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2016年3月



2016_03_29

若者よ、ニートなんかしてる場合じゃないぞ


  • 散人さんのコメント

    消費税上げよ

    2017年4月より消費税10%にすることが2015年の国会で可決されたが、今年の夏の参院選挙(衆参同時の可能性もある)を控え、にわかに雲行きが怪しくなった。私は10%は予定通りに実行すべきであると考えます。

    高齢化とともに社会福祉の費用が増大しているからであります。なかんずく医療と介護の費用の増大を食い止める策として、10%は不可欠と考えるからであります。

    消費税を据え置くと給与天引き額が増える

    まず医療保険制度は、「相互扶助」の理念のもと各種医療保険料でまかなえるのが原則でありますが、平成26年度医療保険会計では、総額40兆円のうち公費持ち出しが2兆円。介護保険料は当初から公費が半分負担でした。平成24年度は介護費約9兆円(公費4.5兆円)です。計6兆5千億円を一般会計より持ちだしています。

    どちらも現役世代は給与天引きです。もし消費税を据え置くと給与天引き額が増える可能性が大であります。まだ消費税が選択制がある訳です。どちらにしても現役世代の負担は増える訳ですが、せめて選択制の方が負担感は少ないのです。

    納めた年金の保険料に対して、どれだけ年金の給付が受けられるか

    さらに年金問題です。この問題は各政党が「スルー」しています。


    下表は厚生労働省が2015年に公表した、納めた年金の保険料に対して、どれだけ年金の給付が受けられるかを世代ごとに試算したもの。

    厚生年金に加入するサラリーマンの夫と専業主婦の場合、2015年に70歳になる世代は、負担した保険料の5.2倍の年金を受け取れる見込みなのに対し、30歳になる世代以降では2.3倍にとどまった。

    (出典)


    若者にツケを回す今の政策

    年金の財源確保では賦課方式と積立方式がありますが、日本は次世代に期待する賦課方式を採用しています。何故各政党この問題に触れないか? それは老人票を恐れているのです。このままでは25歳若者は70歳老人の3倍払って1.5倍しか受け取れないのです。「若者にツケを回すな」と偉そうに云う政治家がいますが、実は逃げているのです。

    75歳以上の医療費は現役世代が払っている

    後期高齢者医療費(75歳以上の医療費)は一体誰が払うのか。答えは現役世代。5割が公費であります。

    ここでも素人の人は気づかないのです。2014年では後期高齢者医療費が15.6兆円で、半分の8兆円近くが公費なのであります。これが隠された公費と2兆円を足すと約10兆円が公費で穴埋めしています。後期高齢者医療費は5割国負担と決めたのです。約25%(40兆円の)という恐るべき額になります。

    現在要介護者は561万人いて、
    開始時(平成12年) 3.6兆円
    現在(平成26年) 10兆円 となっています。
    国民(40才以上)からの徴収額も2,911円から4,972円になっています。国と国民折半の原則で一般会計から5兆円拠出。医療介護で計15兆円の国庫より拠出しています。2030年(団塊の世代が亡くなる)までは増加傾向は否めません。

    後期高齢者医療制度は複雑怪奇

    後期高齢者医療制度は2008年にスタートしましたが、その時点で説明不足、複雑な内容と批判されました。

    厚労省から各県、各市町村と降りるに従って、職員の理解が乏しくなります。国民に接する市町村担当窓口の職員は理解不足のままで説明しようとするから、国民はチンプンカンプンになる。専門職がいないのです。

    後期高齢者医療制度は年金問題と似て、現役世代におんぶされているわけで、2008年時点でも財源確保に関しては危惧されていました。がしかし、それまでの無料を少なくても一割負担はしてもらうということで、老人票の支持により維持されていた時の政権はよくやったと思います。

    本人1割、現役世代4割、公費5割の現行負担率は維持できない

    しかし少子高齢化するなかで、本人1割、現役世代4割、公費5割の現行負担率はもう維持できないだろうというのが2015年時点の課題です。本人を2割にすると年金からの天引きが増えて、75歳以上の猛反発を食らう。現役世代の5割負担を維持しても、労働力減少で徴収額が減少する。公費も国債発行1,000兆円を超える財政不均衡のなかでどう維持するのか展望が見えない。三すくみ状態です。

    ニートなんかしてる場合じゃない

    本当に低所得者は今後辛い目に会うでしょう。ニートなんかしてる場合じゃないのです。

    シルバー民主主義にしてはならない

    以下、まとめらしきものを書きます。
    今、日本は人類史上類を見ない少子高齢化時代に突入した。深刻な時期は2025年以降で、私も属する団塊の世代が、75歳以上の後期高齢者になる時である。もうあと10年を切った。総選挙は3回か4回だろう。時間的余裕はない。
    一番票を投じてはならない候補者は、「消費税は先延ばしにする。社会保障は充実する」と矛盾したことを、老人票を得たいがために言う輩だ。詐欺に等しい。消費税がいいところは老人からも取れるとこである。シルバー民主主義にしてはならない。
    井堀利宏氏提案
    *独立財政機関設立 正当官僚に影響されない財政政策提言機関
    *余命別選挙制度 青年区 中年区 老年区 で選出する。

     

    2016_03_27

    パール・バック『つなみ』と雲仙岳噴火災害

    とある会話。

    「パール・バックは雲仙に訪れていたって知ってる?」と私。
    「え、長崎県の?」
    「そう。そこで聴いた津波の話をベースにして、『つなみ』という作品を書いてるんだよ」
    「へ~ぇ」

    帰宅して裏をとってみました。

    これがパール・バックの『つなみ』という作品。児童文学です。戦後の焼け野原になった日本やドイツで、 飢えと闘いながら立ち上がろうとしている子供たちを勇気づけるために書かれた作品とのこと。

    パール・バックは1792年の雲仙岳噴火災害で起こった津波と、1922年の津波を元に書いた

    1927年初夏から秋にかけて、パール・バックは南京攻略で混乱する中国を避けて、長崎県雲仙に避難し暮らしています。ここでの見聞を元にして書かれたのが当作品。その元になった津波の話は、一つが1792年の雲仙岳噴火災害で起こった津波。雲仙岳眉山の山体崩壊により発生した津波は「島原大変 肥後迷惑」と言われ、肥前国と肥後国合わせて死者、行方不明者1万5000人の被害を出しました。さらにもう一つが、彼女が来日する5年前に雲仙・島原地方での死者27人の被害を出した津波。20年後、彼女はこの見聞をベースに執筆したのです。

    サイトから引用。「ある日突然村を襲った大津波によって、家も、家族も奪われ、独りぼっちになってしまった少年ジヤ。しかし彼は、周囲の人々の暖かい愛情に包まれて成長し、やがて再び海に立ち向かってゆくのだった…」。ある晩、ジヤが眠った後、キノは父にこう尋ねます。

      わしらは危険の中で生きとるから命を大事にするんじゃ

      「父ちゃん、日本に生まれて損したと思わんか?」
      「何でそう思うんじゃ?」
      「家の後ろには火山があるし、前には海がある、その二つが悪いことをしようと、地震や津波を起こしよる時にゃ、だれも何にもできん。いつもたくさんの人をなくさにゃいけん。」
      「危険の真っ只中で生きるってことはな、生きることがどんだけいいもんかわかるというもんじゃ。」
      「じゃが、危ない目にあって死んだらどうする?」
      「人は死に直面することでたくましくなるんじゃ。だから、わしらは、死を恐れんのじゃ。死は珍しいことじゃないから恐れんのじゃ。ちょっとぐらい遅う死のうが、早う死のうが、大した違いはねえ。 だがな、生きる限りはいさましく生きること、命を大事にすること、木や山や、そうじゃ、海でさえ、どれほど綺麗か分かること、仕事を楽しんですること、生きる為の糧を生み出すんじゃからな。そういう意味では、わしら日本人は、幸せじゃ。わしらは危険の中で生きとるから命を大事にするんじゃ。わしらは、死を恐れたりはせん。それは、死があって生があると分かっておるからじゃ。」

    映画化もされました

    この作品はtratton Productionsと東宝映画の日米合作で映画化。 バックの希望もあり、1960年に雲仙市などでロケが実施され、彼女も同行。小浜の春陽館などがロケ隊の宿泊地。伊丹十三やジュディ・オングらが出演、津波シーンの特撮は「ゴジラ」の円谷英二監督が担当したといいます。
    なお20世紀後半以降、語句「Tsunami」は世界で広く一般にも使用されるようになっています。これは1946年に起きたアリューシャン地震の際、日系移民が用いたことからハワイで「Tsunami」の語が使われるようになり、アメリカでも広く用いられるようになったためだとのこと。

     

    2016_03_24

    夫婦二人の生活

    息子がカナダ旅に出かけ、夫婦二人の日となりました。食事にでも行くかということになって、近場のイタリアンへ。家人が語るには、同年代女性友達の間では「夫婦二人だけの生活になったらどうなうのだろう」というのが結構出る話題とか。

    「そういえば、あれだね」と私。「うちはもう、二人だけの生活になっているようなものだと思わないかい」
    「あ、なるほど、そうですね」と家人。

    息子は現在でも、土日ともなれば朝9時に私にハイタッチして家を出かけ、夜に学習塾に行って、帰宅するのは夜9時。その間、夫婦はそれぞれ別の生活をしています。私はなにか書いたりつくったりしていますし、家人も別のことをしています。若いころキャンプにはまっていましたので、私は食事から炊事洗濯だいたいできます。「食事つくろうか?」とかいう日も珍しいことではありません。絡まり合うツタのような夫婦カップルではなく、適度の距離のある生活。気づくとそんなライフスタイルができていました。

    ドングリもポッドに入れたままにすると大きく育たない

    なお、私は青年期になれば、子どもというのは地域社会に育てていただくものと思っていますので、上記のような息子の生活を可としています。そんなライフスタイルをとって暮らす息子は、「僕の特技はコミュ力(りょく)」などと家人に話しているとか。青年期にそんなライフスタイルを許すためには、幼い頃の躾がとても重要だと思っています。

    子育ては、木を育てるのと同じようなもの。最初はドングリをポッドに入れ一個一個大事に育てる。でもある大きさに育った後は、家庭という小さなポッドに入れたままにしておくと、木の成長を阻害してしまいます。青年たちのコミュニティや地域社会という大地に植え替え、自由に根を張らせて育てる。社会で生きていく上に必要なコミュニケーション能力は家庭だけに留めておいてはつかないものです。
    上の絵は、私が描いた若き日の家人。

     

    2016_03_22

    ダリ「ミレーの≪晩鐘≫の古代学的回想」から


    動画を再生後に、画面左上にある丸いマークをクリックして視点変更することができます。

     

    2016_03_19

    『昔走った稜線』のモデルに35年ぶりに再会

    小説『昔走った稜線』は私が20代後半に書き、筒井康隆先生にお褒めいただいた思い出の作品です。

    モデルに35年ぶりに再会


    この漢(おとこ)が富田。拙小説『昔走った稜線』の主モデルになった大学時代の友人です、約35年ぶりに再会した時の写真がこちら。

    ラグビー部だった富田と美術部だった私がひょんなことで大学で出会い、気が合って交友。男前とは彼のようなヤツをいいます。彼はやがて自分で資金を稼ぎ、自転車一台で世界に飛び出していきます。そのあたりの実話を書いた箇所がここ。


       再び彼は現れた。
      「よーう」と彼は言った。三回生半ばのことだ。
      「よーう」と僕は驚きの声をあげた。というのも,戸口から溢れんばかりの笑顔を送る彼は,スーツを着込んでいたのだ。その頃僕たちの生活の中でスーツに縁があるのは,入学式か卒業式,それとも少しばかり歳を食った友人の結婚式あるいは葬儀の席と相場は決まっていた。僕は次にやって来る事態が,不吉なものでないことを祈った。富田は全十巻余りの百科事典をセールスしてまわっていると言った。それが『人間百科事典』だった。『人間百科事典』。実に興味深く,かつ僕が手の出る代物じゃない,そんなことが一発で分かる書名だ。そして,そう彼に告げた。
       彼は,僕に売り付ける気などさらさらないこと,アジア横断の自転車一人旅を計画していること,そのために,このアルバイトに専念していること,大学には休学届けを提出していること,二十キロ離れた玉名から熊本まで毎日自転車で通勤していること,なおかつ夜な夜な英会話のテープを聞き続けていること,もう一つおまけに夢は英語でみるようになり,うんざりしていることを僕にまくし立てた後,こう付け加えた。「どうだい,ついでにこの事典買ってみないかい?」「金がない」「ローンがある」「読む暇もないし,もったいない」
      「わかった」
      「どうして自転車で行く?」
      「俺が走る。十分走る,一時間走る,半日走る。そして振り返る。稜線に道が消えている。これだ」

    行動が人生の意味をつくる

    行動が人生の意味をつくるという私の考え方に、影響を与え続けているのはこうしたこともあってのことです。その頃、私は例の世紀末的アトリエにまるで、穴モグラのように篭って大きな作品を描いていました。その頃のことを書いたのがこの箇所。

       僕はとある団体から招待を受け,出展のため三つの大作に挑んでいた。
       一つが,彼方の稜線に並ぶ黒い木々の絵。
       一つが,黒い木々へ向けて,天空からシャワーのように,色彩の線が降り注いでいる絵。
       そしてあと一つが,大きな頭を持つ二人の男の絵だ。
       一番目の作品は,ここに筆を置けと僕に呼びかけ続けた。その声に従って描き進めると,最後には単なるぼんやりとした平面だけが残った。キャンバスの裏を覗いてみたが,やはり何もなかった。二番目のやつは後輩に「これはバッハのフーガです」と唸らせた。筆を重ねるうちに,木々の中から幾つもの顔が現れ,そして大地に居座った。最も大きな顔は,今は亡き父のものにそっくりだった。後輩はその作品を見ても,何も言わなくなった。最後の作品の中にいた二人の男の頭は,おかしなことに,一方が縦長で,もう一方が横長となった。けれど二人とも,実に小さな口をしていた。
       その頃から,僕は夢を見ることがなくなった。これは現在にまで至っている。例外は三度だけだ。一度目の夢を見て祖父が死に,二度目の夢を見て父が死んだ。
       絵画の最大の罠に気付いた時,僕はすべての作品を燃やした。色鮮やかな数年分の夢は,天へと昇っていく灰色の煙となった。みんな,現象なんだろうか。そう思った。

    文中に出てくる「大きな頭を持つ二人の男の絵」とはこれです(F30)。

    心配しなくたっていい。人生は楽しいことがいっぱいある

    文中にあるように、あの当時むなしくなって多くの作品を燃やしました。大きな作品はほとんど残っていません。すべて現象である。今もそう思います。けれど、だからこそ愛おしい。この歳になってそう思うようになれました。世界は愛おしい。若いころって、心の底に意味のない焦燥が流れているものです。

    だからこそ成長があるのかも知れません。もしこのサイトを、若いころの自分が今見ていたら、「心配しなくたっていい。なるようになる。人生は楽しいことがいっぱいあるんだからさ」と言ってやりたいですね。

    『昔走った稜線』と筒井康隆先生の評価

    この短編小説『昔走った稜線』は20代後半に執筆。ずいぶん経って第3回パスカル短篇文学新人賞に応募。私が応募した第3回はプロ作家の岡本賢一が大賞受賞。後の芥川賞作家の長嶋有、ファンタジーノベル大賞佳作の森青花、すばる文学賞受賞の法月ゆりなども応募していたといいます。と大きく振って(笑)、審査委員長の筒井康隆先生が全作品中で最高得点をくださったのは、この『昔走った稜線』でありました。 わ~ははは。下は筒井先生からいただいた拙作への評価。

      筒井康隆, 1996/ 1/20 14:24
      昔走った稜線 92点  ヴォネガットの影響を思わせる色彩感あふれた才気ある文体が実に楽しい。プロに 近い文章そのもので読者を楽しませようという応募作がここのところ皆無だったので、特に嬉しかった。この文体、他の委員の中には「気障」として退ける人がいるかもしれない。文体に凝り過ぎて、富田の人間像が希薄なのは惜しい。

    「一作なら誰でも小説が書ける」といいますが、実感としてよく分かります。

     

    2016_03_18

    大学時代 絵に浸かっていた頃


    懐かしさが溢れとまりません。

    ぼろアパート

    この写真は、学生時代に私が住んでいたアパート。アパートといってもひどいもので、野菜屋のオヤジである大家さんの、DIYによる鉄筋3階建てというマンガのような物件でした。ある日、大家さんにバイトしてみないかと声かけられて屋上に上がってみると、なんとそこは防水シート張りっぱなし。これにコンクリートを流し込んで屋根をつくるというバイトでした。激安で、部屋にも妙なところに柱が走っていて、廊下には音が漏れ漏れの部屋でした。

    ぼろアトリエ

    さらに別に、近所に借りていたアトリエはもっと悲惨なところで、畳一枚あたり家賃千円。1階の住人が動くと、2階の私の部屋が揺れていました。信じられないですよね。空き部屋だらけで、廃墟化していて、住人はいろんな部屋を勝手に使っていて、いくつかはあらゆるゴミが積み込まれている、まるで世紀末を描いたマンガ『アキラ』に出てくるようなアパート。大きな作品はそちらで描いてました。テレピンとパンドルオイルの匂いが充満した生活でした。

    写真に写っている中央の友人が後にプロのキーボードプレイヤーになります。音信不通。どうしているんでしょう。背景に何枚か作品がありますね。顔を描いた作品が写ってますが、この作品のモデルになってくれたのが宮崎美子さん。彼女には申し訳ないほど似てません。似せるというよりも、彼女の輝きを描くことに眼目がありました。

    描いた「レスポワール」の壁画


    これはバイトで描いた壁画。街中心部にあった「レスポワール」という店舗からのオーダーで描かせていただきました。こんなことして稼いでいた時期が私にもあったのであります。ルドンの影響大ですよね(笑)。19歳の頃です。それでも油彩道具って高くって、私は恐ろしく金のない学生でした。


     

    2016_03_17

    ウインドシンセサイザーとスミコ嬢


    バンドといいましてもアレなんですが、曲作りから手を引き始める前にちょこちょこっとバンドらしきことをしたことがあります。演奏のメインを張るのが打ち込みによるパソコン。これにボーカルのスミコ嬢とベースの酒井くんとウインドシンセの私。

    ウインド・シンセサイザー YAMAHA WX7も購入したのですが、私は自分でも情けなくなるほどヘタクソなプレイヤーでした。

    スミコ嬢はすでに冥土の人です。彼女がバンド「コーナー」として私の作った曲を歌った未発表音源が、ひょっこり出てきましたのでここにご紹介。下の曲名をクリックすればお聴きいただけます。懐かしい。

    I SEE THE MOON

    ボーカル: スミコ
    ベース: 酒井
    ウインドシンセサイザー: まつを
    その他のパートはパソコンにて
    詞: 『マザーグース』から
    作曲・編曲・打ち込み: まつを

    この曲は、イギリスの伝承童謡『マザーグース』に出会って触発され作曲したものです。
       僕が月を見ると
       月も僕を見る
       神様 月をお守りください
       神様 僕をお守りください

    このバンド「コーナー」の演奏としては、他に「Just a Friend」があります。こちらのほうはスラップベースの酒井くんが腕を振るっています。スミコ嬢のボーカルはずいぶん経ってご登場。全員がヘッドホンをしてプレイしていました。

    この詩に触発された頃、私はまだ18歳で、つまりギターコードが三つぐらいしか弾けなかった頃でした。ギター1本で作曲。ずいぶん経ってこれを打ち込みで編曲(それがこちらのボーカルなしのバージョン)。お聴きいただくと分かりますとおりピンクフロイドの影響大です。

    スミコ嬢の思い出


    かつてボーカルを務めてくれていたスミコ嬢。

    この曲を歌ってくれる人がいないかなと思っていたある夜、とあるバーのカウンターで、「FLY ME TO THE MOON」を歌っているスミコ嬢と出会いました。この曲の長く伸ばす高音のために求めていた音質。今聴くと、録音の4番を歌っているラストの長い声には、妖気迫るものがあります。音程どりがまだうまくいっておらずアンダーなのは、初テイクだったから。ほんじゃ2テイク目をいくかと押したボタンがDTMデータ全消去のもので、全員が脱力し以後演奏されることはありませんでした。

    この後に、スミコ嬢は私の親友と結婚し離婚しと波乱万丈な人生を辿ったようで、いつしか遠い縁となり記憶から消え去ろうとする頃に、風の便りで訃報を知りました。彼女のイメージはこの写真とこのボーカル音声で成り立っていて、齢をとることがありません。イメージというものは不思議です。

    通っていた彼女の店

  • 散人さんのコメント
    今を去る10年前、スミコさんは市内でスナックのママに納まっていました。私は「まつを」さんと彼女の音楽の縁は全く知らず、舎弟ケンジを伴いスミコさんの店に日夜通っていました。ある夜、ケンジと飲んでると若い客が入ってきて、スミコさんにしっこくからみついていて、私はこれは限度越えたなと思い、ケンジに目配せしました。始末せよということです。ケンジは体育会系のボクサーです。男を指パッチン一発でのしました。そんなこともあり私とスミコさんは急速に近づいて行きました。別れたのは私の忠告も聞かず店をもう一つ開いたからです。私は彼女の管理能力からみてダメだと思ってました。美しい人でした。一時期でも私のような極道をお相手していただき感謝しております。合掌。

     

    2016_03_15

    昔シンセサイザー使ってました

    ポリシックスを買った頃


    コルグからシンセサイザー「ポリシックス」が発売されたのは1981年12月。このシンセサイザーは私のような一般人が購入できる価格設定で販売された和音が弾ける初めてのシンセサイザーでした。価格248,000円。ボーナスを握りしめ、私は佐世保の楽器店へと購入に出向きました。その頃、私の周辺に溢れていたのは、ピンクフロイド、ELP、YMO、ブライアン・イーノ、タンジェリンドリームなど。

    楽器まみれだった社会人一年生時代

    すでに購入済みだったセミアコギター、ベース、リズムボックス、各種エフェクター、そしてマルチトラックレコーダー(TEAC22-4 オープンリール4チャンネル)とミキサーに、シンセを加えてスタジオ化した奇妙な狭い下宿で暮らしていました。なにやってたんでしょうね(笑)。地方の片田舎に暮らすことになった私にとって、音づくりは限られた楽しみだったようです。

    シンセサイザーの登場によって音楽表現が変容

    表現は、常にそれを具現化する媒体によって変容することは、歴史が証明しているところです。シンセサイザーの登場によって、音楽表現が変容したことはその代表的な例と言っていいでしょう。

    その後、徐々にウエザーリポート等のフュージョンやジャズに傾倒していき、手弾きテクが追いつかなくなり、パソコンによる打ち込みに移行。デジタル化は大仰しい装置を消していきました。部屋にうねり回っていたシールドもお行儀のいい配線になりました。そして結婚を境に音楽から徐々に離れました。もう4半世紀が経ったのだとつくづく。ポリシックスなどもなくなった住空間で、手作り本棚の図面を描いている今日この頃です。


     

    2016_03_14

    ドビッシー、ビル・エヴァンス、坂本龍一

    ドビッシーの曲を聴くとビル・エヴァンス、坂本龍一が透けて見えます

    ビル=エヴァンスが印象派のドビッシーから影響を受けていることは、マニアの間では知られています。たとえば下のドビッシーの『水に映る影』を聴いてください。ほら、今の私たちからは、その音楽にエヴァンスや坂本の『戦場のメリークリスマス』が透けて聴こえてくるでしょう。


    実際に聴いてみましょう。まずビル・エヴァンス。


    次に坂本龍一が『戦場のメリークリスマス』を解説しています。


    で、昨日の話。坂本が『千のナイフ』を出したころ、まだビル・エヴァンスは演奏していたんですね。ELPがいてビル・エヴァンスがいて坂本がいた時代。改めて感慨深く感じます。今の子たちは、映像やダンス分野では我々の世代をはるかに凌駕していますが、音楽に関しては興味関心が相対的に衰退している比率が多いですよね。

    シンセサイザーによる大いなる変革

  • 捨老さんのコメント

    ビル・エヴァンスを間に挟めば、その音楽性や奏法~スタイルとして浮かび上がる一脈の音楽センスの流れを否定することは出来ません。ですが一方 ELP~YMOの芸術性に目を向けるならば、キース・エマーソンや坂本龍一を特異ならしめるシンセサイザーを無視することはできません。

    電気と音~音器の関係の起原は定かではありませんが、ラジオが登場した頃には存在していた事は確かです。1930年代フランスでミュージックコンクレート理論によって生まれたシンセサイズ概念は、30年代末にはその理論的要素 (フィルタ、エンベロープ、加算合成、ポリフォニック)はほぼ出揃っていたとは言え、エマーソンが登場した時代、シンセサイザーが統一機器として存在していたわけではなかったのです。

    60~70年代に爆発的に普及しアンプやスピーカーさえ楽器の一部としてしまったトーンホイール(歯車状の磁性金属円盤)方式や、ピックアップ方式による電気楽器は、奏者のパフォーマンスヴァリューを拡大し強固なものとして、小音楽であった室内音楽の奏者を屋外の大ステージに引きずり出し、ミュージックショービジネスに一大変革をもたらしたのですが、人々は往々にしてこれら電気楽器の集大成であるかのような位置にシンセサイザーを置きたがります。

    しかし、発想の原点が全く異なるもので「画家が絵具を混ぜ合わせて色を生み出しカンバスに向かうように、初めて音楽家が音を作り出す仕事に携わり、白い譜面に向うのだ!」。この音楽家の歓喜をこそシンセサイザーは実現しようとしていたのです。これが奇しくも しんのじさんが「先鋭化~退廃化」と表現された、坂本龍一の芸術家的本性の顕れだったのでしょう。それはノイズ(ホワイトノイズ~ピンクノイズ)の練り合わせによって生み出される音。ピアノでもヴァイオリンでもなく、既成のあらゆる楽器の音であってはならなかったのです。彼らが欲した唯一のもの、それは音を作り出す楽器だったのです。

    ところがエマーソンの時代、彼自身が厳選したとはいえ、大量の電気機材をステージに運び上げざるを得なかったのです。スイッチをキーボードスタイルにしたのは彼の手柄ではありましたが、彼が振り下ろした日本刀が明確なメッセージであったことは火を見るように明らかでした。この音楽家たちの未来への呼びかけも楽器会社の耳には届かず、依然としてトーンホイール~ピックアップ方式の製品を新興宗教に加入した信者に売りつける神棚仏壇さながら、プリセットされた既成模造楽器のスイッチ付きエ○○トーン。業を煮やして分離したローランドの後押しで坂本龍一は立ったのでしたが、使えるキーボードスタイルの電子楽器が登場するにはまだまだ時間がかかったのです。

    音楽学校の二教室を機械だらけにして、我もののように駆使した人はNHKのBGMを担当していましたが、これも旧態依然として既成楽器の音色をなぞるだけの哀しきシンセサイザーでありました(笑)。まだまだ書けることはありますがこのへんで(笑。


     

    2016_03_13

    坂本龍一の千のナイフ


    坂本龍一のこのアルバムが発売されたのが1978年。その当時よく聴きこんでいました。今になって音を聴き比べると、坂本がいかに新しかったかということを改めて再認させられます。そんなこんなで、私も多重録音に凝っていって、こんな曲(Syber Punk May)なんかを作っておったわけです。もうずっと昔に少しだけ音を作っていた時代。懐かしさが込み上げます。

    YMO散開映画を上映した

  • 散人さんのコメント

    YMO散開映画。調べるとあれは1984年だった。前年にYMOは解散ライブをした。本人たちは、やることは全てやったので「散開」である、と称した。そのライブを中心とした映画の封切りを、全国に先駆けて私が所属する新宿シアターアプルでした。客席700名の劇場を何故彼らが選んだのか分からない。一枚のチケットの価値がプラチナ以上になった。監督したのが黒テントの佐藤信。彼を商業演劇に押し出したのが我々だったからか。まだ開設して二年の知名度の低い劇場が一気に世の中に躍り出た。佐藤が義理を返す為に選んでくれたと思っている。勿論YMOメンバーも舞台挨拶に出た。スタンディングオベーションが果てしなく続いた。


     

     2016_03_09

    ryuji’s night

    イラストレーターryujiさん、長崎へ



    楽しゅうございました。ryujiさん、ぜひまた! 囲ませていただいたのは、散人さん、ケンちゃん、しんのじさんアンドーさん。会場は「いなほ」。2次会は長崎の魔界 思案橋界隈の路地を巡って由緒正しく小汚い大好きな「陽龍」を訪ねるも席がなく、おしゃれに「ファミリア」へ。

    ryujiさんの長崎訪問の記事はこちらです

    漢を見た

  • 散人さんのコメント
    楽しゅうございました。ryujiさんは聞くと私より一つ年下。徒手空拳イラストレーターを志し、65歳過ぎの今日まで生きて来られた。今日でこそイラストやアニメ業界は花盛りの感があるが、40数年前は存在が緒についたばかり。業(なりわい)としての見通しなんかなかった。おそらく自分で切り開くしかなかったろう。ryujiさんに漢(おとこ、男ではない)を見た。黒澤描く漢を見た。そういう方とお会いするとすがすがしい気分になり、つい病も省みらずお酒をやり過ぎた。

  • ryujiさんのコメント
    ありがとうございました。 身にあまる歓待をして頂き、ただ感謝しています。 散人さんに過大評価していただいても、本人が典型的な俗物である事を一番よく理解しております。 しかし、これは本当に楽しい酒でした。まつをさん、またいつか長崎で一杯、欲が出ました。

     

    2016_03_08

    お寺の衰退

    檀家数の急激な減少により経済的に立ちゆかなくなっているところが大部分


    これは先日訪ねさせていただいたお寺の壁。屋根にも雑草が伸びており心配になりました。仏教の寛容性を愛する者であるが故の心配です。

    約7万7000のうちの2万。これは日本全国にある寺院のうち、住職がいない「無住(むじゅう)寺院」の数。さらに宗教活動を停止している「不活動寺院」は2000カ寺以上。住職がいる寺でも、檀家数の急激な減少により経済的に立ちゆかなくなっているところが大部分を占めるといいます。(出典

    『寺院消滅 失われる「地方」と「宗教」』という書籍があります。一章の冒頭では五島列島最北部にある寺の状況。リンク先の記事を読んだだけでも、大変な事態が迫っていることを感じます。

  • 大閑道人さんのコメント

      教育によって道徳と倫理と宗教が分解

      どんな現象でも、原因は単一ではありません(と、お釈迦さまは言います)。いろいろとあるのですが、日本人は道徳と宗教と倫理を、全部「信心」とひとまとめにして、「世間」を相手に生活してきました。それは江戸時代になってから、特にご代将軍・綱吉の治世、戦国が完全に終焉してから、教育に力を注いだ結果でしょう。その教育の成果が明治以降の近代化の(つまり、資本主義と民主主義)の原動力にもなったのですが、同時に道徳と倫理と宗教が分解しました。それは、西欧文明を導入すればそうなるしかないのです。そして、それに対する自己反省、内省も失われ、信心が消えた結果でしょう。

      富国強兵で進んだ本家分家の解体

      更に、そもそも宗教行事は、カネがかかるものです。だから、本家・分家の制度があって、一族郎党の宗教行事は、本家が一手に引き受け、一族の継続に腐心していた。しかし、本家分家の制度があるかぎり、人材登用は実力本位にはなりませんし、民主主義も芽生えません。一族郎党をまとめる背景が、先祖崇拝という宗教で、それを寺院仏教が支えていた。でも、明治政府は富国強兵(資本主義と本当の軍隊)を遂行するには、この本家分家を解体せざるを得なかった。映画「ラスト・サムライ」を観て、その感を深くしましたね。 おそらく、日本人は、映画「ルーツ」で描かれたような執念は持ち得ないまま、流浪の民となるでしょう。

      釈迦の教えは多分野に取り込まれている

      あ、そうそう。付け足すことがありました。 現在、仏教寺院は、衰退に向かっていますが、でも、仏教は(お釈迦さまの教えは)、逆にいろんな分野に取り込まれています。 たとえば、脳科学などは、仏教の、特に唯識思想を跡付けているようなもの。 また、コーチングや認知科学などにもそれが見られます。
      そもそも、お釈迦さまの教えは、原理主義に陥るな、というところが本質でして、 極論すれば、「人は、決して分かり合えない」と断言しているようなものです。 分かり合えないのだから、それ故に、自分は相手のことを絶対、誤解している、と踏みとどまることを勧めているのです。 そういう点で言えば、織田信長が一番「お釈迦さまの仏教に忠実な徒」と言いたくなりますね。

    「お寺さん」は福祉の概念的な骨だった

  • 散人さんのコメント

    自由が一番の今。近代の民主主義の根幹は「個人の自由」であろう。現憲法も「信教の自由」を謳っている。これはどの宗教を選ぼうが自由を念頭に置いていたが、「新民法」と共に「信じなくても自由」に変節していった。信じようが信じまいが「自由」なのだ。となると私の隣の80過ぎのばあさまは毎週お寺さんに行く。四季折々、行事があるらしい。私は麗しいこととみてるが、若い人たちは面倒と見る。それと今一部老人施設を含めた社会福祉施設は、色んな業種のものが参画しているが不祥事の数が増している。一昔前は「お寺さん」が多かった。福祉の概念的な骨があった。真っ当な運営をするとこが多かった。宗教法人に対する批判はやはり「オウム真理教」の一連の事件から多くなったと思う。「自由」は清濁混在するし「悪貨は良貨を駆逐する」のであります。

  • 大閑道人さんのコメント

      資本主義を支えた仏教の「ただ、ひたすら(目の前のことに打ち込む)」という姿勢

      「資本主義精神」。マックス・ヴェーバーは、資本主義という構造にはキリスト教が根底にある、と言っています。「だから、非・キリスト教の地域には、資本主義は成り立たない」と。ところが日本は違った。キリスト教国でもないのに資本主義が成立した。その背景は? ということで、鈴木正三が研究されたことが有りました。彼は、曹洞宗に出家した江戸時代の三河武士。彼の言に「坐禅くむより、コヤシくめ」とあります。肉体労働の価値を高く掲げた人です。そのためか、日本の資本主義精神の背後に、禅宗を想定する研究は多い。しかし、淨土真宗系の学者からは、念仏を論証する研究がある。

      わたしは、どちらも正しいと考える。浄土思想、禅思想、ともに発生は中国だが完成は日本人の手による。つまり、親鸞と道元。この二人は同時代。他力の代表である念仏と、自力の代表のように言われる禅宗だが、共通点がある。それは、「専修念仏」「只管打坐」にある「ただ、ひたすら(目の前のことに打ち込む)」という姿勢・態度。

      つい最近まで、「働く、とは、傍を楽にする」と言われていた。これは、自分の周囲の出来事に集中する(ま、空気を読む、と通底しますね)にほかならない。念仏も坐禅も、成仏のための手段だった(はず)。それが、ただひたすら「念仏・坐禅」と、手段が目的化されてしまった。そのための工夫(工夫、とは、元来仏教用語)も重ねる。これが、日本の職人技として結実しているのだ(代治朗さん、しかり)。

      仏教は、それと自覚されることないまま、日本人の精神を支えていた。いや逆に、日本人の「目の前のことに集中する」性質が、鎌倉新仏教の東西横綱(親鸞と道元)を生み出したのだろう。目の前のことに集中する、を現代語で表現すれば、「こつこつ、湛然に、継続は力なり」。ただし、これは目的を見失う可能性が極めて高い。戦術的な技術は高められるが、目的意識がない。先の世界大戦で日本が作戦的に失敗したのは、戦術を過大評価してしまい、戦略(戦闘目的)を見失ったからだ。

      日本のお客様本位と仏教

      で、日本の資本主義に戻る。日本の資本主義の特徴は、傍を楽にする。つまり、人的配慮が極めて濃厚なので、使い勝手や人的サービス業には極めて強い。傍を楽にするには、対象となる人について察しなければならないから。つまりは、お客様本位になるのは必然だ。しかしながら、本来の資本主義の目的は利潤の追求。会社は誰のものか、という問いに対して、利潤を目的として投資した株主のものという考えに対して、日本人の精神は応じられなくなった。つまり、只管打坐にしろ専修念仏にしろ、今すぐ結果(悟り。成仏)は出ないけれども、そのうちいつか現世ではなくて来世に繋がるとしても必ず結果はある、という時間軸があった。しかし、資本主義は即座に成果を求める(即座といっても、現世でという幅なんだが)。

      世俗化とは来世の消失

      洋の東西を問わす「世俗化」という現象で片付けられることが多いが、世俗化とは「来世の消失」だ。資本主義は来世を設定しない。利益(これ、リエキのことです、リヤクではありません)を現世で求めるので、過去現在未来の時間軸が分断されて一貫性も必要がなくなり、今が最高!でなければ価値が無いものと判定されてしまった。そうなれば、来世の入口である寺院は資本主義社会では存在理由はなくなる。

    道徳は個を律するもの、倫理は個の集合体である社会を律するもの

  • 代治朗さんのコメント

    道徳は個を律するもの、倫理は個の集合体である社会を律するもの。宗教は道徳と倫理を内包した教えである。お釈迦様の教えの根源は「原理主義に陥るな」。
    換言すれば「多様な他者を認めよ」。大閑さんへ、合掌。

  • 大閑道人さんのコメント

      いや違う。ロビンソン・クルーソーで考える

      > 道徳は個を律するもの、倫理は個の集合体である社会を律するもの
      > 宗教は道徳と倫理を内包した教えである。

      ちょっと違うようなんです。こういう設問がありました。「無人島に漂着したロビンソン・クルーソーは、よい人か?」 ロビンソン・クルーソーがどういう行動をしようが、それによって利益を享受する人も損害を被る人もいませんので、彼が善人かどうかは判定できません。かの小説によれば、彼はその無人島で葡萄を発見します。そのことについて、彼は神=造物主に感謝します。したがって彼は宗教的人物であります。宗教とは、神=造物主と彼個人とのつながりでしか存在しません。つまりは一人称の関係。ところで、やがて黒人男性が同じように漂着します。彼はその黒人を救助します。そして食べ物を与え、介抱し、コトバを教え、人として遇し、ともに生活向上をはかり、労働します。つまり道徳的です。二人称の世界です。やがて葡萄のままでは貯蔵できないので、干しぶどうに加工します。そして、それを私することなく、黒人とともに食します。つまり倫理的なのです。(此処から先は、小説にはありませんが) ところが、実はその葡萄は、ぶどう畑の作物であって耕作主の了解を得ずにロビンソン・クルーソーは刈り取っていた……のならば、彼は倫理的人物ではありません。倫理とは社会に対する態度であって、そういう意味合いで言えば三人称の関係でしょうか。

      概念が違う

      「道徳」は漢字文化圏の概念。「宗教」は完全に言えば一神教=造物主宗教での概念。「倫理」も同じく西洋の概念。これを日本語の地平に、同じように並べるのは困難だ。それと同じく、「仏教」という概念と「仏法」「仏道」という概念を、対等に解説することも不可能だ。以上、先日、東大の倫理学科の先生の講演を拝聴した時に質問した際の応答。

      造物主が違えばそれは「オレと同じではない」

      > 「多様な他者を認めよ」

      これは造物主宗教ではありえません、なぜならば、造物主が違えばそれは「オレと同じではない」から。多様性とは、造物主がたくさんある(つまり、多神教)を受け容れること。

      ちなみに、お釈迦さまは、造物主宗教の世界観では絶対に誕生しないでしょうね。その根拠はいくつかありますが、一番わかり易いのは、旧約聖書の冒頭でしょうか。「はじめにコトバありき」。しかし、釈迦は多くの質問に対して「沈黙」で応じた。仏教は教えの根幹は「沈黙」と言えそうです。そして膨大な経典郡は具体例の列挙でしかないでしょうね。沈黙から始まっているからどれだけでも広められる。でも、はじめにコトバがあったら、そのコトバから外れることは不可能。



  • 代治朗さんのコメント

    日本の仏教は、只管打坐、専修念仏という手段によって、悟り、成仏という結果を現世及び来世で得るための教導である。倫理とは社会に対する個の態度である。そう理解しました。一言で纏めようとする事自体が、間違いなんでしょうけどね、大閑さん、合掌。

    企業も哲学も宗教も大変革が必要

  • 散人さんのコメント

    「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい」マタイ福音書。で左の頬を打たれたら、右の頬をも差し出しなさい。でまた右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい。いつ終わるのだろうか?

    近頃、人文科学にとっては厳しい情況になっている。文科省も国立大学の「人文科学部門」の縮小を言い出している。何故か? はっきり言えば、ここの20年以来のコンピュターやインターネットで、並の大学の知識情報はいくらでも我が物に出来るようになってきた。いつまでも情報変革以前のとこを言い続けるから、完全に理系に遅れをとっているのが現状。人間社会に暴力を伴わない革命が今は行われているとまで云う人もある。資本主義下において今までの東大出て巨大資本に入ってという人生における「幸福」のデザインが描けなくなってきている。もう日本の既存大資本はみな行き詰まっている。と同じように哲学にしろ宗教にしろ社会にどう適用していくのかは大変革が必要だろう。これからは自分で新しいリアリティをデザインしていく時代なのだ。

  • 大閑道人さんのコメント
    > 「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい」マタイ福音書

    実際、相対する相手から、右を頬を打たれるとすれば、それが平手であれゲンコツであれ、相手は左利きということになります。聖書は一般的な事例をあげて教えを説くわけですので、左利きが一般的とは言いがたいのに、どうしてこのような例をあげるのでしょうか。簡単です。右利きの相手は、手の甲で打ってきたのです。「手の甲で打つ」ことは、相手を侮辱するという意味だそうです。引用の句は「どれだけ侮辱されてもそれに耐えよ(信仰を守れ)」が真意だそうです。

    >  これからは自分で新しいリアリティをデザインしていく時代なのだ。

    だから、人文科学と一般教養が必要なのです。

    人文科学が「証明出来ない思い込み」とならないために

  • 散人さんのコメント

    to be or not to be. このままでいいのか いけないのか(小田島雄志訳) を考えていかないと今後人文科学部は暫時消滅して行く。「だから必要」を具体的に学生に提示していかなければならないのでしょう。私の任ではありませんが。
    科学と名が付くなら、実験追求していけば「証明可能」(存在しないという証明も含めて)な分野を云うのだろう。人文科学が「証明出来ない思い込み」と指摘されたとき、反論出来なければ「科学」という看板は外さなければならないだろう。

    寺の衰退は、人文「科学」と一般教養の衰退と表裏一体

  • 大閑道人さんのコメント

    人文「科学」(社会「科学」も)と命名された由来はともかくとして。散人さんが連続して投稿されている内容こそ、人文「科学」の分野でしょう。答えのない問題を考え続ける耐力と、考えるための材料(=これが、一般教養、というものでしょう)の集め方が、人文「科学」の任務だと思います。……ということは、ともかくとして。散人さんの経歴と現況を知れば、まさに、散人さんご本人こそ、人文科学と一般教養の権化ですよ。

    ここ、「指のつけね」は、まさに人文「科学」と一般教養が詰まっていますね。

    マスターが投稿の流れをアップしてくれたので眺めてみると、お寺の衰退は人文「科学」と一般教養の衰退と表裏一体だと思った。事実、江戸時代、一般大衆に人文「科学」と一般教養を提供したのは寺院だった。私ごとだが、明治20年代生まれの私の父方の祖父は村でもとびきりの頭の良さだったらしい。「この子は、頭がいいから」というので寺に出された。出家だ。しかしながら、戦後、高等教育の大衆化の中で、そう、散人さんの高校の先輩で元教育長の例を見るように、頭のいい子は寺から出て行った。かつて、寺院が手がけていた仕事は、まずは、公立学校から、福祉法人から、そして、カウンセラーから奪われてしまった。

    大局に立てば、「お寺の衰退」は、ほんと、散人さんのご指摘
    >いつまでも情報変革以前のとこを言い続けるから完全に理系に遅れを
    >とっている、のが現状。
    >資本主義下において今までの東大出て巨大資本に入ってという人生における
    >「幸福」のデザインが描けなくなってきている。もう日本の既存大資本は
    >みな行き詰まっている。
    >と同じように哲学にしろ宗教にしろ社会にどう適用していくのかは大変革
    >が必要だろう。
    >これからは自分で新しいリアリティをデザインしていく時代なのだ。
    は、正鵠を射ている。

    寺院の衰退は田畑の荒廃と似て、美しい日本の消滅

  • 散人さんのコメント

    大閑師、ご本職の方にそれこそ釈迦に説法的な、また己の浅知恵また非才も省みず縷々云い募り、汗顔の至りでありますが、議論するなかに何か見えてくるものがあるものだなぁと思っております。

    寺院の衰退は田畑の荒廃と似て、川端(康成)云う「美しい日本」の姿の消滅になりかねない由々しきことだと思っています。まだ島原はかろうじてその姿を留め、お城水路寺院の嫋(たおや)かなる景観があり、人の心をして安んじさせます。「おはようございます」と手に花芝を持ち、表に水まくおばあさんに云うと「はい、おはようございます、あらどこまで?」「はい、お寺さんに」と返す隣のおばあさん。「まぁ、感心なことで」「いえ、そろそろ近こうなりますんで」と云う。このような島原ではありふれたお年寄りの朝の挨拶がもう直ぐ日本には、いや既に無くなったとこもあるだろう、消滅する。

     

     



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    生きてることを楽しもう。座右の銘は荘子の「逍遙遊」。長崎市・島原市との多拠点生活。

    「よくこんな事をする時間がありますね」とおたずねになる方がいらっしゃいます。こう考えていただければ幸いです。パチンコ好きは「今日は疲れたから、パチンコはやめ」とは思わないもの。寸暇を惜しんでパチンコ玉を回します。テレビ好きも、疲れているときこそテレビをつけるもの。ここにアップしたものは、私が疲れたときテレビのスイッチを押すように作っていったコンテンツです。