2015年3月
地球外の知的生命体にメッセージ送るな
知的であっても凶暴性は収まらない
地球外へのメッセージを送ることは将来人類を滅ぼす原因となるか否かをめぐりアメリカで論争が起きていると言います(出典)。 球外へのメッセージを送ることに反対している主張者たちは、知的であっても凶暴性は収まらないとしています。ヨーロッパ人によるネイティブアメリカン大殺戮
その例として挙げているのが、ヨーロッパ人によるネイティブアメリカン大殺戮。大航海時代にアメリカ大陸にたどり着いたヨーロッパ人が殺戮を繰り返し、あるいは大陸の人々が抵抗力を持たなかった病原菌をもたらしたこと。説得力があります。
たとえば下は1519年にスペインのコルテスがアステカを征服して以後の、メキシコの人口崩壊(出典)。合掌。
この世界史的出来事を表す語句が必要だ
物事が世間の一般常識になるには、その現象を表す語句が必要です。たとえば「地球温暖化」ですとか「産業革命」ですとか、そんな語句があればそれを思考の核として組んでいけます。そういう意味でまだこの大航海時代に新大陸で起きた大殺戮に用語が付されておらず、あるいは一般的になっていないことは歴史認識上の課題だと思っています。
紙面メディアの死
静かにそして徐々に紙の雑誌の「死」が近づいている
そういえば週刊誌を長いこと読んでことがない。読むと言っても食堂で注文の品を待っている時ぐらいだ。ふと気になって調べてみるとこうなっていた。「雑誌は1990年代に比べると、販売部数、金額ともに半減し、とくに週刊誌の販売部数は3分の1になっている。しかも、この1月の部数を見ると、週刊誌は前年同月比でなんと11.6%減である。」(出典) このエッセイのタイトルは「静かにそして徐々に紙の雑誌の「死」が近づいている」。
新聞はどうなっているのだろう。
(出典)。
バー・カバノン
この春、初開店。
ご来店頂いた皆様方、楽しい一時をありがとうございました。というわけで今回の1ショット。
ベランダのグリーン
ベランダのコンテナに植える背丈程度のグリーンが三代目に交代しました。環境が過酷なのです。
一代目はシマトネリコ。繊細なグリーンで成長も早く大好きでしたが、夏に三日も家を空けると乾燥で弱ってしまいました。防乾対策はしたのですがうまくいきません。
二代目はシュロチク。こいつは乾燥に抜群に強く、夏の暑い日差しをものともしませんでした。けれど冬場の吹き付ける北風には弱い。
三代目。植物はカンノンチク。こいつはベランダ裏に水も与えられることなく放置されていたにも関わらずしっかりした緑を保ち、夏の暑さにも冬の北風にも負けぬ苦労人。ネット上に掲載された植物特性よりもはるかに強い強者です。よくまあ生きながらえたもの。あっぱれ。移植。如何。
『すべては1979年からはじまった』
「本日の朝日新聞書評で見かけたもの。 マスターが解説してくださると嬉しい」というBBSでのお声を受けて解説です。
本文を読んだ訳ではありませんから、その点勘弁を。
近代は、政治的にはフランス革命、経済的には産業革命から始まった
近代はいつから始まったか?それには二つの答えがある。政治的にはフランス革命から始まった。経済的には産業革命から始まった。
まず「政治的にはフランス革命から始まった」について解説。フランス革命によって立ち上がったのは、「平等」という概念であり、この延長上に社会主義もあるとみるのが大きな視点でのとらえかただ。さらに現在当たり前になっている国民国家もここから始まった。国民はフランス革命の際、各地から義勇兵が「ラ・マルセイエーズ」(現在のフランス国歌)を歌い駆けつけたとき発生した。オラが国というわけだ。それまでは王の国だった。さらにそれ以前は神の領土であり教皇の領土であった。
次に「経済的には産業革命から始まった」について解説。産業革命によって立ち上がったのは資本主義であり、「自由」による一層の格差拡大が始まった。それまでは王による重商主義であり、それ以前は教皇体制による封建制度にもとづく荘園制度であった。
と、以上、ヨーロッパ史観に基づく近代。これ自体私は怪しいと思っているけれどそれは置いておこう。欧米人及びその史観で書かれた教科書を採用している日本など多くの国ではそう学んでいる。
1979年から、政治的には「平等」が弱体化し、経済的には金融資本主義が膨張し、グローバリズムが進展した
『すべては1979年からはじまった』に戻る。①鄧小平の改革、②イスラム革命、③サッチャー改革、④法王ヨハネ・パウロ二世のポーランド訪問、⑤ソ連のアフガン侵攻。
①③④⑤は資本主義国家でのリベラリズム劣勢化と、社会主義の終焉につながった。②は政治体制が祖先帰りした。
こうして政治体制で「平等」を支える流れが弱体化へと向かい始めた。一方、経済的に見れば金融資本主義へと進展し、貧富の格差は拡大し始めた。
と同時に世界の経済・情報のグローバリズムは進展し、いよいよ国境の意味を薄めていっている。それは実は国民国家の意味を薄めることになり、国民という概念が薄まっていくことになる。そんな潮流に反発する勢力は発生する。実は戦後に民族自決を叫びながらも、国によっては民族ごとの自決をしているのではなく国民というくくりが通用してきていた。反発勢力は民族自決の主張を強化し始めるだろう。
国民国家の瓦解へ
こうして国民国家が瓦解し始める。近代の世界秩序の単位であった国民国家が瓦解する。こうして人類は新しい世界史の局面に入って行こうとしている。こうして世界は各地でほころび始めている。
車中泊
この写真に出会った時には感動しました。(出典:「超絶!みなとびより」)
前の車S-MXまでは車中泊ができたのですが、現在の車では無理。で、こうした実践者に出会うと嬉しくなります。
この人の装備を説明しますと、簡易な折りたたみビーチチェアーに断熱シートを敷き、その上に極寒用のダウンシェラフと、ゴアテックスのシェラフカバー(ここがポイント)を使用しているでしょう。テントも使わず目だけ外に出して、星を見ながら寝ますと極楽です。私も経験あり。
集団カンニングを支えるインドの保護者
インド東部の学校で集団カンニングが発生。親たちが壁を登り進級試験中の子供にカンニングペーパーを渡す狼藉。受験を禁止された生徒は約500人。地元メディアによれば複数の学校で発生。州教育相は次のように述べています。「政府は不正行為を止めるために何ができるかですって? 彼らを撃つよう政府が命令せよと言うのですか?」(出典)
民度の低さにため息が出ます。教育制度と保護者との価値観のかい離がこれほどのものならば、どのような教育から始めていかねばならないかと考えるとその道程の遠さに眩暈さえ覚えます。
インドで貧しい子どもたちに無償で学習指導する大人
もちろんインドがすべてこのような状態ではないことも知っています。一枚の写真が忘れられません。インド、屋外で近所の貧しい子どもたちを集め無償で学習指導している大人の風景。食い入るように塗装がはげかけた黒板を見つめる子どもたち。学習の根本を見た思いでした。
生きるために学習する
生きるために学習する。ピケティも指摘していますとおり、経済格差を是正する根本的な方法は教育。インドで優秀なプログラマーが多いのは、カースト制が残るこの国で、カーストに関係なく就ける数少ない高収入職業であるからと聞いたことがあります。
卒業式
娘の卒業式。彼女は情報メディアを学ばせていただきました。色彩学、画像処理、そしてカメラ。その彼女が卒業式に臨んだ服装は写真中央下。友人と二人強烈な色彩を楽しんでいたようです。
長崎新聞で長崎アートパーティ
本日の長崎新聞に長崎アートパーティの記事を掲載してもらっています。
「好奇心をそそられて会場を訪ねた」 「作家と来場者が入り混じって創作や表現を語り合う刺激的な催しだった」 と好意的な捉え方をしていただいています。ありがとうございます。次回はもう少し丁寧に対応いたしますね。
長崎アートパーティ終了しました
長崎アートパーティ出展作家
Title: メテオラ Ⅰ、メテオラⅡ、月に梯子を掛けること (金属彫刻)
高4000mm+台座1000×300×300mm×2点、高2400mm×直径400mm×1点
Title: 組曲 (絵画)
高730×幅1820mm キャンバス・油彩
Title: 風景 (写真)
1200×1200mm
Title: LIHIT (インスタレーション)
高2000mm×幅600mm
Title: 勅使 (半立体作品)
S50号(1167mm×1167mm)
Title: 長崎自慢 (漫画原画)
カラー原画A4×8枚、本3冊
Title: Bark (写真)
樹皮を素材とした3点セット(幅2000mm)
Title: 虹の今昔 (彫刻)
白大理石作品(高4000mm+台座)
Title: ステンドグラス巡礼、長崎千夜一夜 (写真)
各タイトル5枚程度
Title: KOJIMAZINE
Title: じゃがメル (パッケージデザイン)
拡大商品パッケージ及びポスターで幅2m
Title: 不思議 、生きる 、一休さんの言葉 (書)
横950mm×縦1900mm×2点。横200mm×縦250mm×1点
Title: 普賢岳火山灰孔雀窯変天目茶碗 (陶芸)
幅125mm×奥125mm×高70mm (天木台170mm×170mm×70mm)
Title: 不識水指 、半使茶碗 (陶芸)
幅220mm×奥220mm×高165mm、幅140mm×奥140mm×高mm
Title: 霧氷象嵌壺 (陶芸)
幅24.5mm×奥24.5mm×高34.5mm
Title: 雛人形 (工芸)
男雛220mm 女雛180mm
Title: まつさき ないぶす わーくしょっぷ (カスタムナイフ)
カスタムナイフ10本程度
Title: 木漏れ日の中 (漫画原画)
原画2ページもの×2額
Title: 光の旅 (絵画)
3点で幅4000m パネルに紙、アクリルエアブラシ
Title: Peinture (被爆70年) (インスタレーション)
材料:アクリル、木、紙。天井からの高2000mm着彩木枠9個による構成。
Title: サントリーニ島 (絵画)
F10号(縦530mm×横455mm)、油彩
ワンフレーズが長い人
思考がずる~んとまるで鼻水のような人
ワンフレーズが長い人が苦手です。具体的には上動画のような方です。話している文章になかなか「。」が付かない人です。思考がアナログっぽく、ずる~んとまるで鼻水のように思考しながら生きていらっしゃるのだろうと思います。決断が苦手でしょうね。たぶん公教育が発達する以前はこんなタイプが今よりも多かったのではないかと想像しています。
岡野雄一さん、「現代思想」に掲載
岡野雄一さんが東京大学に講師で出かけたという話はしばらく前に耳にしていました。驚きました。で、今日驚きついでに、もう一つ驚きの情報が散人さんからもたらされました。
今朝 デスクに着くと定期購読書「現代思想」(あとは芸術新潮)が置いてあった。思想オタクの私は、これが原因で時々酒場で嫌われることではあるのだが、たしかもう40年近く毎月読んでいる。ウンウン唸りながら読んでいる。今月号は「認知症新時代」であった。今の仕事と割と近いので分かり易いか、と目次を見ていくと、なんと!
「母の道しるべ」岡野雄一とあった。52ペイジから54ペイジまで。
岡野さんらしく正直な文章だった。母に寄り添い看取った経緯が綴ってあった。在長崎の人で「現代思想」に寄稿した人は殆どいないのではないだろうか? 快挙だと思う。
ひな祭り
紛争が続く東西ローマ帝国の境
今でも紛争続く
上地図は395年ごろ、つまりローマが東西分割されたころの西ローマ帝国(出典)。この後476年に西ローマ帝国は崩壊します。
この地図の境をご覧いただくと、S改めてお気づきになられることがあるでしょう。
端的に言いますと、今もこの境に沿ってゴタゴタ事が続いているということです。東の端をみますと旧ユーゴ。ボスニア・ヘルツェゴビナとセルビアの紛争は東西ローマ帝国の境で発生しました。
西のイギリスをみますと、昨年独立選挙が実施されたスコットランドとイングランドの境です。
ハプスブルク家跡地は安定
これに比しますと、ヨーロッパ中央は現在比較的安定し、境自体がぼやけています。ここにはかつてオーストリア=ハンガリー帝国がありました。この多民族国家を束ね君臨していたのがハプスブルク家。モーツアルトやクリムトを育んだ洗練された文化の苗床となった世界。
ハプスブルク家が噛んだヨーロッパ・ピクニック計画が東西両ドイツの統合へ
こうした多民族を束ねて広範な地域を目指すというハプスブルク家の基本は現在も活きています。これがはっきり表れたのがベルリンの壁の崩壊の際。あの大きなきっかけの一つにハプスブルク家が噛んでいます。ヨーロッパ・ピクニック計画。ピクニックに行こうと呼びかけ東ドイツ国民の大量亡命を実施してしまった事件です。詳しくはここを読んでいただくこととしましょう。
ハプスブルク家の命脈は現在にまで至り、こんな言葉が残されています。「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」
縁、間、魔、真とは
縁側は、家の内でもあり、家の外でもある
縁側のある生活を経験したことのある者として……。
縁側は、家の内ではない、家の外でもない。いや、これは表現が悪い。縁側は、家の内でもあり、家の外でもある。話をするにしても茶をすするにしても、並んで座ったり、直交した対面であったり。
境界には違いないが、ビタッと、内外を分離するものではなくて、緩やかに曖昧に内部も外部も相互に侵入し漏れ出す領域。だから、対立を避けつつ本音が出て落とし所もおのずと了解される。
座敷での応対では、対面が基本。しかも、机が間を遮っている。話をまとめる、というよりも、話がまとまった形式を演出する場……。幼少期の大人たちの印象を美しく飾ると、そのように思い出す。
境界は異世界人が接合する場であり、神との接合域でもあった
長くなりますが(汗)なるべく 端折って。
>縁側は、家の内でもあり、家の外でもある
お見事な大閑師のご説明であります。
>緩やかに曖昧に内部も外部も相互に侵入し漏れ出す領域
これもまた、鈴木大拙が言う「日本的無分別智」の観念的位地であり、これを真似たような(失礼)河合隼雄が「中空構造」と称する、誠に日本的な精神構造の上に育まれた「縁」でありましょう。しかしこれは、鈴木大拙が言うように仏教や下手なユング学派の説明以前に、日本人が育て上げた感性(鈴木大拙は霊性と呼びます)であったようです。
それが如実に表れるのが日本人の境界(リミナリティ)意識で、「たけなわ」の語にもそれがよく表れています。辞書で「たけなわ」を引けば ほぼ異口同音に漢字「闌・酣」の語を、和語「たけなわ」にこじつけようとするかのような解釈ばかりが目立ちますが、これは本末転倒というべきで、まず何故「たけなわ」に「闌・酣」が当てられたかが問われなければなりません。
まず「闌」は昇日が天頂にさしかかる時を表す字で、昇り詰め あとは下るしかない「境」をあらわします。つまり「間」と同じですが、「酣」もまた壺の中の酒が熟成したことを表す語で、熟成点を過ぎれば しかめっ面される盛衰の境を意味します。
そして和語「たけなわ」は 辞書などで「竹を細く割って縄に綯なったもの」などとされる「竹縄」のことではなく、「竹と繩」を表す語で、ご存知のように地名「四条畷」や「○○畷」と呼ばれる「畷(なわて)」は、「繩手」を意味し、いわゆる注連縄と同類の紙垂を下げた領界の表示ですが、竹と繩が使用されたのです。もともと境界は多くの異世界人が接合する場であるのみならず、神との接合域でもありました。つまり「大体 この辺」と言うわけです(笑)。
今日の日本人は「間」を「中央」と理解する癖を持っているようですが、古くは「間(はし)」と訓まれ、「端・橋」などと同じだったのです。それゆえ 釈尊が弟子にいわれた「世間は変転(ローカ)する故に世間(ローカ)という」の仏教の理念と、漢字「間」が融合し、和語としても定着したことになりますが、仏教以前に 左右上下 東西南北 異世界の端=間にこの世は位地し、自意識の自立にともなって「中央」意識が高くなったものと思われます。
「縁」は 庭を家とは考えない時代の言葉だったのでしょう(笑)。
魔とは、連続性が遮断され、日常と違う方向へと人を誘うこと
魔とは何か? 突然何かの衝動でいけない行動をとることを「魔が差す」という。
捨兄、ご解説をお願いいたします。
私なりに思うに「魔が差す」とは、連続性の日常のなかでポッカリと時間の陥穽(かんせい)、穴っぽこみたいな突然浮かびあがり、連続性が遮断され、日常と違う方向へと人を誘うことだろうと。時間的「間(ま)」がさせること、だと。
だから演劇上では「間は魔に通じる」と云われる。
間が魔に通じる経験
田屋敷酒散人さん、何度も何度も経験があります。
1:先日も、「ここでアクセルを踏んではいけない」と思いつつ、グワァ~っと踏み込んで、右折車輌にドッシン! 幸いにも、ハンドルを切って逃げようとしていたので、モロに衝突することは避けられて、角と角がぶつかり、見た目としては、凹みはわずかでした。その間の自分の視野がどうだったか、今でも思い出せるのですが、現実の風景を見ているような、いつもの視野視界ではなかった。右折車輌見えているにもかかわらず、それがかなり遠方のように感じているのです。
2:全く意図しない大演説をぶったこともあります。対立していた空気が、私の演説で融けてしまい、一気に成立! ただし、私は自分で話していながら、「オレのこの唇と舌は、なにをしゃべっているのだろう」と驚くばかり。
3:幼いときの記憶では、レース編みの針を、(ホレ、レース編みの針ってのは、鉤状になっているでしょうが!)「これを突き刺すとどうなるだろう」と、一心に編んでいる叔母の膝に突き刺しました!! おそらく、そのときの私の眼は、ほんとうに、点、になっていて、どこに焦点を向けているのか、わからないような目になっていただろう、と推測しています。
4:まだまだ、あります。このBarが開設直後の頃、とまらない書き込み……
ああ、もう止めます。コワイ。ユング心理学的には、人格が、影から乗っ取られる、というのでしょう。
「間・魔=マ」訓は日本史形成の重要な秘密を持った語か
>間は魔に通じると云われる
ご指摘 さすが! 調子にのって喋らせて頂くと この「間・魔=マ」訓は、倭語が和語となる段階で入り込んだ新語(といっても古いですが 笑)のようで、日本史形成の重要な秘密を持った語のようにも思えます。
と言うのは、古事記の「狭蠅(さばへ)=五月蠅」と言う表現を、日本書紀が初めて「魔(マ)」を使用して、「左魔倍」と表現し「さばへ」と訓せているからです。しかし これをよく見ると「左倍」で「さばへ」と訓める字なのです。つまり何らかの意図(悪意の混入)あって、日本書紀記述者が「魔」の字を挿入した観が否めません。やがて後に「五月蠅」は「うるさい」に当てられることになります。
ともあれ、真実の「真」の字も「マ」と訓まれるようになりますが、「真」は本来「ミ・サネ~サナ」であり「実」と同格であったと思われます。
「マ」は「重要事を曖昧」にするにはとても便利な日本語でありますが、長く成り過ぎますのでこのへんで(笑)。
注意を要するのは「ユングの心理学」と「ユング学派」は全く別のもので、それは日蓮の教えが日蓮宗とは全く別であることと同じで、今日では孔子語と孔子家語の区別さえしない人も多く目にします(笑)。マホメットの教えがISIに変ずるような危険性すら孕んでいると言えば大袈裟でしょうか。
人生は多くの「間または魔」で取り囲まれている
再び「ま」について。人生は多くの「間または魔」で取り囲まれている。「時間・空間・世間・人間」これらは全て「間・魔」が付いている。これらを意識しない人生を「間抜け」という。
劇聖、世阿弥は「芸と芸の間」を至芸、といった。
秘すれば華
ま、ま。秘すれば華 秘せざれば華なるべからず。……ですね(笑)。