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 また転勤となった。
 ワッセワッセと引っ越しをして、ふと見渡すと、歩いて五分のところに、マスターの新居があった。

 ここにいたのだ。

 家は瀟洒な新興住宅地にあった。公園が敷地の隣にあり、海が見渡せる風のわたる丘だった。車庫には、高級車グロリアと遊び用のワゴンが留まっていた。玄関をいったリビングはファッショナブルな家具に彩られ、どこからかエンヤの曲が静かに流れ、テーブルには三体のイルカが白亜の跳躍をした像が置かれていた。セコム監視システムの横をすり抜け、二階に上がる。寝室には黒い大きなベッドが二つ並んでいた。「ふうん?」と僕が言うと「ちょっとね」と彼は笑った。隣接して設えたシャワールームも、カラーコーディネイトに抜かりはなかった。
「庭で飲もう」と彼が誘う。
 外にはちょっとしたテラスがあって、白いテーブルとイスが置かれていた。ワインクーラーから白を取り出し、グラスに注ぐ。サイドボードに並ぶ作家名の入った陶器のコレクションから一枚取り出し、刺身を盛る。春の風が吹いていた。
「俵山さん、仕事はどうなの?」と僕がたずねる。
「店舗が三軒ばかりあってね」と彼は答えた。
 僕は、彼が一発逆転ホーマーを放ったことを理解した。
 かって僕に語った夢の生活を、災害からわずか二年で彼は手にしていたのだった。
「彼女の趣味なんだ、その器」
 被災者の影はもうなかった。彼は完全な意味で成功者だった。
 
 次の週末、彼女と会った。
 コンニチハ、と彼女はこちらをまっすぐに見ていった。
 マスターは幾分照れながら、僕の反応を気にしていた。
 透き通るように白い肌をしたその女性は、木漏れ日の中、孵化したての昆虫の羽根のような印象を与えた。
 陶芸を楽しみに出掛ける。マスターは胸に金のチェーンでサングラスを下げ、静かに車のハンドルを握っていた。「マスターには慣れましたか?」と僕が聞き、「彼女はよくしてくれてるよ」とマスターが応えた。春だった。
 午後には暖かい日射しの中、テラスのテーブルにはコーディネイトされた花と料理が盛られた。春の微風を受けながら僕達はグラスを傾け、生きていることの素晴らしさを満喫した。今にして思えば、僕が知る限り、マスターの最も落ち着いた日々だったろう。彼女とマスターには一種の気品があり、愛車グロリアもゆったりと走った。二人とも過去を背負っていたけれど、それは今の在りように深みを与えるためのものであったかのように思えた。