2004年2月
2004_02_28
里山道楽 ウッドデッキづくり
焚き火学会会長さんからの第一報。運搬車両の手配までお世話になり、土曜日を迎える。合掌。
当日。里山に材をおろす車。巨大なロボットの手のようなものが音を立てて動く。手の根元に人間が乗りこんで操作していることがわかる。というわけで今回はヘビメタな遊びだ。
里山に降ろされた材を、ヒイヒイ言いながら分散させる。材を選択して使うためだ。
この材、長いものが長さ2.5m、幅50cm、厚さ20cmで、推定130kg。船の船台に使用されていた部材で、楔形をしている。
これを積み上げた時、面がフラットになるように各ポイントで計算し積む。
こう書くとものすごく簡単なようだが、その作業中に聞かれた会話をお届けしよう。
「わっははは、男の遊びですね」
「くううっ、重くて腸が出そう」
ウッドデッキ完成。ヘビィデューティー。今回のブラザー、川合氏とツルタ氏。多謝。あたたたた。温泉に浸かりリゲインを飲む。
しかしこのウッドデッキは雨に弱く、後に枕木に取り替えることとなる。その作業は3年後となる。
体験してみて理解できること
私は、体験してみてやっと理解できることが多い。たとえば、1国が帝国と呼べるほど絶対的に強くなると、ろくなことはないということとか。これは、身にしみて理解できました。ローマとイエスの登場なども、なるほどこういうことだったのかと推察されます。
2004_02_19すべてがいとおしい
里山であそびはじめてから、1年を俯瞰してみる視点がいつもあるようになりました。また春が来て、青葉が森を彩どり、そしてまた夏が来て。私達は、その周期を数十回くりかえして去って行きます。そう思うと、すべてがいとおしく思えます。
2004_02_15森の中のバー(初期)
あなたは、こんな経験をした事はないだろうか。
携帯が鳴って、久しく会っていない知人が飲みに誘う。夜なら空いているとあなたが応えると、「おもしろいバーがあるんだ。場所は、後で地図をメールで送るから」と相手は告げる。
夜、メールをチェックすると地図が送られてきている。山の中だ。
いぶかしがりながらも、そこへと向かう。夜の9時をまわった頃。指定の場所に着く。約束の相手の車を闇の中に発見。近くに留めて、車の外に出る。月のない夜の漆黒。物音一つしない。見上げると、無数の星が瞬き地球にいることを改めて知る。
森の暗闇の中でライトが動き、「やあやあ」と相手が現れる。で、あなたは相手について、森の中のバーに招かれていくわけだ。
画家と彫刻家
ある夜のゲストは画家の吉田隆氏と彫刻家の野島泉里氏だった。飲み明かす。
吉田隆氏は先般開催した個展の出展作品から、2004年の干支「申」の絵を持って登場。カバノンに飾る。強烈。絵画史的に一回転した作品だ。
野島泉里氏はアメリカから帰って3年目。贅肉を削ぎ落とした端正な作品を生み出す作家だ。西海岸にいたがどうも合わないという。「日本人には東海岸の方が合うと思いますよ。東海岸は刺身、西海岸は中華料理ってとこですかね」
そして立体作品の「おさまり」の話があった。「立体の作品があるでしょ。例えばブランクーシだとかイサム・ノグチなんかも、後ろにまわってみると、そこをざっくりさせたままでいる」「きれいにそこを仕上げるとどうなるの?」「ここをきれいにやっちゃうと、作品が崩れてしまうというか、至難の技で。で、大家たちがざっくりそこをやってるのを見るとホッとするわけです」
吉田隆氏のコメント
年末に、まつをさんの里山に完成した小屋で彫刻家の野島泉里君とまつをさんと3人で飲みながら話したのですが、「この頃私が思うのは、この『世界』というのは個々の人間にとっては、ほんの小さな意識の部分とそれ以外の無意識の部分ということであって、また人それぞれに意識と無意識の境界が違っているということではないだろうか。たとえば絵を描いたり彫刻をつくるという行為というのは、この意識と無意識の境界を、いくらか無意識側に広げようとする行為なのではないかという気がしてきた」といったことを話したんです。つまり人によっては無意識の部分として実際に現実に見えてこない世界が、別の人にとっては意識することのできる世界である部分があるということです。だから、今まで無意識の世界の部分であったことが、何かのきっかけによって意識の世界として認識できる部分になる。私の「世界から見据えられる」という雪浦での感覚も、言ってみればそれまで無意識の部分であった世界が意識できる世界として感じることができるようになった瞬間ということなのかもしれないと思ったわけです。でもそれはほんの少しだけ自分の意識できる世界が広がったというだけで、無意識の広がりとは、いわば無限にあるのだろうし、しかしそれもまた「自分の(無)意識」であることには変わりはないのでしょう。そう考えると、この世界は自己の意識の延長であり、世界のすべてでもあるということなのだと思います。それは仏教の「唯識」につながる考え方なのかもしれません。きっとこの「境界」が世界の果てまで届いて、その境界自体が消滅したときに、時空を超えた自己の意識と一致させて世界全体を自在に動かすことのできる力を得たものを「仏」と呼ぶのだと思ったりもします。