2010年5月
インタビューアップ鰻家小にょろさん
FMしまばらパーソナリティ 鰻家小にょろさんへのインタビューをアップしました。
キャンプ場をつくる
今でこそ山を買って自分好みのキャンプ場をつくりあげていく人の話を見かけるようになりましたが、私が購入した時はまだそんなことが採り上げられていませんでした。親族筋から購入の話があって手に入れ、その土地を長いこと放置していました。
ある日、樹々の中を歩いて土の柔らかさに驚き魅了されました。そしてキャンプ場づくりが始まりました。多くの友人の力を借りました。合掌。
2001年5月。枕木ステージが作られるあたりです。この年の2月に里山道楽開始。テントを持ち込み、木製ケーブルドラムを机がわりにしてキャンプを楽しんでいました。まだ地面がむき出しですね。私の土地にはヒノキが立ち並んで雑木がない状態でした。現在の様々な雑木は私が一つ一つ移植したものです。
2001年10月。来ました、枕木ステージ。現在でも最も長く重い枕木は1年目にやってきているんです。早岐から大型クレーン車をチャーターして運びました。今のスタイルの原型が伺われ始めてますね。人間って水平な土地が大好きなんです。
2001年12月、休暇小屋カバノンに取り掛かります。写真は建設予定地にロープを張ってみているところ。これはキャンプで雨に降られた時の惨めさを体験した人なら分かるはず。雨が降ろうとへっちゃらな小屋が欲しくなるんです。
2002年6月、本格的な取り掛かり。半年間、四隅の木を埋め立てるための竪穴を掘っていました。これがね、もう大変な仕事。土台となる木組みにはプロの指導もいただきました。
2003年12月、約2年の歳月を経てカバノン完成。6畳の小さな建物です。
2004年2月、デッキ製作。先に完成していた枕木ステージとは別に、カバノン前につくり始めました。このときは枕木ではなく船底板を使ってました。
2009年3月、119本の枕木を長崎電気軌道から入手し大型クレーン車に山盛りにして運びました。昔の長崎市のチンチン電車の枕木の一部は今ここにあります。枕木でカバノン前のデッキと、昔つくっていた枕木ステージをつなぎ始めました。
2009年5月、回廊でデッキと枕木ステージがつながれずいぶんワイドになりました。周りの木々も茂ってきました。雑木の数もだいぶん増やし育ちました。2010年5月に枕木を使い切ってデッキ完成。
お世話になった方々、本当にありがとうございます。
インタビューアップ シンさん
長崎インターネットラジオに、ウクレレプレイヤー シンさんのインタビューをアップしました。
里山新緑祭
私たちが生きている意味は、行動のあとについてくる。
籠もりきってノートに書き出す人生論など、クソくらえだ。
若き日、人生をしきりに振り返りたがる時期があった。そんな時間は必要だろう。
そんなこんなの後に、気づけばいい。循環しない血も知も腐敗するのだと。
外へ出よう。己の理念の外へ出よう。次の私は、昨日にはいない。
ゴールデンウィークの巷の喧騒を遠く離れ里山へ。
夕暮れ。皆さん方が徐々にお集まりになり、いつの間にか飲み始め、焚き火が燃え始め、語らいが始まり、呼吸が徐々にゆったりしたものになっていく。
それを支えていただいた我らがシェフ、しんのじさんと機械屋さん。一般のキャンプレベルをはるかに超えた装備に、一般の調理技術をはるかに超えた二人のシェフの腕前。
機械屋さんプレゼンツ……実に美味しい様々な風味を持ったビール。日本でこのレベルの燻製はなかなか食べられないのではないかと思えるいい風味と香りのスモークチキン、カキ燻製のオリーブ油漬け。特製大型グリルによる焼きガキや手羽、豚バラ焼き、玉ネギ、新ジャガ焼き。
しんのじさんプレゼンツ……うーさんご提供のイノシシ。このブロックから厚めにスライスし、ニンニク&ショウガとミリン醤油に漬け込み網焼き。さらに厚めに切り出し、パプリカ&自家製ガラムマサラ&ヨーグルトに漬け込み、フライパンで焼いてタンドリーワイルドピッグ。この脂と肉汁とスパイスに、美味しいトマト缶、1時間炒めた玉ネギと合わせ、シンプル&ディープなカレー。
ワイン各種。ワイングラスに注ぎ語らい飲む。
今回のご参加は、到着順に、機械屋さん、焚き火さん、yo3さん、thomさん、しんのじさん、シバタさん、山本さん、散人さん、ケンちゃん。
里山のテーブルで飲む。焚き火を囲み飲む。中心点のないゆったりした気ままな場。互いが互いの楽しめることをして過ごす夜。
うまい酒、うまい料理、極上の会話、森の中に映し出される映画、音楽、心許せる方々と焚き火。そして見上げれば満天の星。
結局、夕方4時ぐらいから深夜12時あたりまで、ディープな大人の野遊び時間。
山下清展
家人と美術館。彼が残したセリフにふきだす。ヨーロッパの屋外彫刻を観て、「ボクたちはパンツはかなかったら恥ずかしくてしょうがないのに、彫刻になったらどうしてパンツはかなくて恥ずかしくないんだろう」
長崎である人が「私は山下さんに毛の生えたようなもんです」と言うのを聞いて、「ボクはおとなだから毛はもういっぱい生えているのに、もっと毛をはやしたらこの人みたいになるんだろうか。言ってることがわからない」
インタビューアップ長谷川武雄さん
長崎インターネットラジオに、元日本デザインクラフト協会会長の長谷川武雄さんのインタビューをアップしました。
猪原先生 釣り御指南実録
「朝の5時に僕の家に来るように」と師はのたもうた
確かに猪原先生は、のたもうたのである。「ダメ。朝の5時に僕の家に来るように」
私の「じゃあ猪原先生、明日の朝5時に起きてこちらに伺い釣り場に向かうということで」という言葉に対し、先生は毅然と私たちを見やりのたもうた。
その日、私と息子トモスケは釣り道に精通されると聞き及ぶ猪原先生のところに出向き教えを請うた。出かける前「先生の前では、伸ばした中指をズボン側線に沿わせ、背筋を伸ばし90度に上体を折って挨拶すべし」と息子に言い渡した。息子も猪原先生の偉大さを理解しこれによく応え、整然と親子共々先生の前、深々と頭を垂れたのである。
秘伝の絶対釣れる撒き餌の伝授
猪原先生は快くこれを受け、一枚のメモを渡し、「これが秘伝の絶対釣れる撒き餌の調合。買ってくるように」と命ぜられた。「浮き釣りを教授したい」「先生、まだ息子は初心者のペエペエ。よければ数で楽しむアジゴでも」
「それでは私が出かける意味はない」
「ははっ!」
ということで店に走り、四千円弱を投入し餌を入手してきた私たち親子に、先生はのたもうたのである。
「ダメ。朝の5時に僕の家に来るように」
寝てやがった
翌朝4時50分、まだ日も昇らぬ漆黒の闇の中、私と息子は息を殺して、先生のお宅前でお姿を待った。ご尊宅の小窓からは、ほのかな光が漏れているようにも見受けられる。はたして5時、猪原先生のお姿は見えなかった。すわ一大事、ご病気では。恐る恐る携帯電話を鳴らす。電話に出るや猪原先生はこう発せられた。「どこ居ると?」
……寝てやがった。
叩いたろうか。
全然釣れぬ、哀れなほど釣れぬ
ということで、釣り場へ向かう。
秘伝の調合を伝えられる猪原大先生。
ご指導のもと、撒き餌を放つトモスケ。
が釣れぬ。
1時間が経ち、2時間が経ち、「こんなはずでは」
撒き餌を放つ猪原大先生が、ボランティアで魚に美味しい餌を振舞う福祉士にだんだん見えてくる。
あまりの釣れなさに、呆然とする親子。結局この日、朝5時半から昼11時半まで6時間いて、収穫なし。完全ボーズであった。夕方、リベンジでまた釣りに出かけ3時間粘るも、またボーズ。人生は厳しい。
スナメリを見た
そんな中、スナメリを真近に見た。私たちが釣っている堤防近くに寄ってきて、背を見せたかと思うとパフーッという呼吸音を残し海中に沈む。これをなんども繰り返してくれた。感動。
連休中の多忙な中、お時間を割いていただいた猪原先生には感謝申し上げる次第です。