10

 

「まつをさん」
 電話の向こうでマスターは、弱々しく僕に呼びかけた。
「何してる? まつをさん」
「どうした?」
「別れた」
「すぐ行くよ」
 彼女が彼のもとを去っていった日だ。

 長い夜だった。
 彼は干上がった池のようにひび割れて、家にじっとしていた。
「まつをさん、仏教を教えてくれ」
 そう彼は言った。
 静かな夜だった。
 彼に命の危機を感じた時間帯だ。
 色即是空。けれど愛した者と別れる時に、狂おしい苦悩があってこそ人間だ。なぜ自分は彼女を愛したのだろう。なぜ自分は彼女と別れることになったのだろう。どうして自分はこんな人間なのだろう。どうして自分はここにいるんだろう。
 あの夜、マスターは自己存在の意味を求めていた。けれど、結局僕らは生きてるだけなんだ。そう教えてくれていたのは、マスターの生き方そのものだった。人生に意味はない、定義を求めるのは人の悪い癖なんだと。僕達はうまく立ち行かないとき、なぜと問う。因果律を求め、それが自分の人となりに帰結したとき、そして一人では抱えきれないほどの自己否定に繋がるとき、人は危機を迎える。凡人がとれる手は二つだ。ひとつは、今の自分を越えること、つまり全人格的な成長を短期間で遂げること。そしてもう一つは、忘れることだ。
 彼は自分を見つめていた。俺はだめだと。
「マスター、考えが同じところを廻っているだろう? 同じことをずっと考えているだろう?ぐるぐると考えて、ぜんぜん答はみえないだろう? 同じところを歩いているから、足元がぬかるみ始めて、だんだん足が取られるようになっているだろう?」
「うん」
「やめな、マスター。もう考えていないんだよ」
 彼が手に入れたものは、モデルハウスのような豪邸、高級車、ブランドの服、度重なるホテルライフや料亭での食事だ。雲仙災害以来、彼は走り続けた。競争し、勝ち抜き、そして成功した。社長という地位と、月々数百万の金を、彼は手にした。その金であらゆるものを身の回りに揃えていった。家や車や服やそんな諸々のものだ。
 彼の中で枯渇し、日々追い求めているたものは何だったのだろうかと、振り返る。愛する女性、家庭の団欒、趣味、感動、信頼、安心。自分が「くるまり」たがっていることに、彼は気づいていたのだろうか。
 その夜、マスターは初めて自分の生い立ちを話した。
 彼は双子の次男として生まれた。生まれてそれほど経たないときに養子に出され、事情を知らずに彼は育った。告知を受けたのは中学校の時だ。そこで一回壊れたと彼は言う。
「俺がよく実家に帰るのは、そのためだと思う。だけど俺は一人なんだ。天涯孤独って感じはどこかにあるよ」
 そう彼は言った。
 それから毎晩、僕は彼の家に通った。
 ドアを開けるのが恐ろしい夜も、何度かあった。