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  • 2016_03_29~31

    世代間の負担格差

    散人さんのコメントから

    2017年4月より消費税10%にすることが2015年の国会で可決されたが、今年の夏の参院選挙(衆参同時の可能性もある)を控え、にわかに雲行きが怪しくなった。私は10%は予定通りに実行すべきであると考えます。それは高齢化とともに社会福祉の費用が増大しているからであります。なかんずく医療と介護の費用の増大を食い止める策として、10%は不可欠と考えるからであります。

    まず医療保険制度は、「相互扶助」の理念のもと各種医療保険料でまかなえるのが原則でありますが、平成26年度医療保険会計では、総額40兆円のうち公費持ち出しが2兆円。介護保険料は当初から公費が半分負担でした。平成24年度は介護費約9兆円(公費4.5兆円)です。計6兆5千億円を一般会計より持ちだしています。
    どちらも現役世代は給与天引きです。もし消費税を据え置くと給与天引き額が増える可能性が大であります。まだ消費税が選択制がある訳です。どちらにしても現役世代の負担は増える訳ですがせめて選択制の方が負担感は少ないのです。

    さらに年金問題です。この問題は各政党が「スルー」しています。

    下表は厚生労働省が2015年に公表した、納めた年金の保険料に対して、どれだけ年金の給付が受けられるかを世代ごとに試算したもの。厚生年金に加入するサラリーマンの夫と専業主婦の場合、2015年に70歳になる世代は、負担した保険料の5.2倍の年金を受け取れる見込みなのに対し、30歳になる世代以降では2.3倍にとどまった。
    (出典)

    年金の財源確保では賦課方式と積立方式がありますが、日本は次世代に期待する賦課方式を採用しています。何故各政党この問題に触れないか? それは老人票を恐れているのです。このままでは25歳若者は70歳老人の3倍払って1.5倍しか受け取れないのです。「若者にツケを回すな」と偉そうに云う政治家がいますが、実は逃げているのです。

    • まつをのコメント
      散人さん、この分野に疎いのでご教示はとても勉強になります。ご指摘いただいた点を、なるべく私の頭でもわかるように噛み砕いて、ここにアップさせていただきます。平成26年度医療保険会計のグラフは……ありました、これですね(クリック)。散人さん、この中の特にどこに注目しておくべきかどうか御指南いただけませんか。ペーパーでは情報がこんがらがり素人には分かりません。

  • 散人さんのコメント
    上表から気づかなければいけないのは、後期高齢者医療費(75歳以上の医療費)は一体誰が払うのかという点です。答えは現役世代。5割が公費であります。
    ここでも素人の人は気づかないのです。2014年では後期高齢者医療費が15.6兆円で、半分の8兆円近くが公費なのであります。これが隠された公費と2兆円を足すと約10兆円が公費で穴埋めしています。後期高齢者医療費は5割国負担と決めたのです。約25%(40兆円の)という恐るべき額になります。

    現在要介護者は561万人いて、
    開始時(平成12年) 3.6兆円
    現在(平成26年) 10兆円 となっています。
    国民(40才以上)からの徴収額も2,911円から4,972円になっています。国と国民折半の原則で一般会計から5兆円拠出。医療介護で計15兆円の国庫より拠出しています。2030年(団塊の世代が亡くなる)までは増加傾向は否めません。

    日本は公的健康保険があり加入義務がありますが(皆保険制度)、米国では加入義務はない。公的保険はないことはないのですが、加入者は限られています。民間保険が主流です。しかしオバマ大統領は2010年に念願の国民皆保険制度を議会に提案し、一旦は成立するかに思われたが共和党(コーク一派が猛反対キャンペーンを行い)の抵抗にあい、予算化出来なくなり実質廃案になった。オバマケアーは消え去った。理由は、会社はすでに福利厚生で民間保険会社に支払い続けていて、今更二重払いは出来ないというものだった。オバマ対コークの戦いは今後も続く。

  • 散人さんのコメント
    まつをさん、仰る通り資料を見ても難しい。私は大部分分かります。
    後期高齢者医療制度は2008年にスタートしましたが、その時点で説明不足、複雑な内容と批判されました。
    厚労省から各県、各市町村と降りるに従って、職員の理解が乏しくなります。国民に接する市町村担当窓口の職員は理解不足のままで説明しようとするから、国民はチンプンカンプンになる。専門職がいないのです。
    後期高齢者医療制度は年金問題と似て、現役世代におんぶされているわけで、2008年時点でも財源確保に関しては危惧されていました。がしかし、それまでの無料を少なくても一割負担はしてもらうということで、老人票の支持により維持されていた時の政権はよくやったと思います。
    しかし少子高齢化するなかで、本人1割、現役世代4割、公費5割の現行負担率はもう維持できないだろうというのが2015年時点の課題です。本人を2割にすると年金からの天引きが増えて、75歳以上の猛反発を食らう。現役世代の5割負担を維持しても、労働力減少で徴収額が減少する。公費も国債発行1000兆円を超える財政不均衡のなかでどう維持するのか展望が見えない。三すくみ状態です。
    安保法案なんか単純ですからマスコミも騒ぎますが、社会保障制度は複雑で専門の記者は少ない。本来は国民にとっては喫緊の最重要課題であるのに、県単位でもシンポジュームは開けない状態です。一番の問題点はそこにあると私は考えています。
    本当に低所得者は今後辛い目に会うでしょう。ニートなんかしてる場合ではないのです。私なんか本来年金なんかいらないのに拒否すると貰う手続きの何倍か面倒なことが起きるので、職員から「お願いですから受けて下さい」と言われました。

    以下、まとめらしきものを書きます。
    今、日本は人類史上類を見ない少子高齢化時代に突入した。深刻な時期は2025年以降で、私も属する団塊の世代が、75歳以上の後期高齢者になる時である。もうあと10年を切った。総選挙は3回か4回だろう。時間的余裕はない。
    一番票を投じてはならない候補者は、「消費税は先延ばしにする。社会保障は充実する」と矛盾したことを、老人票を得たいがために言う輩だ。詐欺に等しい。消費税がいいところは老人からも取れるとこである。シルバー民主主義にしてはならない。
    井堀利宏氏提案
    *独立財政機関設立 正当官僚に影響されない財政政策提言機関
    *余命別選挙制度 青年区 中年区 老年区 で選出する。






  • 2016_03_28

    行方不明だった中学生の実名を曝すネットユーザーに民事・刑事上の処罰を

    呆れ返っています。保護者は「そっとしておいてほしい」旨のコメントを出したと聞いています。サカキバラのような加害者側の実態を曝すのとは訳が違います。実名、顔写真を曝すネットユーザーはまず刑事訴追し、その後当事者により民事訴訟すべきです。そのくらいしなければ人の痛みが分からぬ輩でしょう。個人情報の流布についての対応の警視庁の案内はこちら。
    TV画面の中で、「少女の心のケアが大切ですね。どうすればいいでしょう」とキャスター。報道しないことです。報道が長引けば下世話な話題に下がってくるのが見えています。






  • 2016_03_27

    パール・バック『つなみ』と雲仙岳噴火災害

    散人さんとご一緒させていただいた島原のスナックで、ママさんが感動した作品としてアメリカのノーベル文学賞受賞の女流作家パール・バックの『大地』を挙げたときの会話。
    「お、パール・バックは雲仙に訪れていたって知ってる?」と私。
    「え、長崎県の?」
    「そう。そこで聴いた津波の話をベースにして、『つなみ』という作品を書いてるんだよ」
    「へ~ぇ」
    帰宅して裏をとってみました。
    これが『つなみ』という作品。児童文学です。戦後の焼け野原になった日本やドイツで、 飢えと闘いながら立ち上がろうとしている子供たちを勇気づけるために書かれた作品とのこと。
    1927年初夏から秋にかけて、パール・バックは南京攻略で混乱する中国を避けて、長崎県雲仙に避難し暮らしています。ここでの見聞を元にして書かれたのが当作品。その元になった津波の話は、一つが1792年の雲仙岳噴火災害で起こった津波。雲仙岳眉山の山体崩壊により発生した津波は「島原大変 肥後迷惑」と言われ、肥前国と肥後国合わせて死者、行方不明者1万5000人の被害を出しました。さらにもう一つが、彼女が来日する5年前に雲仙・島原地方での死者27人の被害を出した津波。20年後、彼女はこの見聞をベースに執筆したのです。

    サイトから引用。「ある日突然村を襲った大津波によって、家も、家族も奪われ、独りぼっちになってしまった少年ジヤ。しかし彼は、周囲の人々の暖かい愛情に包まれて成長し、やがて再び海に立ち向かってゆくのだった…」。ある晩、ジヤが眠った後、キノは父にこう尋ねます。

    「父ちゃん、日本に生まれて損したと思わんか?」
    「何でそう思うんじゃ?」
    「家の後ろには火山があるし、前には海がある、その二つが悪いことをしようと、地震や津波を起こしよる時にゃ、だれも何にもできん。いつもたくさんの人をなくさにゃいけん。」
    「危険の真っ只中で生きるってことはな、生きることがどんだけいいもんかわかるというもんじゃ。」
    「じゃが、危ない目にあって死んだらどうする?」
    「人は死に直面することでたくましくなるんじゃ。だから、わしらは、死を恐れんのじゃ。死は珍しいことじゃないから恐れんのじゃ。ちょっとぐらい遅う死のうが、早う死のうが、大した違いはねえ。 だがな、生きる限りはいさましく生きること、命を大事にすること、木や山や、そうじゃ、海でさえ、どれほど綺麗か分かること、仕事を楽しんですること、生きる為の糧を生み出すんじゃからな。そういう意味では、わしら日本人は、幸せじゃ。わしらは危険の中で生きとるから命を大事にするんじゃ。わしらは、死を恐れたりはせん。それは、死があって生があると分かっておるからじゃ。」


    この作品はtratton Productionsと東宝映画の日米合作で映画化。 バックの希望もあり、1960年に雲仙市などでロケが実施され、彼女も同行。小浜の春陽館などがロケ隊の宿泊地。伊丹十三やジュディ・オングらが出演、津波シーンの特撮は「ゴジラ」の円谷英二監督が担当したといいます。
    なお20世紀後半以降、語句「Tsunami」は世界で広く一般にも使用されるようになっています。これは1946年に起きたアリューシャン地震の際、日系移民が用いたことからハワイで「Tsunami」の語が使われるようになり、アメリカでも広く用いられるようになったためだとのこと。






  • 2016_03_26

    恩を返しに

    父は52歳で他界しました。
    母は父を失った悲しみの中。葬儀は私がとりしきらねばと思いましたが、若造でおまけに地元を離れた生活をしていましたので、葬儀というローカリズムの塊への対応に呆然としました。
    助けてくださったのが地域の方々でした。その中でもリードしてくださったのが父の幼い頃からの友人Mさん。その方が他界されました。今日はその方の葬儀裏方の一兵卒として地元に帰ります。Mさんは地域には珍しいほどの文化人でした。書に長け、若き日の作品は今拝見しても孤高の精神を発しています。

    • 大閑道人さんのコメント
      受けた恩は、受けたことでお返しをする。適切な例ではなくて申し訳ないが、「眼には眼を」と同じなのです。お祝いを頂いたら、おなじ状況のお祝いでお返しをする。だから、「親の恩は、返し難い」と言われるのです。

    • 散人さんのコメント
      民話「鶴の恩返し」は夙に有名であるが、これらを「異類婚姻譚」と云う。捨兄の分野だろう。このような話は「見るなタブー」といわれ洋の東西にある。旧約では、父親の寝姿を見た息子ハム。父の勘気に触れ、ハムの息子カナンや子孫たちが呪われてしまう。ギリシャ…パンドラの箱。日本神話…イザナミとイザナギ。演劇の要素はこんな神話を素に置いている。

      忘恩忘八(ぼうおんぼうはち)。
      忘恩とは親や先生の恩を仇で返す不届き者のこと。散人は学生時代19日間留置された。母は検事に電話で「忘恩の息子は即刻死刑にして下さい」と云った。
      忘八とは「仁義礼智信忠孝悌」を忘れる程楽しい処、即ち「遊里」のこと。これを知らねば「近松歌舞伎」は語れない。日本の演劇の原点であり、私は足抜け出来ずに未だ「忘八者」であります。となると「芝居屋」なんか世間ではどうしょうもない「鼻つまみ者」で、真っ当な子弟がやることではない。どうかみなさん、芸能界や芝居の世界にはお子さん方を入れないようにしてください。万が一入ったら即刻勘当処分にすることです。

    • 捨老さんのコメント
      恩返しがすべて果たせたとは到底思えませんが、生きている限りいろんな形でさまざまな恩を被り続けるもののようで、ご同様(失礼)今日明日死んでも仕方のない齢を生きる身としては、♪恩な~い ワ~れを去りぬ♪ と言ったところでお許しを願っています(涙)。
      散人さんの御母上のように 僭越ながら吾母も全く同じような時代懸ったセリフで警察を驚かせておりました。おしなべてあの頃の九州の親と云ったところでしょうか(笑)。
      「分野」と言われて頷ける程の知識も持ち合せてはいませんが(汗)、恩~恩愛は渡来(仏教)の概念として、古くは「恩愛のきづな」と表現されたもので、「恩」はの「きづな(きずな)」観念に加えられた新概念だったようです。「仁義礼智信忠孝悌」同様、渡来の道義的解釈をもって規範化し、倭人の「きづな」を意味づけしようとした時代があったものと思われます。それゆえ「忘八者」も「きづな」からは抜け出ることは出来ない仕儀となります(笑)。
      したがって「~の恩返し(異類婚姻譚)」と「見るなタブー」はまったく別源の観念で、今日でも神域の秘枢を写真に撮ってはならないとする例があるように、捜せば様々な形で「見るなタブー」が生きているものと思われます。
      太陽に関する表現が日本古典に乏しいのと同じように、満月を見てはならないと言う風習が「かぐや姫物語」を生んだようですが、中世頃まで貴人の肖像を似せて描いてはならないと言うタブーなどあり、同源の風習だったと思われます。つまり、根源的神約領域は「人が直視すべきではない」という、独特の神話観念が倭人文化に永く生き続けていたもののようです。

    • 大閑道人さんのコメント
      捨老さん。
      > つまり 根源的神約領域は「人が直視すべきではない」という
      > 独特の神話観念が倭人文化に永く生き続けていたもののようです
      河合隼雄がグリム童話を分析しています。その中に、「見るな」の禁、と題した文章が有りまして、「根源的神約領域は「人が直視すべきではない」」はその通りなのですが、「独特の神話観念が倭人文化」だけではないようですよ。
      「根源的神約領域は「人が直視すべきではない」」は、白川静の研究から例証されると思います。彼は「字」という「漢字」から、「本名を明かすことは、魂を譲り渡すこと」の意義を明らかにしてくれたと(私は)受け取っていますが。

    • 捨老さんのコメント
      大閑さん。「独特」と申し上げたのは「神話観念」として育て上げられた日本文化をさしたもので、散人さんが示されたように、その原理的思考が日本「だけ」のものだったと言っている訳ではないので、そのように書いております。河合隼雄さんの場合は、単純に「似ている」ものを例記されているだけで、同一観念であったかどうかを論証されている訳ではありません。
      白川静さんが、「字」について「本名を明かすことは、魂を譲り渡すこと」とのことですが、これは其れよりも古くティヤールの『探求者(第二)』の中で神学者イエロニムが聖四文字(テトラグラマトン)をヘブライ語で発音できない理由について、「われわれが知ることの出来るような名を神が持たぬことをわれわれに教えるためだ。神の実質はその名であり、神の名はその実質なのである。」と説いていることに通底するものと思われますが、大閑さんの疑義の要点が不明瞭です。前述は「恩~恩愛」についての所見に過ぎません。(※願わくば疑義がある場合は も少し丁寧に所見をお示し下さいますように―(笑)

    • 大閑道人さんのコメント
      捨老さん、スンマセン、「疑義」ではなく、「傍証」のつもりでした m(_ _)m

    • 捨老さんのコメント
      確かに大閑さんは、そう書いておられますね。全文を疑義として読んでしまいました(汗)。こちらこそ大変失礼しましたm(_ _)m これに懲りずヨロシク(笑)

    • 散人さんのコメント
      ミュトス復権か。ミュトスからロゴスへ、という流れが特に近代ではミュトス(神話又は虚構と思われる物語)は唯物論の拡散と共に霧消したかに思えたが、現代ではまた「新唯物論」と云われる、「ミュトス」の含意性がやはり有意ではないだろうか、とささやき出されてきた。そういう意味で図らずも捨兄と大閑師の書き込みは散人としては興味深く読ませていただきました。
      エトス パトス ロゴス アリストテレス  という鼻歌が我が学び舎で連綿と歌い続けられていました。

    • 捨老さんのコメント
      不遜の御叱りを承知の上で言えば、「現実―渾沌」を眼前にして熱く語られる一種の純粋思考であり理想志向である哲学・思想・宗教の類を、学生の時分に鼻歌~歌謡の類と大差ないものと受止めて、あまり熱くなることはありませんでした。最も流行って一世を風靡したものが○○賞を勝ち得たとしても、一時期片寄りの嗜好風潮を蔓延させるだけのことで、やがて別の流行り歌が世に充ち溢れることと同じように、どうやら世に喧伝される真理とか正義などと言うものも、似たようなものだとタカをくくっていたのです(スンマセン)。老いぼれた今もさほど成長したとは思っておりません(笑)。
      そこで、散人さんが仰るミュトス~ロゴスの話ですが、是が何時の頃からか思考の過程で分離し、あたかも世界を文明の進化のように整然と見せたとしても、渾沌は今なお厳然として元始のまゝ消え失せることなく世界の根底に生きており、復権以前に ミュトスは死に絶えたことがないのです。その渾沌を読み取る原始的能力の一端をこそ、人は芸術と呼ぶのでしょう。神話となれば尚のこと。稀有なことに日本神話は、文字以前の発声によって語られた原型をもって、ミュトスと混在する原始的ロゴスを宿して伝えられたもので、言語化石とも呼ばれ現日本語に生き続け、日本的思考~情念の盤石を成し続けているのです。これが、他国産の哲学や思想を容易には根付かせない理由でもありましょう。
      と言うわけで散人さんの学び舎に歌い継がれた鼻歌に栄あれ(笑)。






  • 2016_03_24

    夫婦二人の生活

    息子が旅に出かけ、夫婦二人の日となりました。食事にでも行くかということになって、近場のイタリアンへ。家人が語るには、同年代女性友達の間では「夫婦二人だけの生活になったらどうなうのだろう」というのが結構出る話題とか。
    「そういえば、あれだね」と私。「うちはもう、二人だけの生活になっているようなものだと思わないかい」
    「あ、なるほど、そうですね」と家人。
    息子は現在でも、土日ともなれば朝9時に私にハイタッチして家を出かけ、夜に学習塾に行って、帰宅するのは夜9時。その間、夫婦はそれぞれ別の生活をしています。私はなにか書いたりつくったりしていますし、家人も別のことをしています。若いころキャンプにはまっていましたので、私は食事から炊事洗濯だいたいできます。「食事つくろうか?」とかいう日も珍しいことではありません。絡まり合うツタのような夫婦カップルではなく、適度の距離のある生活。気づくとそんなライフスタイルができていました。
    なお、私は青年期になれば、子どもというのは地域社会に育てていただくものと思っていますので、上記のような息子の生活を可としています。そんなライフスタイルをとって暮らす息子は、「僕の特技はコミュ力(りょく)」などと家人に話しているとか。青年期にそんなライフスタイルを許すためには、幼い頃の躾がとても重要だと思っています。
    子育ては、木を育てるのと同じようなもの。最初はドングリをポッドに入れ一個一個大事に育てる。でもある大きさに育った後は、家庭という小さなポッドに入れたままにしておくと、木の成長を阻害してしまいます。青年たちのコミュニティや地域社会という大地に植え替え、自由に根を張らせて育てる。社会で生きていく上に必要なコミュニケーション能力は家庭だけに留めておいてはつかないものです。
    上の絵は、私が描いた若き日の家人。






    • 2016_03_23

      てんやわんや「現代芸術と役人」


      少々、疲れるスケジュールが過ぎて島原へ。散人さん大浦教授と一献。場所は一休
      出された水を一口飲んで、水が合うという言葉を思い出しました。うまい。遠海を泳いでいた鮭が生まれ故郷の河を遡上する気持ちが理解できるほどのうまさ。生まれ育った土地の水のうまさ。むろん、それで育った野菜もうまい。魚もうまい。
      昨日、お二人と地元政治家及び役人たちとの頓珍漢な交渉があったらしく、話を聞いて爆笑しつつ痛飲させていただきました。

      • 散人さんによる事の顛末てんやわんや

        「ですから考古学と現代美術は違うんです」と散人が云うと、今回の展示会の主催者側三名は「うんうん」とうなずいていた。
        一番若い職員が、「見たところ、先生も地面に穴を掘って物を取り出しているみたいで、見た目にはどこが違うのですか」と云った。
        オオウラ先生は東京のM美大教授で、現代美術家である。1992年から雲仙普賢岳噴火災害の被害地に来て被害家屋の跡地を発掘し、焼け残った玄関扉や残った軽トラなどを独自の表現方法で作品化し、東京や埼玉の近代美術館で取り上げられ話題になった。
        今回被災地の市が、9月に考古学(市職員)とオオウラ氏の現代美術の並立展を企画した。が、どうも現代美術に関しての理解がいまいちで、オオウラ先生が頭を抱えていた。そこでおせっかいグセのある散人が仲を取り持ったのだ。
        「見た目は同じに見えるが違うのです。考古学のほうは縄文晩期の物を発掘してますが、私の場合は縄文晩期と現代の縦の時間軸の中で、自然の圧倒的エネルギーと人間の営みの関わりを探ることです」とオオウラ先生は説明した。
        三人は一斉に黙り込んだ。
        私は「いかんいかん芸術家に話させてはいかん」と思い、易しく解説した。いや解説したつもりだった。
        「モノとココロの違いなんです。考古学は掘り出した物で時代性を探ることですが、オオウラ先生は被災地層や被災家屋を掘ることによって、自分の思索と行動がすなわち現代美術だと位置づけているのです」
        で、ますます三人は寡黙になって行った。裏目に出たのだ。

        その時、同席していた市会議員が突然発言した。
        「現場に電柱を一本建ててくれればよかとよ」
        「で、で、電柱をですか?」と一斉に主催者(行政)三人は驚きの表情で顔を上げた。
        「そう電柱を発掘場所近くに立てる予算を、追加していただければ」と教授は云った。
        「先生!その、あの、電柱も現代美術ですか?」と若手職員が聞くと、
        「いえ、電柱は定点にカメラを据えるための電源確保です」と教授は応えた。
        教授が説明するに、定点でカメラを回し続け発掘作業や留守中の現場の変化を撮影し、展示会場に流し、ウエッブ、また自分の授業でも活用していきたい、とのこと。

        ここにおいてやっと職員三人は、自分たちの現代美術との関わり方を理解したらしく、顔に赤みが差してきた。
        若手が「何本立てればよかとですか?」というと、
        市会議員さんが「一本でよか」と断言した。
        「先生!二十本でも立ててよかですよ」と若手は勢い込んで云った。
        「いらん、そんげんは。そんげん立てたら教授が仕事出来んじゃろうが、電柱だらけで」
        「本当に一本でよかとですか?」
        「うん、よか」
        場は一気に和やかな雰囲気になり、乾杯となった。彼らは自分のなすべきことを悟り、精神的平安を獲得し、旨い酒となったようだ。
        めでたし、めでたし。


      翌日は里山のカバノンへ。シュラフにくるまり、まどろみ転寝しつつ翌朝までDVD8本を観ました。『オーケストラ』『セント・オブ・ウーマン』『世界最速のインディアン』『アンタッチャブル』など。あとは憶えていません。夜明けごろに冷え込みました。






    • 2016_03_22

      ダリ「ミレーの≪晩鐘≫の古代学的回想」から


      動画を再生後に、画面左上にある丸いマークをクリックして視点変更することができます。






    • 2016_03_22

      島原引っ越し話

      書こう。昨日話題に上げたスナックの話です。松永もまた男前であります。書いても目くじら立てる男ではありません。私の親戚間では語り継がれている逸話です。

      その店は「クインビー」といいました。松永の行きつけの店。そこにいたのが彼女。名前は忘れました。今度聞いときます。猿には似てません。美形です。

      「まつをさんがね、転勤になったんだ。故郷の島原にね」と松永。
      「あら、私、島原って行ったことないわ」
      「来ればいい、明日みんなで行こうか」
      「いいね」
      「いいですね~」
      とかいう話だったと思います。うまい酒を煽り、じゃあねとか言って上機嫌で帰って熟睡。

      夜は明けます。そう、明けぬ夜はありません。
      起きて、着替えて、軽く食事して、荷造りの続きをする。いつも実家がお世話になっている方にお願いした運送トラックは、もう島原を出発している時間です。そうこうしている内に、職場の方々が手伝いに来てくださいました。みんなで十人は越していたでしょう。
      アパートは小高い丘の上にありました。手伝いの方々ともども、そろそろトラックが来るんじゃないかと眼下を見下ろしていました。
      そう、今後読者の皆様がご期待どおりに、事態は進行します。
      坂をこちらに上ってくる1台のタクシーが見えました。それは道路に出した荷物の前に揃った私たちの前に止まると、ドアが開き、中から真紅の、そう紛いもなき真紅のドレスを着た彼女が「まつをさん」と言って降り立ちました。
      しびれましたねぇ。ドラマみたいだと思いました。周囲の方々は固まりました。私はこういう時、だいたい面倒臭くて説明しません。
      「お、おはよー! まだトラックが来ないんだ。みんなにお茶でも入れてくれる?」
      というような話の運びになって、和やかにして緊迫感のある場。やがてトラックが着き、いつも実家がお世話になっているおじさんも凍る。松永は来ない。当時、松永も諸事情で実家に移ってました。荷を積んだトラック、私の車に乗った彼女と私で、皆にお礼と別れを告げてスタート。途中、松永を叩き起こし同乗させて、いざ島原。
      島原ってところはですね、田舎の良い風習が残ってましてね、私の引っ越しを親戚一同そろって待ってました。分かりますよね。どんな展開になったか。こうして語り継げるネタが私にも増えたわけです。







    • 2016_03_21

      もう一人の男前の話 『昔走った稜線』


      この漢は松永。佐世保にいた時代の友人です。『昔走った稜線』のバイク疾走のくだり↓にアドバイスをもらいました。とにかくモテていました。この写真では憂いに満ちた表情を浮かべていますが、たまたま犬のクソでも踏んだ時でしょう。



      できたてのメゾネットアパートに越して行くと、バイクを磨く彼がいました。その夜、飲まないかと声をかけ、坂を転がり落ちるように始終飲み歩く仲へ。彼は同時に多数の美女と転がり落ちていたようです。その頃の私は、ジャケットの右内ポケットにボーナスの入った袋、左内ポケットに給料袋を入れた独身生活。部屋に帰ると、留守電に「今夜はマリン館でいかがですか」とかいった松永の声があるのが常でした。
      その頃のことを書いたのが『星のきかんしゃ物語』の冒頭のこの箇所です。

       一九八七年。僕は夜明け前のツァラトウストラの心情にあった。  
       夢を見た。赤い糸の夢だ。自分の左手小指に結ばれた糸をたどっていく。長い糸を手繰り寄せると,その先にあったのは自分の右手だった。この悲劇的結末に寝汗をかいて起き,職場に行くと転勤を命じられた。てやんでい,と飲みに行く。スナックの猿に似た女の子が「どこに転勤になったの?」と尋ねるので「島原,雲仙の袂さ」と答えると,「連れてって」とその子は目を輝かせ,「お勘定」と僕は席を立った。
       すべてが一旦幕を閉じたがっていた。そこそこ楽しめはしたものの,このままでは何も生まれないとどこかで思っていた。このまま歓楽街の下卑た笑いの中にいても,このまま慣れすぎた職場にいても,このままアパートの冷えたノブを何度回しても,まるでコミカルなビデオを繰り返し見るかのような虚しさが降り積もるだけのようだった。


      実は登場するスナックは実在し、女の子は松永の彼女。明日が引っ越しということで、松永と二人して佐世保の夜を楽しみにいったのですが、ここでの忘れがたい思い出があります。気が向いたら次回お話しすることにしましょう。






    • 2016_03_20

      ライフマスクをとった話

      富田と約35年ぶりに再会する時、ライフマスクのことを思い出していました。この箇所↓。彼に聞きたいことがあったのです。



      実はこの時、彼は二人でやってきたのです。「まつを、すまんのう。俺と彼女のライフマスクをとってくれ」 そんな感じでした。もちろん快諾し、二人分のライフマスクをとりました。

      ライフマスクどりにはスキルが伴います。漏出の問題と、熱の問題です。
      作る際には、まず顔にクリームを塗って本人に横になってもらい、型枠を顔に当てがいます。顔と型枠の間を粘土で埋めていくのですが、隙間から石膏が漏出することがままあるのです。私のライフマスクを美術部室で仲間にとってもらった時は、多量に漏出して髪の中に入りこんだ状態で固まり、取るに取れず、結局髪の毛を坊主状態に切って取り外しました。本当ですよ。顔にはたっぷりのニベアクリーム、頭は滅茶苦茶に切られた髪にこびりついた石膏。爆笑する仲間たち。真夜中。部室。
      取り外すとき、最後には業を煮やした作業者たちは、カナズチで軽く叩きながら石膏を砕く始末で、ぐしゃぐしゃになった髪にはマンガで頭をドツかれた者の頭の周囲に現れる星のように石膏の小さな塊が浮いていました。なにごとも先駆者は予想だにしない状況に遭遇するものです。「やってみようぜ」と言い出したのは私ですから、作業者は私を救出してくれた英雄。もう一度。白い顔、ザックリ切られた髪、こびりついて浮く無数の石膏片。
      「ちょっと洗ってくらあ」と言って、暗い大学校舎に入ってトイレの照明を点け、洗っていると、悪いことには悪いことが重なるものでして、パトロール巡回の守衛が私の姿を見て驚愕の声をあげたのでありました。「おいコラ! そこの不審者!」と。実話です。そんなこんなでつくった私のライフマスクが上写真。
      もう一つ、熱の問題があります。呼吸用の管をつけた後、石膏を流し込みます。石膏は固まる際に結構な発熱をします。
      そんなインフォームドコンセントに関わる話を聴かせても、穏やかな顔の富田の彼女をみて、たいしたものだと思ったことを覚えています。

      話を元に戻します。約35年ぶりに再会し、だいぶ酒が進んだ頃に私は切り出しました。
      「ところでさ富田、あの時の彼女、どうしてる?」
      「俺の女房になってるに決まってるじゃないか」
      どこまでも男前です。






    • 2016_03_19

      男前の話 『昔走った稜線』

      この漢(おとこ)は富田。一度このサイトでご紹介した大学時代の友人で、約35年ぶりに再会した時の写真です。
      大学1年生の時に私は、同じ高校出身のとある友人と同じ建物の1階、2階に住み、夏と冬には部屋を入れ替わっていました。友人はラグビー部に入り、私は美術部。そして富田と出会うことになります。こんな感じです。



      友人と同じラグビー部員だった富田との出会いのシーン。これは拙作『昔走った稜線』の一部分。いやあ男前とは彼のようなヤツをいいます。彼はやがて自分で資金を稼ぎ、自転車一台で世界に飛び出していきます。そのあたりの実話がここ。



      行動が人生の意味をつくるという私の考え方に、影響を与え続けているのはこうしたこともあってのことだと思います。その頃、私は例の世紀末的アトリエにまるで穴モグラのように篭って大きな作品を描いていました。



      文中に出てくる「大きな頭を持つ二人の男の絵」とはこれです(F30)。文中にあるように、あの当時むなしくなって多くの作品を燃やしました。大きな作品はほとんど残っていません。すべて現象である。今もそう思います。けれど、だからこそ愛おしい。この歳になってそう思うようになれました。世界は愛おしい。若いころって、心の底に意味のない焦燥が流れているものです。
      だからこそ成長があるのかも知れません。もしこのサイトを、若いころの自分が今見ていたら、「心配しなくたっていい。なるようになる。人生は楽しいことがいっぱいあるんだからさ」と言ってやりたいですね。

      この短編小説『昔走った稜線』は20代後半に執筆。ずいぶん経って第3回パスカル短篇文学新人賞に応募。私が応募した第3回はプロ作家の岡本賢一が大賞受賞。後の芥川賞作家の長嶋有、ファンタジーノベル大賞佳作の森青花、すばる文学賞受賞の法月ゆりなども応募していたといいます。と大きく振って(笑)、審査委員長の筒井康隆先生が全作品中で最高得点をくださったのは、この『昔走った稜線』でありました。 わ~ははは。下は筒井先生からいただいた拙作への評価。

      筒井康隆, 1996/ 1/20 14:24
      昔走った稜線 92点  ヴォネガットの影響を思わせる色彩感あふれた才気ある文体が実に楽しい。プロに 近い文章そのもので読者を楽しませようという応募作がここのところ皆無だったので、特に嬉しかった。この文体、他の委員の中には「気障」として退ける人がいるかもしれない。文体に凝り過ぎて、富田の人間像が希薄なのは惜しい。


      「一作なら誰でも小説が書ける」といいますが、実感としてよく分かります。






    • 2016_03_18

      絵に浸かっていた頃


      懐かしさが溢れとまりません。
      この写真は、学生時代に私が住んでいたアパート。アパートといってもひどいもので、野菜屋のオヤジである大家さんの、DIYによる鉄筋3階建てというマンガのような物件でした。ある日、大家さんにバイトしてみないかと声かけられて屋上に上がってみると、なんとそこは防水シート張りっぱなし。これにコンクリートを流し込んで屋根をつくるというバイトでした。激安で、部屋にも妙なところに柱が走っていて、廊下には音が漏れ漏れの部屋でした。
      さらに別に、近所に借りていたアトリエはもっと悲惨なところで、畳一枚あたり家賃千円。1階の住人が動くと、2階の私の部屋が揺れていました。信じられないですよね。空き部屋だらけで、廃墟化していて、住人はいろんな部屋を勝手に使っていて、いくつかはあらゆるゴミが積み込まれている、まるで世紀末を描いたマンガ『アキラ』に出てくるようなアパート。大きな作品はそちらで描いてました。テレピンとパンドルオイルの匂いが充満した生活でした。
      写真に写っている中央の友人が後にプロのキーボードプレイヤーになります。音信不通。どうしているんでしょう。背景に何枚か作品がありますね。顔を描いた作品が写ってますが、この作品のモデルになってくれたのが宮崎美子さん。彼女には申し訳ないほど似てません。似せるというよりも、彼女の輝きを描くことに眼目がありました。

      これはバイトで描いた壁画。街中心部にあった「レスポワール」という店舗からのオーダーで描かせていただきました。こんなことして稼いでいた時期が私にもあったのであります。ルドンの影響大ですよね(笑)。19歳の頃です。それでも油彩道具って高くって、私は恐ろしく金のない学生でした。






    • 2016_03_17

      ウインドシンセとスミコ嬢


      バンドといいましてもアレなんですが、音作りから手を引き始める前にちょこちょこっとバンドらしきことをしたことがあります。演奏のメインを張るのが打ち込みによるパソコン。これにボーカルのスミコ嬢とベースの酒井くんとウインドシンセの私。ウインド・シンセサイザー YAMAHA WX7も購入したのですが、私は自分でも情けなくなるほどヘタクソなプレイヤーでした。スミコ嬢は先般も話題に上げましたとおりすでに冥土の人です。彼女がバンド「コーナー」として私の作った曲を歌った未発表音源が、ひょっこり出てきましたのでここにご紹介します。下の曲名をクリックすればお聴きいただけます。懐かしい。
      この曲は、イギリスの伝承童謡『マザーグース』に出会って触発され作曲したものです。
         僕が月を見ると
         月も僕を見る
         神様 月をお守りください
         神様 僕をお守りください
      この詩に触発された頃、私はまだ18歳で、つまりギターコードが三つぐらいしか弾けなかった頃でした。ギター1本で作曲。ずいぶん経ってこれを打ち込みで編曲(それがこちらのボーカルなしのバージョン)。お聴きいただくと分かりますとおりピンクフロイドの影響大です。この曲を歌ってくれる人がいないかなと思っていたある夜、とあるバーのカウンターで、「FLY ME TO THE MOON」を歌っているスミコ嬢と出会いました。この曲の長く伸ばす高音のために求めていた音質。今聴くと、録音の4番を歌っているラストの長い声には、妖気迫るものがあります。
      なお、このバンド「コーナー」の演奏としては、他に「Just a Friend」があります。こちらのほうはスラップベースの酒井くんが腕を振るっています。スミコ嬢のボーカルはずいぶん経ってご登場。この曲は一度音合わせして、じゃあ本番というところで誤ってデータ全消去。この荒いテイクしか残らなかったいわくつき。全員がヘッドホンをしてプレイしていました。






    • 2016_03_16

      イーノみたいな音楽


      その頃の私は絵画から足抜けしようとしていました。学生時代にどっぷりと絵に浸かっていた自分から抜けようと。日々が重かったんですね。上写真はその頃使っていた絵具の一部が写った写真。左からエナメル、メデューム、油絵具、サンドマチエール、エナメル、筆洗浄用オイル缶かな。
      自分が住んでいるアパートとは別にアトリエ用の部屋を近くに借りていて、一日中オイルのにおいが充満しているようなそんな生活から抜けようと。今考えますと、この頃にアドべのイラストレーターがあったらそちらに行っていたような気もします。でも時代の電子化は音楽分野から進んでいってました。

      モノフォニーのシンセを所有していた友人がいて、これが面白かったんですね。写真はそんなシンセをいじっているところじゃないかと思います。まだ和声法を勉強する前。ブライアン・イーノが下のような作品を出していて、これなら自分もやれるかもとか思ったりして。本当にバカですね(笑)。


      イーノが作った音は、皆さんお聴きになったことがあられると思います。↓このウインドウズ95の起動音は彼の手によるものです。すばらしい。








    • 2016_03_15

      昔シンセサイザーを買った若者がいましたとさ

      捨老さんの話題に懐かしさが溢れてきます。

      コルグからシンセサイザー「ポリシックス」が発売されたのは1981年12月。このシンセサイザーは私のような一般人が購入できる価格設定で販売された和音が弾ける初めてのシンセサイザーでした。価格248,000円。ボーナスを握りしめ、私は佐世保の楽器店へと購入に出向きました。店頭でその音を聴いたときの感動。ストリングスにコルグ独特の味がありました。その頃、私の周辺に溢れていたのは、ピンクフロイド、ELP、YMO、ブライアン・イーノ、タンジェリンドリームなど。
      すでに購入済みだったセミアコギター、ベース、リズムボックス、各種エフェクター、そしてマルチトラックレコーダー(TEAC22-4 オープンリール4チャンネル)とミキサーに、シンセを加えてスタジオ化した奇妙な狭い下宿で暮らしていました。なにやってたんでしょうね(笑)。地方の片田舎に暮らすことになった私にとって、音づくりは限られた楽しみだったようです。
      表現は、常にそれを具現化する媒体によって変容することは、歴史が証明しているところです。シンセサイザーの登場によって、音楽表現が変容したことはその代表的な例と言っていいでしょう。
      その後、徐々にウエザーリポート等のフュージョンやジャズに傾倒していき、手弾きテクが追いつかなくなり、パソコンによる打ち込みに移行。デジタル化は大仰しい装置を消していきました。部屋にうねり回っていたシールドもお行儀のいい配線になりました。そして結婚を境に音楽から徐々に離れました。もう4半世紀が経ったのだとつくづく。ポリシックスなどもなくなった住空間で、手作り本棚の図面を描いている今日この頃です。






    • 2016_03_14

      ドビッシー、ビル・エヴァンス、坂本龍一

      ビル=エヴァンスが印象派のドビッシーから影響を受けていることは、マニアの間では知られています。たとえば下のドビッシーの『水に映る影』を聴いてください。ほら、今の私たちからは、その音楽にエヴァンスや坂本の『戦場のメリークリスマス』が透けて聴こえてくるでしょう。


      実際に聴いてみましょう。まずビル・エヴァンス。


      次に坂本龍一が『戦場のメリークリスマス』を解説しています。


      で、昨日の話。坂本が『千のナイフ』を出したころ、まだビル・エヴァンスは演奏していたんですね。ELPがいてビル・エヴァンスがいて坂本がいた時代。改めて感慨深く感じます。今の子たちは、映像やダンス分野では我々の世代をはるかに凌駕していますが、音楽に関しては興味関心が相対的に衰退している比率が多いですよね。

      • 捨老さんのコメント
        ビル・エヴァンスを間に挟めば、その音楽性や奏法~スタイルとして浮かび上がる一脈の音楽センスの流れを否定することは出来ません。ですが一方 ELP~YMOの芸術性に目を向けるならば、キース・エマーソンや坂本龍一を特異ならしめるシンセサイザーを無視することはできません。
        電気と音~音器の関係の起原は定かではありませんが、ラジオが登場した頃には存在していた事は確かです。1930年代フランスでミュージックコンクレート理論によって生まれたシンセサイズ概念は、30年代末にはその理論的要素 (フィルタ、エンベロープ、加算合成、ポリフォニック)はほぼ出揃っていたとは言え、エマーソンが登場した時代、シンセサイザーが統一機器として存在していたわけではなかったのです。
        60~70年代に爆発的に普及しアンプやスピーカーさえ楽器の一部としてしまったトーンホイール(歯車状の磁性金属円盤)方式や、ピックアップ方式による電気楽器は、奏者のパフォーマンスヴァリューを拡大し強固なものとして、小音楽であった室内音楽の奏者を屋外の大ステージに引きずり出し、ミュージックショービジネスに一大変革をもたらしたのですが、人々は往々にしてこれら電気楽器の集大成であるかのような位置にシンセサイザーを置きたがります。
        しかし、発想の原点が全く異なるもので「画家が絵具を混ぜ合わせて色を生み出しカンバスに向かうように、初めて音楽家が音を作り出す仕事に携わり、白い譜面に向うのだ!」。この音楽家の歓喜をこそシンセサイザーは実現しようとしていたのです。これが奇しくも しんのじさんが「先鋭化~退廃化」と表現された、坂本龍一の芸術家的本性の顕れだったのでしょう。それはノイズ(ホワイトノイズ~ピンクノイズ)の練り合わせによって生み出される音。ピアノでもヴァイオリンでもなく、既成のあらゆる楽器の音であってはならなかったのです。彼らが欲した唯一のもの、それは音を作り出す楽器だったのです。
        ところがエマーソンの時代、彼自身が厳選したとはいえ、大量の電気機材をステージに運び上げざるを得なかったのです。スイッチをキーボードスタイルにしたのは彼の手柄ではありましたが、彼が振り下ろした日本刀が明確なメッセージであったことは火を見るように明らかでした。この音楽家たちの未来への呼びかけも楽器会社の耳には届かず、依然としてトーンホイール~ピックアップ方式の製品を新興宗教に加入した信者に売りつける神棚仏壇さながら、プリセットされた既成模造楽器のスイッチ付きエ○○トーン。業を煮やして分離したローランドの後押しで坂本龍一は立ったのでしたが、使えるキーボードスタイルの電子楽器が登場するにはまだまだ時間がかかったのです。
        音楽学校の二教室を機械だらけにして、我もののように駆使した人はNHKのBGMを担当していましたが、これも旧態依然として既成楽器の音色をなぞるだけの哀しきシンセサイザーでありました(笑)。まだまだ書けることはありますがこのへんで(笑。






    • 2016_03_13

      千のナイフ


      坂本龍一のこのアルバムが発売されたのが1978年。昨日取り上げたELPのライブが1977年ですから、このアルバムはその1年後に出されたということ。その当時よく聴きこんでいました。今になって音を聴き比べると、坂本がいかに新しかったかということを改めて再認させられます。そんなこんなで、私も多重録音に凝っていって、こんな曲(Syber Punk May)なんかを作っておったわけです。もうずっと昔に少しだけ音を作っていた時代。懐かしさが込み上げます。

      • 捨老さんのコメント
        みんな懐かしいですね。イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の登場も、エマーソン・レイク&パーマー(ELP)に10年程(?)も遅れていたことを想うと、ELPがいかに前衛であったかと今更拍手を贈りたくなります。お土産の日本刀でグランドピアノを叩き斬ったパフォーマンスが思い出されます。 デヴィットボウイも亡くなったのですね。壁際のコンサートでは、壁裏(東側)の見えない群衆が彼には見えていたのでしょうね。壁が崩れ落ちたのは それからまもないことでしたね。 YMOが武道館での初めてのコンサートした時の前座は「シーナ&ロケット」でした。「俺たちはただの前座ですから」と照れた九州弁の鮎川誠に会場は割れんばかりの拍手喝采でした。最近はどんな活躍をしてるんでしょうね。

      • 散人さんのコメント


        YMO散開映画。調べるとあれは1984年だった。前年にYMOは解散ライブをした。本人たちは、やることは全てやったので「散開」である、と称した。そのライブを中心とした映画の封切りを、全国に先駆けて私が所属する新宿シアターアプルでした。客席700名の劇場を何故彼らが選んだのか分からない。一枚のチケットの価値がプラチナ以上になった。監督したのが黒テントの佐藤信。彼を商業演劇に押し出したのが我々だったからか。まだ開設して二年の知名度の低い劇場が一気に世の中に躍り出た。佐藤が義理を返す為に選んでくれたと思っている。勿論YMOメンバーも舞台挨拶に出た。スタンディングオベーションが果てしなく続いた。

      • しんのじさんのコメント
        ELPよりはちょっと後の、YMOの影響を強く受けた世代です。「千のナイフ」の頃はまだクロスオーバー的要素を備えていた坂本の音楽は、YMO結成後、テクノポップなるジャンルとして洗練され、国の枠を越えて多くのファンを獲得しました。しかしその後、ファンをふるいにかけるかのごとく先鋭化~退廃化して汚い音や歪んだ音、ぼんやりした音などを多用するようになったかと思ったら、突如、歌謡曲なんかも作ってベストテンに出たりして、その直後に散開したというハチャメチャな流れに、目が離せない青春時代を送りました(笑)。 あれから30年経って、アナログシンセの微妙に温かい音色が懐かしくなり、車ではファーストアルバムのCDをよくかけています。ライディーンの、曲の最後でメロディーを反復しつつ、パイプオルガンを思わせる重厚な低音部に、ちょうど「星条旗よ永遠なれ」の主旋律に絡むピッコロよろしくファレラレファミと小鳥がさえずるように主題にオブリガートをくっつけて変奏されていき、最後の最後でリズムが消えて荘厳に響く辺りでは、未だに性的快感に近いものを覚えます。 追伸:捨老さん、シーナさんは13ヶ月前にがんで亡くなっています。旦那の誠さんはソロで活動していらっしゃるのではないかと思います。時々、ゲストでライブハウスなどに呼ばれているようです。 以前、ラジオの追悼番組で聴いた話がネットの記事にあったので最後に引用しておきます。ロックシンガー仲間、金子マリさんの息子さん(ベーシスト)の思い出話です。トレードマークの黒いホットパンツ&網タイツ姿のシーナさんが、黄色い旗を手に緑のおばさんをやっていたなんて!鮮烈な映像が脳裏に浮かびます。合掌。 「鮎川家と金子家は俺たち子供が同じ小学校だった。ある日251の近くのセブンイレブンがある横断歩道で、LIVEばりのカッコしたシーナちゃんと、エプロン姿の金子マリの二人が旗をもって子供を誘導し、緑のおばさんをやっていた。なんとも下北らしい話ではないか。 本当にさみしいです」






    • 2016_03_12

      キース・エマーソン死去


      かつて一世を風靡したエマーソン・レイク&パーマー。わずか3人でつくりあげるこの脅威のライブ。確か専門誌で、ベストキーボーデスト、ベストベーシスト、ベストドラマーを同時にとっていた時期がありましたよね。高校時代、擦り切れるほど聴いた音の一つでした。


      キース・エマーソンは3.11東日本大震災に際し、この曲を作曲して被災地への寄付を呼びかけてくれていました。その彼が死去した日は3.11。71歳。合掌。






    • 2016_03_11

      3.11とマスコミ

      私たちは忘れてはいません。あの当時のマスコミの対応を。 それを棚に上げた最近のキー局の伝え方には疑問を感じます。 以下、5年前の当サイト記事の一部をご紹介します。
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      最近、私が親しくしている方々の間では、震災について海外のメディアで情報をとることが多くなっています。これは日本のメディアが信用されなくなっているという危険な兆候です。ぜひ、メディア関係の皆さんはこのことにお気づきになっていただきたい。日本メディアがいらない、信用できないという固定観念が出来上がっては、存在理由の基盤が崩壊していきます。多くのメディア関係の皆さんは就職時に社会正義をなすことに燃えて志望されたはず。

      • 代治朗さんのコメント
        同感。原発事故と、その対策を良い経験にして今後の原発輸出に繋げたいなんてな事を、メルトダウンを隠して言っていたのです。私も決して忘れない。

      • 散人さんのコメント
        忘れない。ここで「まつを」さんはSPEEDI(緊急迅速放射能予測システム)の存在を我々に教えてくれた。しかし時の政府・福島県は「住民パニック」を恐れデーターを隠蔽した。しかし14日には米軍へ外務省経由でデータ提供していたのだ。事故から9ヶ月後、やっと所管文科省は「公表するべきだった」と公式見解を出した。この件を追求するマスコミはごく一部に過ぎなかった。






    • 2016_03_10

      バー・カバノン


      そろそろ出かけても楽しいころですよね。オイスター・バーとか。あ、有明海のタチウオとかもおいしいころですよね。






    • 2016_03_09

      ryuji’s night



      楽しゅうございました。ryujiさん、ぜひまた! 囲ませていただいたのは、散人さん、ケンちゃん、しんのじさんアンドーさん。会場は「いなほ」。2次会は長崎の魔界 思案橋界隈の路地を巡って由緒正しく小汚い大好きな「陽龍」を訪ねるも席がなく、おしゃれに「ファミリア」へ。
      ryujiさんの長崎訪問の記事はこちらです

      • 散人さんのコメント
        楽しゅうございました。急遽来崎されたryujiさんを囲んでの会に参加させていただき、ここ三か月の病による鬱屈とした気分が晴れました。ryujiさんは聞くと私より一つ年下。徒手空拳イラストレーターを志し、65歳過ぎの今日まで生きて来られた。今日でこそイラストやアニメ業界は花盛りの感があるが、40数年前は存在が緒についたばかり。業(なりわい)としての見通しなんかなかった。おそらく自分で切り開くしかなかったろう。ryujiさんに漢(おとこ、男ではない)を見た。黒澤描く漢を見た。そういう方とお会いするとすがすがしい気分になり、つい病も省みらずお酒をやり過ぎた。深夜島原に帰り、ケンジと行きつけのスナックでクールダウンした。我が愛するアッちゃん(30過ぎのすこぶる美人)に「久しぶりにいい漢(おとこ)に会ったよ」といったら「よかった男性で」と云った。

      • ryujiさんのコメント
        ありがとうございました。 身にあまる歓待をして頂き、ただ感謝しています。 散人さんに過大評価していただいても、本人が典型的な俗物である事を一番よく理解しております。 しかし、これは本当に楽しい酒でした。まつをさん、またいつか長崎で一杯、欲が出ました。

      • まつをのコメント
        よろこんで。今度は島原や、里山でもいいかもしれません。楽しみです。あ、長崎アートパーティにご一緒していただくのもおもしろいかもですね。これは1年後に開催すると思います。

      • しんのじさんのコメント
        ryujiさん、貴重な御品と楽しい時間を、まことに有難うございました。






    • 2016_03_08

      お寺の衰退


      これは先日訪ねさせていただいたお寺の壁。屋根にも雑草が伸びており心配になりました。仏教の寛容性を愛する者であるが故の心配です。
      約7万7000のうちの2万。これは日本全国にある寺院のうち、住職がいない「無住(むじゅう)寺院」の数。さらに宗教活動を停止している「不活動寺院」は2000カ寺以上。住職がいる寺でも、檀家数の急激な減少により経済的に立ちゆかなくなっているところが大部分を占めるといいます。(出典
      『寺院消滅 失われる「地方」と「宗教」』という書籍があります。一章の冒頭では五島列島最北部にある寺の状況。リンク先の記事を読んだだけでも、大変な事態が迫っていることを感じます。

      • 大閑道人さんのコメント
        仏教寺院の衰退の背景は 。
        どんな現象でも、原因は単一ではありません(と、お釈迦さまは言います)。いろいろとあるのですが、日本人は道徳と宗教と倫理を、全部「信心」とひとまとめにして、「世間」を相手に生活してきました。それは江戸時代になってから、特にご代将軍・綱吉の治世、戦国が完全に終焉してから、教育に力を注いだ結果でしょう。その教育の成果が明治以降の近代化の(つまり、資本主義と民主主義)の原動力にもなったのですが、同時に道徳と倫理と宗教が分解しました。それは、西欧文明を導入すればそうなるしかないのです。そして、それに対する自己反省、内省も失われ、信心が消えた結果でしょう。
        更に、そもそも宗教行事は、カネがかかるものです。だから、本家・分家の制度があって、一族郎党の宗教行事は、本家が一手に引き受け、一族の継続に腐心していた。しかし、本家分家の制度があるかぎり、人材登用は実力本位にはなりませんし、民主主義も芽生えません。一族郎党をまとめる背景が、先祖崇拝という宗教で、それを寺院仏教が支えていた。でも、明治政府は富国強兵(資本主義と本当の軍隊)を遂行するには、この本家分家を解体せざるを得なかった。映画「ラスト・サムライ」を観て、その感を深くしましたね。 おそらく、日本人は、映画「ルーツ」で描かれたような執念は持ち得ないまま、流浪の民となるでしょう。

        あ、そうそう。付け足すことがありました。 現在、仏教寺院は、衰退に向かっていますが、でも、仏教は(お釈迦さまの教えは)、逆にいろんな分野に取り込まれています。 たとえば、脳科学などは、仏教の、特に唯識思想を跡付けているようなもの。 また、コーチングや認知科学などにもそれが見られます。
        そもそも、お釈迦さまの教えは、原理主義に陥るな、というところが本質でして、 極論すれば、「人は、決して分かり合えない」と断言しているようなものです。 分かり合えないのだから、それ故に、自分は相手のことを絶対、誤解している、と踏みとどまることを勧めているのです。 そういう点で言えば、織田信長が一番「お釈迦さまの仏教に忠実な徒」と言いたくなりますね。

      • 散人さんのコメント
        自由が一番の今。近代の民主主義の根幹は「個人の自由」であろう。現憲法も「信教の自由」を謳っている。これはどの宗教を選ぼうが自由を念頭に置いていたが、「新民法」と共に「信じなくても自由」に変節していった。信じようが信じまいが「自由」なのだ。となると私の隣の80過ぎのばあさまは毎週お寺さんに行く。四季折々、行事があるらしい。私は麗しいこととみてるが、若い人たちは面倒と見る。それと今一部老人施設を含めた社会福祉施設は、色んな業種のものが参画しているが不祥事の数が増している。一昔前は「お寺さん」が多かった。福祉の概念的な骨があった。真っ当な運営をするとこが多かった。宗教法人に対する批判はやはり「オウム真理教」の一連の事件から多くなったと思う。「自由」は清濁混在するし「悪貨は良貨を駆逐する」のであります。

      • 大閑道人さんのコメント
        「資本主義精神」。マックス・ヴェーバーは、資本主義という構造にはキリスト教が根底にある、と言っています。「だから、非・キリスト教の地域には、資本主義は成り立たない」と。ところが日本は違った。キリスト教国でもないのに資本主義が成立した。その背景は? ということで、鈴木正三が研究されたことが有りました。彼は、曹洞宗に出家した江戸時代の三河武士。彼の言に「坐禅くむより、コヤシくめ」とあります。肉体労働の価値を高く掲げた人です。そのためか、日本の資本主義精神の背後に、禅宗を想定する研究は多い。しかし、淨土真宗系の学者からは、念仏を論証する研究がある。
        わたしは、どちらも正しいと考える。浄土思想、禅思想、ともに発生は中国だが完成は日本人の手による。つまり、親鸞と道元。この二人は同時代。他力の代表である念仏と、自力の代表のように言われる禅宗だが、共通点がある。それは、「専修念仏」「只管打坐」にある「ただ、ひたすら(目の前のことに打ち込む)」という姿勢・態度。
        つい最近まで、「働く、とは、傍を楽にする」と言われていた。これは、自分の周囲の出来事に集中する(ま、空気を読む、と通底しますね)にほかならない。念仏も坐禅も、成仏のための手段だった(はず)。それが、ただひたすら「念仏・坐禅」と、手段が目的化されてしまった。そのための工夫(工夫、とは、元来仏教用語)も重ねる。これが、日本の職人技として結実しているのだ(代治朗さん、しかり)。
        仏教は、それと自覚されることないまま、日本人の精神を支えていた。いや逆に、日本人の「目の前のことに集中する」性質が、鎌倉新仏教の東西横綱(親鸞と道元)を生み出したのだろう。目の前のことに集中する、を現代語で表現すれば、「こつこつ、湛然に、継続は力なり」。ただし、これは目的を見失う可能性が極めて高い。戦術的な技術は高められるが、目的意識がない。先の世界大戦で日本が作戦的に失敗したのは、戦術を過大評価してしまい、戦略(戦闘目的)を見失ったからだ。
        で、日本の資本主義に戻る。日本の資本主義の特徴は、傍を楽にする。つまり、人的配慮が極めて濃厚なので、使い勝手や人的サービス業には極めて強い。傍を楽にするには、対象となる人について察しなければならないから。つまりは、お客様本位になるのは必然だ。しかしながら、本来の資本主義の目的は利潤の追求。会社は誰のものか、という問いに対して、利潤を目的として投資した株主のものという考えに対して、日本人の精神は応じられなくなった。つまり、只管打坐にしろ専修念仏にしろ、今すぐ結果(悟り。成仏)は出ないけれども、そのうちいつか現世ではなくて来世に繋がるとしても必ず結果はある、という時間軸があった。しかし、資本主義は即座に成果を求める(即座といっても、現世でという幅なんだが)。
        洋の東西を問わす「世俗化」という現象で片付けられることが多いが、世俗化とは「来世の消失」だ。資本主義は来世を設定しない。利益(これ、リエキのことです、リヤクではありません)を現世で求めるので、過去現在未来の時間軸が分断されて一貫性も必要がなくなり、今が最高!でなければ価値が無いものと判定されてしまった。そうなれば、来世の入口である寺院は資本主義社会では存在理由はなくなる。

      • 代治朗さんのコメント
        道徳は個を律するもの、倫理は個の集合体である社会を律するもの。宗教は道徳と倫理を内包した教えである。お釈迦様の教えの根源は「原理主義に陥るな」。
        換言すれば「多様な他者を認めよ」。大閑さんへ、合掌。

      • 大閑道人さんのコメント
        > 道徳は個を律するもの、倫理は個の集合体である社会を律するもの
        > 宗教は道徳と倫理を内包した教えである。
        ちょっと違うようなんです。こういう設問がありました。「無人島に漂着したロビンソン・クルーソーは、よい人か?」 ロビンソン・クルーソーがどういう行動をしようが、それによって利益を享受する人も損害を被る人もいませんので、彼が善人かどうかは判定できません。かの小説によれば、彼はその無人島で葡萄を発見します。そのことについて、彼は神=造物主に感謝します。したがって彼は宗教的人物であります。宗教とは、神=造物主と彼個人とのつながりでしか存在しません。つまりは一人称の関係。ところで、やがて黒人男性が同じように漂着します。彼はその黒人を救助します。そして食べ物を与え、介抱し、コトバを教え、人として遇し、ともに生活向上をはかり、労働します。つまり道徳的です。二人称の世界です。やがて葡萄のままでは貯蔵できないので、干しぶどうに加工します。そして、それを私することなく、黒人とともに食します。つまり倫理的なのです。(此処から先は、小説にはありませんが) ところが、実はその葡萄は、ぶどう畑の作物であって耕作主の了解を得ずにロビンソン・クルーソーは刈り取っていた……のならば、彼は倫理的人物ではありません。倫理とは社会に対する態度であって、そういう意味合いで言えば三人称の関係でしょうか。
        「道徳」は漢字文化圏の概念。「宗教」は完全に言えば一神教=造物主宗教での概念。「倫理」も同じく西洋の概念。これを日本語の地平に、同じように並べるのは困難だ。それと同じく、「仏教」という概念と「仏法」「仏道」という概念を、対等に解説することも不可能だ。以上、先日、東大の倫理学科の先生の講演を拝聴した時に質問した際の応答。

        > 「多様な他者を認めよ」
        これは造物主宗教ではありえません、なぜならば、造物主が違えばそれは「オレと同じではない」から。多様性とは、造物主がたくさんある(つまり、多神教)を受け容れること。
        ちなみに、お釈迦さまは、造物主宗教の世界観では絶対に誕生しないでしょうね。その根拠はいくつかありますが、一番わかり易いのは、旧約聖書の冒頭でしょうか。「はじめにコトバありき」。しかし、釈迦は多くの質問に対して「沈黙」で応じた。仏教は教えの根幹は「沈黙」と言えそうです。そして膨大な経典郡は具体例の列挙でしかないでしょうね。沈黙から始まっているからどれだけでも広められる。でも、はじめにコトバがあったら、そのコトバから外れることは不可能。

      • 散人さんのコメント
        「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい」マタイ福音書。で左の頬を打たれたら、右の頬をも差し出しなさい。でまた右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい。いつ終わるのだろうか?

        近頃、人文科学にとっては厳しい情況になっている。文科省も国立大学の「人文科学部門」の縮小を言い出している。何故か? はっきり言えば、ここの20年以来のコンピュターやインターネットで、並の大学の知識情報はいくらでも我が物に出来るようになってきた。いつまでも情報変革以前のとこを言い続けるから完全に理系に遅れをとっている、のが現状。人間社会に暴力を伴わない革命が今は行われているとまで云う人もある。資本主義下において今までの東大出て巨大資本に入ってという人生における「幸福」のデザインが描けなくなってきている。もう日本の既存大資本はみな行き詰まっている。と同じように哲学にしろ宗教にしろ社会にどう適用していくのかは大変革が必要だろう。これからは自分で新しいリアリティをデザインしていく時代なのだ。

      • 大閑道人さんのコメント
        > 「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい」マタイ福音書
        実際、相対する相手から、右を頬を打たれるとすれば、それが平手であれゲンコツであれ、相手は左利きということになります。聖書は一般的な事例をあげて教えを説くわけですので、左利きが一般的とは言いがたいのに、どうしてこのような例をあげるのでしょうか。簡単です。右利きの相手は、手の甲で打ってきたのです。「手の甲で打つ」ことは、相手を侮辱するという意味だそうです。引用の句は「どれだけ侮辱されてもそれに耐えよ(信仰を守れ)」が真意だそうです。

        >  これからは自分で新しいリアリティをデザインしていく時代なのだ。
        だから、人文科学と一般教養が必要なのです。

      • 散人さんのコメント
        to be or not to be. このままでいいのか いけないのか(小田島雄志訳) を考えていかないと今後人文科学部は暫時消滅して行く。「だから必要」を具体的に学生に提示していかなければならないのでしょう。私の任ではありませんが。
        科学と名が付くなら、実験追求していけば「証明可能」(存在しないという証明も含めて)な分野を云うのだろう。人文科学が「証明出来ない思い込み」と指摘されたとき、反論出来なければ「科学」という看板は外さなければならないだろう。

      • 代治朗さんのコメント
        日本の仏教は、只管打坐、専修念仏という手段によって、悟り、成仏という結果を現世及び来世で得るための教導である。倫理とは社会に対する個の態度である。そう理解しました。一言で纏めようとする事自体が、間違いなんでしょうけどね、大閑さん、合掌。人文科学系の縮小は、戦後GHQが推し進めた3S政策と通底している。そう、真のインテリジェンスを日本人から奪おうとする某国の陰謀だと私は思っています、散人さん。

      • 大閑道人さんのコメント
        人文「科学」(社会「科学」も)と命名された由来はともかくとして。散人さんが連続して投稿されている内容こそ、人文「科学」の分野でしょう。答えのない問題を考え続ける耐力と、考えるための材料(=これが、一般教養、というものでしょう)の集め方が、人文「科学」の任務だと思います。……ということは、ともかくとして。散人さんの経歴と現況を知れば、まさに、散人さんご本人こそ、人文科学と一般教養の権化ですよ。
        ここ、「指のつけね」は、まさに人文「科学」と一般教養が詰まっていますね。

        マスターが投稿の流れをアップしてくれたので眺めてみると、お寺の衰退は人文「科学」と一般教養の衰退と表裏一体だと思った。事実、江戸時代、一般大衆に人文「科学」と一般教養を提供したのは寺院だった。私ごとだが、明治20年代生まれの私の父方の祖父は村でもとびきりの頭の良さだったらしい。「この子は、頭がいいから」というので寺に出された。出家だ。しかしながら、戦後、高等教育の大衆化の中で、そう、散人さんの高校の先輩で元教育長の例を見るように、頭のいい子は寺から出て行った。かつて、寺院が手がけていた仕事は、まずは、公立学校から、福祉法人から、そして、カウンセラーから奪われてしまった。
        大局に立てば、「お寺の衰退」は、ほんと、散人さんのご指摘
        >いつまでも情報変革以前のとこを言い続けるから完全に理系に遅れを
        >とっている、のが現状。
        >資本主義下において今までの東大出て巨大資本に入ってという人生における
        >「幸福」のデザインが描けなくなってきている。もう日本の既存大資本は
        >みな行き詰まっている。
        >と同じように哲学にしろ宗教にしろ社会にどう適用していくのかは大変革
        >が必要だろう。
        >これからは自分で新しいリアリティをデザインしていく時代なのだ。
        は、正鵠を射ている。

      • 散人さんのコメント
        大閑師、ご本職の方にそれこそ釈迦に説法的なまた己の浅知恵また非才も省みず縷々云い募り汗顔の至りでありますが、議論するなかに何か見えてくるものがあるものだなぁと思っております。
        寺院の衰退は田畑の荒廃と似て、川端(康成)云う「美しい日本」の姿の消滅になりかねない由々しきことだと思っています。まだ島原はかろうじてその姿を留め、お城水路寺院の嫋(たおや)かなる景観があり、人の心をして安んじさせます。「おはようございます」と手に花芝を持ち、表に水まくおばあさんに云うと「はい、おはようございます、あらどこまで?」「はい、お寺さんに」と返す隣のおばあさん。「まぁ、感心なことで」「いえ、そろそろ近こうなりますんで」と云う。このような島原ではありふれたお年寄りの朝の挨拶がもう直ぐ日本には、いや既に無くなったとこもあるだろう、消滅する。






    • 2016_03_07

      長崎に春を配達してまわる郵便局員








    • 2016_03_07

      エタリ


      機械屋さんが エタリを買ってきてくださいました。久しぶりです。早速、バジルとオリーブオイル漬けにしていただきました。最も好きな魚の一つです。




       

       

       

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    Plofile まつを


    デザイナー。長崎市・島原市との多拠点生活化。人生を楽しむ。仕事を楽しむ。人に役立つことを楽しむ。座右の銘は荘子の「逍遙遊」。↓これは私の作品たち。

    「よくこんな事をする時間がありますね」とおたずねになる方がいらっしゃいます。こう考えていただければ幸いです。パチンコ好きは「今日は疲れたから、パチンコはやめ」とは思わないもの。寸暇を惜しんでパチンコ玉を回します。テレビ好きも、疲れているときこそテレビをつけるもの。ここにアップしたものは、私が疲れたときテレビのスイッチを押すように作っていったコンテンツです。