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 しばらくしてマスターは一室を改造し、囲炉裏を作った。もともと調理好きだ。僕を部屋に呼び、甲斐甲斐しく鍋物を作り、グビグビ飲んで、人を残してさっさと先に寝る。そんな生活を彼はしばらく続けた。どこか憎めぬ人物なのである。
 さらにややあって、彼はクルーザーを購入した。運転免許はどうしたのかと訝る僕に、「あ、うちの会社の部長に取らせた」と事も無げに言った。公私混同も甚だしい。こうして彼はいわゆる失恋の悲しみってやつを、狂おしいほどの消費行動で癒やしていった。
「まつをさん、船の名前を付けてくれ。何丸がいいだろう?」
「あほか。クルーザーだろう? 何丸はないよ」
「そうかなあ。大漁間違いないって気がするけどねえ」
「色は?」
「白。ちょっとしたキャビンもある」
 船名は結局ギリシア語で「ミコヌー エヌプニオン」とつけた。「ミコノスの夢」という意味だ。エーゲ海に浮かぶクルーザーのイメージだ。唯一の難点は、所有者がきちんとこの船名を言えないことだった。
「まつをさん、今度の土曜日に進水式もかねて釣りに行こう」
「すまん、釣りは苦手だ。ご免被る」
「せっかく部長休ませたのに」
 土曜日の昼過ぎ、僕の家の電話がなった。マスターの携帯電話からだった。
「今、クルーザーでまつをさんの家から下った漁港に来ている。早く来てくれ」
「……」
 出向くと、マスターと部長は白亜の船上で素麺を湯がき、つゆに付けて食していた。「ミコノスの夢」が泣くぞ。
 昼食を終え、港を出る。
「いいよ、クルーザーは。エンジンを一回り大型のやつに換えていてね、走る走る」マスターが言う。
「今からひとっ走りします。バーをしっかりと握りしめていてください」と部長が叫んだ。
 いやあ、走った走った。船体が立ち上がるようにして、船体がバウンドしながら疾走する。大騒ぎである。

 以来、俵山氏は畜生道をひた走っておられる。元の黙阿弥である。いや、悪い方に吹っ切れたのである。俗っぽさには、金と地位でますます拍車がかかってきている。というよりも怒濤の如く成金オヤジに変身した。あの夜もっと反省させておけばよかった。本当に。
 氏自身は、熱心な仏教徒であると称される。どこが、と思う。
 いやいやモノに執着しないところがあるではないか、と少し彼のことを知った人は言うだろう。そんな人に、僕は次のように言う。
 もしもし亀よ亀さんよ、よーく見てごらん、彼はモノに執着しないのではないのですよ。モノを次から次に捨てているのですよ。次から次に買うでしょう。同じモノを買うでしょう。洗いたくないといって皿を買い、絡まった糸を解きたくないといって釣り竿を買い、飽きたからといって新しいサングラスを買うでしょう。で次々に捨てるのですよ。いえいえ、モノだけではありません。ヒトも捨てるのですよ。すごいでしょう。考え方はモノの時と同じです。
 この前、アウディという車を買ったのです。車が来る前の日、彼はCM用ビデオを見せてこの車の素晴らしさを力説したのですよ。それも真夜中まで僕に「力説」したのですよ。次の日来た車を見て、僕は思ったのですよ。こりゃいかん、と。どうしてでしょう。次から選んでみましょう。
一、アウディが本物志向の車ではなかったから。
二、アウディが本物志向の車だったから。
 答は、二です。正解でしたか? 解説します。ドイツ車は走るという機能のために忠実に作られています。虚飾がありません。だから俵山さんには合わないんです。一週間後に会ったとき彼は、アウディを叩き売る話をしていました。困ったものです。俵山さんは虚飾が大好きです。本人はそう思っていないでしょう。たしかに彼はワビ・サビも好きです。けれどワビ・サビの世界と虚飾の世界は、多くの文化人の場合と同じように彼の場合も紙一重なのです。
 ここで「俵山氏用語の理解」と題して、傾向と対策を練ってみましょう。
「気に入ったよ」……今は気に入っているよ。これから先は分からないよ。一年後は確実にイヤになっているよ。
「本物だね」……私にはないものがあるね。手に入れたいね。一年後は確実にそう言ったことを忘れてるね。
「こう力説したい」……今はそう思っとる。明日はどうかわからん。一年後は確実に気が変わっとる。
 人間にとって、成長とはなんでありましょう。彼は何らかの意味において、いつも感動しています。そしていつも、あらゆることを力説します。それはたぶん、昨日の俵山氏と今日の俵山氏がまるで別人格になってしまうからでしょう。ですから「願いましては」の状態となった氏にとって、毎日は初めて見る世界なのでしょう。それ故に感動し、力説するのでしょう。そう考えてくると、彼は飽きるのではなく、過去は新しい自分のものではないと廃棄していくのでしょう。はた迷惑極まりない話です。泣いた女性に同情します。
 では、こういったタイプの人物と付き合うコツを伝授しましょう。私が長年かけて会得したコツです。
「約束しないこと。あてにしないこと。半分聴いておくこと」
 どうですか? すごいでしょ。