国家。かつてはオランダやイギリスという海運国家が覇権を握っていた近代との対比が鮮やかです。

     

    2017_11_07

    アメリカ人が仲間、友人、敵と考えている国

    ベスト10に日本は入らず

    (出典:Brilliant Maps)

    アメリカ人が仲間だと思っているベスト10

    1.カナダ
    2.オーストラリア
    3.イギリス
    4.フランス
    5.イタリア
    6.アイルランド
    7.イスラエル
    8.ノルウェー
    9.スウェーデン
    10.ドイツ

    アメリカ人が敵だと思っているワースト10

    1.北朝鮮
    2.イラン
    3.シリア
    4.イラク
    5.アフガニスタン
    6.ロシア
    7.リビア
    8.ソマリア
    9.パキスタン
    10.パレスチナ

     

    2017_11_05

    私のデザイン

    今年の私の仕事の一つ。
    デザイナーというのは、クライアントの理解のもとに成り立つお仕事です。

     

    2017_11_04

    新宿コマ劇場


    昭和31年 新宿コマ劇場の内部


  • 散人さんのコメント

      私は新宿コマ劇場に配属されていた

      涙が出ます。懐かしいです。1972年(S47年)の春入社し、半年の研修の後、新宿コマ劇場に配属された。理由は田舎者でも歌手相手は務まるだろう、だった。当時は演歌全盛時代で、美空ひばり、江利チエミ、島倉千代子、北島三郎、 橋幸夫、村田英雄、でショウと芝居の二本立て興行、あと半年は東京喜劇(フランキー堺、益田きいとん、有島一郎、由利透、など)とジャズシンガーを呼んでコマダンスングチームとのレビュー、が基本だった。
      客席数は2000人の劇場で月昼夜50回公演。週休二日でもなく残業代は基本給の三割増しで打ち切り、今ならブラック企業であるが当時はそれが当たり前だった。上司にバカッ!と怒鳴られながら日々働いていた。舞台が跳ねると若いもの同士で安居酒屋に行くのが日課で、誰かが「こんな楽しい仕事でボーナスまで出る」と云ったら「そうだ、そうだ」になった。そのうち世間常識から外れていくのだが毎日楽しかったのだ。

      小林一三はコマ劇場を造り3か月後死去した


      2015年9月にNHKが日本の「経世済民の男」のドラマを放送した。三人の男たちのドラマだ。高橋是清、小林一三、松永安左衛門である。

      小林一三が大阪梅田と東京新宿に「コマ劇場」を造った。主演は阿部サダヲ。副題は「夢とそろばん」。一三は晩年「国民演劇育成」が悲願だった。その実践として大阪東京のコマ劇場建設であったが、東宝の部下たちは大反対した。一三は社長を辞してまで両劇場の建設に拘った。自らギリシャに赴き、劇場をギリシャの劇場様式を取り入れた。

      1956年(S31年)コマ劇場が開設した。一三は多くの招待客の前で晴れ晴れとした表情であいさつした。一三、最後の夢が達成した瞬間である。その三か月後、一三は死去した。

      私はですね、一三の思いを考えれば、安易に人様のお金で地方ごときが「劇場」を造るのに腹がたつのです。一三は自腹ですよ。背水の陣です。「夢とそろばん」の社是を徹底的に叩き込まれました。「経済なき夢は幻である」!

      小林一三は「乗客は電車が創造する」と言って、鉄道とデパートと住宅開発と娯楽施設で関西文化を作ってしまった。更にすごいのは大学を誘致した。関西学院がそうである。大学を文化と見做したのだ。
      電車が走るところ都市になる。東京圏も遅れて、根津の東武、堤の西武、五島の東急、利行兄弟の小田急と京王、と。みな小林の弟子みたいなものである。

     




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    生きてることを楽しもう。座右の銘は荘子の「逍遙遊」。長崎市・島原市との多拠点生活。

    「よくこんな事をする時間がありますね」とおたずねになる方がいらっしゃいます。こう考えていただければ幸いです。パチンコ好きは「今日は疲れたから、パチンコはやめ」とは思わないもの。寸暇を惜しんでパチンコ玉を回します。テレビ好きも、疲れているときこそテレビをつけるもの。ここにアップしたものは、私が疲れたときテレビのスイッチを押すように作っていったコンテンツです。